翳る陽
給水塔は見ていた。
最初一人だった少年が二人になり、三人になるさまを。
給水塔は見ていた。
ふたりの少年がそれぞれに想いを抱くさまを。
そして給水塔は見た。
三人目が一人目に告白する光景を。
給水塔はもの憂く見つめていた。
◇◇
あのな、と少しためらった。
それからムサシは顔を上げておのれを奮いたたせた。
「ヒル魔。俺はてめーが」
「いや──お前が、好きだ」
放課後、給水塔の上。
まだ肌寒い冬の終わりの日。
ヒル魔はムサシに目を当てて薄く口を開けた。タンクに寄りかかったまま、斜め前のムサシを見つめる。
切れ長の眸にあるのはムサシの言葉を飲み込みきれていない色だ。ツンと尖った鼻先、するどい頬の線までが不可解そうな空気をまとわせる。
震える胸をムサシは抑えて待った。自分ら受験生にとっての正念場、高校入試が終わった。先が見えたところでと計画していた通り、いわば胸を開いて自分は心を打ち明けた。これに目の前の男はどんな応えを返すのか。どんな言葉を紡ぐのか。制服の下で不安と一抹の期待がふくれあがるようだ。
ヒル魔の顔色は徐々に理解めいた様子をおびた。いよいよだ、とムサシは感じた。無意識にごくりと唾を飲み込む。
するとヒル魔はケッと口もとをひん曲げた。
「何をいまさら寝ぼけたこと言ってんだ」
「は……?」
「俺と糞デブだってテメーを見込んだから誘ったんだ、決まってんだろ。いまごろになってクサいこと抜かすんじゃねえ」
「いや……あのな、ヒル魔」
「んな暇があったらテメーは飛ばすだけじゃねえ蹴りを磨きやがれ。おら練習だ、クリスマスボウルは待っちゃくれねーぞ」
返事の隙も与えずヒル魔は立ち上がって背を向けた。ムサシは半ば呆然とし、次になすすべもなくヒル魔に従った。こいつの“勘違い”を正したい。だがどのようにすべきか分からない。指先が震えるような感覚をただ抑えつけた。
梯子の手前でヒル魔は横柄に肩で示した。先に降りろと。しようことなしにムサシは先に立って降り始めた。
──俺は
ひたすらに思い惑う気持ちが胸に広がる。
中2で知り合ったビアスに金髪の同級生。
おそろしく口の悪いその男に自分は想いをかけているのだと最近ようやく気がついた。ヒル魔を思うとあたたかさとともに不思議な切なさが胸に広がる。いつもそばにいたいと思う。糞ジジイなどと呼ばれることすら幸福で胸がはずむ。
しばらくおのれの心を見つめたのち、ムサシは決意した。正面からぶつかろうと。そばで見ていた巨漢の友も応援してくれた。きっとムサシの気持ちは通じるよ、僕が保証するよ、と。
その言葉に励まされてムサシは踏み出した。意を決して、好きだと心のうちをヒル魔に告げたのだ。
ところが思いもよらないことが起こった。
梯子を降りる。足を下にやって一段。また一段。そうしながら胸の中でムサシは嘆息する。
ヒル魔は──隙のないこの男にしては珍しいことだが──虚を突かれたような顔をした。そこまでは想定内ではあった。しかしその口から出たのはムサシの予測外のせりふだった。ヒル魔はムサシの意を完全にはき違えたのだ。
“俺と糞デブだって”
“テメーを見込んだから誘ったんだ〟
ヒル魔が指すのは一昨年の出会いのことだろう。好きだというムサシの気持ち、それをヒル魔は格別な友情と受け取ったらしい。ムサシが自分に厚い友誼を抱いているのだ、と。そんなのはムサシを見込んだ自分も同様だと言いたいのだろう。そうとしかムサシには思えなかった。
ただひたすら深く重くムサシは嘆息する。自分が伝えたかったのはヒル魔の解釈とは別のものである。
だが無理もないかもしれない。いくら頭も舌も回るとはいえ、結局のところこいつはアメフト一筋の男なのだ。そんな諦めのような、もどかしいような気持ちがムサシを包む。
