フルーツサラダ ──大工と悪魔の口喧嘩

 いつだってどこだって、恋人どうしのキスは甘いものと決まっている。
 まして、それが仲直りのキスならば。



 どんな些細なことでも、気になることがあるなら話しあうべきだし、他愛ない会話をするのだって実はとても大事なことだ。少なくとも、ムサシはそう思っている。長く一緒に暮らすうち、ヒル魔もそうしたムサシの考えに同調してくれた。だから結婚する前も後も、ムサシとヒル魔はたびたびムサシの実家を訪れ、両親と話をした。無論、ヒル魔の父に対してもだ。後者に関して、ヒル魔は最初のうち相当渋ったが、ムサシが時間をかけて説得したのだ。人生のパートナーとして、ふたりで生きていくのなら、おろそかになど出来ないきずなだ、と。
 ムサシとヒル魔は長年の同棲を経て、同性婚を決意した。さまざまな障害を乗り越えてそれを実現させたのが、この春先のことだ。肯んじてくれた自分の両親にも、ヒル魔の父にもムサシは感謝した。三人を、自分たちは大切にしなければ。ふたりでムサシの実家を訪れることは、昔から日常の一部であったが、ヒル魔の父と食事をしたりするのもやがて同様のこととなった。テーブルを囲んで和やかに、穏やかに。または快活に、互いの肉親と談笑する。結婚してあらためて、ふたりはそうした時間の貴重さを実感した。
 ただ、そのような平穏な暮らしの中で思いがけない出来事も、あることはあるのだった。

 同棲を始めてムサシとヒル魔の間で交わされた決めごとは多々あるが、たとえば家での食事は交代で作ることなどがそれである。最初は外食が中心だったり、ムサシの実家で食べさせてもらうのが日常的になったりという時期もあった。が、年を経るごとに次第にムサシとヒル魔はそれぞれ、または協力して、料理するということを覚えた。何より、ふたりの家で──当初はヒル魔が一人住まいをしていたマンションで──水入らず、食事することの楽しさを知ったからだ。肉親に認められて式を挙げて、いわば公認のパートナーとなったあとは、誰にも邪魔されないふたりきりの時間は一層大切なものとなった。
 それがどういうわけか、今のふたりは険悪な雰囲気だ。そろそろ夕飯時、今日の食事当番はムサシである。台所に入って支度に取りかかる必要があるはずだ。なのに、ふたりは睨みあっている。ムサシは居間を入ったドア近くに突っ立って、ヒル魔はテーブルに向かってあぐらをかいた格好で。
 
「あんなとこに落としたまま放っとくな」
「だから言っただろ、忘れたんだよ」

 幾度か繰り返したせりふを、またムサシとヒル魔は口にした。ふたりとも、随分と尖った声である。

 そもそもはヒル魔が洗面所で虫刺され薬を使ったことが発端だ。腕に塗り終わってチューブのキャップを閉めようとしたら、手が滑って薬本体を床に落としてしまった。無論、拾うために目を向けたのだが、その時ヒル魔の部屋から携帯電話の着信音が聞こえた。非常用に設定してある音楽だ。職場で何かあったのか、とヒル魔は少々慌てて自室に向かった。薬を床に取り落としたまま。

