一本桜

 いつまでも子供ではいられない。怖いもの知らずでいられる時間はとても短いのだ。死なねえよ、と恩師の忠告すら不敵にはねつけたあの日。あの時はああするしかなかった、幼いなりに自分の方法で大切なものを守ろうとしていたのだ。歳を重ねてそう思い出す。
 では今の自分にとって何より大切なことは何だろう。突き詰めて考えれば一つの明確な答えがある。
 何よりも失いたくないもの。
 何よりも、守りたいもの。

 **********

 仕事とプライベートを完全に分けることは実は意外と難しい。自営業なら尚更のことだ。それが身に染みて分かっているからムサシの両親は息子に一人暮らしを勧めた。ムサシが泥門高校を卒業し、正式に家業を継ぐことになった時のことだ。そしてムサシは両親のその申し出をありがたく受けることにした。実家まで車で数分、何かあってもすぐに駆けつけることのできる距離に1DKの良い物件があった。卒業式の翌日から少しずつ身の回りのものを運び込み、桜の散る頃にはムサシの独居と新しい生活は始まっていた。
 いわゆる家財道具などは新しく買い揃えたものもあれば実家から持ち込んだものもある。少し新鮮だったのは後者に明らかな生まれ育った家の”匂い”があることだった。そしてその匂いにムサシは不思議な懐かしさを覚えた。別に今生の別れをしたわけでもないのにな、と少し自分で自分をおかしく思ったことをムサシは記憶している。
 一人きりで暗い部屋に布団を敷いて休むことには何故だか心地よい解放感もあった。そんな暮らしをだがムサシは1年で終わらせることになった。ヒル魔と暮らし始めたからだ。
 表向きは腐れ縁のルームメイトということになっていたが、実態は恋人どうしの同棲である。公にはできない関係、それでもムサシは幸せだった。在学中から想いをかけていた金髪悪魔。卒業の際にその悪魔と想いが同じであると知れた。もとより、中学時代からのつきあいで気心は知れあっている。桜の下で思い切って不器用な告白をしたことで、ムサシはヒル魔とより一層深いところで結びつくことができた。
 ヒル魔は泥門高校を卒業したのち、大学進学の道を選んだ。住まいはムサシの住む街の一角、静かな住宅街に位置する3LDKのマンションだ。初めて訪れた時はずいぶん広いなと感じたのをムサシは覚えている。玄関を入ってすぐ、北向きの主寝室とその隣の部屋をヒル魔は使っていた。そして廊下の途中にある6畳の洋室。そこにムサシは居を落ち着けて、ふたりの暮らしは始まったのだった。
 その同棲生活も、指折り数えたら両手を使わなければならないところまでやってきた。ムサシの実家に降りかかった災難やバベルズの内輪揉め、色々な問題はあったが何とか乗り越えてきた。残るはライスボウルという目標だ。あとどれくらいで果たせることになるのか。もう自分もいい年齢としだ。だがとにかく、ひたすら前を向いて励まなければならない。
 つらつらと思いながらムサシは夜道を歩く。気温はとろりと生暖かい。少し前までの身を切るような寒さが去った春の夜だ。
 マンションの共用玄関をくぐりエレベーターで6階に上がる。自宅の鍵を静かに開けて入り、静かにまっすぐ台所へ向かった。共寝した恋人はもうとっくに眠っている、起こしては気の毒だ。
 買ってきたものをコンビニ袋から取り出して、その裏に記されたレシピをもう一度読む。それから冷蔵庫を開けて必要なものを取り出した。卵、牛乳。
 フライパンに深めに油を注いで火にかける。ボウルに卵と牛乳を計り入れて、買ってきた粉も200グラム1袋を全て入れた。へらで混ぜ合わせて生地を作る。少し牛乳が多すぎたかと思ったが、こねているうちに程よい具合になってきた。
 まな板に打ち粉を振った。できた生地をビニール袋に入れて端を切り、まな板にリング状に絞り出していく。終わってみればレシピと添付の写真の通り、8個の小ぶりなドーナツ生地が出来上がった。
