もう雨は降らない

 ……お前も知ってるかもしれないが、栗田とあいつと俺がめぐり会ったのは中2の時でな。
 同じ学校だし同じ学年だし、その前から姿を見かけてはいた。噂も聞いていた。栗田はともかく、あいつの評判はありていに言えば悪かった。
 うちの学校はおとなしいのが多かったからな。その中でまずあの外見だ。派手な金髪にピアス。細っこい割にふてぶてしい顔つき。カバンと一緒に銃なんか担いでる。それに行動が謎めいていた。あの歳で基地に出入りして多額のカネまで持ってるらしい。いったい何をしているやら分からない。そういう噂で持ちきりだった。
 ただでさえそんなことで不気味がられていたのに、ある時からあいつは周りを──校長を含めた教師たちをも──片っ端から脅し始めた。どうしてかと思ったら栗田と一緒にアメフト部を作るためだという。
 俺は隣のクラスだったんだが、これを聞いた時ずいぶん無茶というか、極端なやつだなとは思った。でもそれだけだった。俺には関わりのないことだし、第一俺はうちの手伝いのことでいっぱいだったからな。
 ……ただ。
 ……ひょんなことで基地の外で知り合って、あいつは俺のキック力に目をつけた。
 それからだ。
 それから栗田とあいつは俺を誘い始めた。アメフトという競技へ。

 ……あいつらはそりゃあ、なりふり構わない勧誘を繰り広げたもんだ。

 あいつが恐ろしく頭も口も回るのは出会ってすぐに分かった。その口で、あいつは俺を引き込むために嘘八百を並べたてた。アメフトが大工の能力向上につながるなんぞと言い出したりな。一方で栗田はことあるごとに熱弁を振るった。いかにアメフトが楽しいかということを。
 授業の間の休み時間ごとにあいつらは現れた。断っても断っても現れた。俺がちょっと席を離れた隙に机にアメフト誌を広げポスターをべたべた貼り付けて、いわば俺を〝洗脳〟しようと躍起になった。教科書の中身をすり替えたりな。毎日毎日そういうことが続いた。
 さっきも言ったように俺は家の手伝いがあったからな、何度来られてもその気はない。あいつらにそう伝えて首を振り続けたんだが、それでもあいつらは諦めなかった。
 しまいにあいつらは現場にまで来るようになった。俺や職人たちに混じって資材を運び生コン袋を担ぐ。俺と一緒になって汗を流す。そういうことをするようになった。
 俺はあいつに聞いたよ。
 なんでこんな真似する、ってな。
 俺を利用するつもりなら例の手帳を使えば済むだろう。
 そう聞いた。ぶっちゃければ探りを入れたわけだ。俺にはまだあいつを警戒する気持ちがあったからな。
 するとあいつは笑った。俺の脅迫ネタは採ってねえと。俺はんな類の輩じゃねえからだ、とも言った。
 ほうと俺は思った。
 脅せばいいと自分から言い出しておいて何だが、確かに俺はそういうことで動く方じゃない。それを見抜いた上で、あいつらはいわばあいつらなりの勝負をしかけてきた。
 ……面白いやつらだと思った。あいつらの決意や熱意、そして心意気のようなものに俺は感じた。それが高じてあいつらの仲間になった。
 やるからにはきっちり仕事はするつもりだったし、アメフトのこともそして家のこともおろそかにするつもりはなかった。

 麻黄13中。
 そこで俺たちはチームを作り、アメフト部を作った。デビルバッツというチームを始めた。ユニフォームも作った。あいつがあの手帳で助っ人をかき集めて、試合もするようになった。
 俺らの目標は最初からはっきりしてた。クリスマスボウルだ。高校アメフト日本一、それをめざして鍛錬と練習、そして試合という日々が始まった。
 ……まあよく負けたもんだけどな、何度も何度も。それでも俺は楽しかった。キックが決まりゃ無論気持ちいい。毎日の練習で自分の身体能力が、技術が上がっていくのもやり甲斐があった。そして、俺はアメフトにのめりこむのと同じほど──。
 ……栗田やあいつのひたむきさにもどんどん引き込まれていった。

