冬の星座
「──なんでここにいる」
「…………」
「あっちは──どうした」
「…………」
相手は答えない。黙ってにやにやと笑う。
立ち止まっていた足を、ムサシは無理やり地面から引き剥がした。
ムサシの住まいは静かな住宅街にある。しんと寝静まったような街区の中を歩いて、二階建ての鉄筋アパートへ戻った。ドアの並ぶ共用通路へは建物をぐるりと回る必要がある。階段を上がってすぐ、通路の端がムサシの部屋だ。階段に足を乗せると人の気配がした。誰かいるのか、あまり交流のない隣人だろうかと思いながら上がる。
踊り場でムサシは部屋の方を見上げた。
するとそこに。
──そこにヒル魔がいた。
襟の毛皮に飾られた、懐かしい顔。壁にもたれた白いコートに白のボトム。腕組みをして、ほっそりした脚をちょいと組んだ姿。そんなことをムサシが理解したのはずっとあとになってからだ。ほとんど夢中でムサシは残りの階段を上がり切った。部屋の前で、ヒル魔と向き合う。言葉がうまく出てこない。
「──ヒル魔」
「…………」
「お前、ヒル魔か」
「たりめーだ」
ようやく耳にした、懐かしい声。
たちの悪い笑みのまま、ヒル魔は言葉を続けた。
「キッドの野郎がな」
「……?」
ムサシは耳を疑った。何を、こんな時にこいつは言い出すのだろう。うちのQBがどうかしたのか。
「あの野郎が、テメーのイブのスケジュール、メールで送ってきやがった。ご丁寧にタイムスケジュール作ってな」
「…………」
「日中は試合。こいつはまあうまくやるだろう。問題はだがそのあとだ。イブのイベントに飲み会、こう続いたらさすがにタフなテメーでもどうなるか」
「勝ちゃあいい、試合にな。これが全てだ、だが万が一勝たなかったら」
「テメーは意気消沈するだろう。そして万が一、そのあとのあれこれもうまくいかなかったとしたら」
「テメーはもっとがっくり来るだろう。疲れの溜まった、情けないツラですごすご帰り道だ」
「ま、そこまであいつが送ってよこしたわけじゃねえけどな。なんとなく、そうなるんじゃねえかと思ってな」
腕組みを解いて、今度はヒル魔は自分の腰に手を当てた。胸を張って、ムサシに自分の顔を突き出す。
「どうだよ? 糞ジジイ。なんとか言ってみやがれ」
「…………」
「なんだよ久しぶりにツラ見せてやったってのに、無言の行かテメーは」
ムサシは口を開いた、でも言葉が出てこない。そう言えば少し前、キッドが頼んでもいないのにべらべらとイブの予定を話し始めた。自然、ムサシも自分のことを話したのだがあれは誘導尋問だったのか。だがなぜキッドが。自分とヒル魔のことを──いやいまはそんなことはどうでもいい。とにかくヒル魔だ。ヒル魔。ヒル魔が目の前にいる。ヒル魔。ヒル魔──ヒル魔。
いろいろな思いが押し寄せてきて、言葉にならない。代わりにムサシは腕を伸ばしてヒル魔を抱きしめてしまった。
「…………」
「…………」
ヒル魔は抗わなかった。大きな腕に抱きこめられて一瞬は目を見張ったが、すぐにまぶたを閉じた。そのまま、ふたりはしばらく動かずにいた。
糞ジジイ、と静かに呼ばれてムサシは我に帰った。惜しい気持ちをこらえて腕を離す。
「ああ……、すまない」
ヒル魔は黙って静かに笑った。懐かしいその顔を、涙が出るような思いでムサシは見つめる。
「あっちは大丈夫なのか」
「ちゃんと休暇だ。クリスマス休暇ってやつだな」
「そうか」
「なあ、糞ジジイ」
「?」
「どうだったよ、サプライズだろ?」
「……ああ。そうだな」
「で? テメーは俺に何をくれるんだ」
ヒル魔は今度はにやりと笑う。
「…………」
ムサシは少し考えた。考えたが、どうも自分に気の利いたことはできそうにない。それに、何だか泣きたいようなおごそかな気持ちでいっぱいで、気の利いたことも言えそうにない。
何か言ったり、したりする代わりにムサシはヒル魔の手を取った。黙って、自分の胸に当てさせた。──左胸の、その上に。
「…………」
ヒル魔はちょっと息を飲んだようだった、だがすぐに笑った。
「……ケケ。気障な真似しやがって」
「ヒル魔」
「なんだ」
「…………」
「…………」
ムサシは答えなかったが、ヒル魔も聞き返さなかった。しんと見つめあい、静かにキスを交わす。
「……寒ィな」
「そうだな、部屋に入ろう」
「酒、持ってきたぞ」
「気が利くなお前」
「ケケ、どっかの誰かと違ってな」
「なあ、ヒル魔」
「なんだ」
(初めてだな。キスをしたのは)
喉まで出かかった言葉を飲み込んで、ムサシは鍵を取り出した。
何も言う事はない、告白などしたわけでもない。けれどヒル魔はここに来てくれた。それだけで十分だと思った。
じかに言いたいこと、話したいこと。たっぷりとある。でもそれを話す時間もたっぷりとあるのだ。胸の中に灯りがともり、その灯りが教えてくれている。ムサシにはそんな気がした。
胸にともる灯り。
あたたかい灯り。
それはいつまでも足元を照らしてくれるだろう。
迷うことも、悔いることももうないだろう。
そう思いながら、ムサシはヒル魔を部屋に招き入れた。
「…………」
「あっちは──どうした」