 残ったわずかな生地をつまんでフライパンに入れてみる。じゅうじゅうと良い音、油の温度も良さそうだ。最初に4個、次に残りの4個。静かに油で揚げて、キッチンペーパーの上に取る。トッピング用の砂糖を取り出すためにコンロの下の扉を開こうとかがみ込んだ。と、
「何してんだ」
 見れば台所の入り口に部屋着姿の恋人が立っていた。やや呆れ顔だ。
「ああ、すまない。起こしちまったか」
「いや構わねェけどな」
 ヒル魔の視線は調理台の上だ。裸足でぺたぺたとムサシの隣に歩いてくる。
「何作ってんだ、こんな時間に」
「何だか甘いものが食いたくなってな」
「ドーナツか」
「まあそうだ」
 ムサシは上白糖をぱらぱらと揚げたばかりの油菓子に振りかける。ホットケーキミックスで作った、簡単かつ素朴なドーナツだ。
「お前も食うか。揚げたてだぞ」
「……ああ。まあ、じゃあ貰うか」
 ダイニングテーブルの上の照明をつけてふたりはいつも通り、あい向かいに椅子に落ち着いた。2枚の平皿にそれぞれ4個ずつのドーナツ。あち、あちと指先でつまんで口に入れるとサクリと歯に心地よく噛み切れる。ムサシもヒル魔もしばらくははふはふ頬張ることに専念した。
「うまいな」
「そうだな。初めて作ったが意外に簡単だった」
 熱々の揚げ菓子を口に入れながら、ヒル魔は恋人の顔を見る。どちらかと言えばヒル魔の恋人は考え深いし慎重に行動するタイプだ。だがそう見えて急に衝動的に動くこともあるんだな、と思った。少しおかしな、微笑ましい気持ちが心にやってくる。
「? なんだ」
 ムサシはヒル魔の視線に気付いたようだ。いや、と短く答えてヒル魔は2個目のドーナツに手を伸ばす。口に入れようとして、ふと思ったことを言った。
「固めるやつ、買わないといけねえな」
「ああ。油、使ったからな。明日行くか」
「てか、もう今日だけどな」
「うん」
 少しづつ冷めて手に取りやすくなった油菓子は、それでもふんわりした舌触りが何とも言えない旨さに感じられた。ムサシもヒル魔も結局皿の上の4個ずつを全て平らげてしまった。ごっそうさん、と身軽くヒル魔は立ち上がった。後片付けを、と卓上の皿を持ち上げる。
「──そうだ。ヒル魔」
「?」
 何かムサシは思いついたようだ。ヒル魔は恋人の顔を見る。
「? 何だ」
 重ねた皿を片手に問いかける。ムサシは何を言いたいのだろう。
「……いや。何でもない」
「何だよ」
「いや、いいんだ」
 台所を片付けようとムサシも立ち上がった。言いかけたことを最後まで言わないのもどうかとは思ったが、ムサシは思いとどまったのだった。
 このところのヒル魔の様子が少しおかしいことをムサシは感じ取っていた。表面的にはいつもと何も変わらないように見えるし、ヒル魔がそのように振る舞っていたことも事実だ。だが日常のちょっとした瞬間──起き抜けの顔、廊下ですれ違った時。お休みのキスをする時。何でもないふとした拍子に感じる恋人の屈託、表情の翳り。どうしたのだろう、と少し前からムサシは感じていた。そのことを聞いてみようと言いかけたのだが、思い直した。何か心配事や悩みごとがあり、それがムサシにも関わることなら恋人はいつか必ず話してくれるだろう。それを待とう、と思った。
 ふたりで再び台所へ入りながら、ムサシは話題を変えた。
「明日はのんびりできるな」
 水道の蛇口をひねりつつ、ヒル魔はあいづちを打つ。そうだな、ひさしぶりだな。
 それぞれの勤め、それにバベルズの運営と活動。ふたり揃っての休日は実はなかなか稀である。特にどこかへ出かける予定も入れず、家でくつろごうと以前から話しあっていた。
「何かしたいことあるか」
「洗濯」
 ムサシは恋人のとぼけた答えに思わず苦笑する。それはしたいことと言うのとはちょっと違うだろう。
「そりゃ洗濯はするけどな。ほかはいいのか」
「んー」
 ムサシもだが、ヒル魔も特に何かしたいことはなさそうだ。一日、家でゆったり過ごすことになりそうだなとムサシは思った。恋人がそうしたいなら、むろん異存などあるはずがない。
 かちゃかちゃと食器や炊事道具の触れあう音、それに水音。暖かい音を楽しみながら後片付けをして、ふたりはそれからまもなく休んだ。
 
