Sunset dance
俺の額にキスをする。または手を当てる。そんなちょっとした行為をムサシはとても気に入っているらしい。それはムサシだけに俺が許した特権のようなものだ。そしてその特権をムサシは他の誰にも渡すつもりはないようだし、無論のこと俺もそれは同様だ。
──なーに問題ねえ。テメーが戻るからな
──相変わらず勝手なヤローだ
そんな軽口の叩き合いをしたことを今でも鮮明に覚えている。記憶力は良い方だし、何しろムサシと俺はこの会話のあとに初めてキスをしたのだから。
高2の夏が始まりかけていたあの日。狭いが活気に満ちた部室。糞チビ共とムサシがしたという「約束」を聞いて俺は大笑いした。他に仕様がなかったからそうした。いったんした約束をムサシは破るような男ではない。これでは何が何でも対アメリカ戦に勝利しなければならない。腹の底に硬い緊張のようなものが湧き起こるのを感じながら、面白ぇ、と言った。ムサシは静かに、悪ぃなと言葉を返した。……悪い? それはどういう意味だと問い詰めたかった、でも出来なかった。ムサシ。俺の好きな男。もうずっと前から、さかのぼれば中学の頃から俺が好きだった男。その男はどこまでも俺の前で静かな表情を見せているだけだ。コーヒーを飲みながらの会話。たわいない世間話ですら胸が熱くなるほど大切な。
ごちそうさん、とカップを置いてムサシが立ち上がったので俺も同じようにした。ムサシを見送るためだ。そうして、二人で部室の出口に向かって歩き出した──その途端だった。
どん、と鈍い衝撃。目の前が一瞬だけ白くなった。
気がついたら壁際に追い詰められていた。
──…………
──…………
両のこぶしを俺の顔の横に押しつけて。そんな姿勢のまま、でもムサシは何も言わない。俺も何も言わなかった──いや、言えなかった。
ケケケ、と笑い飛ばす。冗談に紛らわす。いくらでもそんな手段はあったはずだ、だがそれらをどれも俺は出来なかった。口の中でいつものガムを噛む、ゆっくりと。ゆっくりとふくらませる。かろうじて出来たのはそんなことくらいだった。
ぱちん、とガムのはじける感触。ムサシのまなざし。何か、それまでとは違った──何か言いたげな、熱を持ったまなざし。俺の好きな、ムサシの目。その目が、その顔が近づいてくる。俺は目を閉じた、そうするしかなかった。何も考えてなかった、ただ胸にあるのは目の前の男への想い。思慕、恋情。そんなものでいっぱいになっていた。
唇が重なった。ほんの一瞬の出来事だ、それはすぐに離れた。ムサシは相変わらず何も言わない、それは俺も同じだった。ムサシは俺から体を離して、出て行った。ムサシ自身の道へ。俺もそれは同じだった、俺もそのあとすぐに部室を出た。俺自身の道へ──対米戦へ。
ムサシはあの時何を考え、何を言いたかったのか。それは俺には分からないし訊いたこともない。けれどあの時の暖かい感触は年を経たいまも俺の中に鮮明によみがえる。恋しい男、心の底から慕わしいと思う男。その男をそれまでより一層間近に、身近に感じた瞬間だった。
二度目のキスはそれから数ヶ月後のことだった。俺の寝泊まりしていたホテルの部屋で。試合の打ち合わせを済ませて出て行こうとするムサシ。ふと気付いたように。
──なあ、ヒル魔
──なんだ
──手を出してくれないか
──……?
