一本桜
軽トラで乗りつけた家の前。姿は見えないがわんわんと犬の吠える声が聞こえる。
ムサシが恋人を案内したのは現在の武蔵工務店の工事現場だった。隣町のはずれにある大農の家だ。
ふたりの住まいは都西部の都市に位置しているが、隣町の、それも郊外に行くと一面の田園地帯となる。その田園の突き当たりのような部分、後ろの山に守られるようにして立っている農家。そこの主人から母屋のリノベーションを依頼され、目下工事中である。門を入ると右手に屋根のついた駐車場、さまざまな農具の置き場。左手は家主の息子夫婦の住まいである離れ。正面の母屋は足場が組まれて外壁と内装の工事中という形だ。菓子折りを持って訪れたムサシを、やあ、と初老の主人は笑顔で迎えた。裏山の桜を見に行きたいが、と許可を頼んだムサシにどうぞどうぞと快諾してくれた。いい桜でしょう、ちょうど今が見頃だよ、と笑う。礼を述べてムサシは門の外に停めていた軽トラに戻った。助手席で待っていたヒル魔に、降りるよう促す。
広大な田畑を所有する農家。周囲に広がる土地と同じく裏山もこの家の持ち物だ。生い茂る林はまだ大部分が芽吹き前で茶色いが、斜面に一本だけ桜の木がある。遠目に見ても立派な大木であると知れるソメイヨシノ。着工前、ちらほらと開花が始まる頃から、ムサシは良い木だなと思って眺めていた。できたら、花の盛りに恋人とゆっくり見ることができたら良いのだが。
ふと思い立ってヒル魔を連れてきたわけであるが、やはり良かったと思った。ぽかぽかと暖かい陽気、とろりと午睡を楽しんでいるようなのどかな風景。ふたりは塀越しに家の裏手に回り込んでいく。
ずいぶんでかい家だな、とヒル魔は思った。それをそのまま口に出すとムサシも肯定する。この辺りで一番の地主らしい、と答える。
「羨ましいか」
悪戯っぽく言われて、ヒル魔は笑う。
「何が。俺ァ現ナマの方がいい」
「そうか」
ムサシも軽く笑った。
家の裏手に山の斜面の登り口がある。踏み固められた細い山道、その両側は雑木林だ。なだらかな道をしばらく登っていくと目当ての桜が近づいてくる。南に向かって開けた斜面に立つ、一本桜だ。
「おお、綺麗だな」
「そうだな」
土色の雑木林の中。文字通り、そこだけぱっと花いろも鮮やかに、満開の桜が立つ。斜面の一部、桜の木の周りだけは少し開けて平地に近くなっている。ふたりは桜の足元まで近づいた。
昼になって気温が上がった。それでますます開花が進んだのか、ふたりの見ている桜は家の主人の言葉通りまさに見頃を迎えている。見事な枝を思い切り広げて。時折吹く風に静かにざわめく。上を見上げて感心して、それからムサシは一息つこうと考えた。
大樹の足元に恋人と並んで腰を下ろす。大ぶりな木の枝がふたりを淡紅色のカーテンのように覆い、目の前は一面の桜花だ。
贅沢な花見だな、とヒル魔が笑い、ムサシもそうだなと答える。ふと地面を覆うように生えている下草にも目が行った。
「これは何だろうな」
少し変わった雑草だな、とムサシは思った。地味な草だがよく見ると濃いピンク色の小さな花を一面に咲かせている。
「仏の座だろ、知らねえのか」
あっさりとヒル魔が答えて、ムサシは考え込んだ。
「えーと……どっかで聞いたな。もしかして春の七草に入ってるやつか」
「そうだ。強いぞこいつは」
「そうなのか」
「踏まれても生えてくるからな」
「そうか」
「しぶといやつだ。なんか、デビルバッツみてェ」
ヒル魔が笑い、ムサシも笑った。しぶとい雑草。まさに、その通りだなと思った。
「いまはどうしてるんだろうな、バッツは」
