SOMEDAY
ヒル魔が口が悪いのは周知のことだ。なんでも頭に放送禁止用語をつけないと気がすまないようだし、ムサシも同い年であるにもかかわらず、もう何年も糞ジジイと呼ばれている。そしてヒル魔の使う二人称は基本的に、テメーと決まっている。だが同居を始めてふと気づくと、いつのまにかムサシはヒル魔からお前と呼ばれるようになっていた。なにか、きっかけらしいものはあったのだろうか。そう思いながらムサシは駅で人と別れ、あてもなく電車に乗った。
少し考え事をしなければならない。それにはまず、いま少し冷静にならないと。とにかく、ここから遠ざかったほうがいい。どこでもいいから今までいた場所ではないところへ行きたかった。
電車内は混んでいた。日曜日の夕刻、みな行楽やその帰りなのだろう。一人の乗客、グループ、家族連れ。楽しそうに談笑する若い男女、元気に喋り続ける子ども、疲れた顔で座っている中年男。車内のざわめきを聞きながら今後のことに考えをめぐらせる。どうしたらいいのか。
いくつめか、停車した駅で人の波に押されて降りた。騒がしいアナウンスが耳に入り、ここが日本一のターミナル駅であると知らせる。人の波に逆らわず、歩く。とくにあてはない。ただ歩き回ることが必要と思っていた。広い乗り換え通路を歩いて改札を出る。駅ビルの入り口やさまざまなショップを尻目に階段を上がる。地上に出て、駅東口の雑踏にまぎれた。大量の歩行者に、待ち合わせらしい人のかたまり。人と人の間を縫うように歩く。街は夕闇が近づき、イルミネーションが輝き始めている。これからどうするか。二重の意味で考えながらビルの立ち並ぶ繁華街をさまよう。ショッピングに食事、さまざまな娯楽を楽しむ、あるいはこれから楽しもうとしている人々の活気に満ちた街。すれ違う人々はみな目的を持って歩いているようだ。ムサシも一見はそう見えているのかもしれないが、自分が他人の目にどう映っているかなど、いまのムサシには考える余裕はない。実際、誰もムサシのことなど気にとめてはいないだろう。
人ごみの中特有の息苦しさと疲労を感じたし、喉の渇きも覚えた。気を落ち着けるためにもなにか飲みたいとは思ったが、店を探すのがひどく億劫だった。踵を返してムサシはもと来た方向へ戻り始めた。ため息をついて少し歩みをゆるめる。帰ろう、と思った。ここにいてはいけない、帰らなければ。
ラッシュと停車のたびに人に揉まれる苦行に入り、ムサシは帰途についた。どうすればいいのか、頭と心を占める問題に答えは出ない。しなければならないこと、ではなく自分がどうしたいのか。そのように思考を変えてみる。今度は答えが浮かんだ。だが、果たしてそれが正しいことなのか。ムサシには分からない。
都心から西へ、約1時間弱。過密状態の電車からやっと解放されて、最寄り駅に着いた。すぐ目についた自販機で冷たいコーヒーを買い、一気に飲み干す。缶をごみ箱に入れて歩き出す。あとは家に帰るだけだ、だが。
自分の足が重くなっていくのをムサシは感じた。帰る、帰宅する。自分とヒル魔の住むマンションの一室へ。おそらくヒル魔は家に居るだろう、いまごろはもう練習が終わって帰宅しているはずだ。先に戻ったヒル魔に挨拶をする。ただいまと言い、疲れたふりを装ってさりげなく自室に入ればいい。そうすればしばらく、顔を見ずにすむだろう。なんと言ってヒル魔の顔を見ればいいのか分からないいまは、そうするしかない。明日までは、そうするしかない。なんとか、明日までは。
だが、そのあとは。
どうしたらいいのだろう。
重い足取りで歩くムサシの体に雨が降ってきた。かまわず、歩みを速めることもせず、途中で道を逸れた。
