SOMEDAY
その後の数日をどうやって過ごしたのか、よく覚えていない。大学には通ったし朝から講義にも出席した、部の練習にも参加したようだ。誰からもなにも言われないところを見るとそうなのだろう。実感はまるでなく、機械的にいつもの習慣をこなして夜は眠り、朝は起きてまた通学した。
だが5日めに、ヒル魔は急にマンションに戻らなければならないことになった。結論はまだ出ないままであるにもかかわらず。講義に出るためにどうしても必要な資料があったのだ、しかも気づいたのは前日の夜だった。ムサシはきっと在宅しているだろう。どんな顔で戻ればいいと言うのか。資料のことを失念していた自分を呪わしく思いながら、ヒル魔は寝泊まりしていた駅前のホテルからマンションへ向かった。
パーカーのポケットに両手を突っ込んで、気の進まない足を無理やりに動かして道を歩く。ただ自室から資料を取ってまた出ていけばよいだけだ。そう自分に言い聞かせながら。
暗い住宅街の夜道を歩く。途中、道を逸れた。胸が破れるかと思うほど鼓動が鳴っている。少し気を落ち着けてからにしようと、ヒル魔は途中にある公園の中に入った。
ひとけのない、広い公園。門をくぐり、歩行者用の散策路を歩いて池に面したベンチを見つけた。座り込む。
池の水面は夜の闇と一体化し、視力のよいヒル魔の目でも分かりづらい。その水面にぼうっと目を当てながら、ムサシ、と心の中で呼びかける。お前が好きだ、お前が恋しい。でも、どうしたらいいか分からない。苦しくて、たまらない。呼吸困難に陥った病人のように、ヒル魔は酸素を求めた。顔をあげて息を大きく吸い込む。一瞬だが視界が少し広がり、いままで水面に見えなかったあるものに気がついた。
池の片隅に、3艘のボートが繋留されている。その向こうに小さなボート小屋らしきもの。むろん、誰もいない。自然にムサシの言葉を思い出した。お前となら、うまく漕いでいける、と。心から信じて疑わない口調だった。ヒル魔は目の前にムサシとふたり、ボートを操る姿を思い浮かべた。きっと、ぎゃあぎゃあと騒がしく漕ぐことだろう。糞ジジイ、おとなしくお前に従うなんぞ俺のすることじゃねえ。
自分で思ったことに自分で少しおかしくなり、ふ、と薄くヒル魔は笑った。同時に、数日前と同じようにまた目の中が熱くなった。
ただの友人でいいと思っていたけれど、それは違う。間違いなく、ヒル魔はムサシが好きなのだ。失いたくない、と強く思っている。
昔、栗田とヒル魔は一度ムサシを失った。試合から抜けて走り去っていくムサシの背中。見送ったあと、激情にかられてヒル魔は激しくベンチを蹴飛ばした。そしてそのあとにやってきた深い悲しみ、喪失感。あんなものを、もう二度と味わいたくはない。
いっときは絶望に叩き込まれたあのとき。しかし、ヒル魔はムサシを信じて待ち続けた。待つことに賭けた。そしてムサシは戻ってきた、一年半の歳月ののちに。
──ああ。
──そうか。
ふいにヒル魔は気づいた。自分はもうとっくに、ムサシを信じていたということに。戻ってくることを信じて疑わずに。そんな、心から信じられるムサシだからこそ、ヒル魔はムサシを好きなのだ。
いまごろムサシはどうしているだろう。普段なら仕事を終えて、家で寛いでいる時間だ。不器用なムサシのことだ、寄り道などせず真っ直ぐ帰宅して、ヒル魔の帰りを待っているだろう。なぜなら、ヒル魔が待っていろと言ったのだから。たとえ帰りがいつになろうとムサシはヒル魔を待っているだろう。そのことをも、ヒル魔は信じて疑わない。