「…………」
相手は答えない。黙ってにやにやと笑う。
立ち止まっていた足を、ムサシは無理やり地面から引き剥がした。
ムサシの住まいは静かな住宅街にある。しんと寝静まったような街区の中を歩いて、二階建ての鉄筋アパートへ戻った。ドアの並ぶ共用通路へは建物をぐるりと回る必要がある。階段を上がってすぐ、通路の端がムサシの部屋だ。階段に足を乗せると人の気配がした。誰かいるのか、あまり交流のない隣人だろうかと思いながら上がる。
踊り場でムサシは部屋の方を見上げた。
するとそこに。
──そこにヒル魔がいた。
襟の毛皮に飾られた、懐かしい顔。壁にもたれた白いコートに白のボトム。腕組みをして、ほっそりした脚をちょいと組んだ姿。そんなことをムサシが理解したのはずっとあとになってからだ。ほとんど夢中でムサシは残りの階段を上がり切った。部屋の前で、ヒル魔と向き合う。言葉がうまく出てこない。
「──ヒル魔」
「…………」
「お前、ヒル魔か」
「たりめーだ」
ようやく耳にした、懐かしい声。
たちの悪い笑みのまま、ヒル魔は言葉を続けた。
「キッドの野郎がな」
「……?」
ムサシは耳を疑った。何を、こんな時にこいつは言い出すのだろう。うちのQBがどうかしたのか。
「あの野郎が、テメーのイブのスケジュール、メールで送ってきやがった。ご丁寧にタイムスケジュール作ってな」
「…………」
「日中は試合。こいつはまあうまくやるだろう。問題はだがそのあとだ。イブのイベントに飲み会、こう続いたらさすがにタフなテメーでもどうなるか」
「勝ちゃあいい、試合にな。これが全てだ、だが万が一勝たなかったら」
「テメーは意気消沈するだろう。そして万が一、そのあとのあれこれもうまくいかなかったとしたら」
「テメーはもっとがっくり来るだろう。疲れの溜まった、情けないツラですごすご帰り道だ」
「ま、そこまであいつが送ってよこしたわけじゃねえけどな。なんとなく、そうなるんじゃねえかと思ってな」
腕組みを解いて、今度はヒル魔は自分の腰に手を当てた。胸を張って、ムサシに自分の顔を突き出す。
「どうだよ? 糞ジジイ。なんとか言ってみやがれ」
「…………」
「なんだよ久しぶりにツラ見せてやったってのに、無言の行かテメーは」
ムサシは口を開いた、でも言葉が出てこない。そう言えば少し前、キッドが頼んでもいないのにべらべらとイブの予定を話し始めた。自然、ムサシも自分のことを話したのだがあれは誘導尋問だったのか。だがなぜキッドが。自分とヒル魔のことを──いやいまはそんなことはどうでもいい。とにかくヒル魔だ。ヒル魔。ヒル魔が目の前にいる。ヒル魔。ヒル魔──ヒル魔。
いろいろな思いが押し寄せてきて、言葉にならない。代わりにムサシは腕を伸ばしてヒル魔を抱きしめてしまった。
「…………」
「…………」
ヒル魔は抗わなかった。大きな腕に抱きこめられて一瞬は目を見張ったが、すぐにまぶたを閉じた。そのまま、ふたりはしばらく動かずにいた。
糞ジジイ、と静かに呼ばれてムサシは我に帰った。惜しい気持ちをこらえて腕を離す。
「ああ……、すまない」
ヒル魔は黙って静かに笑った。懐かしいその顔を、涙が出るような思いでムサシは見つめる。
「あっちは大丈夫なのか」
「ちゃんと休暇だ。クリスマス休暇ってやつだな」
「そうか」
「なあ、糞ジジイ」
「?」
「どうだったよ、サプライズだろ?」
「……ああ。そうだな」
「で? テメーは俺に何をくれるんだ」
ヒル魔は今度はにやりと笑う。
「…………」
ムサシは少し考えた。考えたが、どうも自分に気の利いたことはできそうにない。それに、何だか泣きたいようなおごそかな気持ちでいっぱいで、気の利いたことも言えそうにない。
何か言ったり、したりする代わりにムサシはヒル魔の手を取った。黙って、自分の胸に当てさせた。──左胸の、その上に。
「…………」
ヒル魔はちょっと息を飲んだようだった、だがすぐに笑った。
「……ケケ。気障な真似しやがって」
「ヒル魔」
「なんだ」
「…………」
「…………」
ムサシは答えなかったが、ヒル魔も聞き返さなかった。しんと見つめあい、静かにキスを交わす。
「……寒ィな」
「そうだな、部屋に入ろう」
「酒、持ってきたぞ」
「気が利くなお前」
「ケケ、どっかの誰かと違ってな」
「なあ、ヒル魔」
「なんだ」
(初めてだな。キスをしたのは)
喉まで出かかった言葉を飲み込んで、ムサシは鍵を取り出した。
何も言う事はない、告白などしたわけでもない。けれどヒル魔はここに来てくれた。それだけで十分だと思った。
じかに言いたいこと、話したいこと。たっぷりとある。でもそれを話す時間もたっぷりとあるのだ。胸の中に灯りがともり、その灯りが教えてくれている。ムサシにはそんな気がした。
胸にともる灯り。
あたたかい灯り。
それはいつまでも足元を照らしてくれるだろう。
迷うことも、悔いることももうないだろう。
そう思いながら、ムサシはヒル魔を部屋に招き入れた。
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