Sunset dance ──Part.2
ムサシはまっすぐにヒル魔を愛した。
初めてくちづけた、あの時から。
**********
──なーに問題ねえ。テメーが戻るからな
──相変わらず勝手なヤローだ
そんなやり取りをしたことを今も鮮明に覚えている。記憶力は良い方だし、何しろ自分とヒル魔はこの会話の後に初めてキスをしたのだから。
泥門高校の部室。あの時の自分は全てを諦めていた。だからこそ、代わりのキッカーを育てろと言ったのだ、血を吐くような思いで。それをヒル魔はいとも簡単に切って捨てた。お前の代わりになるキッカーなどいない、と。
平静を装ってムサシは言葉を返した。だが胸の底では何か分からない熱が膨れあがるのを感じていた。もしかしたらそれは怒りであったかもしれない。焦燥感であったかもしれない。または、それらとは全く別の何か。何かは分からないがその対象が目の前の金髪悪魔であるということだけは明確だった。
その熱に、熱さに浮かされてムサシはヒル魔を壁際に追い詰めた。
金髪悪魔の顔の横に両のこぶしを強く叩きつける。どん、と鈍い衝撃が手に伝わった。
ヒル魔は──どうしてか、これもムサシには分からなかったが──抵抗しなかった。なんだよ、と言いかけた言葉はその口の中で消えた。壁に背をつけてムサシを見る。唇を引き結んで、口元からはガムが膨らむ。
そのヒル魔のまなざし。透徹な、何もかもを見透かすようなまなざし。目をそらさずに、ムサシは視線を合わせた。悪魔の口元でガムがはじけるのを待つ。
ゆっくりとふくらむガム、かすかなミントの香りとともに。ついでそれはぱちん、音を立ててはじけた。
ムサシがしたくちづけ。それをヒル魔は黙って受け止めた。唇が離れたあとも、特にヒル魔は我を忘れるようなことなどなかった。静かなまなざしでムサシを見つめ、黙って部室を出ていった。日米対決という大試合のために。
部室に一人、残されたムサシは立ち尽くす。ぽつんと、誰もいない部屋に。それからこぶしを握りしめて、ヒル魔と同じようにそこを出て行ったのだった。自分は大工だ、まだ今日の作業は終わっていない。仕事仲間の待つ車へ戻らなければならない。そう思いながら、そのようにしたのだった。
愛した競技との別れ。学業との別れ。──金髪悪魔との、別れ。それらをムサシは甘んじて受け止めていた。いや、そのはずだった。だが生まれて初めてのキスを経験した数ヶ月後。自分でも思いもかけない衝動につき動かされてムサシはその現実を破り、チームへの復帰を果たした。
夏の間、ムサシはずっと考え続けていた。どうしてあの時、自分はあの金髪悪魔にくちづけをしたのか。どうして、あの金髪悪魔は逆らわなかったのか。考えて、考え続けて一つの結論を出した。
その結論ゆえにムサシはおのれのチームを愛し、なお一層の情熱を込めてチームを支える悪魔のQBを愛した。いや、愛するようになった。ケケケと性悪な悪魔笑いをひびかせる、チームの大黒柱。ムサシの──想い人。細い肩、ぴんと伸びた背中。手を当てたい、と何度衝動にかられたか分からない。
──俺が餌になってやるさ
ヒル魔は笑ってそんな言葉を口にした。恐るべきDLを誇るチーム、白秋ダイナソーズとの一戦を前にして。そしてムサシは言い出したらきかない、この想い人の性格を熟知していた。
──ケケケ、殺られやしねえよ
どこまでも不敵に、ヒル魔は笑う。
そんなヒル魔を見つめて、ムサシは黙っていた。何と言えば良いか分からなかったから無言でいた。ようやく思いついたのは打ち合わせを済ませてヒル魔の部屋を出ようとした時だった。
──手を出してくれないか
そうムサシは言った。
──俺はもうどこにも行かない
ヒル魔の手。ボールを掴みパスを放つヒル魔の右手。その手を包んで、ムサシは誓いを立てた。
──ここにいる