「大会の準備してんだろ。勝てるといいけどな」
「お前、今季は頼まれなかったのか。コーチ」
断った、というのがヒル魔の短い答えだった。ムサシは少し驚いた。そんなことがあったとは、恋人は少しも話してくれなかったからだ。
「そうなのか。何でまた」
「そりゃ忙しいからだ。と言いてェところだが」
「?」
「もう俺の出る幕でもねえと思ってな」
「……そうだな。あいつらはあいつらで」
「ああ。昔とは違う」
「うん」
ムサシやヒル魔の世代ののち、泥門デビルバッツは規模を飛躍的に拡大した。セナたちがチームを率いることになった年から強豪校の中に名を連ね、順調に活動している。本当に、思えば隔世の感があるな、とムサシは昔を懐かしく思い出した。
「そういやユニフォームも変わったらしいぞ」
「そうなのか」
恋人の言葉にムサシはまた驚く。ユニフォームと言えば、もともとデザインも作ったのもムサシたちである。
「あれはお前が作ってくれたのに、残念だな」
「別に。もう俺たちのもんでもないしな」
心地よく吹く風に、時折舞い散る桜の花びら。その眺めを楽しみながらふたりはしばらく昔話に花を咲かせた。ユニフォームを作った頃、まだ部員数はわずか3人だった。助っ人だらけの試合に60ヤードマグナムの伝説。あれには苦労したぞ、とムサシは笑う。ヒル魔が勝手につけた通り名がいつの間にか一人歩きして、誰だどこにいるんだと関係者がざわめく中をムサシはアメフトから離れていたのだ。
「いいじゃねえか、有名になって」
無造作にヒル魔は笑う。そして思った。何より、あの時期は必死だったと。常に目まぐるしく頭を使っていた。状況を分析把握して先読みし、栗田を励ましチームを率いる。仲間に檄を飛ばし、自身も研鑽を積み、一つ一つの試合ごとに文字通り泥まみれに勝利を掴む。
むろん、敗れることもあった。ムサシの復帰がなかなか叶わなかったのはそのせいもある。それにしても、いま思うと常にあの頃の自分は気を張っていた。いや、そうしなければならなかった。
「昔はえらく威勢があったな。ガキ共相手に」
「お前だってガキだっただろう」
「まあそうだ。いつもいつも張り詰めてたな」
「そうだな。──今はどうだ」
ムサシが問うたのはヒル魔の現在の勤めと関係がある。あちこちのチームやジュニア世代の教え子を多くヒル魔は抱えているのだ。
「手のかかるガキ共相手だからな。そりゃ気苦労はあるさ」
恋人は笑う。
素直になったな、とムサシは感じた。以前ならこんな台詞は口にしなかっただろう。年月を経て、肩肘を張るでもなく鷹揚に本音を言って笑う。そうしたヒル魔の変化をムサシは嬉しく感じた。
うらうらと静かな春の日差し、豪勢に咲き誇る春色の桜。ヒル魔に想いを告げたのもこんな桜の下だった、とムサシは思った。
「なあ、ヒル魔」
「何だ」
思い切って切り出した。
「お前な。……何か、悩み事があるんじゃないか」
恋人の表情が変わった。
一度口に出したことだ。ムサシは続けた。
「昨夜も言いかけたんだけどな。このところ、少し様子が変だと思ってた。俺では役不足かもしれないが……、話してみないか」
「…………」
「もちろん、無理強いする気はない。だが……、ちょっと気がかりでな」
ヒル魔は黙ってムサシの言葉を聞いている。
「話して楽になる、ということもあると思う。もしもお前の抱えているものが俺にも関わりのあることなら、尚更だ。何か、俺の気のつくこともあるかもしれない。──どうだ」
「…………」
はらりと目の前に桜の花びらが落ちてきた。眺めるヒル魔の心に、ムサシのまごころが沁み入ってくる。恋人の、少し遠慮がちな、それでも暖かい心遣い。じんわりと優しくヒル魔の心を包み込む。