小さな水族館を併設する公園。サイクリングコースとジョギングコースも整備された公園の中に入り、池に面した東屋 で雨を避けた。あっというまに勢いを強め、ざあざあと降り注ぐ雨。見ていると心持ちまで暗くなってくるような、夜闇に降りしきる雨。情けないな、とムサシは思った。たとえほんの数時間前とはいえ、いままで思い至らなかったことに気がついて考えをめぐらせてきたのだ。だが、結論は出ない。出すのが怖いのだ。もうすぐ、ここからあと5分も歩けば家に着く。それまでに、せめて何気ない風を装う努力をしなければ。
マンションの共用玄関に入るまでに、ムサシの髪もブルゾンもかなり濡れていた。家に入ったら、まずタオルで拭いたほうがいいだろう。服はどうでもよいが、水滴のしたたろうとしている髪がかなり不快だった。
差し込んだ鍵をひねる前に、ひとつ息を吸い込んだ。それからムサシはドアを開けて家に入った。
「ただいま」
居間のドア越しに声をかけると、ヒル魔の返事が聞こえた。とにかく、頭と体を拭かなければならない。洗面所に入ってリネン入れの扉を開けて、タオルを取り出した。ごしごしと頭から拭き始める。顔を洗いたくなってタオルを洗面台に置き、蛇口をひねった。冷たい水で顔を洗う。自分はいまどんな顔をしているだろうか。ヒル魔の前で、平静を装うことができるだろうか。体の内に起こる震えのようなものを無理に抑え込んで強く顔をこすり続けた。目を閉じたままタオルを取って顔を押さえる。居間のほうからドアの開く音が聞こえて、ムサシの胸は強く鼓動した。ヒル魔の足音。近づいてくる。ムサシは顔を拭いているふりをした。
「おかえり。降られたのか」
タオルから顔を離すと、鏡の中にヒル魔が映っていた。振り返らずにタオルを使いながらムサシは答えた。
「ああ。帰り際に、ちょうどな。ザーッと降ってきやがった」
「よく拭いておけよ」
「ああ、もう着替える」
「そうだな」
ヒル魔はムサシから目を離して居間に戻ろうとする風だ。そのヒル魔に声をかけた。
「ヒル魔」
「なんだ」
「ちょっと疲れたみたいでな。今日はもう風呂に入って寝ることにする」
「そうか。……わかった」
ヒル魔はそれ以上なにも言わなかった。ムサシの視界から消えて居間に戻っていく。ムサシはほっと息をついた。
ムサシの様子から、多分ヒル魔はなにごとか察しただろう。だが、なにも言わずにムサシのそばを離れた。ありがたい、とムサシは思った。同時に、ヒル魔の顔を見られたことがただひたすら嬉しかった。さきほどまでは怖いようだったことが、いまはなんだかひどく懐かしく、慕わしいことのように思われた。
**********
「若棟梁」
聞き慣れた声で呼ばれて、工程表を見ていたムサシは顔をあげた。皆からヒロと呼ばれている若者が、控えめな笑みを浮かべて立っている。
「また、読みかた教えてください」
「いいぞ。どれだ」
ヒロの指し示すテキストにムサシは目をやった。
ムサシの父は昔ながらの職人気質の大工で、若い頃から叩き上げて武蔵工務店を立ち上げた。親として職業人として、尊敬も憧れも抱いてはいるが、やがて二代目となる立場のムサシとしては自分なりのビジョンもあった。ゆくゆくは設計から施工、アフターケアまで万全と評価されるような、本格的な地域密着型のビルダーになりたいという夢だ。だがまだまだそれは先の話、第一ムサシはこの春やっと成人したばかりなのだ。若棟梁などと呼んで従業員は大事にしてくれるが、それに甘んじていてはいけないとムサシは常日頃から自分を戒めている。
地元の商店や住宅の改築、リフォーム。大手ハウスメーカーの建売住宅の基礎。さまざまな業務を手がけるムサシの店は、現場仕事が立て込んでスケジュール過密になると、ためらわずアルバイトを雇うことにしている。人手不足とそれによる疲労はていねいな職人仕事の大敵だ。なにかと意見の対立することもある棟梁と若棟梁だが、その点は親子で一致していた。
