この佳き日【キリリク】

 昔、僕たちがまだ高校生だった頃。ムサシが一時、家の事情でアメフトから遠ざかってしまった時期があった。ヒル魔と僕は諦めなかった。諦めず、二人でデビルバッツを守りながらムサシを待っていた。高2になって、セナくんをはじめとして運良く仲間に恵まれて、部としての活動は徐々に順調になっていった。それでも──時々、僕はヒル魔を見るのがたまらなく辛いと感じたことがある。暗い目。ものに飢えたような、心に穴が空いているような暗い目を時々ヒル魔がすることがあったから。僕を励まし、バッツを率いて恐れられていた、悪魔とまで呼ばれていたQB。そのヒル魔の表情が、しかしある時から次第に柔らかくなった。言うまでもなく、ムサシの復帰だ。他のメンバーはどう思っていたのか知らない。でも中学の時からいつも隣にいた僕の目にはそういうヒル魔の変化が手に取るように分かった。もちろん、ムサシがチームに戻ってきてくれて僕だって喜んだしほっとした。ヒル魔も同じ気持ちなんだろうな、と単純に考えていたのだけれど、どうやら違うらしい。そう気づいたのは、ふたりで語らうムサシとヒル魔を──偶然とはいえ──覗き見してしまったからだ。
 部室に忘れ物をして、取りに行った時のことだ。引き戸を開けようとして、それが少し開いていることに気づいた。中でムサシとヒル魔が立ち話しているのが見えた。
 がらりと戸を開けようとして、僕の手は止まってしまった。なんだろう、外からでもうかがえる。何か、ふたりの雰囲気がとても柔らかい。何か会話しながら、ムサシが手を伸ばした。そっと、ヒル魔の頬にその手を当てるムサシ。ヒル魔は逆らわない、驚いた様子もない。黙って、ムサシのするがままに任せている。
 僕は静かにその場を離れた。少し引き返して、わざと足音を立ててまた近づいていった。勢いよく戸を開けるとそこにはいつものふたり。何事もないように僕を迎えた。
 そんな経験をして、ぼんやりとだけど僕の心にある確信のようなものが湧いた。このふたりは、きっと好きあってるんだろうなあ、と。何だか、置いて行かれたような寂しさも少し感じないではなかった。でも、それよりも大切な親友が互いに想いあい、心を通わせあっていると分かった嬉しさの方が大きかった。それならずっと僕はこのふたりを応援しよう。黙って、何も言わずに。
 高校を出た僕たちはそれぞれ別々の道に分かれた。でもムサシとヒル魔はまもなく同居を始めたと聞いた。一人立ちを考えていたムサシが、ヒル魔の借りていたマンションの空き部屋に入ったのだと。同居というか、恋人どうしの同棲のようなものなんだろうな、と僕は感じた。もちろん、本人たちにそんなことは一切言わなかったけれど。
 月日は矢のように過ぎ去って、ムサシやヒル魔より僕は一足先に奥さんを迎え、去年の春には子供もできた。結婚前、うちを二世帯住宅にリフォームしてくれたのは武蔵工務店の人たちだ。僕はそこで奥さんと娘と、上の住居部分を使って暮らしている。子供が産まれた時にはムサシもヒル魔もお祝いをしてくれた。奥さんのことをおもんぱかってくれて、僕の家ではなく外で飲もうと言う。僕はありがたくその申し出を受けて、久しぶりに三人で酌み交わしたのだった。
 その時は、それはもう何時間も話し込んだものだ。同じ街に住んでいるとはいえそんなにまめに連絡を取り合っていたわけではないし、ムサシにもヒル魔にも、そして僕にも話すことなどいくらでもあった。テーブルを囲んで飲みながら、いつまでこうしていても飽きない。心からの嬉しさ、喜びを僕は噛み締めていた。
 話の中心はやっぱりアメフトのことになったわけだけど、話を聞いていて僕が少し感心したことがあった。ヒル魔の、仕事のことだ。現役を引退したあと、何だか呆れるくらいさまざまな職業にヒル魔が就いていることが分かって。
 ヒル魔は在学中からウィザーズのオフェンスコーチのようなことをしていた。その後、卒業後には本格的に、精力的にやりたいことをやりたい放題始めたのだ。あちこちのチームの運営。選手はもちろん、スタッフの指導。日本代表チームの強化合宿にも顔を出していたようだ。それから最京大学のスポーツ振興事業。何をするのかと思ったら、子供向けプロジェクトの立ち上げなんだそうだ。上手くいったらヒル魔も講師としてトレーナーとして、ジュニア世代の育成に努めるのだという。子供? ヒル魔と子供の組み合わせなんて、想像もつかない。大丈夫なのかい、と思わず言ってしまったらムサシが答えた。な、やっぱりそう思うだろ?
「でもこいつは見かけによらず仕事熱心だからな。色々勉強して、資格も取った」
 ヒル魔は黙ってにやにやしている。
「俺も、雇う方にも度胸があるなと思ったんだが」
 ムサシは苦笑して続けた。
「なんとか上手く行ってるみたいだぞ。今でも近所のスクールでガキ共と一緒に駆け回ったりしてるからな」
 へええ、そうなんだ、と相槌を打ってから僕は想像した。金髪ピアスのコーチと、その周りを取り巻く子供たち。きっと、きゃあきゃあ賑やかに楽しそうにグラウンドを駆け巡るんだろう。何だか微笑ましい。ヒル魔はムサシの言葉通り、きっと猛烈に勉強して色々なことに挑戦してるんだろう。ヒル魔のひたむきさは僕も昔から理解しているつもりだったけど、本当にヒル魔はなんでもできるんだなあと思った。



