SOMEDAY

 マンションに戻ると、先に帰宅していたヒル魔が待ち構えていた。うがいをして手を洗うムサシのうしろにくっついて、早くしろと急かす。まあ待て、と苦笑しながら手早くムサシは普段着に着替えた。ふたりで家を出て、徒歩で15分ほどの駅前に向かう。めざすのは行きつけの、料理の旨い居酒屋だ。掘りごたつ式の個室形式になっているから、他人を気にせずゆったりと飲み食いし、寛ぐことができる。
 個室に案内され、店員からおしぼりを受け取って手を拭きながら、まずはビールを注文する。いつもは好きなものを単品でばらばらに注文するが、今日はヒル魔と話し合って鳥ざんまいと言うコースにした。これなら、あれこれ悩まず話に集中することができる。すぐに来たビールのついでにそのコースを二人分と伝え、ムサシはヒル魔に訊いた。
「あとはどうする。なにか他にも頼むか」
「いつものだ」
 ヒル魔はあっさりと言う。ムサシにはそれで分かると信じて疑わない顔だ。ムサシはメニューを指し示して、これだよなと確認した上でヒル魔の好物をオーダーした。タルタルソースで食べる海老天串だ。次に少し考えて、自分も好物をひとつ単品で頼むことにする。手作りのつくねを炙ったものだ。北海道産の太めのアスパラが丸ごと巻かれていて、歯応えも味も良い。ヒル魔もだがムサシもそれぞれ食の好みというものがある。決して相容れないような方向ではなく、むしろお互いに良い刺激となるような嗜好だったから、同居を始めてそれに気がついたときは安心したことをムサシは覚えている。
 店員が入力した端末をポケットにしまい、退室してからムサシとヒル魔はグラスを合わせて乾杯した。ムサシに少し遅れてヒル魔も成人しており、酌み交わすことはふたりの楽しみになっていた。冷えたビールが喉を心地よく通り過ぎる。わずかではあるが渇きを感じていたムサシの体にビールは染み渡った。一息ついて、口元をぬぐう。グラスをテーブルに置いて、ムサシはヒル魔に顔を向けた。
「で、祝杯なんだろ。なにかあったのか」
「まあな」
 ヒル魔はにやりと笑った。
「予想が当たった」
「予想って、前に話してた奴のことか」
「そうだ」
「そりゃよかった。一軍入りか」
「ああ。むろん、まだベンチだけどな」
「いいじゃないか。これからまたチャンスはあるだろう」
「まあそうなってほしいけどな」
 高校時代から選手としての名を馳せていたヒル魔は、昨年の大学進学後まもなく、ウィザーズのスターティングQBとなっていた。以来、ちょっとした不調に襲われることもないではなかったが、それから約1年、その座を守っている。脅迫手帳の脅威で相変わらず周囲から恐れられてはいるが、そんなものにはいまのヒル魔の地位は無関係で、ひたすら並々ならぬ努力と練習のたまものであることをムサシは知っている。
 ムサシが社会人2年目、ヒル魔が最京大に入学して同じく2年目。この春、ウィザーズに入部した新入生の一人に、とりわけて小柄な学生がいた。志望のポジションはランニングバック、フィジカルには自信があると豪語する。ヒル魔は大口を叩く者は嫌いではない、発言に行動が伴えばの話だが。小柄で俊足なその学生は、さっそく入部テストで張り切ってそれなりの良い成績をあげたが、判定は二軍だった。そのことがよほど悔しかったらしく、彼はわざわざヒル魔のところまでやって来た。一軍と二軍とでは使用するグラウンドはまるで違うし、人の出入りは厳しく制限されている。監視の目をかいくぐって彼は忍び込み、ヒル魔さん、と声をかけてきた。その時にはヒル魔は彼のことなどきれいに忘れていたから、遠慮のない言葉を投げつけたのだが。
 ──見慣れない顔だな。誰だテメー
 ──名前はどうでもいいです。俺の顔を覚えておいてください
 ──なんで俺がテメーの顔を覚える必要がある
 ──2ケ月
 ──…………
 ──2ケ月で俺、一軍に上がります。ウィザーズのナンバーワンRBになります
 ──ケケケ、ずいぶん大きく出やがったな
 ──だから待っていてください、夢はヒル魔さんと同じです
 ──なんのことだ