ムサシがものごころついてから、武蔵工務店にはさまざまなアルバイトの若者が出入りしていた。地元の口コミから、縁故から。または役所やタウン誌に依頼した求人を見て応募してきた若者たちだ。そうした多くの作業員を見てきたムサシは、いまでは初対面であらかた予想がつくようになった。続くかどうか、働きぶりは良いか、どうか。その意味で、言葉は悪いがこのヒロという青年は当たりだった。本当は浩という名だが、職人たちから愛称で呼ばれるほど可愛がられている。
建設作業員の仕事は大きく分けて二つあり、うち一つは専門的な知識と技術を必要とする職人だ。もう一つが職人たちの補佐をする下働き、手伝いの仕事。よく手元 と呼ばれる。
ヒロは近所の酒屋の口利きでムサシの父が雇った手元の若者だった。年齢は19と言っていたので、ムサシと同年代だ。彼が初めて、武蔵工務店の一員として働くために出勤した朝、ムサシは内心驚いた。
その日、ヒロは実際の始業時間よりずいぶんと早く姿を現した。どうした、と訊いたムサシに、ヒロはまず詫びを言った。続けて、自分は初心者で分かっていないことだらけなので、せめて早めに現場の様子を見ておきたいと思った。できれば、資材や道具の名や作業の流れを頭に入れておきたいので教えてはくれないか、と言う。もちろんだと答えてムサシはまだ誰も来ていない現場の中をヒロと二人で歩いた。このことでムサシのヒロに対する印象はだいぶ良いものになったし、今後も注意して目をかけてやろうと思ったものだ。
その日、さりげなくヒロの様子を観察していて、ムサシはこれは儲けものだと思った。なにしろ骨身を惜しまずに働くし、動きに無駄がない。まだ初日とあってヒロの仕事はおもに道具や雑材運びが中心だったが、現場をよく見て道具ひとつ取っても置き場所に気を使う。他の職人の邪魔にならないよう足の運びに注意していることは容易に察せられた。昼休みには全員に茶が行き渡っているかどうか目を配り、弁当の箸を取ったのはヒロが最後だった。食事のあとは体を休めるために横になるのがムサシたちの仕事の常だが、ヒロは多くの者が寛ぎ始めるのを確かめると、隅に行って目立たないように本を開いた。思わずムサシは声をかけて、ちゃんと休むのも仕事のうちだ、と言ったものだ。
終業前にほとんどの若者が面倒がる片付けや掃除も、ヒロは嫌な顔ひとつせずにこなした。日給を受け取って明るく挨拶し、彼が店を出て行ったあと、ムサシは古参の幼なじみの従業員からさっそく声をかけられた。厳ちゃん、当たりだねえ、と。続けばいいけどな、とムサシは答えたが、内心では大丈夫だろうと思っていたのだ。入れ替わり立ち替わりする出入りの作業員を見てきたムサシの直感だった。
期待通り、ヒロは翌日も、そのまた翌日も変わらず元気に出勤してムサシを安堵させた。昨日と同じように仕事ぶりは真面目で、しかも勉強熱心だ。きつい、きたない、危険。いわゆる3K労働とよく称されるこの仕事に珍しく熱意を持って、誠意をこめて働こうとしているのが見て取れる。