 ハッタリ好きで挑発好き、根回し暗躍は得意技。
 でもあいつがそれだけの男じゃないことはお前も知っているだろう。
 ……出会った頃のあいつは、俺から見たらとにかく細っこいとしか思えなかった。身長こそあったしよく回る頭とよく回る舌には恵まれていたけどな。こんな肩の薄い体格のやつにアメフトなんかできるのかと俺はこっそり考えたこともある。だけどな。
 俺たちは部を作りチームを作り、いつも三人で同じ時間を過ごした。そうしていれば自然と目に入る。
 ……あいつの練習量の凄まじさが。
 ベンチプレス1キロ、40ヤード走コンマ1秒。
 記録を上げるため能力を上げるため、試合のため。勝つため。
 あいつがどれだけ地味な鍛錬を積み上げているか、そばにいる俺にはありありと察せられた。
 まともにぶつかれば中堅どころの選手にも劣る。あいつの身体能力は率直に言えばそういうもんだった。最初はな。
 だけどあいつは闘っていた。試合より敵より何より、自分と闘って自分を変えていった。
 勝つために。
 あいつは大変なあまのじゃくだ。それに意地の張り方と言ったらそりゃあ強烈なもんだった。俺や栗田の前でも苦労などしていないという顔をする。涼しい顔をする。というか、最初はそうしていた。肩肘を張って、俺らにも弱みを見せまいとしているようなところがあった。
 でも繰り返すが──そばで見ていればあいつがどれだけの努力をしているかは分かる。
 あの性悪な笑い方とあの手帳に隠された努力が分かる。
 ……不思議なやつだなと俺は見ていたよ。奇妙な生き物を見るように。

 出会ってから約1年、中3の秋頃まではそうして過ぎていった。
 あいつは忙しい男だ。ほんのいっときもじっとしていない。頭と身体をつねにフル回転させてる。アメフトのため、勝ちを掴むために。
 ただ、そういう中で変化もあった。
 頭も口もつねに回るあいつが、どういうわけかじっと思慮にふけるように押し黙っている。そんな姿をあいつは次第に見せるようになった。俺や栗田の前でな。
 ……来る日も来る日もアメフトざんまい。練習に試合に、そして負け続けて。それでも三人で笑い合って三人きりの練習を重ねて。
 そんな日々の中である時は口を閉ざして考え込んでいたり、眠ぃなんてぼやいたり。……休み時間に栗田に寄りかかってうとうとしたりする。
 そういう変化を俺は新鮮に感じていた。
 特にあいつが押し黙っている時はな。俺はあいつがいったいあの頭の中でどんなことを考えているんだろうと気にするようになっていった。
 それは純粋な興味、単なる好奇心だった。……そのはずだった。