ムサシの言葉通り、ヒル魔にはずっと抱えていた屈託がある。歳を重ねるごとに大きくなる屈託。いつ口にのぼせたら良いか、第一恋人が受け入れてくれるものかどうか。だがそうした迷いが、ムサシの言葉の前に少しずつ溶けていくような気がした。何も前に向いてはいないのに、体のどこかから暖かい力が湧いてくるような。
いま自分の胸を塞いでいるもの。一人の力ではどうにもできないものだ。だがムサシとふたりなら。力を合わせて、思いを合わせて。乗り越えられるものかもしれない。いや、そうすることがきっとできるはずだ。
人生に喜びと悲しみはつきものだ。そしてそれは表裏一体のものでもある。ヒル魔はそれを知っている。ならば──いま、自分が抱えているものもやがて昇華できるはずだ。
黙って、ヒル魔は深い息を一つした。ムサシのくれた力。ムサシの力、自分の力。
「──ムサシ」
「うん」
「俺はな」
「うん」
「俺たちのことを──伝えたい」
胸が大きく鼓動するのをムサシは感じた。黙って恋人の言葉を待つ。
「テメーの、親父さんとお袋さんに」
「…………」
「それから──」
「…………」
「俺の、親父にも」
「…………」
桜の大樹。はらはらと散る花びら。その下でムサシはヒル魔の言葉を聞いた。大きくとどろいた胸。そしてそのあと、じわりと熱いものがこみ上げた。ヒル魔。ずっと考えてくれていたのか。ヒル魔。
「ヒル魔」
「…………」
「ありがとうな」
「…………」
「そういう気持ちになってくれたなら……、俺は異存ない」
ムサシは続けた。
「話そう。俺たちのことを、俺たちの親に」
「……だな」
「そうしよう。いろいろとあるかもしれないが」
「……だな」
足を伸ばして、地面についたヒル魔の手。その手にムサシは自分の手を重ねた。軽く叩くようにした。
「大丈夫だ。俺たちふたりなら」
ふと恋人が肩の力を抜くのがムサシには分かった。
「糞ジジイ」
「何だ」
「せいぜい、いたわれよ」
「? 誰を」
「バーカ。俺をだ」
ヒル魔はにやりと笑ってみせた。
「どうせ一悶着が待ってんだろうからな」
恋人の悪戯っぽい笑顔。何だかそれがたまらなく愛しく、嬉しく思えてムサシも顔をほころばせた。
「そうだな。わかった、そうする」
「…………」
ヒル魔はまた深い息をついた。気持ちが少しずつ軽く、明るくなってくるようだ。何か、光の差す方向へと自分が向いた気がした。恋人と肩を並べて。
「なあ」
「うん? 何だ」
「そろそろ行かねえ?」
「そうだな。帰るか」
「うん」
立ち上がって尻のほこりを軽く払うようにする。それからふたりはもと来た道に入った。なだらかな下り坂をゆっくりと下りていく。
山を下って、大きな農家の塀を回り込んで表の道へ。門の脇に停めてあった軽トラに再びふたりは乗り込んだ。ムサシは運転席へ、ヒル魔はその隣へ。それぞれシートベルトを締める。ムサシは声をかけた。
「行くぞ」
おう、と返事をしてヒル魔は気づいた。薄い紅色の花びらが服についてきている。なぜかふと笑みがこぼれた。ムサシは不思議に思ったようだ。
「? どうした」
「いや」
何でもない、とヒル魔は答える。ムサシは車を発進させた。
一面の田園。その中を軽トラは走る。一本桜から遠ざかるように。うらうらと暖かい日差しの下。
ごうっと、強い西風が突然吹いた。ふたりを見送る山の木々はざわめく。一本桜にも吹きつける風。
だが花びらを散らすことなく桜は耐えた。
遠ざかる軽トラを見送りながら。
伸びやかに、豊かに咲き誇りながら。