ヒロはやがて、工務店の従業員たちばかりでなく出入りの職人たちからも可愛がられるようになり、手元とは言え武蔵工務店の貴重な働き手となった。誰とも馴染み、親しく、だが礼儀正しく口を聞き、知識や経験を深めていこうとする。本人がそんな様子だから周りはますます可愛がるしさまざまなことを教え、導く。武蔵工務店の現状から言って、ヒロを正社員として雇う余裕はない。だがムサシは今の現場が終わったらヒロに新しい職場を用意するため口をきいてやろうと思っていた。もともと、ヒロを紹介してくれた酒屋の主人も、ひょんなことで彼を知り助けてやらずにはいられなくなったらしい。採用のときに詳しい事情は聞かなかったが、武蔵工務店の人々と職場に慣れるにつれ、ヒロはぽつぽつと身の上話のようなものをするようになった。まとまった話ではなく断片的に語られたそれを繋ぎあわせると、ずいぶん苦労しているらしかった。父親の酒好きが祟って家が貧しく、中卒で働くことになった。返済しきれないほどの借金と、養わなければならない弟妹を抱えて、飯場 労働のような経験もあると言う。一時は心が荒み、野放図 な生活をしたこともあるが幸い更生し、なんとか家族を支えようとまともな仕事を探していた。そうしたときに、武蔵工務店に出会ったのだと言う。根が良い武蔵工務店の人々は、そうしたヒロの経験を知るとみな彼に同情したし、いっそう親身になった。ムサシですら、ほぼ同い年なのにずいぶん苦労している、それにしては曲がっていない、と感心したものだ。仕事の合間や終業後の茶飲み話にヒロの話を聞き、職人のうち遠慮のない誰かが尋ねた。なにか、立ち直るきっかけになるようなことがあったのかい。
肉体労働に慣れたヒロの体はよく筋肉がついていて、短く刈り込んだ髪や角ばった顔つきからも、決してお世辞にも可愛らしいとは言えない。だがそう聞かれたときのヒロは一瞬、真っ赤に顔に血をのぼらせた。なんとも言えない笑みを浮かべて、彼女ができたんです、と言ったものだ。そして思う存分、周り中から囃 したてられたし、ムサシも思わず破顔した。顔を赤くしてはにかむヒロを見ながら、そういうことなら出来る限り力になってやろうと考えた。
武蔵工務店での勤務初日、ヒロが休憩時間に開いたのは資格試験のためのテキストだった。ショベルカーやクレーン車などの免許は言うまでもなく、土木建築業界でこれからもやっていこうとするなら持っておいたほうがよい資格はいくつもある。だが、環境が災いしてろくに学校教育を受けてこれなかったヒロには、テキストを開いても読めない漢字や読み解けない文章がある。そんな事情を知ってから、ムサシはいつでも、なんでも教えてやるから訊きに来いと言っていた。ヒロさえ良ければ、テキストを自分が一夜預かって、読み仮名を振ってやってもいいとムサシは考えていた。無論のこと、その都度尋ねられるのがわずらわしかったからではない。明るく素直なヒロと会話することは、たとえ短時間とは言えムサシにとっても楽しみだったのだ。
いくつかヒロの示した漢字の読み方、それと意味を簡単に説明すると、いつもの通りヒロはありがとうございますと礼を述べた。ムサシはいつも通りに、いいんだ、頑張れよと答える。軽く会釈してヒロが離れていくのを見送りながら、ヒロはいい表情をしているな、とムサシは思った。持って生まれた性格やその後に形成された人格、そして彼を取り巻く環境。それらから生まれるヒロの表情は若々しく人を惹きつける力を持っている。もちろん、ムサシが見たことのないヒロの彼女とやらも、彼の明るさに十分力を発揮しているのだろう。
そこまで考えて、ムサシは軽い痛みを覚えた。昨日、駅で別れた女性への申し訳なさ。と同時に、自分をひどい男だなと思った。相手から告白されて交際することになったとは言え、無駄に期待させるようなことをしてしまった。そうした申し訳なさはもちろんあるが、すでにどこか遠いことのようなのだ。それよりも、いまのムサシはなによりもヒル魔を恋しいと思っている。早く帰ってヒル魔の顔を見たい。だが、心のうちを正直に話せばいまの関係は壊れるだろう。実るわけはないのだから。
若棟梁、とまた自分を呼ぶ声が聞こえて、ムサシは我に帰った。終業まではまだ間がある。しっかりしなければ。声の方に顔を向けて、ムサシは気を引き締めた。