 

「ああ、いい天気だな」
 ベランダからヒル魔の声。
 ムサシは洗濯物を運びながら答える。
「そうだな。──ちょっと手伝ってくれ」
「ん」
 恋人は窓際にやってきたムサシを迎える。洗いたてのシーツがムサシの手からヒル魔の手へ。
「これならすぐに乾くんじゃねえか?」
「そうだな」
 サンダルを履いてムサシもベランダに出た。ふたりで物干し竿にシーツをかける。うららかな晴天に恵まれた休日だ。よく晴れて良い風が通る。シーツを広げながらムサシは恋人に声をかけた。
「他にも洗うものあるか?」
「んー、洗濯はいい。それよりテメーもこれ手伝え」
「わかった」
 ヒル魔の足元には何足ものスニーカーがある。ムサシが目覚めた時にはすでに傍に恋人の姿はなく、どうしたのかと思ったらベランダにしゃがみこんでスニーカーのこすり洗いをしていた。自分のものだけでなくムサシの分までも。いい天気だし、ちょうどいいかもしれないな。ムサシもそう思った。はためくシーツの下、ふたりでごしごしと靴を洗う。バケツにはすすぎ用の水。一つずつブラシで磨いて泡だらけになった靴。バケツの水をざぶりとかけて流し、ていねいにすすいでいく。一度ではもちろん水量は足りないから、何度も風呂場から水を汲んで運んだ。かわるがわるにバケツを運んですすぎをして、やがてベランダの日当たりには洗いたての香りも爽やかな運動靴が何足も並んだ。
 しゃがみこんでいた姿勢から立ち上がって、ムサシはううーんと伸びをした。本当に気持ちの良い朝だ。ビール飲むか、とまだしゃがんだままのヒル魔が言う。恋人も自分と同じ、爽やかな解放感にひたっているようだ。少し考えて、いや、俺はいいとムサシは答えた。また恋人の隣に腰をおろす。ぽかぽかといい陽気だし、しばらく日向ぼっこもいいだろう。ヒル魔は気まぐれに口にしただけのようで、冷蔵庫に何か取りに行く様子もない。そうだ、とムサシは飲み物から連想して思い出した。
「こないだな」
「んー」
「客の家でお茶を出されたんだけどな」
「うん」
「見た目は普通なんだが、何か変わったお茶でな」
「うん」
「何だろうと思いながら飲んでて分かった。メロンだった」
「は?」
 ヒル魔も意外そうな声を出した。
 苦笑して、ムサシは言葉を続ける。
「メロンの匂いだった。甘い匂いでな、味は煎茶なんだが」
「へえ、そんなんあるのか。悪いがあんまり飲みたくはねえな」
「俺もだ」
 内心閉口していた自分を思い出しながら、ムサシは笑った。隣でくく、とヒル魔も笑う。
「テメーも大変だな。いろんなもん出されて」
「まあそういうこともあるな」
 職業柄、ムサシはさまざまな場でお茶や菓子を出される。それが話題になることも良くあるので一概に否定する気はないが、やはり自分はごく普通の煎茶に茶菓子が一番落ち着けると思う。どうも、年配よりは若い者、そして古くからの住宅よりは新築マンション住まいの家庭の方が、奇をてらったものを出す傾向がある。ヒル魔に話した甘い風味のお茶などはその際たるものだ。他にもぶどうやりんご、果物の風味をつけた麦茶などを供されたこともある。メロン茶を出してきた家庭の主婦は茶を勧めながらちらりとムサシの左手の薬指に目を当てた。慣れているから特に気にはしなかったが、以前はムサシも少し意識していた。こういうことを信用の度合いに考える人々も世間には少なからず存在するのだ。
 顧客との世間話、茶飲み話。その最中にムサシが”独り身”であると知れると、臆面もなく見合いを勧めようとする者もいる。かなり強引なところでは日時まで指定してムサシに来いと強要する者も。むろんムサシにはその気はないから一言のもとに断りを告げるのであるが。こういう仕事を続けるなら、また相手にいわゆる適齢期と映る限りは、何度でも経験しなければならない苦労なのだろう。ムサシはそう割り切っている。
 ただ困るのは、ムサシの親を通じて見合いの話を持ってくる相手も中にはいることだ。嫌でも、実の親にまで断る理由をつけなければならない。今は家業で、仕事で精一杯だ、まだ自分は半人前だ。だが本当は、すでにムサシにはヒル魔という恋人がいる。そのことをいつまで包み隠しておけるか。ここ数年、ムサシが抱いている懸念がそれだった。いつかは恋人ときちんと話しあわなければならない。
「こないだな」
 ヒル魔が口を開いたのでムサシは恋人の方を向いた。
「? 何だ」
「お袋さんに聞いた」
「何を」
「テメーが見合いを断りまくってるってことをな」
 恋人の勘の良さにぎくりとした。たったいま考えていたことを見透かされたかのようだ。
「……そうか」
 ヒル魔はそれきり、黙っている。
 ムサシはあっさりと言った。
「俺にはお前がいるからな」
 ケケ、と笑うかと思った恋人は笑わなかった。黙って前を見据えている。何を考えているのかムサシには分からない。ここ最近の、恋人の表情。その翳りはこれが原因なのだろうか。
「何か飲まねえ? 喉渇いた」
 恋人は話題を変えたいようだ。そうだな、とムサシはあいづちを打つ。
「お茶がいいな。普通のな」
 ケケ、と今度はヒル魔は笑った。
「俺はコーヒーがいい。どっちが淹れる」
 こぶしをヒル魔が突き出してきたのでムサシも合わせる。
「じゃんけん……」
 ぱっと手を広げたらムサシが負けた。仕方ないな、と立ち上がる。そうしながら思い出した。
「なあ、ヒル魔」
「何だ、もういっぺんか」
 再びこぶしを出そうとする恋人にムサシは言った。
「いや。あのな、桜を見に行かないか」
「桜?」
 おうむ返しに恋人が問う。
「ああ。桜」
「いいけどな。どこに行く」
「あのな……」
 ヒル魔もムサシに続いて腰を上げた。ふたりで家の中に入りながら、ムサシは以前から考えていたことを話し始めた。
1/2ページ
スキ