 ──ライスボウルです
 そこまで会話を交わしたときには彼は見咎められ、屈強なトレーナーに両脇からがっちりと腕を掴まれていた。引きずられるようにしてグラウンドを追い出されたその学生のことを、ヒル魔は帰ってからとても楽しそうにムサシに話したのだ。あんなのは初めてだ、おもしれぇ奴だった、と。ヒル魔のことだから当然、興味を持ったその学生について徹底的に調べあげるくらいのことはしたのだろう。そして、ヒル魔なりに期待できるものを見つけた。だからヒル魔は今までの2ケ月、ごく時折ではあるがムサシにもその学生のことを話題にし続けたのだ。40ヤード走をはじめとする個人成績の変化。ランフォームの変化、プレースタイルの変化。本人には口にしなかったものの、その学生はヒル魔の興味と期待に応えた。春からのリーグ戦中盤のこの時期、まだベンチを温める立場とは言え、ヒル魔の立ち位置に大きく近づいてきたのだ。
 ムサシは聞き役に回って、飲み食いをしながらヒル魔の話に耳を傾けた。蒸し鶏とオクラの和え物に鶏ハムのサラダ、唐揚げ。串焼きの盛り合わせはわさびで食べるささみが特に旨く、単品で追加した。つけあわせのキャベツの浅漬けもにんにくの風味が効いていて、ぱりぱりと歯触りが良く、箸休めにちょうどいい。合間に何度か酒を頼み、締めに出てきたのは熱々のガーリックライス。レモンサワーで口の中を冷やしながら食べ進めていると、ちょうどヒル魔の話が一段落した。香ばしいライスを頬張りながらムサシは言った。
「良かったじゃないか。これからが楽しみだな」
「ケケケ、どうなるかな」
「うちの隆史もそいつみたいに成長してくれればいいんだが」
「ああ。あいつはどうしてんだ」
 隆史、とムサシが呼んだのは2月のトライアウトでバベルズに入団した若者だ。年齢はいま話題になったヒル魔の後輩と同じ、高校でのポジションはQBだった。無名校の出身だが、いやだからこそなのかもしれないが、入団テストのときにはキッドばかりかヒル魔の名まであげて、いつか同じラインに立ってみせると明るくアピールしてきた。
「キッドがいろいろ教えてやってるがな、まだまだだ。なにより、弱点があってな」
「弱点? なんだ」
 ヒル魔に訊かれて、ムサシは苦笑とともに答えた。
「女の子の話ばっかりしてやがる」
「へえ」
 顔を見合わせてふたりは笑った。余計なことを言ったかもしれないと少しムサシは思った。後輩のプライベートをわずかとは言え喋ってしまったし、もしかしたらこの話の流れだと触れてほしくないことをヒル魔が口にするかもしれない。昨日から続くムサシの胸のふさがりは解決してはいない。だからこうしてヒル魔の顔を見て、ふたりきりで過ごす時間は複雑だった。だがその反面、少しでも長く続くように祈りたくなるような、かけがえのない貴重な時間にも感じられる。
「そういや、お前はどうなんだ。昨夜、変だったぞ」
 なにげない風にヒル魔が言った。ムサシはグラスを見つめる。来たか、と思った。話すべきなのだろうか、話してもよいのだろうか。自分のうちに答えは出ていない、だが話してしまいたいような気もする。ムサシは努めて明るく言った。
「それがな。別れた」
「なんでだ」
 ヒル魔は心から意外そうな顔をした。そうだろう、とムサシは複雑な痛みとともに思う。チア団のメンバーから紹介されて交際して3ケ月。普通なら、もっとも楽しい時期だろう。だがムサシはつい昨日、気がついてしまったのだ。性格柄、自分にも他人にも嘘はつけない。正直に自分の気持ちを告げて、昨夜ムサシは交際を終わらせて帰った。
「喧嘩別れでもしたのか。おおかた、お前がなにか気のきかねえことしたんだろ。なんなら俺が取り持つぞ」
 軽く笑うヒル魔の前で、ムサシは黙って酒を呷った。それから、最大限の努力を払って笑みを浮かべた。
「ここじゃ何だからな。帰ったら話す」
「そうか」
 ヒル魔はそれ以上追及せず、緑茶ハイのグラスをもう一度手に取った。



