Nostalgic dance

 ──あのな、ヒル魔
 そう切り出した時の胸の鼓動を、いまもムサシは覚えている。



 高卒という学歴を諦めた経験。あれは自分の人生の最初の”挫折”だったかもしれないと時々思う。だが一時いっときにせよ集団教育という環境から離れてみて良かったと思うこともある。それまで見えなかった色々なものが見えてきたからだ。ひとは前をばかり見て歩くことのできる生き物ではない。時には迷うことだってあるのだ。そうして迷ってみて初めて確かな道標を手に入れるということもある。少なくともムサシはそうだった。過去を、後ろを振り返ることをムサシは好まない。けれどあらためて横を見ればそこに大切な友人、仲間がいる。守りたいものがある。17歳の時にそんな経験をした。同時に自覚せざるを得なかったものもムサシの胸には押し寄せた。
 ヒル魔への思慕、想いがそれだった。アメフトという競技を通じて繋がった大切な友人。離れてみて気がつけば、いつかムサシは友人として以上の気持ちをヒル魔に抱いていた。不敵に笑う金髪悪魔は、ムサシにとっていつしか特別な存在になっていたのだ。

 自分の気持ちをどう整理するべきなのか、当時のムサシは悩んだ。復帰後は特にそうだった。どこかで、けじめをつけなければならない。おのれの想いが、試合やプレーの差し障りになるようなことがあってはならない。考えたすえ、正直に告白しようと決めた。
 ところが現実はそううまく進まなかった。ヒル魔と二人きりになる機会など、実はそうなかったからだ。クリスマスボウルの夢は叶えた、だが瞬く間に世界戦、そして新しい学年へ。進級して栗田やヒル魔とムサシは別のクラスになった。ムサシの考える”機会”はそれまでよりいっそう、減ってしまった。それにムサシ本人にも余裕がなかった。デビルバッツは新入部員を多数抱え、後輩たちの指導という大きな役目がムサシにも回ってきたからだ。
 部活帰りは相変わらず3人でいつもの道を歩いた。栗田のおしゃべり、ヒル魔のアメフト談義。大切な友人と大切な想い人の言葉を聞きながら、ムサシもまたおのれのこれからの夢を語る。そうして3人でいることは心の底からムサシにとっては暖かく、貴重な時間だった。
 多くの強豪校と戦った春大会が終わり、あっという間に高3の1学期は終わった。栗田もヒル魔も、そしてムサシも夏合宿には参加しないと決めていた。もともと、泥門高校の規則で3年生の部活動は夏までと決まっている。そのため、夏合宿も3年生は自由参加制となっていたのである。
 後輩たちから惜しまれながら、3人はデビルバッツの一線を退いた。そうして、合宿に向けて校庭からバスで出て行く彼らを──同じく引退した雪光とともに──見送ってやった。頑張れよ、あとは頼んだ、そう思いながら。餞別だ、とヒル魔が乱射するマシンガンの銃声を背景に。

 後輩たちが去ると、栗田やヒル魔に始まるのは進学に向けた夏期講習だ。普通科のムサシにはないカリキュラムである。ムサシはできるだけ二人の邪魔をしてはならないと考え、夏の間は家業とその手伝いに精を出した。ヒル魔への思慕。それを忘れたわけではない、むしろ日ごとに強まるその情念を抱えながらである。
 機を逸した。そんな思いが立ち込めていた。後ろを振り返ることをムサシは好まない、だが考えてみればあの世界戦のあとすぐにでも、自分の気持ちを正直に伝えるべきだったのだ。じかに言いたい、それならヒル魔と二人きりにならないと。そんなことに拘っているうちにあっという間に日々が過ぎてしまった。さて、どうしたものか。ジワジワと蝉の音。汗とともに体を動かしながら、ずっと思案を続けていた。
 ヒル魔から電話がかかってきたことは、だからまさにムサシにとっては僥倖だった。しゃぶしゃぶの無料食事券が2枚ある、と言う。それなら栗田を誘えばいいじゃないかとムサシは言った。
 ──たりめーだ、真っ先に奴にかけたんだ俺だって
 ──駄目だったのかあいつ
 ──まあな。法事の手伝いから抜けられねえって泣いてた
 ムサシは苦笑した。懐こい栗田の半泣き顔が目に浮かぶようだ。
 ──そういうわけでテメーはどうだ
 ──ああ、そんなら行く
 電話を切って考えた。会うのは久しぶりだ。それもヒル魔と二人で出かけるなど、あるようで今までなかったことだ。これは良いチャンスかもしれない。