他にどうすれば良いのか分からなかったからそうした。あふれる想い。その想いのままに直情的な行動をしてしまったと気付いたのはずっと後になってからだ。自分を見つめるヒル魔の目。透徹な目。それをムサシは綺麗だと思った。ヒル魔の頭脳。ヒル魔の叡智。ヒル魔の、存在。何もかもがムサシにとっては愛おしい宝物のようだ。キスをしたい、とムサシは思った。おのれの両手に包んだヒル魔の右手を、そっと離した。そっと顔を近づけて、くちづけをした──ヒル魔の、額に。今度もヒル魔は逆らわなかった、目を閉じてムサシの行為を受け入れた。
ヒル魔が寝泊まりしていたホテル。玄関を出るとムサシを包んだのは一面の夕焼け空だった。夕刻を知らせるわらべ歌のメロディ。優しいような、物悲しいような響き。あたり一面、何もかもが夕焼け色に染まる中をムサシはゆっくりと歩いて行った。大地を踏みしめて。次の試合への決意、ヒル魔への想い。さまざまな思いを抱きながら。
ムサシはまっすぐにヒル魔を愛している。ヒル魔の目、ヒル魔の手。ヒル魔の肩。何もかもがムサシにとっては愛おしい宝物のようだ。だがとりわけムサシが気に入っているのはヒル魔の白い額、その額にくちづけを贈ることだ。それはムサシだけに与えられた特権で、その特権をムサシは生涯かけて守り抜くつもりでいる。また、おのれがそのようにできるであろうことを信じて疑わない。
想い人から恋人へ。幸福な歩みをムサシとヒル魔は歩む。夕刻の街に響くわらべ歌のメロディ。今日もその調べとともにムサシは日々の事どもを終えた。軽トラを自家用車に乗り換えて帰路に着く。頭にあるのは大切な恋人のことだ。最近仕事が立て込んでいるようだから今日も帰りは遅いのかもしれない。それでも帰宅した恋人を自分は玄関まで出迎えてやろうと思う。そして、お帰りとただいまのキスをする。何度も繰り返したキス、これからも、いつまでも繰り返すだろうキスを。
いつまでも変わらない愛情を込めて、今日も。
初めてくちづけた、あの時から。
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──なーに問題ねえ。テメーが戻るからな
──相変わらず勝手なヤローだ
そんなやり取りをしたことを今も鮮明に覚えている。記憶力は良い方だし、何しろ自分とヒル魔はこの会話の後に初めてキスをしたのだから。
泥門高校の部室。あの時の自分は全てを諦めていた。だからこそ、代わりのキッカーを育てろと言ったのだ、血を吐くような思いで。それをヒル魔はいとも簡単に切って捨てた。お前の代わりになるキッカーなどいない、と。
平静を装ってムサシは言葉を返した。だが胸の底では何か分からない熱が膨れあがるのを感じていた。もしかしたらそれは怒りであったかもしれない。焦燥感であったかもしれない。または、それらとは全く別の何か。何かは分からないがその対象が目の前の金髪悪魔であるということだけは明確だった。
その熱に、熱さに浮かされてムサシはヒル魔を壁際に追い詰めた。
金髪悪魔の顔の横に両のこぶしを強く叩きつける。どん、と鈍い衝撃が手に伝わった。
ヒル魔は──どうしてか、これもムサシには分からなかったが──抵抗しなかった。なんだよ、と言いかけた言葉はその口の中で消えた。壁に背をつけてムサシを見る。唇を引き結んで、口元からはガムが膨らむ。
そのヒル魔のまなざし。透徹な、何もかもを見透かすようなまなざし。目をそらさずに、ムサシは視線を合わせた。悪魔の口元でガムがはじけるのを待つ。
ゆっくりとふくらむガム、かすかなミントの香りとともに。ついでそれはぱちん、音を立ててはじけた。
ムサシがしたくちづけ。それをヒル魔は黙って受け止めた。唇が離れたあとも、特にヒル魔は我を忘れるようなことなどなかった。静かなまなざしでムサシを見つめ、黙って部室を出ていった。日米対決という大試合のために。
