Wonderful World ──おれのまくら

 アメリカンフットボールはポジションごとの専門性が特に高いスポーツだ。一芸に秀でる、という語の通り、選手はおのれの”仕事”をそれぞれ完璧にこなすことを求められる。また、それが出来るチームがすなわち強いチームということだ。ただそんな中でも器用な人間というのはいるもので、ランニングバック兼キッカー、またラインバッカー兼ランニングバックなどという選手も存在する。そして、そんな選手をうらやむ者も。だがヒル魔はアメフト志望者やその他のアスリートたちにそんな器用さを要求するつもりはない。何か一つ、出来ること。それを努力して磨けばいいと考えている。次の春から勤める予定のジュニアスクールでも、そのように教えるつもりでいる。



 ──38度2分。
 体温計を投げ出してヒル魔は寝返りを打った。2日前からの発熱が下がらない。頭は重く顔も嫌な熱も持っていて、不快でたまらない。全身がだるくて寝返りすら億劫だ。
 は、とため息をつく。快復の遅い原因は分かっている、胃のむかつきがひどくてろくに食事を取れないせいだ。薬は嫌々飲んでいるが、ものを食べられないのは露骨に体力の回復を遅らせる。早く治さねえと勤めにも出られねえとは思うが、食べることを考えただけでえずきが来るのではどうしようもない。
 ウィザーズのオフェンスコーチ兼トレーナー。それがいまのヒル魔の肩書きだ。在学中から選手と兼任するような形となっていたが、卒業後本格的にヒル魔は指導者の道を歩み始めた。そして来春にはあるスポーツアカデミーの講師をも勤めることが決まっている。知り合いに頼まれて開校の準備を手伝ってみたら意外と面白い。何より、そこのスタッフに懐かれてしまい断りきれなかったせいでもある。それに開設前の一日体験教室にはたくさんの児童が訪れた。その児童たちからも、どういうわけかヒル魔は親しまれてしまった。朝の集合時間帯、最初は遠巻きに眺めていた子供たちが昼ごろからはやたらとヒル魔に話しかけ、ちょっかいを出してくる。名前を聞かれてヒル魔はにやりと笑ってみせて、俺ァ悪魔だ、と言った。児童たちはその返答がいたく気に入ったらしい。さっそく”あくまセンセー”などと呼び始め、カリキュラムをそっちのけにしてヒル魔のあとをくっついてくる。仕方ないからヒル魔も子供たちと一緒になって走り回り、あっという間に、しかも盛況のうちに体験教室は終わった。その後の慰労会で複数のスタッフからどうしてもと頼み込まれ、ヒル魔はあれよあれよという間にそのアカデミーでの仕事が決まってしまったのだ。それはそれで新しい経験ができるのでヒル魔に異存はない。だが子供相手の仕事など無論初めてだ。来春までに、学んでおくべきことは山ほどある。こんなとこで寝てる暇はねえんだけどな。そうは思うが、どうにも今回の風邪は性質たちが悪いようだ。俺に取り憑くなんざ、よっぽど根性座ってんな。自嘲気味に考える。
 開け放しのドアから台所の換気扇の回る音が聞こえてきた。ムサシが何か作っているらしい。あいつ、大丈夫かな。横たわったままヒル魔は思う。様子を見に行こうとも思うがとにかくだるくて動く気になれない。また、あの時みたいな飯じゃないといいんだが、と急に思い出した。
 同棲を始めてすぐの頃、やはりいまのような胃に来るタイプの風邪をひいたヒル魔に、ムサシは手作りの食事を運んでくれた。気遣いは嬉しいが、とヒル魔は膳の上のものを見てやや呆れたのだ。ふっくらと焼かれた、脂の乗った鯖の味ごはん。その時もヒル魔は食欲がなく、何か作ってやるが何がいいと訊かれて、考えるのも億劫だった。まかせる、と言ってしまったらムサシは到底病人の口には入りそうにないものを運んできたのだ。喉を通ったかどうかヒル魔は覚えていない。あとでそれとなく訊いてみたら精のつくものの方がいいと思った、というのがムサシの答えだった。こりゃ、何事もちゃんと言わないといけねえな。付き合いが長いからって甘えるわけにはいかねえ。そんな風に思ったことをヒル魔は覚えている。
 ──そうだ。
 ヒル魔は現実的なタイプの人間だ。過去に思いを馳せるということは滅多にない。だが熱にうかされた頭でふと思い出した。言いたいことをきちんと伝えず、伝えられずにぎくしゃくしていた過去のことを。