 大学卒業と同時に、ヒル魔はアメフト選手としての第一線を退いた。その後さまざまな職業を経て、いま勤めているのはアスリート養成のためのジュニアスクールだ。フィジカルトレーナー、というのがヒル魔の肩書となっている。カタカナで表記すると小難しいようだが、要するに子供たちの運動能力を高めるコーチと言うことだ。ある時は子供たちに檄を飛ばし、またある時は一緒になって夢中で走り回る。“ひるまセンセー”もしくは“あくまセンセー”と呼ばれながらそうして活動することが、現在は面白くて仕方ないような日々だ。
 休日の夕方、その職場からの緊急着信。スマホに出ると、すぐに思い詰めたような声がした。後輩の、メンタルトレーナーの声。ヒル魔は、故意に落ち着いた声音を出した。何かあったのか、と尋ねる。とにかく、状況を把握しなければ。
 スマホの向こうから聞こえる声は、保護者からのクレームが来たことを告げた。ヒル魔に対して、ではない。電話をかけてきた当人にである。こんな職場ではありがちなことだが──自分の指導方針に異を唱えて来た。明日の夜、詳しくやりとりしなければならない、と言う。
 話を聞いてやり、気を落ち着かせ、適切と思われる言葉を選びながらヒル魔は話した。ようやく通話を終えて切った時には半時間以上を費やしていた。内容が内容だけに、さすがにヒル魔もほっと一息ついた。そのせいかどうか、いつの間にか床に落とした薬のことは綺麗に頭から消えていたのだった。そのまま──通話しながら自室を出て、居間のPCに向かった体勢のまま──ヒル魔はくだんの児童とその親についての情報収集を始めてしまった。
 床に打ち捨てられた、虫刺され薬。蓋の開いたチューブ状の。そこに、折悪くとも言うべきか、考え事をしながらのムサシが来たのだった。
 ムサシはどちらかと言えば慎重だし、注意深いほうだ。ところがこの時はバベルズのちょっとした内紛について考えを巡らせており、しかも洗濯乾燥機の陰になって床の上の薬が視界に入らなかった。ぎょっと足元を見た時には、すでに思い切りチューブを踏みつけてしまった後だった。
 人の体の重みに潰されたチューブ。中身の薬剤は床に噴出し、メントール系の独特の匂いがたちまち広がる。一瞬、混乱したのち、ムサシは足音も荒く居間に向かった。そして、ヒル魔を咎めたというわけだ。ヒル魔もヒル魔ですぐに謝ればいいものを、PCを前にすっかり考えに沈んでいたのを邪魔されて、かっとなってしまった。
 ある意味、いい歳をして子供っぽい言い争い。さっきからムサシとヒル魔は押し問答を続けている。

「なんですぐに拾わないんだ」
「電話来たんだから仕方ねえだろ。テメーだって前方不注意じゃねえか」
 ムサシは苦々しくため息をついた。何が何でも素直に謝るという選択肢はないらしい、自分の恋人には。拗ねたまなざしで自分を見つめる恋人。何だか嫌になってきてしまって、あのなあ、とまたムサシは口を開いた。
「そういう態度ならもういい。その代わり、俺にも考えがあるぞ」
「何だよ」
「晩飯だ」
「は?」
「今日の晩飯、冷や汁にする」
「はァ?」
「決めた。冷や汁にする。もう決めたからな」
「はァァァ!?」
 何だか、遠い昔にどこかで聞いたような声をヒル魔はあげた。冗談ではない。冷や汁。ヒル魔の嫌いなものだ。ムサシだって知っている。冷や汁、それはほぼ唯一、ヒル魔の苦手な料理なのだ。
 ヒル魔は食にはこだわらない。ただ、温かい物は温かく、冷たいものは冷たくして食べたいとは思う。そのヒル魔にとって──これは単にヒル魔の了見が狭いだけだが──冷や汁とは、けしからん食べ物としか思えない。大体、味噌汁が冷たいとは何事だ。具材だって、鯵なんか味噌汁に入れて旨いわけがない。せっかくの味噌と出汁の風味が魚の匂いで台無しになってしまうではないか。すりゴマと豆腐は認めてやってもいい。だがきゅうりに至っては、味噌汁の中に青臭いお前が入ってくるなと言いたいくらいの気持ちなのだ。
 ムサシは口をへの字に曲げてヒル魔を見ている。機嫌の悪い時のムサシの癖だ。冗談じゃねえ、とヒル魔は思った。
「俺ァそんなもん食わねえぞ。それにな、テメーがそんな姑息な真似しやがるなら俺にだって考えがある」
「どういうことだ」
「明日の晩飯、セロリ入れてやる」
「…………」
 今度は明らかにムサシが詰まった。ヒル魔は言葉を重ねる。
「セロリと牛肉炒めて、セロリとタコでマリネして、小鉢はセロリの浅漬けだ。ケケケ、旨そうだろ?」
「……卑怯だぞ」
「何が卑怯だよ、言い出したのはテメーだろ」
「もういい。明日は外で食べてくる」
「俺だって今日の晩飯なんか要らねえ、バーカ」
「…………」
「…………」
 しばし睨みあった後、ムサシは完全にヘソを曲げたようだ。ぷいと顔をそむけて、居間を出て行ってしまった。バタン、荒っぽくムサシの部屋のドアが閉まる。