部室に一人、残されたムサシは立ち尽くす。ぽつんと、誰もいない部屋に。それからこぶしを握りしめて、ヒル魔と同じようにそこを出て行ったのだった。自分は大工だ、まだ今日の作業は終わっていない。仕事仲間の待つ車へ戻らなければならない。そう思いながら、そのようにしたのだった。
愛した競技との別れ。学業との別れ。──金髪悪魔との、別れ。それらをムサシは甘んじて受け止めていた。いや、そのはずだった。だが生まれて初めてのキスを経験した数ヶ月後。自分でも思いもかけない衝動につき動かされてムサシはその現実を破り、チームへの復帰を果たした。
夏の間、ムサシはずっと考え続けていた。どうしてあの時、自分はあの金髪悪魔にくちづけをしたのか。どうして、あの金髪悪魔は逆らわなかったのか。考えて、考え続けて一つの結論を出した。
その結論ゆえにムサシはおのれのチームを愛し、なお一層の情熱を込めてチームを支える悪魔のQBを愛した。いや、愛するようになった。ケケケと性悪な悪魔笑いをひびかせる、チームの大黒柱。ムサシの──想い人。細い肩、ぴんと伸びた背中。手を当てたい、と何度衝動にかられたか分からない。
──俺が餌になってやるさ
ヒル魔は笑ってそんな言葉を口にした。恐るべきDLを誇るチーム、白秋ダイナソーズとの一戦を前にして。そしてムサシは言い出したらきかない、この想い人の性格を熟知していた。
──ケケケ、殺られやしねえよ
どこまでも不敵に、ヒル魔は笑う。
そんなヒル魔を見つめて、ムサシは黙っていた。何と言えば良いか分からなかったから無言でいた。ようやく思いついたのは打ち合わせを済ませてヒル魔の部屋を出ようとした時だった。
──手を出してくれないか
そうムサシは言った。
──俺はもうどこにも行かない
ヒル魔の手。ボールを掴みパスを放つヒル魔の右手。その手を包んで、ムサシは誓いを立てた。
──ここにいる
他にどうすれば良いのか分からなかったからそうした。あふれる想い。その想いのままに直情的な行動をしてしまったと気付いたのはずっと後になってからだ。自分を見つめるヒル魔の目。透徹な目。それをムサシは綺麗だと思った。ヒル魔の頭脳。ヒル魔の叡智。ヒル魔の、存在。何もかもがムサシにとっては愛おしい宝物のようだ。キスをしたい、とムサシは思った。おのれの両手に包んだヒル魔の右手を、そっと離した。そっと顔を近づけて、くちづけをした──ヒル魔の、額に。今度もヒル魔は逆らわなかった、目を閉じてムサシの行為を受け入れた。
ヒル魔が寝泊まりしていたホテル。玄関を出るとムサシを包んだのは一面の夕焼け空だった。夕刻を知らせるわらべ歌のメロディ。優しいような、物悲しいような響き。あたり一面、何もかもが夕焼け色に染まる中をムサシはゆっくりと歩いて行った。大地を踏みしめて。次の試合への決意、ヒル魔への想い。さまざまな思いを抱きながら。
ムサシはまっすぐにヒル魔を愛している。ヒル魔の目、ヒル魔の手。ヒル魔の肩。何もかもがムサシにとっては愛おしい宝物のようだ。だがとりわけムサシが気に入っているのはヒル魔の白い額、その額にくちづけを贈ることだ。それはムサシだけに与えられた特権で、その特権をムサシは生涯かけて守り抜くつもりでいる。また、おのれがそのようにできるであろうことを信じて疑わない。
想い人から恋人へ。幸福な歩みをムサシとヒル魔は歩む。夕刻の街に響くわらべ歌のメロディ。今日もその調べとともにムサシは日々の事どもを終えた。軽トラを自家用車に乗り換えて帰路に着く。頭にあるのは大切な恋人のことだ。最近仕事が立て込んでいるようだから今日も帰りは遅いのかもしれない。それでも帰宅した恋人を自分は玄関まで出迎えてやろうと思う。そして、お帰りとただいまのキスをする。何度も繰り返したキス、これからも、いつまでも繰り返すだろうキスを。
いつまでも変わらない愛情を込めて、今日も。
【END】
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