冬の星座

 ランニングを終えて鉄馬が帰宅すると、居間のパソコンに向かってキッドが妙な顔をしていた。
「どうした。キッド」
「ああ、お帰り。鉄馬」
 鉄馬に顔を向けてキッドは笑う。屈託のない笑顔だ。
「妙な顔をしていたな」
「え、そうかい? どんな顔」
「……うまく言えない。意味のありそうな顔だ」
「あはは、意味のありそうな、ね。うん、まあね」
「どうかしたのか」
「どうもしないよ、大丈夫」
 キッドは鉄馬を安心させるように言ってから、ううーんと伸びをした。
「ちょっとね、武蔵氏にクリスマスプレゼントをさ」
「武蔵に?」
「うん。俺たち、夏に引越した時にさ、武蔵氏に軽トラ借りたでしょ」
「…………」
「もちろんあのあと、お礼はしたけどね。お酒とお菓子。鉄馬も覚えてるよね」
「覚えている」
「ただね」
 キッドはなぜか、にんまりと笑った。
「ちょっと、いいこと思いついて」
「いいこと?」
「うん。いいこと」
「…………」
「俺、勘はいい方だしなあ。多分、外れてはいないと思うんだけど」
「…………」
「いや待てよ、でも……。いやでも当たらずとも遠からず、的な……」
 鉄馬が黙っている間に、キッドの言葉はぶつぶつと独り言のようになってきた。鉄馬にはわけが分からない。
「キッド」
「うん? なんだい、鉄馬」
「何を言っているのか俺には分からない」
 鉄馬を見て、またキッドは笑った。にんまりと。何だか鉄馬は少し心配になってきた。
「キッド。大丈夫か」
「え? 大丈夫って、何が。俺は大丈夫だよ」
「…………」
「まあ大丈夫じゃないとしたら、それは俺じゃなく、彼らじゃないかな。でも多分、大丈夫だと思うけど」
「…………」
「まあいいや。お腹すいたからご飯にしようよ、鉄馬」
「あ、ああ」
 鉄馬の心配をよそに、澄ました顔でキッドは台所に立った。今日の朝食はキッドの当番だ。鉄馬とて、朝一番の走り込みで腹が鳴っている。慌てて鉄馬はキッドのあとを追った。火の気でほどよく暖まった台所。キッドは何を作ってくれたのだろう。鉄馬の思念はたちまちそちらに向かったのだった。