背後で人の話し声がした。近づいてくる。自転車に乗っているようだ。大人の女性と、甲高い子供の声。何事か話しながらあっという間に後ろを通りすぎ、遠ざかっていく。ヒル魔の意識が逸れた。そう言えばもうずいぶん長いこと自転車を使っていない。中学のころは移動によく利用していた。あの折り畳み式の自転車を自分はどこへやっただろう。栗田と知り合ったころだから、もう6年ほども前のことだ。
そのあと、ムサシと出会い、そして次第に惹かれて。我ながら一途なことに、ずっとムサシを想い続けてきた。
──また、賭けてみるか。
ヒル魔は思った。今度は自分の気持ち、そしてムサシの気持ちに。勝率は高い、なにしろ自分は何年もまっすぐにムサシを想い続けてきたのだし、ムサシはムサシの想いをまっすぐにぶつけてきてくれた。そんな気持ちに、賭けてみたい。自分は勝負運があるのだ。
ヒル魔は空を見上げた。濃い群青色の夜空が大きく広がっている。大きく息を吸い込んで一息ついた。それから、ポケットのスマホを取り出した。
LINEを開く。送信を始めた。一言ずつの送信を。
──糞ジジイ
──これから帰る
既読がついた。
ヒル魔は送信を続ける。
──テメーと同居するのはやめる
──これからは同居じゃない
──同棲だ
自分の言葉が画面に浮かびあがる。同棲、という文字も。見つめながら、ヒル魔は少し待った。
いくらも経たずに、ムサシの返信が送られてくる。ヒル魔もだが、ムサシの言葉もまた、短い。
──待ってる
ムサシの言葉。短いその言葉をヒル魔はしばらく見つめていた。それからスマホをポケットに仕舞い、立ち上がった。
待たせたな、糞ジジイ。
いま戻る。
待ちくたびれたとは言わせねえ。
俺の待ってた時間に比べたら、可愛いもんだ。
思ったこともなかったけどな。いつか、想いが通じるなんて。
ゆっくりとヒル魔は歩きだした。ムサシの待つ家へ。
ひとけのない、暗い公園の夜道。
オレンジ色の街灯が、その背中を照らし出していた。
だが5日めに、ヒル魔は急にマンションに戻らなければならないことになった。結論はまだ出ないままであるにもかかわらず。講義に出るためにどうしても必要な資料があったのだ、しかも気づいたのは前日の夜だった。ムサシはきっと在宅しているだろう。どんな顔で戻ればいいと言うのか。資料のことを失念していた自分を呪わしく思いながら、ヒル魔は寝泊まりしていた駅前のホテルからマンションへ向かった。
パーカーのポケットに両手を突っ込んで、気の進まない足を無理やりに動かして道を歩く。ただ自室から資料を取ってまた出ていけばよいだけだ。そう自分に言い聞かせながら。
暗い住宅街の夜道を歩く。途中、道を逸れた。胸が破れるかと思うほど鼓動が鳴っている。少し気を落ち着けてからにしようと、ヒル魔は途中にある公園の中に入った。
ひとけのない、広い公園。門をくぐり、歩行者用の散策路を歩いて池に面したベンチを見つけた。座り込む。
池の水面は夜の闇と一体化し、視力のよいヒル魔の目でも分かりづらい。その水面にぼうっと目を当てながら、ムサシ、と心の中で呼びかける。お前が好きだ、お前が恋しい。でも、どうしたらいいか分からない。苦しくて、たまらない。呼吸困難に陥った病人のように、ヒル魔は酸素を求めた。顔をあげて息を大きく吸い込む。一瞬だが視界が少し広がり、いままで水面に見えなかったあるものに気がついた。
池の片隅に、3艘のボートが繋留されている。その向こうに小さなボート小屋らしきもの。むろん、誰もいない。自然にムサシの言葉を思い出した。お前となら、うまく漕いでいける、と。心から信じて疑わない口調だった。ヒル魔は目の前にムサシとふたり、ボートを操る姿を思い浮かべた。きっと、ぎゃあぎゃあと騒がしく漕ぐことだろう。糞ジジイ、おとなしくお前に従うなんぞ俺のすることじゃねえ。