見込んだなどという心情をこの男から引き出せただけでも告白の甲斐はあったのかもしれない。──いや違う。自分が望んだのは似て非なるものだ。友情は勿論のことである。それに加えて恋情、思慕。そういうものを自分はヒル魔に抱いている。そのことを伝えたい。ヒル魔に伝え、この“鈍い”男に理解させたい。自分はヒル魔に恋をしているのだということを。
だがそれを好きという言葉以外で伝えるすべをムサシは持たない。
──どうしたらいいか
懸念した最悪の事態にはならなかった。最悪の事態、すなわちヒル魔が自分の想いに戸惑い、ふたりの関係がぎくしゃくするというような結末には。が、この先どうしたらいいのか。ともかく栗田に報告を。
友は教室で待ってくれているはずだ。僕はここにいるから、頑張って、とムサシを送り出してくれた。背中を押してくれたあいつには済まないような結果になってしまった。一体どうしたらいいだろう。
ヒル魔と違って、自分はさまざな口説を駆使することなどできない。そういうことは不得手だ。それならせめて行動で示すしかないのではないか。
行動。例えばいつもヒル魔のかたわらにいること。陰になり日向になり、また陰になり、つねにヒル魔の隣に自分があること。そんな姿を見せることでヒル魔が自分をあらためて見つめてくれたらいい。そして──あわよくば自分と同じ想いを抱いてくれたらいい。
そうか。
そうだ。
もしもヒル魔が振り向かなくとも、自分の取るべき道はこれしかないのではないか。自分の気持ちはすでに明らかだ。心をあざむくことはできない。つねにヒル魔とともにあること。そんな道を自分は取るべきだ。いや、取りたい。
ヒル魔への恋。そしてそこから生じた新たな自分の心。わけもなく緊張するような、身が引き締まるような思いがムサシに湧いた。
その思いを抱えつつ、唇を引き結んでムサシは梯子を降りていった。暗灰色の塔壁に沿って、一段ずつ慎重に梯子を踏み締めて。
それゆえムサシは気づかなかった。
塔の上に突っ立つ男の様子に。
棒立ちのヒル魔。
棒立ちに突っ立って、唇を震わせるヒル魔にムサシは気づかなかった。
微風がヒル魔の頬を撫でる。冷気を含んだ風があることは分かる、だがそんなことはどうでもいい。
顔が熱い。頭がどうかなってしまったようだ。つい先ほどのムサシの言葉が胸にくさびのごとく刻み込まれて離れない。
チームの剛健なキッカー。時に小面憎いと見えるほど落ち着き払ったその男が、今日は珍しくどこか不自然だった。黙りがち、目を伏せがちだった。
この男の眸をヒル魔は気に入っている。きっぱりと迷いのない澄んだまなざし。それが今日に限って翳りをおびたようなのはどういうこったと内心で訝しんでいた。様子を窺っていたらやがてムサシはきゅっと口もとを引き締めた。顔を上げて、やっとヒル魔を見据えた。いつものように、まっすぐに。
そしてヒル魔に不意打ちを食らわせたのだ。
“お前が、好きだ”
ヒル魔は立ち尽くす。
動悸はまだ強く身のうちに続く。
思い出すだに顔が熱い。
咄嗟に勘違いを演じたのはどうしたらいいか判断を下すことができなかったからだ。自分の気持ちに目覚めたのはつい最近のことなのだから。ムサシに対して抱くものが恋、想いというものであるとまだヒル魔は悟ったばかりだった。生まれて初めての経験。おのれを分析し理解することに必死で、その先を読むなど無理な段階だった。ゆえにムサシの心をヒル魔は受け止めかねた。
ヒル魔はムサシの意を誤解したていを装った。ムサシは友として自分を好ましく見ているという。自分だとてムサシを見込んだのだから同じだ、と表した。恋をし、その恋を成就させるためにどう応えるべきなのか分からなかったから、ムサシの気持ちを厚い友情と受け取るふりをした。
〝ケケケ、奇遇だな”