武蔵工務店の現在の作業場は店のごく近くに位置している。終業を迎えると車や道具類を店裏の駐車場に置いて、従業員たちが挨拶をしてそれぞれの家路についていく。ムサシの帰宅はいちばん最後だ。ヒロはもちろんのこと、皆を見送ってから自分名義の軽自動車に乗り換えて、ムサシもマンションへと帰る。帰宅前のLINEはいつもの習慣だ。これから帰ると一報を入れると、折り返しヒル魔から返信があった。祝杯をあげるから付き合えと言う。どこかで飲むのか、と訊いたら一言、ムサシとヒル魔の行きつけの店の名が返ってきた。それならいったんマンションに戻って車を置かないと。なにか、嬉しいことがあったんだろうか。ムサシは考えながら軽に乗り込んでエンジンをかけた。
少し考え事をしなければならない。それにはまず、いま少し冷静にならないと。とにかく、ここから遠ざかったほうがいい。どこでもいいから今までいた場所ではないところへ行きたかった。
電車内は混んでいた。日曜日の夕刻、みな行楽やその帰りなのだろう。一人の乗客、グループ、家族連れ。楽しそうに談笑する若い男女、元気に喋り続ける子ども、疲れた顔で座っている中年男。車内のざわめきを聞きながら今後のことに考えをめぐらせる。どうしたらいいのか。
いくつめか、停車した駅で人の波に押されて降りた。騒がしいアナウンスが耳に入り、ここが日本一のターミナル駅であると知らせる。人の波に逆らわず、歩く。とくにあてはない。ただ歩き回ることが必要と思っていた。広い乗り換え通路を歩いて改札を出る。駅ビルの入り口やさまざまなショップを尻目に階段を上がる。地上に出て、駅東口の雑踏にまぎれた。大量の歩行者に、待ち合わせらしい人のかたまり。人と人の間を縫うように歩く。街は夕闇が近づき、イルミネーションが輝き始めている。これからどうするか。二重の意味で考えながらビルの立ち並ぶ繁華街をさまよう。ショッピングに食事、さまざまな娯楽を楽しむ、あるいはこれから楽しもうとしている人々の活気に満ちた街。すれ違う人々はみな目的を持って歩いているようだ。ムサシも一見はそう見えているのかもしれないが、自分が他人の目にどう映っているかなど、いまのムサシには考える余裕はない。実際、誰もムサシのことなど気にとめてはいないだろう。
人ごみの中特有の息苦しさと疲労を感じたし、喉の渇きも覚えた。気を落ち着けるためにもなにか飲みたいとは思ったが、店を探すのがひどく億劫だった。踵を返してムサシはもと来た方向へ戻り始めた。ため息をついて少し歩みをゆるめる。帰ろう、と思った。ここにいてはいけない、帰らなければ。
ラッシュと停車のたびに人に揉まれる苦行に入り、ムサシは帰途についた。どうすればいいのか、頭と心を占める問題に答えは出ない。しなければならないこと、ではなく自分がどうしたいのか。そのように思考を変えてみる。今度は答えが浮かんだ。だが、果たしてそれが正しいことなのか。ムサシには分からない。
都心から西へ、約1時間弱。過密状態の電車からやっと解放されて、最寄り駅に着いた。すぐ目についた自販機で冷たいコーヒーを買い、一気に飲み干す。缶をごみ箱に入れて歩き出す。あとは家に帰るだけだ、だが。
自分の足が重くなっていくのをムサシは感じた。帰る、帰宅する。自分とヒル魔の住むマンションの一室へ。おそらくヒル魔は家に居るだろう、いまごろはもう練習が終わって帰宅しているはずだ。先に戻ったヒル魔に挨拶をする。ただいまと言い、疲れたふりを装ってさりげなく自室に入ればいい。そうすればしばらく、顔を見ずにすむだろう。なんと言ってヒル魔の顔を見ればいいのか分からないいまは、そうするしかない。明日までは、そうするしかない。なんとか、明日までは。