「故障?」
「故障だと」
 鸚鵡返しに、憮然とヒル魔が答える。
 駅前の繁華街にある店。黒とグレーの内装で飾られた、モダンな雰囲気のしゃぶしゃぶ店。玄関をくぐるとすぐにヒル魔が手を振って合図してきた。席に座る前からムサシは何だか変だと感じていた。店内の空気が異様に蒸し暑い。まるで、エアコンが壊れているかのようだ。これでは外気とそう変わらないのではないか。
 ムサシの印象は、都合の悪いことに当たっていた。夕方、突然空調設備が故障して、無論修理は依頼したがすぐには出来ないとの答え、どうにもならないのだと言う。
「どうするんだ」
 一応、ムサシはヒル魔に訊いた。自分はさほど気にならないが、何せ料理が料理である。今ですら、こもった空気がこれでは。食べ始めたら相当な暑さと戦わなければならないのではないか。
 そういう意味で、本当にここで食うのか、とムサシはヒル魔に尋ねた。ヒル魔は相変わらず憮然として、どうしようもねえだろ、食う、と答えた。
 若い男の店員が恐縮しながら給仕してくれて、とりあえず二人は食事を始めた。次々に運ばれてくる食材。ぐつぐつと煮えたぎる鍋。熱い鍋、熱々の肉に各種の具材。すぐに火は通るようにはなっているが、何しろ温度も温度だし室温も酷い。食材自体は質の良いものを使っているようで、たれも各種用意されており、ムサシは旨いなと何度も感じた。だが顔は汗だく、体にも汗が伝う。熱さ、何よりも猛烈な暑さ。そうしたものを堪えながらの食事となった。ろくに会話の余裕もなかった。

「酷ェ目に遭ったな」
「あれだけ食っておいてその言い方はないだろう」
 店を出ると、いっそ外の方が涼しいと感じた。ヒル魔の住まうホテルまではここからわずか数分だ。ご馳走さん、と一応礼を言ってムサシは別れようとした。するとヒル魔がどっかで涼みてェと言う。涼むって、どうするんだ。そうムサシに尋ねる隙も与えず、ヒル魔はすたすた歩き出した。自然、ムサシはその後を追う形になる。
「あー、暑ィ」
「夏だからな」
「テメーはいちいち言うことが爺くせェな」
「歳は関係ないだろ」
「うるせえな、暑ィものは暑ィ」
 軽口を叩き合いながらヒル魔は繁華街のはずれの公園に入っていく。肩を並べてムサシも歩く。それほど広くはない公園だが桜の木が多く植えられていて、時期には花見客も多い場所だ。いまその木々が深く葉を茂らせて、ムサシとヒル魔を迎えた。