 出会った頃は思ってもみなかった横顔。
 薄い肩に、身体に筋肉がつき体幹が鍛え上げられる。パスの飛距離が上がる。パフォーマンスを上げていく。
 地味な努力でこつこつと一つ一つを積み重ねて伸びていく。
 ……そういうあいつの姿を俺は見ていた。
 歯を食いしばり汗を流す横顔を。
 ……俺はその横顔から目が離せないような思いを抱き始めた。それがどういうことなのか分からないまま。
 三人で部活して、帰り道も三人一緒。肩を並べて思う存分にアメフト談義を繰り広げながら。
 頼りないように見えていたあいつの肩がたくましさを帯びる。
 その肩がふと目に入ると俺は落ち着かない気持ちになった。なんだかそわそわするような気持ちというのか……そわそわして、そこに自分の手を伸ばしたいというような。
 あいつに触れたい。
 自分がそう感じてることに気づいた時はぎくりとした。そして考えてみた。どういう心持ちで俺はいるのか。
 あいつがいないとどうしたかと思う。不安にも似た気持ちになる。かといってそばにいたらいたで落ち着かない。幸せで満足なような、気掛かりであるような。絶えずあいつの動きが気になる。呼ばれたらそれは嬉しいんだが返事の仕方が不自然になる。
 ……いわゆる、意識するっていうやつだ。
 机に向かって勉強しててもあいつのことが浮かんでしょうがなくてな。
 中3、つまりは14・5歳ってのは年頃だろう。クラスにもその他にも、誰を好いた惚れた、付き合うの付き合わないのとそればかり騒ぐやつもいた。
 そういう周りと、自分の気持ちを照らし合わせて俺は思った。
 どうも俺は、あいつに……。
 あいつに懸想しているらしいとな。
 気がついた。
 ……どうするかと思ったが自分の気持ちを伝える必要はないと俺は結論を出した。理由はな。
 栗田とあいつと俺。
 アメフトという縁で結ばれて、肩を並べて三人で歩む。
 そんな関係を守りたいと思ったからだ。
 栗田の、そしてあいつの屈託のない笑顔。それを何よりも俺は大切に考えていたし守りたかった。だから本当の気持ちをあいつに告げる必要はない。……そういう風に考えた。

 そんなわけで俺たちは志望校も一緒だった。それが神龍寺だ。神龍寺でアメフト部に入って、クリスマスボウルを目指すっていう計画だった。俺とあいつは成績の方は何とかなる。ただ栗田の成績が心配だったが、あいつが走り回って栗田のために推薦枠を取ってきた。本当にあいつは栗田思い、友達思いなやつだと俺はあらためて思ったし、とりあえずよかったと俺もほっとした。
 ……そうして道が見えた矢先、横槍が入ってな。栗田の神龍寺への道はほぼ閉ざされてしまった。
 あいつと俺がその時どうしたか。
 迷わず志望校を変えたよ。
 栗田とともにいるために。
 クリスマスボウルの夢、それは三人一緒でなければ意味がなかったからな。三人で泥門を志望先に変えた。
 ……栗田はとにかく気落ちしててな。俺やあいつに詫びの言葉を何度も繰り返した。僕が至らないせいで、本当にごめんね、と。栗田はどこも悪くないのにな。だから俺もあいつも懸命に励ましたよ。過ぎたことを気にするな、気に病むなと俺は言った。あいつはオラ勉強するぞと栗田を駆り立てた。参考書を広げさせて、自分は正面に銃を構えてふんぞり返って。次間違えたら撃つぞなんてぷんすこ怒りながら、そのくせ丁寧に教えてやってた。本屋で教材も買って来てな、栗田のために。
 ……必死に勉強する栗田と、栗田に教えるあいつ。
 そういう光景を見ながら俺は思っていた。俺の選択はやはり間違っていなかったと。三人で目指す夢。夢を目指す俺たち三人。
 何がなんでもこれを守りたい。
 俺はそう切に願った。
 大切な友達と──親友と目指す夢。大切な夢。これを守るためなら俺は何だってする。そういう気持ちで俺は……いや、俺たちは進学した。



 そうして泥門に入った春、親父が倒れた。店は傾き従業員はこのままじゃ路頭に迷う。
 ……俺は大切なものを全て諦めた。
 子供の浅知恵ってやつだな。今思えば早計というか、それしか手立てはないと思い詰めた。アメフト、学校、それに……あいつへの想い。そういうものを捨てるしかないと思った。傾いた店と家を守るために。
 あいつは校長を脅して金を出させると言った。そんなもん俺が受け取るわけがないのにな。あいつも混乱してたのかもしれないとはずっとあとになってから感じたことだ。
 俺はあいつの申し出を断った。