だが、そのあとは。
どうしたらいいのだろう。
重い足取りで歩くムサシの体に雨が降ってきた。かまわず、歩みを速めることもせず、途中で道を逸れた。
小さな水族館を併設する公園。サイクリングコースとジョギングコースも整備された公園の中に入り、池に面した
マンションの共用玄関に入るまでに、ムサシの髪もブルゾンもかなり濡れていた。家に入ったら、まずタオルで拭いたほうがいいだろう。服はどうでもよいが、水滴のしたたろうとしている髪がかなり不快だった。
差し込んだ鍵をひねる前に、ひとつ息を吸い込んだ。それからムサシはドアを開けて家に入った。
「ただいま」
居間のドア越しに声をかけると、ヒル魔の返事が聞こえた。とにかく、頭と体を拭かなければならない。洗面所に入ってリネン入れの扉を開けて、タオルを取り出した。ごしごしと頭から拭き始める。顔を洗いたくなってタオルを洗面台に置き、蛇口をひねった。冷たい水で顔を洗う。自分はいまどんな顔をしているだろうか。ヒル魔の前で、平静を装うことができるだろうか。体の内に起こる震えのようなものを無理に抑え込んで強く顔をこすり続けた。目を閉じたままタオルを取って顔を押さえる。居間のほうからドアの開く音が聞こえて、ムサシの胸は強く鼓動した。ヒル魔の足音。近づいてくる。ムサシは顔を拭いているふりをした。
「おかえり。降られたのか」
タオルから顔を離すと、鏡の中にヒル魔が映っていた。振り返らずにタオルを使いながらムサシは答えた。
「ああ。帰り際に、ちょうどな。ザーッと降ってきやがった」
「よく拭いておけよ」
「ああ、もう着替える」
「そうだな」
ヒル魔はムサシから目を離して居間に戻ろうとする風だ。そのヒル魔に声をかけた。
「ヒル魔」
「なんだ」
「ちょっと疲れたみたいでな。今日はもう風呂に入って寝ることにする」
「そうか。……わかった」
ヒル魔はそれ以上なにも言わなかった。ムサシの視界から消えて居間に戻っていく。ムサシはほっと息をついた。
ムサシの様子から、多分ヒル魔はなにごとか察しただろう。だが、なにも言わずにムサシのそばを離れた。ありがたい、とムサシは思った。同時に、ヒル魔の顔を見られたことがただひたすら嬉しかった。さきほどまでは怖いようだったことが、いまはなんだかひどく懐かしく、慕わしいことのように思われた。
**********
「若棟梁」
聞き慣れた声で呼ばれて、工程表を見ていたムサシは顔をあげた。皆からヒロと呼ばれている若者が、控えめな笑みを浮かべて立っている。
「また、読みかた教えてください」
「いいぞ。どれだ」
ヒロの指し示すテキストにムサシは目をやった。
ムサシの父は昔ながらの職人気質の大工で、若い頃から叩き上げて武蔵工務店を立ち上げた。親として職業人として、尊敬も憧れも抱いてはいるが、やがて二代目となる立場のムサシとしては自分なりのビジョンもあった。ゆくゆくは設計から施工、アフターケアまで万全と評価されるような、本格的な地域密着型のビルダーになりたいという夢だ。だがまだまだそれは先の話、第一ムサシはこの春やっと成人したばかりなのだ。若棟梁などと呼んで従業員は大事にしてくれるが、それに甘んじていてはいけないとムサシは常日頃から自分を戒めている。
地元の商店や住宅の改築、リフォーム。大手ハウスメーカーの建売住宅の基礎。さまざまな業務を手がけるムサシの店は、現場仕事が立て込んでスケジュール過密になると、ためらわずアルバイトを雇うことにしている。人手不足とそれによる疲労はていねいな職人仕事の大敵だ。なにかと意見の対立することもある棟梁と若棟梁だが、その点は親子で一致していた。
