Sweet dance 〜ムサヒルで【キスの日】〜

 ムサシは時々、風呂場で鼻歌を歌っていることがある。ヒル魔がそれに気づいたのは同棲を始めてまもなくだ。別に盗み聞きをしたわけではなく、ムサシの入浴中に台所にいたら聞こえてきたのだった。糞ジジイ、なんかいいことでもあったのか、と思ったが、特にそういうことと関係があるわけではなく、入浴中の鼻歌は単純にムサシの癖であるらしい。リズミカルなJ-POPや気怠いバラード、景気の良いマーチや静かなラブソング。メロディは日によっていろいろだったが、聴くということもなく聴いているうちにムサシの鼻歌はヒル魔の楽しみになってきた。聞こえてるぞ、などと言えばどういう結果になるかは分かっているから、そんなことは決して言わない。言わずに、時々ヒル魔はムサシのハミングや歌声をこっそり楽しむ習慣がついた。
 そもそも、ヒル魔はムサシの声が好きなのだ。日常会話、あるいは恋人どうしの閨での会話。試合中の緊迫感に満ちた声。現場での張りのある声音。どれを取ってもうっかりすると聞き惚れてしまうほど、自分の恋人は良い声をしていると思う。そのムサシの、まさか聴かれているなどと思いもしないだろう無意識の楽しげな歌声は、なかなかヒル魔の胸を甘く、切なく弾ませるものがあった。
 ムサシは日中、地元のスポーツイベントで子供たちにフラッグフットボールの指導をしてきた。首尾は上々だったらしく、機嫌よく帰宅してヒル魔と機嫌よく夕食を取り、よく笑いよく喋った。うまくいったみてえだな、良かった、と留守役のヒル魔は思ったし、恋人の快活な顔を見ながら一緒の食事を楽しんだ。
 後片付けはヒル魔から申し出た。台所は俺がやるから、汗を流してこい、と。一日外で活動してきた恋人をいたわる気持ちがあったのはもちろんだが、ヒル魔にとっての「楽しみ」を期待していたことも否めない。そんなこととは露知らず、ムサシは素直に礼を言って洗面所兼脱衣所に入った。食器を洗いはじめたヒル魔の耳に、ムサシの使うシャワーの音が聞こえてくる。茶碗に箸に皿、水気を切ってふきんで拭いていると、やがて風呂場が静かになった。そろそろだな、とヒル魔は思った。
 台所に隣接する洗面所の入り口に近づいて、そっと様子をうかがう。ムサシは湯に浸かったようだ。ちゃぷ、ちゃぷとゆったりした水音が静かにひびく。腕組みをして壁に寄りかかってヒル魔は待った。
 低いハミングの声。やがて聞こえたその声の、メロディを知ろうとヒル魔は耳をそばだてた。今日のムサシの様子から推し量って、さぞ弾むような楽しげな曲かと考えていたが、違ったようだ。恋人が口ずさんでいたのは、古いアメリカのラブソングだった。ダンスをテーマにしたヒット曲で、日本でも何人もの歌手がカヴァーしている。決して重い調子ではないが、底抜けに明るいというわけでもない。いくぶん浮気性な恋人を、健気に待つ女性の心情と愛情を歌ったものだ。原曲のテンポよりもゆっくりと、口ずさむことそのものをしみじみとムサシは楽しんでいるようだ。
 ──ラストダンス、か。
 ヒル魔は聴きながら考えた。
 ──俺なら到底、待ってなんかやらねえけどな。
 ──でも、立場が逆ならどうだろう。俺があいつを待たせる立場だったとしたら。
 ──あいつはどこまでもまっすぐに、俺を待っててくれるのかもしれない。もっとも、俺だってあいつ以外に目をくれるなんてことは考えられねえけどな。
 胸の中に温かな小さな笑いが湧いてくるような気がして、ヒル魔は少し照れた。恋人の歌声をこっそりと、あまり長いこと聴いているのも具合が悪い。ムサシも間もなく出てくるだろう。ヒル魔はその場を離れた。

 **********

 あがったぞ、という声とともにムサシが居間に姿を見せた。首にタオルをかけて、スウェットの上下を身につけてくつろいだ様子だ。ソファにいたヒル魔はPCを脇に置いて立ち上がり、ムサシに近づいた。黒いスウェットに抱きついて、背中に手を回す。
「? どうした」
 少し驚いたような恋人の声を聞きながら、その体の温かさを味わう。ほかほかと心地よいぬくもり。
 ムサシがヒル魔の顔を見ようとしたので、ヒル魔は従った。正面から顔を見合わせる。目の前に、愛しい男のあたたかなまなざし。ヒル魔はまた少し照れた。
「なんでもねえ。風呂入ってくる」
 身を離そうとしたらムサシの手が額に触れた。前髪をかきあげる。目を閉じると額に恋人の唇。

「早く入ってこい。部屋で待ってる」
「……ん」

 うつむきがちに、ヒル魔は居間を出ていった。ムサシはそんなヒル魔を見送り、ふと微笑む。

 ほかほかと、心地よいぬくもり。
 大切に胸に抱えて、恋人たちの夜は更けていく。



 
【END】
1/1ページ
    スキ