 砂場とすべり台。その周りに木のベンチ、鉄の腰かけ。はァ、と息をつきながらヒル魔がもたれたのは太い鉄の腰かけだった。ムサシも並んで同様にする。
「ああ、旨かった。けど暑かったな、二度と行かねェ」
「故障だろ、しょうがないじゃないか」
「まあそうだけどな」
 照明は公園の周りに建てられた街灯だけだ。中は薄暗い。それでも風が通って先ほどまでの灼熱に比べたら大分ましに思えた。ろくに喋る余裕もなかった先ほどまでと変わって、ヒル魔ばかりでなくムサシもほっと肩の力が抜けた。落ち着いてみたら夏季休暇が始まって以来大した話もしてこなかったのだ。受験。チームのこと。これから先の予定、そして夢。話題など二人には山ほどある。涼みながらしばらくそんなことを話したあとに、ふと思いついてムサシは言った。
「なあ、ヒル魔」
「なんだ」
「仕上がってくると思うか、あいつら。──合宿で」
 栗田、ヒル魔、そして自分。それから雪光。3年が抜けた後のデビルバッツに、実はムサシはかなりの懸念を持っていた。前衛にしろ後衛にしろ、自分ら3年の存在は大きかった。特に──言うまでもなく──ヒル魔の存在は。試合中の司令塔、オフェンスコーチ、トレーナー。アナライジング、マネジメント。八面六臂とも言うべき働きでチームを導いてきたQB。進級した当初、ムサシは内心、今年の春大会には出まいと考えていた。出来たら3年が揃って同じ態度で後輩に跡を譲るべきだ、とも。しかしそうはならなかった。西部や神龍寺、それら強豪を抑える力を、まだセナたちが持っていなかったからだ。
 ムサシはヒル魔の横顔を見た。身も蓋もないことを即答するかと思った金髪悪魔が、なぜか黙っている。
 風に吹かれながらヒル魔は前方を見据えていた。口元にはいつもの無糖ガム。膨らむ。はじける。また膨らむ。
 何を考えているのかは分からない。だがその横顔をムサシは綺麗だなと思った。思った途端にヒル魔の口元は裂けてケケケ、といつもの笑いを見せたのだが。
「ケケケ、テメーはそう思ってやがるか」
「──ああ。心配だ」
「なら賭けるか?」
 ムサシを見てにやりとヒル魔は笑う。
 ムサシは口を開いた。だが直前で言い止まり、逆のことを言った。
「いや、やめておく」
「なんだよ、ビビったか糞ジジイ」
「そうじゃねえが、まあそうだな」
「ケケ、どっちだよ」
「…………」
 ムサシは黙って苦笑した。
「お前と賭けをしたって仕方ない。だろ?」
「まあテメーが勝つってことはまずねェだろうな」
「だな。だからやめておく」
 ヒル魔はそれ以上何も言わなかった。ガムを膨らませながら喉の奥で笑うような音をたてた。
「…………」
「…………」
 ふと落ちた沈黙。
 軽く吹いている夜風を顔に感じながら、ムサシは最後まで言わなくて良かったと思った。糞ジジイ、と呼ばれたのでなんだと答えた。ヒル魔は前を見据えたままだ。
「俺ァな」
「…………」
「あいつらを信じてる」
 ムサシは思わずヒル魔を見た。その横顔は静かだった。引き結んだ唇から膨れるガム。弾ける。
 すっとヒル魔は立ち上がった。帰るか、と。
 ムサシはその後ろ姿に向かって呼びかけた。
「ヒル魔」
「あ?」
「あのな」
 ヒル魔が振り返る。ムサシも立ち上がった。正面から向き合う形になった。
「俺はな」
 おのれの内の鼓動。
「…………」
「どうも──いや、違うな」
 ヒル魔は黙ってムサシを見ている。
 おのれを見つめるまなざし。そのまなざしから目を外さずに。
 正直に。
「お前が、好きだ」
「…………」
 ガムの膨らみが止まった。
 ムサシは黙ってヒル魔を見つめた。
 ヒル魔も何も言わない。ただ黙っている。
 ムサシにとっては永劫にも感じられた時間。
 どれほど見つめあったか、ふとヒル魔が視線を逸らせた。くるりと後ろを向く。ガムのはじける音。低い笑い声が聞こえた。
「……そうかよ」
「ヒル魔」
「なあ、糞ジジイ」
「──?」
「そんならな」
 ムサシに背中を見せて。泥門デビルバッツ、地獄の司令塔。金髪悪魔のQBはそんな格好のまま、今でもムサシには忘れられない一言を呟いた。
「俺たちはな。──両想いってやつだ」
 その瞬間をいつまでもムサシは忘れないだろう。薄闇の公園。夏の薄い夜風。虫の音。その中でどんな熱い思いでその背を見つめたことか、いつまでも忘れることはないだろう。
「……そうか」
「まあな」
 どちらからともなくふたりは歩き出した。出口へ向かって肩を並べる。
 押し黙って歩きながらふとムサシはヒル魔の手を握った。再び高鳴る鼓動。
 ヒル魔は逆らわない。振り払うでもなく、握り返すでもなくムサシの手におのれの手をゆだねていた。
 公園の出口でふたりの手は自然に離れた。けれどその手のぬくもりは今もムサシの記憶に色濃く残る。慕わしい、懐かしいぬくもり。大げさかもしれないが、いままでを生きてきて良かった、そんな風に感じた時間だった。
 


 駆け足のように夏が終わり、2学期の始まりとともに高校アメフトの秋大会が始まった。もちろんチームの勝敗は気にかかる、だが──ムサシはどこかそれを他人事のように見ていた気がする。もうデビルバッツは自分たちのものではないのだ。頼もしい後輩たちがムサシらの跡を継いで立派に勝ち抜き続けている。自分も前を向かなければ。家業、そして新しい社会人チームの立ち上げ。しなければならないことは山積みだ。
 栗田やヒル魔とともに、もちろんムサシもデビルバッツの試合は欠かさず観戦し、応援した。帰り道はいつも3人一緒だった。日暮れが少しずつ早くなっていく季節。夕焼け空に光る金髪、楽しげに跳ねる巨漢。二つのシルエットを追いながらムサシも歩いた。二つの影を追いながら。あと何度、見られる光景だろうかと思いながら。どこか、涙のにじむような。けれどしんと落ち着いたような気持ちで歩いた。

 **********

「…………」
 ぽっかりと目が開いた。天井が見える。自分は目を覚ましたらしい、夢を見ていた。高校時代の、はるか昔の記憶をたどっていた。本能的に探した金髪頭はムサシの腕の中にいた。背をムサシに抱かれて、すうすうと穏やかな寝息をたてて。
 深い安堵がムサシの心にやってくる。あの手のぬくもり、あれからいつもムサシとともにあるぬくもり。今までも、これからも。ずっと、肩を並べて、あのぬくもりはいつまでもムサシとともにあるのだ。

 目の前の、恋人の肩。起こさぬように、その肩先にそっとムサシはくちづけを落とした。
 心からの、思いをこめて。



 
【END】
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