戸惑った。ムサシが何を考え、何をしようとしているのか分からなかったからだ。とにかく、俺の手をムサシは何とかしたいらしい。何だよ、糞ジジイ、と強気に言葉を発しながら俺は右手を突き出した。ムサシの前に。
ムサシは俺の手を両手で包み込んだ。乾いた、温かいムサシの手。大きなムサシの手が俺の右手を包む。そうして。
──ヒル魔
そうムサシは言った。
──この手に誓う。俺は
──…………
──俺はもうどこへも行かない
──…………
胸の中にどっと熱いものが押し寄せてくる音を聞いた。畜生、また何も言えない。糞ジジイ、不意打ちにも程があるぞ。
そんな俺を見つめて、静かにムサシは続ける。
──これは俺からの約束だ。俺はここにいる
何か言いたい、でも唇が震えてうまく言葉を発することができない。かろうじて押し出すことができたのは、そうかよ、という一言だけだった。ムサシの目。静かで穏やかな、でも強い意志を秘めたその目。俺の好きな目だ。その目でムサシは俺の手を離した。静かに、俺に二度目のキスをした。唇にじゃない。俺の、額に。そうして、また明日な、と部屋を出て行った。
ドアの閉まる音。外から聞こえてきた街の公共放送で我に帰った。夕刻を知らせるわらべ歌のメロディだ。窓の外を見ると短くなってきた日が暮れかけている。部屋に差し込むオレンジ色の夕日。部屋の中まで一色に染めて、大きな夕日が沈もうとしている。
優しいわらべ歌の調べ。沈む夕日。その中で俺は長いこと立ちつくしていた。ムサシの手のぬくもり、唇の温かさ。何度も、何度も反芻しながら。
ムサシは俺の額が好きだと言う。綺麗な額だとも言ってくれる。自分じゃ分からないからそう言われると俺はそうかよと返すしかない。俺の額にキスをする、手を当てる。俺の惚れた男はそんな行為をとても愛しているらしい。それはこの男だけに俺が許した特権のようなものだ。そしてその特権を手放すつもりをムサシは持たない。いままでも、これからも。
今日も夕刻、あのわらべ歌の調べとともにムサシは現場仕事を終えただろう。そしてまもなく帰宅する。自分と、俺の住む家に。一足先に帰ることができたから俺は玄関までムサシを出迎えてやろうと思う。そして今日も静かに、穏やかにキスをする。ただいまとお帰りのキスを。何度も繰り返したキス、これからも、いつまでも繰り返すだろうキスを。
いつまでも変わらない愛情を込めて、今日も。
──なーに問題ねえ。テメーが戻るからな
──相変わらず勝手なヤローだ
そんな軽口の叩き合いをしたことを今でも鮮明に覚えている。記憶力は良い方だし、何しろムサシと俺はこの会話のあとに初めてキスをしたのだから。
高2の夏が始まりかけていたあの日。狭いが活気に満ちた部室。糞チビ共とムサシがしたという「約束」を聞いて俺は大笑いした。他に仕様がなかったからそうした。いったんした約束をムサシは破るような男ではない。これでは何が何でも対アメリカ戦に勝利しなければならない。腹の底に硬い緊張のようなものが湧き起こるのを感じながら、面白ぇ、と言った。ムサシは静かに、悪ぃなと言葉を返した。……悪い? それはどういう意味だと問い詰めたかった、でも出来なかった。ムサシ。俺の好きな男。もうずっと前から、さかのぼれば中学の頃から俺が好きだった男。その男はどこまでも俺の前で静かな表情を見せているだけだ。コーヒーを飲みながらの会話。たわいない世間話ですら胸が熱くなるほど大切な。
ごちそうさん、とカップを置いてムサシが立ち上がったので俺も同じようにした。ムサシを見送るためだ。そうして、二人で部室の出口に向かって歩き出した──その途端だった。
どん、と鈍い衝撃。目の前が一瞬だけ白くなった。
気がついたら壁際に追い詰められていた。
──…………
──…………
両のこぶしを俺の顔の横に押しつけて。そんな姿勢のまま、でもムサシは何も言わない。俺も何も言わなかった──いや、言えなかった。