〝そうかよ”
〝俺もテメーとおんなじ気持ちってやつだ”
そんな解が胸に生まれたのはずっとずっとあとになってからだ。
──…………
熱い頰に手の甲をやって唇を噛む。今となっては疑いようもないムサシへの想い。どうすればいいのか。
目を閉じて呼吸を整えた。ともかく、あの男の──心は分かった。あとは俺が。
俺が。
──どうにかするっきゃねえ
入試は終わって自分もムサシも栗田も揃って同じ道を歩む。その中でどうにかして。
どうにかして、あの男を手に入れるための方策を立てるのだ。
もう少し頭が冷えたら、何か手段を思いつくということもあるかもしれない。いや、あるだろう。
この思考の誤りにヒル魔は気づいていない。
ひとの心を手中におさめることなど誰にもできぬことだ。そして心と心をつなぐのはさかしらな知恵でも弁舌でも手腕でもない。そのことに詰襟のヒル魔はまだ気づかない。
もの思いに翳る眸をきっと前へ向けた。それから息をついて、ヒル魔は足を踏み出した。
ヒル魔はまだ知らない。
このわずか数ヶ月後、想いをかけた男が学内から姿を消すことを。
待つことに賭ける心。そんな心をおのれが抱き続けることをまだ知らない。
幾度口にしても足りない、テメーは戻るという言葉。その言葉にどれほどの思いをおのれが込めることになるか。
待つ心。待ちわびる心。恋い焦がれる心。信じぬく心。
伝えたい想いも届けられずに。
いまのヒル魔はまだ知る由もない。
給水塔だけがふたりを見ていた。
屋上に長いその影を落としながら。
給水塔には遠い悲痛が届く。少し先、少年らが味わうだろう悲痛が給水塔には見える。長い年月で手に入れた、入れたくもなかった力だ。
給水塔はゆえにもの憂く窺う。
黙ってただふたりを眺める。
人のまばらな学舎。
黄昏が忍び寄る時刻になっていた。
最初一人だった少年が二人になり、三人になるさまを。
給水塔は見ていた。
ふたりの少年がそれぞれに想いを抱くさまを。
そして給水塔は見た。
三人目が一人目に告白する光景を。
給水塔はもの憂く見つめていた。
◇◇
あのな、と少しためらった。
それからムサシは顔を上げておのれを奮いたたせた。
「ヒル魔。俺はてめーが」
「いや──お前が、好きだ」
放課後、給水塔の上。
まだ肌寒い冬の終わりの日。
ヒル魔はムサシに目を当てて薄く口を開けた。タンクに寄りかかったまま、斜め前のムサシを見つめる。
切れ長の眸にあるのはムサシの言葉を飲み込みきれていない色だ。ツンと尖った鼻先、するどい頬の線までが不可解そうな空気をまとわせる。
震える胸をムサシは抑えて待った。自分ら受験生にとっての正念場、高校入試が終わった。先が見えたところでと計画していた通り、いわば胸を開いて自分は心を打ち明けた。これに目の前の男はどんな応えを返すのか。どんな言葉を紡ぐのか。制服の下で不安と一抹の期待がふくれあがるようだ。
ヒル魔の顔色は徐々に理解めいた様子をおびた。いよいよだ、とムサシは感じた。無意識にごくりと唾を飲み込む。
するとヒル魔はケッと口もとをひん曲げた。
「何をいまさら寝ぼけたこと言ってんだ」
「は……?」
「俺と糞デブだってテメーを見込んだから誘ったんだ、決まってんだろ。いまごろになってクサいこと抜かすんじゃねえ」
「いや……あのな、ヒル魔」
「んな暇があったらテメーは飛ばすだけじゃねえ蹴りを磨きやがれ。おら練習だ、クリスマスボウルは待っちゃくれねーぞ」
返事の隙も与えずヒル魔は立ち上がって背を向けた。ムサシは半ば呆然とし、次になすすべもなくヒル魔に従った。こいつの“勘違い”を正したい。だがどのようにすべきか分からない。指先が震えるような感覚をただ抑えつけた。
梯子の手前でヒル魔は横柄に肩で示した。先に降りろと。しようことなしにムサシは先に立って降り始めた。