ムサシがものごころついてから、武蔵工務店にはさまざまなアルバイトの若者が出入りしていた。地元の口コミから、縁故から。または役所やタウン誌に依頼した求人を見て応募してきた若者たちだ。そうした多くの作業員を見てきたムサシは、いまでは初対面であらかた予想がつくようになった。続くかどうか、働きぶりは良いか、どうか。その意味で、言葉は悪いがこのヒロという青年は当たりだった。本当は浩という名だが、職人たちから愛称で呼ばれるほど可愛がられている。
建設作業員の仕事は大きく分けて二つあり、うち一つは専門的な知識と技術を必要とする職人だ。もう一つが職人たちの補佐をする下働き、手伝いの仕事。よく
ヒロは近所の酒屋の口利きでムサシの父が雇った手元の若者だった。年齢は19と言っていたので、ムサシと同年代だ。彼が初めて、武蔵工務店の一員として働くために出勤した朝、ムサシは内心驚いた。
その日、ヒロは実際の始業時間よりずいぶんと早く姿を現した。どうした、と訊いたムサシに、ヒロはまず詫びを言った。続けて、自分は初心者で分かっていないことだらけなので、せめて早めに現場の様子を見ておきたいと思った。できれば、資材や道具の名や作業の流れを頭に入れておきたいので教えてはくれないか、と言う。もちろんだと答えてムサシはまだ誰も来ていない現場の中をヒロと二人で歩いた。このことでムサシのヒロに対する印象はだいぶ良いものになったし、今後も注意して目をかけてやろうと思ったものだ。
その日、さりげなくヒロの様子を観察していて、ムサシはこれは儲けものだと思った。なにしろ骨身を惜しまずに働くし、動きに無駄がない。まだ初日とあってヒロの仕事はおもに道具や雑材運びが中心だったが、現場をよく見て道具ひとつ取っても置き場所に気を使う。他の職人の邪魔にならないよう足の運びに注意していることは容易に察せられた。昼休みには全員に茶が行き渡っているかどうか目を配り、弁当の箸を取ったのはヒロが最後だった。食事のあとは体を休めるために横になるのがムサシたちの仕事の常だが、ヒロは多くの者が寛ぎ始めるのを確かめると、隅に行って目立たないように本を開いた。思わずムサシは声をかけて、ちゃんと休むのも仕事のうちだ、と言ったものだ。
終業前にほとんどの若者が面倒がる片付けや掃除も、ヒロは嫌な顔ひとつせずにこなした。日給を受け取って明るく挨拶し、彼が店を出て行ったあと、ムサシは古参の幼なじみの従業員からさっそく声をかけられた。厳ちゃん、当たりだねえ、と。続けばいいけどな、とムサシは答えたが、内心では大丈夫だろうと思っていたのだ。入れ替わり立ち替わりする出入りの作業員を見てきたムサシの直感だった。
期待通り、ヒロは翌日も、そのまた翌日も変わらず元気に出勤してムサシを安堵させた。昨日と同じように仕事ぶりは真面目で、しかも勉強熱心だ。きつい、きたない、危険。いわゆる3K労働とよく称されるこの仕事に珍しく熱意を持って、誠意をこめて働こうとしているのが見て取れる。
ヒロはやがて、工務店の従業員たちばかりでなく出入りの職人たちからも可愛がられるようになり、手元とは言え武蔵工務店の貴重な働き手となった。誰とも馴染み、親しく、だが礼儀正しく口を聞き、知識や経験を深めていこうとする。本人がそんな様子だから周りはますます可愛がるしさまざまなことを教え、導く。武蔵工務店の現状から言って、ヒロを正社員として雇う余裕はない。だがムサシは今の現場が終わったらヒロに新しい職場を用意するため口をきいてやろうと思っていた。もともと、ヒロを紹介してくれた酒屋の主人も、ひょんなことで彼を知り助けてやらずにはいられなくなったらしい。採用のときに詳しい事情は聞かなかったが、武蔵工務店の人々と職場に慣れるにつれ、ヒロはぽつぽつと身の上話のようなものをするようになった。まとまった話ではなく断片的に語られたそれを繋ぎあわせると、ずいぶん苦労しているらしかった。父親の酒好きが祟って家が貧しく、中卒で働くことになった。返済しきれないほどの借金と、養わなければならない弟妹を抱えて、