 何でもできるヒル魔。そのヒル魔は今春からウィザーズのヘッドコーチに就任した。僕はいまヒル魔采配のウィザーズの試合を見ている。最京大ウィザーズと炎馬大ファイヤーズの試合。春シーズンの中でもビッグカードだ。もちろん僕はファイヤーズ側のスタンドにいるけれど、少し複雑な気分だ。愛着のあるファイヤーズに勝って欲しい気持ち、ヒル魔の采配が当たればいいなという気持ち。ムサシも来てるけど、僕とは反対側──ウィザーズサイドのスタンドにいるはずだ。
 胸をざわめかせながら始まった試合。ウィザーズはアグレッシブなプレーが目立ち、いかにもヒル魔の性格や戦術を思わせる。ファイヤーズのフェイクに騙されずよく集まって、ロングゲインをなかなか許さない。QBは4年生だ。2年の時からスターターになって、強肩にものを言わせて見惚れるようなパスを繰り出し続けている。ガンスリンガー、という異名がついているところも、いかにもヒル魔の教え子らしい。
 前半はウィザーズが試合をコントロールできていた。ところが後半になって、ファイヤーズの反撃が始まった。大幅に選手を入れ替えたのが良かったのかもしれない。ウィザーズはファイヤーズのスピード、リズムについていけなくなった。キッカーがスナップされたボールを取り落としたり、ちょっとしたコミュニケーションミスで失点してしまったり。最終スコアは13対16。ヒル魔配下のウィザーズの敗北だった。
 賑やかなスタンドで選手たちを眺めながら、僕は困惑していた。そりゃ母校のチームが勝ったのは嬉しいけど、何しろ相手は他ならないヒル魔の率いるチームなのだ。ヒル魔に、なんと声をかけたらいいか分からない。そうだ、ムサシに相談しよう。少し考えこみながら待ち合わせ場所──スタジアムの出口に向かった。

「あ、ムサシ〜」
「おう、勝ったな。おめでとう」
 僕は困ってしまって、曖昧に笑った。
「あいつは後から来るだろうから、俺たちは先に行くことにしよう」
 ムサシはそう言う。これからアメフト仲間大勢と飲むことになっているのだ。
「ねえ、ムサシ」
「? なんだ」
「あのさ……ヒル魔のとこ、行かなくていいのかい」
「どうして」
 ムサシは心底不思議そうな顔をした。
「だって、負けたわけだからさ……慰めるとか」
「ああ」
 ムサシは合点がいったという風に笑った。
「大丈夫だろ。あいつなら」
「…………」
「いまごろはもう次の試合の算段でもしてるさ。ほっといても問題ない」
 ムサシの言葉。あっさりと言われたその言葉に、安心するとともに何だか僕はしみじみしてしまった。本当に、このふたりは理解しあい、信頼しあってるんだな、と。昔からそうだ、ヒル魔のことで僕が何か心配すると必ずムサシが安心させてくれる。それだけ、ヒル魔のことをムサシは分かっているのだ。そしてヒル魔も、きっとムサシのことを。
 やっぱり、このふたりは”ふたり”っていう言い方がしっくり来る。そして僕はこのふたりのことを考えるといつも、決まって心が温かくなる。
 このふたりが──ムサシとヒル魔が僕の親友で良かった。このふたりが愛しあっていて、本当に良かった。僕も僕の奥さんと、このふたりのような関係を築きたい。心からそう思う。

 迷いのないムサシの瞳。まっすぐなヒル魔の瞳。昔から僕が好きだった、ふたりの瞳。それはいま同じ方向を向いて、ふたりは肩を並べて人生という道を歩いているのだ。
 あの、式場で見た光景。柔らかなふたりの笑顔が何故か思い出される。これから、色々な苦労ももしかしたら辛酸もふたりを待っているかもしれない。でも何があろうとムサシとヒル魔はそれを力を合わせて、心を合わせて乗り越えていくだろう。そして僕は何があろうとふたりの味方だ。
 大切な友人。大切な親友。
 願わくば大いなる幸がこのふたりとともにあるように。
 このふたりが迎える一日一日が、ずっと佳き日であるように。
 何だか、祈るような。でも晴れやかな気持ちで僕はムサシと一緒に歩き出した。



 
【END】

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