ケケケ、と笑い飛ばす。冗談に紛らわす。いくらでもそんな手段はあったはずだ、だがそれらをどれも俺は出来なかった。口の中でいつものガムを噛む、ゆっくりと。ゆっくりとふくらませる。かろうじて出来たのはそんなことくらいだった。
ぱちん、とガムのはじける感触。ムサシのまなざし。何か、それまでとは違った──何か言いたげな、熱を持ったまなざし。俺の好きな、ムサシの目。その目が、その顔が近づいてくる。俺は目を閉じた、そうするしかなかった。何も考えてなかった、ただ胸にあるのは目の前の男への想い。思慕、恋情。そんなものでいっぱいになっていた。
唇が重なった。ほんの一瞬の出来事だ、それはすぐに離れた。ムサシは相変わらず何も言わない、それは俺も同じだった。ムサシは俺から体を離して、出て行った。ムサシ自身の道へ。俺もそれは同じだった、俺もそのあとすぐに部室を出た。俺自身の道へ──対米戦へ。
ムサシはあの時何を考え、何を言いたかったのか。それは俺には分からないし訊いたこともない。けれどあの時の暖かい感触は年を経たいまも俺の中に鮮明によみがえる。恋しい男、心の底から慕わしいと思う男。その男をそれまでより一層間近に、身近に感じた瞬間だった。
二度目のキスはそれから数ヶ月後のことだった。俺の寝泊まりしていたホテルの部屋で。試合の打ち合わせを済ませて出て行こうとするムサシ。ふと気付いたように。
──なあ、ヒル魔
──なんだ
──手を出してくれないか
──……?
戸惑った。ムサシが何を考え、何をしようとしているのか分からなかったからだ。とにかく、俺の手をムサシは何とかしたいらしい。何だよ、糞ジジイ、と強気に言葉を発しながら俺は右手を突き出した。ムサシの前に。
ムサシは俺の手を両手で包み込んだ。乾いた、温かいムサシの手。大きなムサシの手が俺の右手を包む。そうして。
──ヒル魔
そうムサシは言った。
──この手に誓う。俺は
──…………
──俺はもうどこへも行かない
──…………
胸の中にどっと熱いものが押し寄せてくる音を聞いた。畜生、また何も言えない。糞ジジイ、不意打ちにも程があるぞ。
そんな俺を見つめて、静かにムサシは続ける。
──これは俺からの約束だ。俺はここにいる
何か言いたい、でも唇が震えてうまく言葉を発することができない。かろうじて押し出すことができたのは、そうかよ、という一言だけだった。ムサシの目。静かで穏やかな、でも強い意志を秘めたその目。俺の好きな目だ。その目でムサシは俺の手を離した。静かに、俺に二度目のキスをした。唇にじゃない。俺の、額に。そうして、また明日な、と部屋を出て行った。
ドアの閉まる音。外から聞こえてきた街の公共放送で我に帰った。夕刻を知らせるわらべ歌のメロディだ。窓の外を見ると短くなってきた日が暮れかけている。部屋に差し込むオレンジ色の夕日。部屋の中まで一色に染めて、大きな夕日が沈もうとしている。
優しいわらべ歌の調べ。沈む夕日。その中で俺は長いこと立ちつくしていた。ムサシの手のぬくもり、唇の温かさ。何度も、何度も反芻しながら。
ムサシは俺の額が好きだと言う。綺麗な額だとも言ってくれる。自分じゃ分からないからそう言われると俺はそうかよと返すしかない。俺の額にキスをする、手を当てる。俺の惚れた男はそんな行為をとても愛しているらしい。それはこの男だけに俺が許した特権のようなものだ。そしてその特権を手放すつもりをムサシは持たない。いままでも、これからも。
今日も夕刻、あのわらべ歌の調べとともにムサシは現場仕事を終えただろう。そしてまもなく帰宅する。自分と、俺の住む家に。一足先に帰ることができたから俺は玄関までムサシを出迎えてやろうと思う。そして今日も静かに、穏やかにキスをする。ただいまとお帰りのキスを。何度も繰り返したキス、これからも、いつまでも繰り返すだろうキスを。
いつまでも変わらない愛情を込めて、今日も。
【END】
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