 糞・糞・糞ジジイ。バーカ。何だかムカムカしながらヒル魔も再びPCに向き直った。くだらねえことでアホ大工と争ってる場合じゃねえ。職場のデータを呼び出して引き続きクレーム対策、児童へのフォローをどうするか、それから情報の共有とその範囲の決定。考えて、決めなければならないことは山ほどあるのだ。本来、こんなのは俺の仕事じゃあねえが、とは思う。思うが現在のヒル魔は、現役時代と同様のリーダーシップを職場でも発揮してしまっているのだ。頼られてもいる。もちろんその背景に、たゆまぬ努力やひたむきさと言ったヒル魔の長所があるのだが。
「…………」
 は、とヒル魔はため息をついた。山ほど仕事はある。あるが、やっぱり自室に引っ込んだ恋人のことも気にかかる。腹は立っているのだが、どうにも気になって目の前のPCに集中することができない。第一、と肝心なことを思い出した。掃除をしなければならない。ムサシが踏みつけた薬。床を拭かなければ。そうだ、床を掃除しに行くだけだ。断じて糞ジジイの様子を見に行くわけではない。そう自分に言い聞かせて、テーブルの隅からボックスティッシュを取った。
 そうっと、無意識に気配を消してヒル魔は居間のドアを開けた。廊下に出て、洗面所に入ろうとした。──すると。
 廊下にはムサシがいた。ヒル魔と同じようにティッシュを手にして、まさに洗面所に向かおうとしていたようだ。ぎくりとムサシがヒル魔を見る。とっさに、ヒル魔は何と言うべきか分からなくなってしまった。そして、それはムサシも同じようだった。
「…………」
「…………」
 気まずい沈黙。大の男が口喧嘩して、そのあと廊下で鉢合わせして。
「あー……」
 ムサシが居心地悪そうに口を開いた。
「なんだ、掃除するのか」
「……テメーこそ」
「まあ、汚したのは俺だからな」
「落としたのは俺だぞ。俺がやる」
「いや、俺が」
「いいからテメーはすっこんでろ」
「じゃあ、ヒル魔。提案だ」
「?」
 部屋でふと頭に浮かんだことを、思い切ってムサシは口にした。
「ふたりでやらねえか」
「…………」
 何となくうつむく、ムサシの恋人。少しの沈黙ののち、ふたりは一緒に目の前の洗面所に入った。
 黙ってうずくまり、ふたりで床を拭く。すぐに終わったのでヒル魔は薬のキャップを閉めようと立ち上がった。ムサシも同じように立ち上がった。鏡の前に、並んで立つような形になったが、何だかヒル魔はムサシの顔を見ることが出来ない。先ほどからムサシのほうは、何か言いたげに視線を寄越しているのだが。

 ……仕方ないな。
 ムサシは思った。何が仕方ないかと言えば何もかもだ。うつむき加減の、いかにもばつの悪そうな恋人の様子。見ていたらやっぱり可愛くて、それまでの苛立ちも腹立ちも、どうでも良くなってしまった。
 ヒル魔の肩を抱いて、鏡を見る。鏡の中のヒル魔も、やっと顔をあげてムサシと視線を合わせた。鏡の中で。
 少し真面目な話をするつもりだったが、何だかムサシはふっと笑ってしまった。ヒル魔もつられて、頬をゆるめた。
「な、ヒル魔」
「…………」
「ふたりでやったから、早く終わったな」
「……そうだな」
「良かったな」
「……うん」
 恋人が身を寄せてきて、ムサシは体の向きを変えた。ごく自然に、お互いを軽く抱きあう。
「ムサシ」
「うん?」
「ごめん」
「俺こそだ。ヒル魔」
 ごく自然に、軽いキス。何となく照れ臭いのはふたりとも同じだ。
「さ、じゃあ飯、作るからな」
「何にするんだ」
「肉野菜炒め」
「またか。テメーそればっかだな」
「いいじゃないか」
「こないだキッドに聞いたぞ、鉄馬なんかアレでオムレツとか作るらしいぞ」
「じゃあうちもオムレツにするか」
「そういうことじゃねえ」
 またヒル魔が口を尖らせた。ムサシは笑う。
「もうやめよう。な、ヒル魔」
「…………」
 ムサシに言われて、ヒル魔は今度は素直に黙った。またキスをする。
「仕事、しないといけないんだろ」
「うん」
「じゃあやってこい。頑張れよ」
「分かった」
 洗面所から台所へは続いている。そこへムサシは残り、ヒル魔はそこから居間へ戻った。
「ヒル魔」
 再びあぐらをかいたヒル魔に、台所から恋人の声が聞こえた。
「? 何だ」
「愛してるぞ」
「……バーカ」
 ぽっと熱くなってしまった頬を感じながら、ヒル魔はPCに顔を向けた。

 週末の夜、恋人たちの夜。
 
 ごゆるりと。


 
【END】

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