ムサシが恋人を案内したのは現在の武蔵工務店の工事現場だった。隣町のはずれにある大農の家だ。
ふたりの住まいは都西部の都市に位置しているが、隣町の、それも郊外に行くと一面の田園地帯となる。その田園の突き当たりのような部分、後ろの山に守られるようにして立っている農家。そこの主人から母屋のリノベーションを依頼され、目下工事中である。門を入ると右手に屋根のついた駐車場、さまざまな農具の置き場。左手は家主の息子夫婦の住まいである離れ。正面の母屋は足場が組まれて外壁と内装の工事中という形だ。菓子折りを持って訪れたムサシを、やあ、と初老の主人は笑顔で迎えた。裏山の桜を見に行きたいが、と許可を頼んだムサシにどうぞどうぞと快諾してくれた。いい桜でしょう、ちょうど今が見頃だよ、と笑う。礼を述べてムサシは門の外に停めていた軽トラに戻った。助手席で待っていたヒル魔に、降りるよう促す。
広大な田畑を所有する農家。周囲に広がる土地と同じく裏山もこの家の持ち物だ。生い茂る林はまだ大部分が芽吹き前で茶色いが、斜面に一本だけ桜の木がある。遠目に見ても立派な大木であると知れるソメイヨシノ。着工前、ちらほらと開花が始まる頃から、ムサシは良い木だなと思って眺めていた。できたら、花の盛りに恋人とゆっくり見ることができたら良いのだが。
ふと思い立ってヒル魔を連れてきたわけであるが、やはり良かったと思った。ぽかぽかと暖かい陽気、とろりと午睡を楽しんでいるようなのどかな風景。ふたりは塀越しに家の裏手に回り込んでいく。
ずいぶんでかい家だな、とヒル魔は思った。それをそのまま口に出すとムサシも肯定する。この辺りで一番の地主らしい、と答える。
「羨ましいか」
悪戯っぽく言われて、ヒル魔は笑う。
「何が。俺ァ現ナマの方がいい」
「そうか」
ムサシも軽く笑った。
家の裏手に山の斜面の登り口がある。踏み固められた細い山道、その両側は雑木林だ。なだらかな道をしばらく登っていくと目当ての桜が近づいてくる。南に向かって開けた斜面に立つ、一本桜だ。
「おお、綺麗だな」
「そうだな」
土色の雑木林の中。文字通り、そこだけぱっと花いろも鮮やかに、満開の桜が立つ。斜面の一部、桜の木の周りだけは少し開けて平地に近くなっている。ふたりは桜の足元まで近づいた。
昼になって気温が上がった。それでますます開花が進んだのか、ふたりの見ている桜は家の主人の言葉通りまさに見頃を迎えている。見事な枝を思い切り広げて。時折吹く風に静かにざわめく。上を見上げて感心して、それからムサシは一息つこうと考えた。
大樹の足元に恋人と並んで腰を下ろす。大ぶりな木の枝がふたりを淡紅色のカーテンのように覆い、目の前は一面の桜花だ。
贅沢な花見だな、とヒル魔が笑い、ムサシもそうだなと答える。ふと地面を覆うように生えている下草にも目が行った。
「これは何だろうな」
少し変わった雑草だな、とムサシは思った。地味な草だがよく見ると濃いピンク色の小さな花を一面に咲かせている。
「仏の座だろ、知らねえのか」
あっさりとヒル魔が答えて、ムサシは考え込んだ。
「えーと……どっかで聞いたな。もしかして春の七草に入ってるやつか」
「そうだ。強いぞこいつは」
「そうなのか」
「踏まれても生えてくるからな」
「そうか」
「しぶといやつだ。なんか、デビルバッツみてェ」
ヒル魔が笑い、ムサシも笑った。しぶとい雑草。まさに、その通りだなと思った。
「いまはどうしてるんだろうな、バッツは」
「大会の準備してんだろ。勝てるといいけどな」
「お前、今季は頼まれなかったのか。コーチ」