──俺は
ひたすらに思い惑う気持ちが胸に広がる。
中2で知り合ったビアスに金髪の同級生。
おそろしく口の悪いその男に自分は想いをかけているのだと最近ようやく気がついた。ヒル魔を思うとあたたかさとともに不思議な切なさが胸に広がる。いつもそばにいたいと思う。糞ジジイなどと呼ばれることすら幸福で胸がはずむ。
しばらくおのれの心を見つめたのち、ムサシは決意した。正面からぶつかろうと。そばで見ていた巨漢の友も応援してくれた。きっとムサシの気持ちは通じるよ、僕が保証するよ、と。
その言葉に励まされてムサシは踏み出した。意を決して、好きだと心のうちをヒル魔に告げたのだ。
ところが思いもよらないことが起こった。
梯子を降りる。足を下にやって一段。また一段。そうしながら胸の中でムサシは嘆息する。
ヒル魔は──隙のないこの男にしては珍しいことだが──虚を突かれたような顔をした。そこまでは想定内ではあった。しかしその口から出たのはムサシの予測外のせりふだった。ヒル魔はムサシの意を完全にはき違えたのだ。
“俺と糞デブだって”
“テメーを見込んだから誘ったんだ〟
ヒル魔が指すのは一昨年の出会いのことだろう。好きだというムサシの気持ち、それをヒル魔は格別な友情と受け取ったらしい。ムサシが自分に厚い友誼を抱いているのだ、と。そんなのはムサシを見込んだ自分も同様だと言いたいのだろう。そうとしかムサシには思えなかった。
ただひたすら深く重くムサシは嘆息する。自分が伝えたかったのはヒル魔の解釈とは別のものである。
だが無理もないかもしれない。いくら頭も舌も回るとはいえ、結局のところこいつはアメフト一筋の男なのだ。そんな諦めのような、もどかしいような気持ちがムサシを包む。
見込んだなどという心情をこの男から引き出せただけでも告白の甲斐はあったのかもしれない。──いや違う。自分が望んだのは似て非なるものだ。友情は勿論のことである。それに加えて恋情、思慕。そういうものを自分はヒル魔に抱いている。そのことを伝えたい。ヒル魔に伝え、この“鈍い”男に理解させたい。自分はヒル魔に恋をしているのだということを。
だがそれを好きという言葉以外で伝えるすべをムサシは持たない。
──どうしたらいいか
懸念した最悪の事態にはならなかった。最悪の事態、すなわちヒル魔が自分の想いに戸惑い、ふたりの関係がぎくしゃくするというような結末には。が、この先どうしたらいいのか。ともかく栗田に報告を。
友は教室で待ってくれているはずだ。僕はここにいるから、頑張って、とムサシを送り出してくれた。背中を押してくれたあいつには済まないような結果になってしまった。一体どうしたらいいだろう。
ヒル魔と違って、自分はさまざな口説を駆使することなどできない。そういうことは不得手だ。それならせめて行動で示すしかないのではないか。
行動。例えばいつもヒル魔のかたわらにいること。陰になり日向になり、また陰になり、つねにヒル魔の隣に自分があること。そんな姿を見せることでヒル魔が自分をあらためて見つめてくれたらいい。そして──あわよくば自分と同じ想いを抱いてくれたらいい。
そうか。
そうだ。
もしもヒル魔が振り向かなくとも、自分の取るべき道はこれしかないのではないか。自分の気持ちはすでに明らかだ。心をあざむくことはできない。つねにヒル魔とともにあること。そんな道を自分は取るべきだ。いや、取りたい。
ヒル魔への恋。そしてそこから生じた新たな自分の心。わけもなく緊張するような、身が引き締まるような思いがムサシに湧いた。
その思いを抱えつつ、唇を引き結んでムサシは梯子を降りていった。暗灰色の塔壁に沿って、一段ずつ慎重に梯子を踏み締めて。
