SOMEDAY

 ホテルの部屋に入ってドアを閉める。ようやく一人になれた。どさりと荷物がヒル魔の手から落ちる。
 ふらふらとベッドに進んで、腰かけた。力が抜ける。上半身を保っていられない。そのまま、ヒル魔は仰向けに倒れ込んだ。
 明かりもつけない暗い部屋の中で、ヒル魔は目を閉じて顔を覆った。誰も知らないヒル魔の姿。ムサシにすら見せたことのない、自失の姿でヒル魔は横たわる。
 まさか、こんなことになるなんて。先ほどからヒル魔の胸を占めているのはひたすらその思いだ。それ以外はなにも考えられない。昨夜からムサシの様子はおかしかった、それはもちろん気がついていた。話を聞いてやったほうがいいかもしれないとは考えていた。だが、ムサシがまさか、自分にそんな心情を抱いていたなんて。
 いい返事を期待してもいいのか、とムサシは言った。いい返事。そんなものが素直に出来たらどんなに良かったか。ヒル魔はずっと、もう何年もムサシを想い続けていたのだから。

 ムサシへの自分の気持ちにヒル魔が気づいたのは中3のときだ。前の年に知り合い、デビルバッツにムサシを引き込み、交友すればするほどヒル魔はムサシに惹きつけられた。ムサシの長所も短所も、なにもかもがヒル魔の想いを募らせた。高校への進学時、邪魔が入ったせいで一緒に神龍寺に進めなかったのは残念だった、だが泥門でまた3年間、栗田も含めた3人でやっていけると決まったときには本当に、心から嬉しかったのだ。ヒル魔はもちろん親友として栗田が好きだ。ムサシへの気持ちはそれと違う、世の大勢の人間が異性に対して抱くのであろう愛情だった。
 自覚した時には自分で自分に驚いた。それまで、恋愛などまるで縁がないものだったし興味もなかった。その自分でも、他者に対してこのような気持ちを抱くことができるとは。いっそ新鮮な驚きでもあった。そして驚きを感じたあとにやってきた、胸の痛み。いまでもヒル魔はその時のことを覚えている。ホテルのテレビでNFLの録画を観ていたときだった。画面に、あるチームのキッカーが登場し50ヤードのフィールドゴールを決めた。大したことねえな、と思った。俺のムサシなら60ヤードを決めて見せる。いまはまだ荒削りな原石みたいなもんだが。
 そう考えて、どきりと大きく鼓動が鳴った。俺の、ってどういうこった。ムサシはデビルバッツのキッカーだ。うちの、ならまだ分かる。俺はムサシを一体どう思ってんだ。
 なんだか観戦どころではなくなって、画面の前でヒル魔は考えに沈んだ。そして覚えた驚き、胸の痛み。どちらをも、ヒル魔は受け入れた。なぜこんなに胸が痛いのか。ムサシが、好きだからだ。そして、この想いは絶対に、封じ込めておかなければならない。絶対に、気づかれてはいけないものだ。ヒル魔はそう考えた。
 ムサシが好きだ。栗田と、そしてムサシとずっとアメフトを続けたい。一緒にクリスマスボウルに行くのだ。その後のことなどいまはまだ想像もつかない。だがムサシには幸せになってほしい。それなら自分の想いは自分の内に閉ざしたままにするべきだ。これがヒル魔の結論だった。こんな形の恋愛など、叶うわけがない。実るわけはないのだから。
 その後、泥門での3年間をヒル魔はよく耐えた。晴れてクリスマスボウルを制して、今後は別々の道を行くことになった。それでも、やはりどんな形でもかまわないからムサシのそばにいたかった。そばにいて、なにかあればムサシを支える。自分がそんなことをしなくても立派にやっていける、ムサシは一人の男だ。だが友人として支え、もしくは支えられる。そんな関係まで諦めなくてもいいのではないか。だからヒル魔は、自立を考えているとムサシから相談されたときに、それならと同居を申し出たのだ。
 そんなヒル魔の下心も知らず、ムサシは有難い、感謝すると言ってヒル魔の案を受け入れた。それが去年のちょうど今ごろのことだ。ヒル魔が住んでいた賃貸マンションの一室にムサシがやって来て、そうしてふたりは共同生活を始めた。