断った、というのがヒル魔の短い答えだった。ムサシは少し驚いた。そんなことがあったとは、恋人は少しも話してくれなかったからだ。
「そうなのか。何でまた」
「そりゃ忙しいからだ。と言いてェところだが」
「?」
「もう俺の出る幕でもねえと思ってな」
「……そうだな。あいつらはあいつらで」
「ああ。昔とは違う」
「うん」
ムサシやヒル魔の世代ののち、泥門デビルバッツは規模を飛躍的に拡大した。セナたちがチームを率いることになった年から強豪校の中に名を連ね、順調に活動している。本当に、思えば隔世の感があるな、とムサシは昔を懐かしく思い出した。
「そういやユニフォームも変わったらしいぞ」
「そうなのか」
恋人の言葉にムサシはまた驚く。ユニフォームと言えば、もともとデザインも作ったのもムサシたちである。
「あれはお前が作ってくれたのに、残念だな」
「別に。もう俺たちのもんでもないしな」
心地よく吹く風に、時折舞い散る桜の花びら。その眺めを楽しみながらふたりはしばらく昔話に花を咲かせた。ユニフォームを作った頃、まだ部員数はわずか3人だった。助っ人だらけの試合に60ヤードマグナムの伝説。あれには苦労したぞ、とムサシは笑う。ヒル魔が勝手につけた通り名がいつの間にか一人歩きして、誰だどこにいるんだと関係者がざわめく中をムサシはアメフトから離れていたのだ。
「いいじゃねえか、有名になって」
無造作にヒル魔は笑う。そして思った。何より、あの時期は必死だったと。常に目まぐるしく頭を使っていた。状況を分析把握して先読みし、栗田を励ましチームを率いる。仲間に檄を飛ばし、自身も研鑽を積み、一つ一つの試合ごとに文字通り泥まみれに勝利を掴む。
むろん、敗れることもあった。ムサシの復帰がなかなか叶わなかったのはそのせいもある。それにしても、いま思うと常にあの頃の自分は気を張っていた。いや、そうしなければならなかった。
「昔はえらく威勢があったな。ガキ共相手に」
「お前だってガキだっただろう」
「まあそうだ。いつもいつも張り詰めてたな」
「そうだな。──今はどうだ」
ムサシが問うたのはヒル魔の現在の勤めと関係がある。あちこちのチームやジュニア世代の教え子を多くヒル魔は抱えているのだ。
「手のかかるガキ共相手だからな。そりゃ気苦労はあるさ」
恋人は笑う。
素直になったな、とムサシは感じた。以前ならこんな台詞は口にしなかっただろう。年月を経て、肩肘を張るでもなく鷹揚に本音を言って笑う。そうしたヒル魔の変化をムサシは嬉しく感じた。
うらうらと静かな春の日差し、豪勢に咲き誇る春色の桜。ヒル魔に想いを告げたのもこんな桜の下だった、とムサシは思った。
「なあ、ヒル魔」
「何だ」
思い切って切り出した。
「お前な。……何か、悩み事があるんじゃないか」
恋人の表情が変わった。
一度口に出したことだ。ムサシは続けた。
「昨夜も言いかけたんだけどな。このところ、少し様子が変だと思ってた。俺では役不足かもしれないが……、話してみないか」
「…………」
「もちろん、無理強いする気はない。だが……、ちょっと気がかりでな」
ヒル魔は黙ってムサシの言葉を聞いている。
「話して楽になる、ということもあると思う。もしもお前の抱えているものが俺にも関わりのあることなら、尚更だ。何か、俺の気のつくこともあるかもしれない。──どうだ」
「…………」
はらりと目の前に桜の花びらが落ちてきた。眺めるヒル魔の心に、ムサシのまごころが沁み入ってくる。恋人の、少し遠慮がちな、それでも暖かい心遣い。じんわりと優しくヒル魔の心を包み込む。