 **********

 その日、ムサシはとことんついていなかった。

 バベルズがリーグ戦を勝ち越しの成績で終えることができるようになったのは、ここ数年のことだ。それでもリーグトップの常勝チームにはまだ遠く及ばなかったのだが。関東リーグ内での順位が確定したのちの、残りの試合をこの日、ムサシたちは戦った。
 いくら消化試合だとて、次のシーズンに繋げるための大事な戦いだ。メンバーの士気が低下していたわけではない、だがバベルズは苦戦した。攻撃型、守備が脆い。そういう弱点が露呈した試合だった。
 強力なディフェンスバックの不在。長年の弱点を、相手チームは巧妙に突いてきた。しかも敵のQBはブロッカーの利用の仕方に長けており、ランニングバックもそのため躊躇なくスクリメージラインに突っ込んで来る。バベルズの前衛などまるで恐れずにだ。テクニカルで強気な攻撃に、らしくもなくバベルズはたじたじとなった。キッドですら苦笑まじりに、やるねえ、最後まで苦労させられるなあ、とこぼしたほどだ。それでもこちらもパスプレーを中心に攻め続けて、試合は点の取り合いの様相を呈した。終盤近くには相手にも、無論バベルズにも焦りの色が濃くなる。スコアが拮抗し、ゴール前わずか5ヤード。バベルズはファーストダウンを更新した、はずだった。ところがどういうわけかチェーンクルーが選手のプレー中に移動してしまい、結果として前進の可否はレフェリーのビデオ判定にゆだねられた。更新は認められ、無事に勝ち越すことができたとは言え、チームエリアで見ていたムサシはやきもきさせられたのだ。
 今季最後の試合を、それでもムサシたちは白星で終えることができなかった。勝ち越したと思ったのも束の間、些細なミスから──これは特にキッカー兼パンターを務めるムサシにとって屈辱的なことだったが──キックオフ直後のリターンタッチダウンを許してしまったからだ。バベルズはこの失点で崩れた。さらに追加点を取られたところでゲームセットの笛を聞いた。
 主将という立場から、がっくりなどしてはいられない。ムサシは落ち着いて、感情的にならぬよう努めながらハドルとミーティングを終えた。ほっと休む間もなく、次は武蔵工務店の跡取り息子に顔を変えなければならない。クリスマスイブのこの日、地元の商店街では子供会のイベントがある。そしてその後は、慰労会という名の酒盛り。慌ただしいことだな、と思いながら着替えて車に乗り込んだ。
 子供会は毎年の恒例で、商店街の子供たちにとっては大きな楽しみの一つになっている。催す側としてもすでにある程度のマニュアルができているから、何事もなく済ませるのは比較的容易なことと思われた。だが、そうではなかった。いつもムサシの前では聞き分けの良い、気心の知れた子供たち。それがどういうわけか、この日に限っては妙に言うことを聞かない。お祭り気分に沸き立って、昂っていたせいだろうか。きゃあきゃあと賑やかなだけならいつものことだが、ムサシやその他、普段仲の良い地元の青年たちの制止も聞かずに会場を走り回る。着席させるだけでも、汗をかいてしまった。その後も進行係に茶々を入れる、果ては寸劇の邪魔をするなど、もう最後にはムサシは拳骨を入れたくなったほどだ。それでも胸をさすってこらえて、プレゼントを渡して解散させた。何だか疲れた気分で後片付けを済ませたが、これで終わりかというとそう言うわけでもなく次は飲み会があるのだった。
 武蔵工務店は、地元の商店街の中でも中心的な役割を果たす古株だ。そこの跡取りとして、ムサシはいわば街の"顔役"でもある。まだ若いから、人々はムサシをたけちゃん、厳ちゃんなどと呼び親しんでくれる。そんな中でもそれなりの敬意を払ってくれているのはもちろんのことだ。だがそこに、ある意味ムサシの油断があったのかもしれない。
 遅れて宴席に顔を出すと、出席者は男ばかりだった。その飲み会で、ムサシはとことん絡まれ、いじられた。いい加減にしろとたしなめてくれる者もいたが、大半はまるでムサシを肴に楽しもうとしているようだった。いつまで独りでいる気だ、いい縁はないのか。その歳まで独りだなんて、情けない。自分たちはいい、大した家柄ではないのだから。だがお前は"武蔵工務店"の跡取りだ。さっさと身を固めて、従業員にも親にも次の世代の顔を見せるべきだろう。
 他人に意見する前におのれを振り返ったらどうだ。心の中でそう呟きながら、ムサシはしつこく管を巻く酔漢たちをあしらった。だが昼間の疲れ、子供会での気苦労。いろいろあって、数時間後に幹事が散会を告げた時にはさすがにほっとしたのだった。

 二次会の誘いを無論、だが丁寧に断って、徒歩で帰路についた。実家からほど近い場所にアパートを借りて、ムサシはいまそこで一人暮らしを営んでいる。タクシーで帰るという仲間から同乗の誘いも受けたが、それも断った。厳ちゃん、歩く気かい。だいぶかかるよ、という気遣わしげな声。大丈夫だ、と笑って合図し、背中を向けた。やっと一人になれる。
 白い息を吐きながら、アパートまでの経路を考える。徒歩だと半時間、いやもう少しかかるだろう。それくらいなら別に構わない。少し、一人でゆっくりしたいな、と考えた。
 賑やかな繁華街を抜けて、住宅地へ。そこから国道に抜ければ、広い歩道が開ける。国道を南に下りて、自分の住む街までひと歩き。考えて、ムサシは歩を運んだ。分厚いジャンパーを着込んでマフラーを巻いていても今夜は冷える。だがムサシは昔からどうしてか、暑さや寒さが堪えるということはない。とりわけ、冷え込む冬の空気は身が引き締まるようで気に入っているのだ。は、と息をすると白い空気。冷たい空気を吸い込み、白い息を吐きながら淡々とムサシは歩んだ。周囲の喧騒はもうあまり気にならない。やっと、静かな時間になったのだから。
 結婚か、と考えた。飲み会でさんざん言われた。独り身はさびしいねえ、とも。そうしながらムサシの頭に浮かんでいたのは見慣れた金髪頭だった。