 決めるべきことは数あったが、まず家賃と光熱費はきれいに折半することにした。社会人と学生とでは立場が違うと言ってムサシは多く払おうとしたが、ヒル魔は相手にしなかった。
 好きな相手と一緒に暮らす。胸が弾むような出来事だ、普通の男女なら。だが自分たちは違う。ヒル魔は何度も自分に言い聞かせた。わきまえなければならない、と。それでも、ムサシとの生活はヒル魔にとって十分すぎるほど幸せで、楽しく満ち足りたものだった。
 以前から感じていたことを、暮らし始めて改めてヒル魔は実感することになった。ムサシはとにかく律儀だった。朝晩の挨拶、行き帰りの挨拶はきちんとしないと気がすまない。最初は戸惑ったヒル魔もまもなく慣れて同じようにし始めた。一人暮らしの長いヒル魔にとって、おはようやただいまを言える相手が家に居ることは限りなく新鮮で、また心地よいものに感じられた。ムサシはなにごとも鷹揚で、こまごました生活習慣でヒル魔を困らせたり、いらいらさせたりするようなこともなかった。洗い物やごみの片付け、掃除の仕方、洗濯物の畳み方に至るまでヒル魔の流儀に従ったし、またそれを不快とも思っていないようだった。ただムサシはどうもベランダで布団を日に当てることを面倒くさがるふしがあった。代わりにヒル魔が干してやったのは一度や二度ではない。でもそれもヒル魔にとっては不満というほどのことでもなく、かえってそのあとはムサシにビールを奢らせたりするのが一つの楽しみであったくらいだ。ふたりともまめに自炊するほうではなかったが、朝食やその他、近所のスーパーに買い出しに出かけることもあった。ムサシが面白がって新商品を買おうとするのをなんとかやめさせて、自分好みの食パンを買うのにヒル魔は一苦労しなければならなかったが、それも買い物の醍醐味の一つだった。生活サイクルはふたりとも似たようなものなので最初からなにも問題はなかった。仕事熱心で勉強熱心なムサシはヒル魔に教わりパソコンソフトをいくつか習得した。店の日報や現場の工程表をそうしたソフトで作り、こればかりは独学で覚えた製図ソフトで図面を描く練習もする。遅くまでムサシがそうして机に向かっているとき、ヒル魔はあえて次の日の心配など口には出さず放っておいた。そして頃合いを見計らってコーヒーや少しの甘い物を部屋に持っていってやる。ムサシは礼を言い、ヒル魔の差し入れたチョコレートやビスケットを頬張る。無理するなよ、とだけ言い残してヒル魔は踵を返す。
 そのような共同生活を、ヒル魔はムサシと去年から続けてきたのだった。ときおり、思い出したように胸を刺す痛みを感じながら。
 切ない、苦しい思いを覚えるたびにヒル魔は考えた。なによりも大切なのはムサシの幸せだ、と。だから、チア団の一人から女性を紹介されて戸惑っている、とムサシが相談してきたときも、けしかけたのだ。なにを困ることがある、いい機会だろ。これでお前も朴念仁卒業だ、いいことじゃねえか。
 ヒル魔にそう言われて、ムサシは見るからに当惑しながらもその言葉に従った。当の女性とヒル魔は会ったことはないが、試合を見に来てムサシに一目惚れしたらしい。ますますいいことだ、つきあってみろ。これもなんかの縁だろ。
 悲しみ、痛み。そうしたものを抱えながらもヒル魔は陽気にムサシを説得し、服装やら行程やらのムサシの相談に乗った。ムサシに、幸せになってほしかった。ヒル魔はただひたすら、ムサシに幸せになってほしかったのだ。

 暗闇の中で、いつの間にかヒル魔は膝を抱えて座り込んでいた。すっかり考えに沈んでいた。我に帰ると急に喉の渇きを覚え、ベッドからおりた。冷蔵庫を開けて水を口に含む。とたんにひりつくように喉が渇きだして、水を大きく、何度も飲みおろした。大きく息をついて、再びベッドに腰をおろす。これから、自分はどうしたらいいのか。
 断らなければならない、とは思う。出来ることならこれまで通り、友人でありたい。そう言わなければならない。だが、いざムサシを、恋しい相手を前にして、そんなことが平静に言えるものかどうか。
 自問自答するヒル魔の胸に、再びムサシとのこれまでの生活が押し寄せる。不思議と、やってくるのはたわいない口喧嘩の場面ばかりだ。買い出しに行って茶を買う買わない、布団を干す干さない、洗濯物を畳む畳まない。とめどなくムサシの顔が目に浮かぶ。間の悪いような顔、機嫌悪く唇をひき結んだ顔。困り顔、いたずらな笑顔。その姿がなくなったあとをヒル魔は想像した。がらんどうになった部屋、ムサシのいない家。
 うつむいたヒル魔の目に自分の手が見えた。それはがたがたと震えている。震える手でヒル魔は自分の胸を掴んだ。苦しい。
 暗闇で宙を見つめるヒル魔の目から熱いものがあふれた。
 どうしたらいいか分からない。ムサシが好きだ、失いたくない。
 闇の中でヒル魔は黙って涙を流した。
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