自分で思ったことに自分で少しおかしくなり、ふ、と薄くヒル魔は笑った。同時に、数日前と同じようにまた目の中が熱くなった。
ただの友人でいいと思っていたけれど、それは違う。間違いなく、ヒル魔はムサシが好きなのだ。失いたくない、と強く思っている。
昔、栗田とヒル魔は一度ムサシを失った。試合から抜けて走り去っていくムサシの背中。見送ったあと、激情にかられてヒル魔は激しくベンチを蹴飛ばした。そしてそのあとにやってきた深い悲しみ、喪失感。あんなものを、もう二度と味わいたくはない。
いっときは絶望に叩き込まれたあのとき。しかし、ヒル魔はムサシを信じて待ち続けた。待つことに賭けた。そしてムサシは戻ってきた、一年半の歳月ののちに。
──ああ。
──そうか。
ふいにヒル魔は気づいた。自分はもうとっくに、ムサシを信じていたということに。戻ってくることを信じて疑わずに。そんな、心から信じられるムサシだからこそ、ヒル魔はムサシを好きなのだ。
いまごろムサシはどうしているだろう。普段なら仕事を終えて、家で寛いでいる時間だ。不器用なムサシのことだ、寄り道などせず真っ直ぐ帰宅して、ヒル魔の帰りを待っているだろう。なぜなら、ヒル魔が待っていろと言ったのだから。たとえ帰りがいつになろうとムサシはヒル魔を待っているだろう。そのことをも、ヒル魔は信じて疑わない。
背後で人の話し声がした。近づいてくる。自転車に乗っているようだ。大人の女性と、甲高い子供の声。何事か話しながらあっという間に後ろを通りすぎ、遠ざかっていく。ヒル魔の意識が逸れた。そう言えばもうずいぶん長いこと自転車を使っていない。中学のころは移動によく利用していた。あの折り畳み式の自転車を自分はどこへやっただろう。栗田と知り合ったころだから、もう6年ほども前のことだ。
そのあと、ムサシと出会い、そして次第に惹かれて。我ながら一途なことに、ずっとムサシを想い続けてきた。
──また、賭けてみるか。
ヒル魔は思った。今度は自分の気持ち、そしてムサシの気持ちに。勝率は高い、なにしろ自分は何年もまっすぐにムサシを想い続けてきたのだし、ムサシはムサシの想いをまっすぐにぶつけてきてくれた。そんな気持ちに、賭けてみたい。自分は勝負運があるのだ。
ヒル魔は空を見上げた。濃い群青色の夜空が大きく広がっている。大きく息を吸い込んで一息ついた。それから、ポケットのスマホを取り出した。
LINEを開く。送信を始めた。一言ずつの送信を。
──糞ジジイ
──これから帰る
既読がついた。
ヒル魔は送信を続ける。
──テメーと同居するのはやめる
──これからは同居じゃない
──同棲だ
自分の言葉が画面に浮かびあがる。同棲、という文字も。見つめながら、ヒル魔は少し待った。
いくらも経たずに、ムサシの返信が送られてくる。ヒル魔もだが、ムサシの言葉もまた、短い。
──待ってる
ムサシの言葉。短いその言葉をヒル魔はしばらく見つめていた。それからスマホをポケットに仕舞い、立ち上がった。
待たせたな、糞ジジイ。
いま戻る。
待ちくたびれたとは言わせねえ。
俺の待ってた時間に比べたら、可愛いもんだ。
思ったこともなかったけどな。いつか、想いが通じるなんて。
ゆっくりとヒル魔は歩きだした。ムサシの待つ家へ。
ひとけのない、暗い公園の夜道。
オレンジ色の街灯が、その背中を照らし出していた。
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