肉体労働に慣れたヒロの体はよく筋肉がついていて、短く刈り込んだ髪や角ばった顔つきからも、決してお世辞にも可愛らしいとは言えない。だがそう聞かれたときのヒロは一瞬、真っ赤に顔に血をのぼらせた。なんとも言えない笑みを浮かべて、彼女ができたんです、と言ったものだ。そして思う存分、周り中から
武蔵工務店での勤務初日、ヒロが休憩時間に開いたのは資格試験のためのテキストだった。ショベルカーやクレーン車などの免許は言うまでもなく、土木建築業界でこれからもやっていこうとするなら持っておいたほうがよい資格はいくつもある。だが、環境が災いしてろくに学校教育を受けてこれなかったヒロには、テキストを開いても読めない漢字や読み解けない文章がある。そんな事情を知ってから、ムサシはいつでも、なんでも教えてやるから訊きに来いと言っていた。ヒロさえ良ければ、テキストを自分が一夜預かって、読み仮名を振ってやってもいいとムサシは考えていた。無論のこと、その都度尋ねられるのがわずらわしかったからではない。明るく素直なヒロと会話することは、たとえ短時間とは言えムサシにとっても楽しみだったのだ。
いくつかヒロの示した漢字の読み方、それと意味を簡単に説明すると、いつもの通りヒロはありがとうございますと礼を述べた。ムサシはいつも通りに、いいんだ、頑張れよと答える。軽く会釈してヒロが離れていくのを見送りながら、ヒロはいい表情をしているな、とムサシは思った。持って生まれた性格やその後に形成された人格、そして彼を取り巻く環境。それらから生まれるヒロの表情は若々しく人を惹きつける力を持っている。もちろん、ムサシが見たことのないヒロの彼女とやらも、彼の明るさに十分力を発揮しているのだろう。
そこまで考えて、ムサシは軽い痛みを覚えた。昨日、駅で別れた女性への申し訳なさ。と同時に、自分をひどい男だなと思った。相手から告白されて交際することになったとは言え、無駄に期待させるようなことをしてしまった。そうした申し訳なさはもちろんあるが、すでにどこか遠いことのようなのだ。それよりも、いまのムサシはなによりもヒル魔を恋しいと思っている。早く帰ってヒル魔の顔を見たい。だが、心のうちを正直に話せばいまの関係は壊れるだろう。実るわけはないのだから。
若棟梁、とまた自分を呼ぶ声が聞こえて、ムサシは我に帰った。終業まではまだ間がある。しっかりしなければ。声の方に顔を向けて、ムサシは気を引き締めた。
武蔵工務店の現在の作業場は店のごく近くに位置している。終業を迎えると車や道具類を店裏の駐車場に置いて、従業員たちが挨拶をしてそれぞれの家路についていく。ムサシの帰宅はいちばん最後だ。ヒロはもちろんのこと、皆を見送ってから自分名義の軽自動車に乗り換えて、ムサシもマンションへと帰る。帰宅前のLINEはいつもの習慣だ。これから帰ると一報を入れると、折り返しヒル魔から返信があった。祝杯をあげるから付き合えと言う。どこかで飲むのか、と訊いたら一言、ムサシとヒル魔の行きつけの店の名が返ってきた。それならいったんマンションに戻って車を置かないと。なにか、嬉しいことがあったんだろうか。ムサシは考えながら軽に乗り込んでエンジンをかけた。
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