 将来の約束。そんなものをヒル魔としたことなどない。第一、男どうしだし、それにヒル魔は大学卒業と同時にあっさり海を渡ってしまった。もう、それから4年が過ぎている。ムサシもだが、ヒル魔もろくに連絡などしてこない。あいつ、どうしているだろう。珍しくムサシは考えた。

 いつも隣にいた金髪悪魔。その悪魔を、ムサシが初めて意識したのは高校を卒業する少し前だった。こんなやつだったか、と妙にしげしげと眺めてしまう。そのくせ、見つめていることに気づかれると照れ臭い。ヒル魔はそんなムサシに軽く笑ってみせて、何事もないようにふるまっていた。
 ただ、それからムサシとヒル魔は時折、ふたりで会うようになった。あっという間に泥門を卒業し、別々の暮らしへ。別々の生活へ。その中で、本当にごく時折ではあるが、栗田を抜きにしてふたりだけの時間を持つ。会っても別に大したことをするわけではない。お互いの生活のことを報告しあい、話し込む。ゲーセンで延々と格闘ゲームをやり散らかしたこともある。成人してからは、少し静かに酌み交わすことも覚えた。そのような時間を、ムサシはとても楽しんでいた。とても貴重な時間だ、とも感じていた。そしてヒル魔も、同じように感じてくれている。ムサシはいつしかそう考えることに馴れていた。
 だからこそ、渡米の意思をヒル魔に聞かされた時、胸を衝かれるような感覚を味わった。心地よい時間が、なぜだかずっと続くと思っていた。それは間違いだったと気付かされたのだ。それでも表向きは平静を装って、いいんじゃないか、行ってこいなどと言ってしまった。そんなムサシに、ヒル魔は何も言わなかった。少し黙ったあと、テメーはそう言うだろうと思ってた、と笑った。
 いまのムサシは、あの時のおのれを後悔している。何か、もっと大切なことを自分は言うべきではなかったか。離れていてもいくらでも通信手段などはある。だが、じかに自分の口でヒル魔に伝えなければならなかったこと。それを結局伝えられないまま現在まで来てしまった。どうしたら良いのか。答えが見つからないもどかしさは、ムサシの内にずっとくすぶったままだったのである。
 さびしいな、とムサシは初めて思った。ヒル魔が目の前から姿を消して、もう4年。初めて、そう感じた。

 ……迎えにでも行くか。

 ふと湧いた思いに自分で驚いて、足が止まった。広い歩道、周りに人気ひとけはない。傍の車道は交通量の多い国道だが、その騒音はひどくいまのムサシから遠い。
 迎えに行く。誰をだ、ヒル魔をか。そんなことをしたら……、いや、でも。
 少し気を落ち着けなければならない。ムサシは空を見上げた。明るい照明の、その向こうの夜空。くっきりと見えるのは誰もが知っている冬の星座だ。
 子供のころ読んだ本に、オライオンという青年が出てきた。読んだころはずいぶん大人のように感じたが、もしかしたらもう自分の方が歳上になっているかもしれない。語呂がいいのでなんとなく覚えていた名前だが、それから数年してやっと気がついた。あれはオリオンのことだったか、と。それならムサシも知っている。神話の中の若い狩人で、星座の由来になった。いまムサシが見ているその星座。真ん中に並ぶ三つの星が、まるで栗田とヒル魔、そして自分のようだと思ったこともある。
 ムサシはまた歩き始めた。どんなに星が明るくてもいまのムサシは一人なのだ。ヒル魔のいない夜は暗く、しんしんと冷える。早く帰ろう。帰って、ゆっくり風呂に入って温まって。ずいぶん飲まされたはずだが、自分はちっとも酔っていないようだ。少し飲んで、それから休もう。ジャンパーのポケットに手を突っ込んで、ムサシは足を速めた。
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