 **********

 学ラン姿の背中。記憶に色濃く残るムサシはヒル魔にそんな姿を見せている。

 昔から勝つことにしか興味はなかった。人はそのために利用する駒でしかなかった。ほとんど初めて出来た友人──無論、栗田である──とともにアメフトを始めた。ムサシを引き入れた時も、最初は利用できるとしか思っていなかった。けれど知れば知るほど、ヒル魔はムサシに惹きつけられ魅入られた。何よりヒル魔を恐れない率直なものの言い方。快活な笑顔。無骨だが重厚な、その人柄。栗田は大切な友人だ、そしてある意味ヒル魔の恩人でもある。でもその栗田とは違う付き合い方のできる友人に、次第にヒル魔は友人以上の想いを抱くようになった。毎日の時間を栗田と、そしてムサシと過ごすことが楽しくてたまらない。言葉遊びのような軽口の叩き合いすら胸がはずむ。ぐんと飛距離の伸びる強烈なキックに至っては、いつまででも見ていたい。
 そんな自分の心境を、何と呼ぶのかヒル魔はなかなか気づけなかった。自覚したのは練習帰りだったと記憶する。夕焼け空、いつもの河原道。考え事をしていてヒル魔はいつの間にか少し遅れていた。気づいたら栗田とムサシが自分の先を歩いていた。ゲームか何かの話題を楽しそうに2人は話していた。ガムを噛みながらその背中を見つめる。そうしながら、いつの間にかヒル魔は考えていた。こっち向け、と。──こっち向け、糞ジジイ、と。
 ──…………
 今もその時のことをヒル魔は鮮明に覚えている。急に胸がとどろいた。自分の思念に、そして想いに気付いた瞬間だった。口元でガムが弾けたことで、自分の足が止まっていることをようやく知った。栗田が振り返り、不思議そうに声をかけてきた。それでまた歩き出すことができたが、その後どうやって帰宅したのかはまるで覚えていない。
 その頃ヒル魔は家を出てホテル住まいをしていた。気付いたらホテルの部屋で明かりもつけずにうずくまっていた。どうしたら良いか分からない。突然自覚した、友人への思慕。出会ってからちょうど1年後の春だった。
 おのれの内の想いはそれからしばらくヒル魔を苦しめた。まだ中3だったのだ、無理もない。どのように振る舞えばいいのかなど全く分からなかったから、ヒル魔は努めて普段通りに接しようと努力した。が、そうすればするほど不自然になってしまう。何しろ、まともにムサシの顔を見ることが出来ないのだ。まして、しゃべろうとすればするほど意識してしまう。ヒル魔はムサシを避けがちになった。栗田がいてくれたことをこの時ほど感謝したことはない。毎日学校で顔を合わせ、ほぼ一緒に行動していたのだ。栗田がいなかったらとっくに3人の友情は壊れていただろう。

「何やってんだ糞デブ!」
 口から飛び出した言葉の荒さに自分でハッとした。しまった、とは思ってももう遅い。
 放課後の練習時間。栗田とスナップの練習をしていた時の出来事だった。
 一日中、ムサシのことが頭から離れない。自覚してしまった、親友への思慕。練習中ですら離れた場所でキックを繰り返しているムサシのことが気にかかる。
 そんな中、ヒル魔は栗田の手から放たれたボールを2度、取り落とした。2度目の失敗、その瞬間にヒル魔は自分で自分に腹を立てたのだ。だがその口から飛び出したのは大切な親友を──栗田をなじる言葉だった。おろおろと謝罪する栗田。どうした、とムサシが近づいてくる。その中からヒル魔は逃げ出した。帰る、という大人気ない言葉を残して。ムサシに呼び出されたのはその翌日のことだった。
「何だよ」
 何が言いたいのかなど分かりきったことだ。ぶっすりと立つヒル魔にムサシは言った。
「お前、最近おかしいぞ。どうした」
 いかにもムサシらしい、直截な台詞。ヒル魔は返答に詰まる。
「何が」
「しらばっくれるな。おかしいとこだらけだ最近のお前は」
「…………」
「俺が気に入らないならそう言え」
 ヒル魔は唇を噛む。違う、そうじゃない。だがやっと口にのぼせた言葉はヒル魔自身にも冷たくひびいた。
「テメーにゃ関係ねえことだ」
「ないことがあるか」
 ムサシは声を荒げた。
「ヒル魔。友達じゃないのか、俺たちは」
「……、……」
「何か困ってることがあるなら言ってくれ。俺はお前の力になる」
「…………」
「栗田にまであんな口を聞いて。──ヒル魔? おい待て!」
 ヒル魔は駆け出した。ムサシの口から栗田の名を聞いた途端、たまらなくなった。ムサシの声を背中に聞きながらその場を飛び出していた。俺のことより栗田の心配かよ。言えるわけない、そんなこと。間違ってることは百も承知だ、ああ、でも。

 苛立ち。寂しさ。どうしようもない、やるせなさ。そうしたものを飲み込んで送る生活をヒル魔は余儀なくされた。いま思っても、それはそれはつらかったものだ。だが栗田やムサシとは、やがて少しずつ元通りに付き合うことができるようになった。ヒル魔はおのれの手綱をおのれで取ったのだ。ムサシが好きだ。だが栗田やムサシと3人で、アメフトを続けること。デビルバッツを続けることはその何倍も大切だった。天秤にかけたわけではないが、まだ15歳のヒル魔にはそうした選択肢しかなかった。
 あん時はしんどかったけどな、といまのヒル魔は思う。ただ、若さとは便利なもので、つらさ苦しさを速やかに忘れる方向へおのれを向かわせることもできる。ヒル魔はそのようにおのれを律した。栗田と、ムサシという2人の”仲間”、彼らへの思い。ムサシへの思慕を封じ込めて、ヒル魔は3人で夢へ向かって生きる道を選んだ。何よりも2人への友情を、おのれの最優先事項と考えるよう最大限の努力を払って生きた。内なる切ない恋心を押し殺して。

 受験生となった春はあっという間に過ぎ去り、一学期の期末テストの終わった日。縁日に行こうよ、と栗田から電話がかかってきた。
 ──縁日? どこのだ
 ──○○町の。ムサシが手伝いに行くんだって、かなり大きいらしいよ
 ──へえ、そりゃ面白そうだな。冷やかしに行くか
 ──あはは、それはどうかと思うけど、行ってみようよ
 ──わかった
 縁日の屋台の手伝い。ムサシはそんなことをヒル魔には話さなかった。栗田とムサシ、2人の間で先に話ができていたことに、ヒル魔はわずかな胸の痛みを覚えた。そんな心を押し隠して、ヒル魔は努めて冷静に栗田と会話した。この春から──無論、ヒル魔のせいで──ぎくしゃくしていた栗田との関係。少しでも、詫びたい。そんな気持ちで、栗田からの誘いを素直に受けようと思った。
1/2ページ
スキ