それゆえムサシは気づかなかった。
塔の上に突っ立つ男の様子に。
棒立ちのヒル魔。
棒立ちに突っ立って、唇を震わせるヒル魔にムサシは気づかなかった。
微風がヒル魔の頬を撫でる。冷気を含んだ風があることは分かる、だがそんなことはどうでもいい。
顔が熱い。頭がどうかなってしまったようだ。つい先ほどのムサシの言葉が胸にくさびのごとく刻み込まれて離れない。
チームの剛健なキッカー。時に小面憎いと見えるほど落ち着き払ったその男が、今日は珍しくどこか不自然だった。黙りがち、目を伏せがちだった。
この男の眸をヒル魔は気に入っている。きっぱりと迷いのない澄んだまなざし。それが今日に限って翳りをおびたようなのはどういうこったと内心で訝しんでいた。様子を窺っていたらやがてムサシはきゅっと口もとを引き締めた。顔を上げて、やっとヒル魔を見据えた。いつものように、まっすぐに。
そしてヒル魔に不意打ちを食らわせたのだ。
“お前が、好きだ”
ヒル魔は立ち尽くす。
動悸はまだ強く身のうちに続く。
思い出すだに顔が熱い。
咄嗟に勘違いを演じたのはどうしたらいいか判断を下すことができなかったからだ。自分の気持ちに目覚めたのはつい最近のことなのだから。ムサシに対して抱くものが恋、想いというものであるとまだヒル魔は悟ったばかりだった。生まれて初めての経験。おのれを分析し理解することに必死で、その先を読むなど無理な段階だった。ゆえにムサシの心をヒル魔は受け止めかねた。
ヒル魔はムサシの意を誤解したていを装った。ムサシは友として自分を好ましく見ているという。自分だとてムサシを見込んだのだから同じだ、と表した。恋をし、その恋を成就させるためにどう応えるべきなのか分からなかったから、ムサシの気持ちを厚い友情と受け取るふりをした。
〝ケケケ、奇遇だな”
〝そうかよ”
〝俺もテメーとおんなじ気持ちってやつだ”
そんな解が胸に生まれたのはずっとずっとあとになってからだ。
──…………
熱い頰に手の甲をやって唇を噛む。今となっては疑いようもないムサシへの想い。どうすればいいのか。
目を閉じて呼吸を整えた。ともかく、あの男の──心は分かった。あとは俺が。
俺が。
──どうにかするっきゃねえ
入試は終わって自分もムサシも栗田も揃って同じ道を歩む。その中でどうにかして。
どうにかして、あの男を手に入れるための方策を立てるのだ。
もう少し頭が冷えたら、何か手段を思いつくということもあるかもしれない。いや、あるだろう。
この思考の誤りにヒル魔は気づいていない。
ひとの心を手中におさめることなど誰にもできぬことだ。そして心と心をつなぐのはさかしらな知恵でも弁舌でも手腕でもない。そのことに詰襟のヒル魔はまだ気づかない。
もの思いに翳る眸をきっと前へ向けた。それから息をついて、ヒル魔は足を踏み出した。
ヒル魔はまだ知らない。
このわずか数ヶ月後、想いをかけた男が学内から姿を消すことを。
待つことに賭ける心。そんな心をおのれが抱き続けることをまだ知らない。
幾度口にしても足りない、テメーは戻るという言葉。その言葉にどれほどの思いをおのれが込めることになるか。
待つ心。待ちわびる心。恋い焦がれる心。信じぬく心。
伝えたい想いも届けられずに。
いまのヒル魔はまだ知る由もない。
給水塔だけがふたりを見ていた。
屋上に長いその影を落としながら。
給水塔には遠い悲痛が届く。少し先、少年らが味わうだろう悲痛が給水塔には見える。長い年月で手に入れた、入れたくもなかった力だ。
給水塔はゆえにもの憂く窺う。
黙ってただふたりを眺める。
人のまばらな学舎。
黄昏が忍び寄る時刻になっていた。
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