 店の外はぽつぽつと雨が降っていた。ふたりとも半袖だからまだ良いが、そうでなければ蒸し暑さを感じるような気温と湿度だ。まさに梅雨時だな、とムサシは思った。傘は持っていなかったが濡れることを心配するほどの強い降りではない。ヒル魔がコンビニに寄ると言い出したのでムサシは従った。
「なにか買うのか」
「酒。もうちっと飲むだろ」
 無造作にヒル魔はコンビニに入り、かごの中に無造作に何種類かの酒を放り込んでいく。ムサシは黙って見ているだけだ。それでもヒル魔は的確に、ムサシの好みのものを選んで手に取っている。こんな関係も、もうすぐ終わるんだろうか。それなら、いっそなにも話さないほうがいいのではないか。レジに向かうヒル魔に、ムサシは俺が払うと言って財布を取り出した。
 ヒル魔はまめに動いた。先に立って鍵を開けて部屋に入り、まっすぐに居間に進んでいく。洗面所でムサシがうがいと手洗いを済ませて居間に入ると、買ってきたものはもうテーブルに載っていた。ヒル魔がその前で梅酒の封を開けるところだった。
 ムサシとヒル魔の住むこの部屋の居間には、ヒル魔が買い揃えた家具が一式並ぶ。ガラスのローテーブルにベージュのソファ。初めて見た時、一人暮らしなのにずいぶん大きなソファを買ったんだなとヒル魔に訊いた。ヒル魔は当然のような顔をして、これ位でかくないと寝られねえだろと答えた。寝るって、誰がだ。誰か泊める予定でもあるんだろうかと思ったが、要するにヒル魔本人が昼寝用に使いたかったらしい。寝るなら自分の部屋のベッドでいいだろうに、とムサシはすこしおかしく思った。
 その後、同居を始めてこのソファはずいぶん役に立ってきた。座る、寝る、背もたれ代わりに寄りかかる。いまヒル魔は床に腰をおろしてソファにもたれている。ムサシもその隣に座り、ヒル魔と同じ姿勢をとった。
 テーブルに並ぶ缶からハイボールを選んでプルタブを引く。ヒル魔が、で? と言った。
「言いたくねえなら言わなくてもいいが」
「…………」
 ムサシは黙って苦い酒を大きく呷った。なんと言えばいいのか分からない。核心には触れないほうが、きっといいのだろう。だが、こうしてふたりで居ると押し寄せる気持ち。酔いのせいでは決してない。ヒル魔。俺は。
 ヒル魔がかさねて言った。
「愚痴なら聞いてやるぞ」
 愚痴で済むならどんなにいいか。ムサシは一つ深い呼吸をして決意した。缶を持つ手に力が入る。ヒル魔の顔を見ずに、テーブルを見つめながら話し始めた。
「……うまくいかなくてな」
「性格が合わなかったとか、そういうことか」
「いや。俺のせいだ」
「…………」
「いい子だったんだけどな」
「チアの紹介、だったんだろ」
「そうだ。どんなもんかと思って付き合ってみたが、気持ちの優しい子でな」
「…………」
「でも駄目だった」
「どうしてだ」
 ムサシはハイボールで喉を湿らせた。
「3ケ月、付き合ったからな。いろんなところへ出かけた」
「…………」
「映画とか、動物園とかな。水族館も行ったな。うちの試合を観に来てくれたのはもちろんだが」
「ああ」
「女の子っていうのは買い物が好きなんだな。そういうのにも付き合ったことがある」
「…………」
「美術館なんてところも初めて行った。なかなか面白いところだな」
「でも駄目だったのか」
「そうだ」
 ヒル魔はふーん、と言って梅酒を含む。追及しようとはしない。
 ムサシは少しだけ、ヒル魔のほうに顔を向けた。
「なあ、ヒル魔」
「なんだ」
「なんで駄目だったかって言うとな」
「うん」
「なにをしていてもな」
「…………」
 ムサシは足を組み替えて大きく息をついた。思い切って声を出した。
「お前の顔が浮かんで離れなかったからだ」
「……? どういうことだ」
「なにをしていてもお前の顔が浮かぶ。旨いものを食えばお前にも食べさせてやりたいと思うし、きれいなものを見ればお前にも見せてやりたいと思う。楽しい場所に行けばお前と来たかったと思う」
 ムサシは続けた。
「昨日は古い建物めぐりをしてな。そのあと、お堀でボートに乗った」
「…………」
「オールを一本ずつ持って漕いだ。うまく漕げなかった」
「…………」