ムサシの言葉通り、ヒル魔にはずっと抱えていた屈託がある。歳を重ねるごとに大きくなる屈託。いつ口にのぼせたら良いか、第一恋人が受け入れてくれるものかどうか。だがそうした迷いが、ムサシの言葉の前に少しずつ溶けていくような気がした。何も前に向いてはいないのに、体のどこかから暖かい力が湧いてくるような。
いま自分の胸を塞いでいるもの。一人の力ではどうにもできないものだ。だがムサシとふたりなら。力を合わせて、思いを合わせて。乗り越えられるものかもしれない。いや、そうすることがきっとできるはずだ。
人生に喜びと悲しみはつきものだ。そしてそれは表裏一体のものでもある。ヒル魔はそれを知っている。ならば──いま、自分が抱えているものもやがて昇華できるはずだ。
黙って、ヒル魔は深い息を一つした。ムサシのくれた力。ムサシの力、自分の力。
「──ムサシ」
「うん」
「俺はな」
「うん」
「俺たちのことを──伝えたい」
胸が大きく鼓動するのをムサシは感じた。黙って恋人の言葉を待つ。
「テメーの、親父さんとお袋さんに」
「…………」
「それから──」
「…………」
「俺の、親父にも」
「…………」
桜の大樹。はらはらと散る花びら。その下でムサシはヒル魔の言葉を聞いた。大きくとどろいた胸。そしてそのあと、じわりと熱いものがこみ上げた。ヒル魔。ずっと考えてくれていたのか。ヒル魔。
「ヒル魔」
「…………」
「ありがとうな」
「…………」
「そういう気持ちになってくれたなら……、俺は異存ない」
ムサシは続けた。
「話そう。俺たちのことを、俺たちの親に」
「……だな」
「そうしよう。いろいろとあるかもしれないが」
「……だな」
足を伸ばして、地面についたヒル魔の手。その手にムサシは自分の手を重ねた。軽く叩くようにした。
「大丈夫だ。俺たちふたりなら」
ふと恋人が肩の力を抜くのがムサシには分かった。
「糞ジジイ」
「何だ」
「せいぜい、いたわれよ」
「? 誰を」
「バーカ。俺をだ」
ヒル魔はにやりと笑ってみせた。
「どうせ一悶着が待ってんだろうからな」
恋人の悪戯っぽい笑顔。何だかそれがたまらなく愛しく、嬉しく思えてムサシも顔をほころばせた。
「そうだな。わかった、そうする」
「…………」
ヒル魔はまた深い息をついた。気持ちが少しずつ軽く、明るくなってくるようだ。何か、光の差す方向へと自分が向いた気がした。恋人と肩を並べて。
「なあ」
「うん? 何だ」
「そろそろ行かねえ?」
「そうだな。帰るか」
「うん」
立ち上がって尻のほこりを軽く払うようにする。それからふたりはもと来た道に入った。なだらかな下り坂をゆっくりと下りていく。
山を下って、大きな農家の塀を回り込んで表の道へ。門の脇に停めてあった軽トラに再びふたりは乗り込んだ。ムサシは運転席へ、ヒル魔はその隣へ。それぞれシートベルトを締める。ムサシは声をかけた。
「行くぞ」
おう、と返事をしてヒル魔は気づいた。薄い紅色の花びらが服についてきている。なぜかふと笑みがこぼれた。ムサシは不思議に思ったようだ。
「? どうした」
「いや」
何でもない、とヒル魔は答える。ムサシは車を発進させた。
一面の田園。その中を軽トラは走る。一本桜から遠ざかるように。うらうらと暖かい日差しの下。
ごうっと、強い西風が突然吹いた。ふたりを見送る山の木々はざわめく。一本桜にも吹きつける風。
だが花びらを散らすことなく桜は耐えた。
遠ざかる軽トラを見送りながら。
伸びやかに、豊かに咲き誇りながら。
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