「俺は思った。いや、自分が思ってることに気がついた。お前となら、うまく漕げるのに、ってな」
「……ムサシ」
「こんな形で気がついたのは、つくづく不甲斐ないと思う」
「ムサシ」
「ヒル魔。好きだ」
「…………」
「俺はお前が好きだ。長いこと、お前とは友人だった。いまの関係が壊れるのが怖い、そうは思ったがやっぱり言わずにはいられない。ヒル魔。自分でもいつからこうなったのか分からない。俺に分かってるのはいまの自分の気持ちだけだ。ヒル魔。お前が好きだ。こんな形で気づくなんて情けない。すまない」
 一息にムサシは告げた。ヒル魔の返事はない。すまない、とまた思ったからムサシはそれをそのまま口にした。できるだけ、穏やかに。
「すまないな、いきなり。こんなことを言われてもお前は困るだけだろうとは思ったんだが。言わないではいられなかった」
 ひどく勝手なことだが、口に出してみると言わないよりも良かったと思った。だが、急速に胸をえぐる寂しさ。そして、ヒル魔への申し訳なさ。ヒル魔はどんな顔をしているだろう。もう、自分はここにいるべきではないだろう。そう思いながら、ムサシはヒル魔の横顔を見た。
 酒を片手に、ヒル魔は視線を床に向けて口をつぐんでいる。おそらく誰も気づいていないだろうが、ヒル魔の睫毛は長い。切れ長の目は心持ち伏せられて、どんな思いでいるのかムサシには分からない。高い鼻梁。その下の形のいい唇。時として、耳元まで裂けて悪魔笑いをひびかせる。いまとなっては涙が出るほど懐かしいその笑い声を、ムサシは耳の奥に聞いたような気がした。
 缶を大きく呷って、一度にムサシは残りの酒を飲み干した。静かに立ち上がる。これ以上、ヒル魔の心を乱さないように、静かに。
「じゃあな。これから、俺は出ていく」
「…………」
「もうここにはいられない。お前だって、俺がいたら嫌だろう。しばらくは店に寝泊まりすると思うが、引っ越し先は出来るだけ早く探すようにする。あと、お前が嫌ならもう連絡も取らない。すまないな。ヒル魔」
「…………」
「じゃあ。元気でな」
 ムサシはヒル魔に背を向けた。居間から廊下へ続くドアに歩み寄り、ノブに手をかける。
「ムサシ」
 ヒル魔の声を背中で聞いた。
 ドアを見つめたままムサシは答えた。
「なんだ。ヒル魔」
「待て」
「…………」
「俺は──」
「…………」
「俺は出ていけなんて一言も言ってねえぞ」
 ムサシは一度目を伏せた。それからゆっくりと振り返ってヒル魔を見た。
 ヒル魔はこちらを見てはいない。さきほどと同じ姿勢のまま、酒を片手にうつむいている。
「ヒル魔」
「黙れ」
「…………」
「とにかくお前が出ていく必要はねえ。だが」
「…………」
「今日は俺が出ていく。しばらく、……時間をよこせ」
「ヒル魔。それは」
 黙れっつってんだろ、とヒル魔はまた言った。なにかを必死にこらえているような、抑えた声で。ムサシはためらった。そのあと、重ねて言った。
「ヒル魔。分かってるのか。俺はお前が好きだって言ったんだぞ」
「分かってる」
「それは……」
 ムサシはごくりと喉を鳴らした。
「いい返事を、期待してもいいのか」
「だから待てって言ってんだろ、勝手に盛り上がるんじゃねえ」
「…………」
 ヒル魔が立ち上がって歩いてきた。ムサシを見ようとはせずに。ムサシは道を譲り、ヒル魔を通す。
「糞ジジイ」
 廊下に出たところで、ムサシに背を向けてヒル魔は言った。
「しばらく帰らねえかもしれねえ。だがお前はここにいろ」
「…………」
「俺は、……」
 ヒル魔はそれ以上の言葉を続けなかった。自室に入ってドアを閉めた。こぶしを握りしめていた。
 ムサシはもとの場所に戻り、今度はソファに身を沈めた。気づくとヒル魔と同じように握りしめていたこぶしを膝に乗せて、じっと待った。やがてヒル魔が部屋から出てくる音がした。ムサシは動かない。
 ヒル魔が玄関から出て行っても、長いことムサシは動かなかった。
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