 ──どうにか なんねえのか……

 あいつは静かな口調で俺に尋ねた。あいつにしては静かに。
 でも眸は死にものぐるいだった。
 ……俺は……叫び出しそうな気持ちだった。
 なるわけがねえ、どうにもならねえ。この道を選ぶしかねえんだ、と。そういう叫びが喉もとまでこみ上げた。
 ……全てを飲み込み、こらえるために死力を尽くした。こぶしを握りしめて。
 アメフト。仲間。あいつへの想い。
 ……これっきりだと自分に言い聞かせながら。
 俺は学校を辞めた。

 あいつらはそれでも時たま会いに来た。あいつは勝手に俺を休学扱いにしやがった。俺は何もかも諦めたつもりだったがあいつも栗田もいきなりそうとはいかないだろう。休学という体裁を取ったのも、俺のところに来るのも無理はない。そう考えたから俺は淡々と迎えた。立ち話、世間話ばっかりだったけどな、現場のかたわらで。
 あいつは──中身はともかく表向きは平然としていた。でも栗田はそうじゃなかった。仕事はどう、とか、疲れてないかい、とか、ひたすら気がかりな目で俺を心配してくれた。
 ……率直に言うとな。
 済まないという気持ちはもちろんあった。それに何より諦めたはずのものを俺自身が渇望していた。キック練習を俺はやめられなかったからな。仕事の合間を縫って、たった一人で。でも渇望すればそれは叶うというものでもない。
 だから俺はいつもあいつらをあっさり迎えてあっさり別れた。胸を抉られるような思いを押し隠して。
 ……でも時間というのは案外優しいもんでな。
 あいつは事あるごとにテメーは戻るとほざいてたんだが、それに勝手なことを言うなと笑うことも俺はできるようになった。自分も成長したなどとその時は考えていたがそれはちっともそういうことじゃない。今思えば俺の方こそ勝手だった。思い上がり、自暴自棄だったと思う。
 あいつらは二人で夏合宿に行ってくるなんてことまで報告しに来た。
 そうか、行って来いと素っ気なく返事しながらスコップを使ってたことを俺は覚えてる。

 ……胸をかき乱されるようなことがあったのは寒くなってからだ。
 年末でな。朝から凍えるような気温の低い日だった。空模様までどんよりと曇ってた。
 夕方、いよいよ降り出しそうになってきたので現場仕事は早めに終わった。俺は皆を先に帰らせて一人で後片付けをしてた。資材に雨よけをかぶせたりな。
 そこへあいつが来た。
 栗田はその時いなかった。あいつは一人で来て、俺の車にもたれてしばらく俺を見ていた。ガムをふくらませながら。
 いつもなら栗田がなんかかんかと話し出すんだが、俺には別に自分から口を切るようなこともない。あいつもどうしてか黙ったきりだった。何となく俺は居心地が悪いような気分でいた。
 仕方ないから今日は何の用だと尋ねた。あいつは珍しく黙って俺を見るだけで返事をしない。
 俺も疲れていたのか、それ以上こっちから話を振る気にもならない。……多分、少し疲れてたんだろうな。寒さと、そして……毎日に。現場はともかく慣れない挨拶回りや営業や金策や、そういうものに多分疲れていたんだと思う。
 シートをかぶせ終わって、俺は作業場を一瞥した。最後の確認をして、車の方へ歩き出した。
 ドアの前にあいつが立ち塞がってる。制服姿で、口もとからふくらむガムと共に。
 帰るからどけと俺は言った。同時にぽつりと冷たいものを感じた。とうとう降り出しやがった。
 あいつはどきもせず俺を見つめる。冷徹な目で。
 ──糞ジジイ
 俺をあいつは呼んだ。中学の時から変わらない呼び方で呼んだ。
 ──勝ったのはまた帝黒だ
 静かに発せられた言葉の意味は推察できた。クリスマスボウルのことか。それで俺は今日がクリスマスボウルの日だったということを思い出した。だが思い出したからと言って俺に何ができるわけでもない。俺にはもう何もできない。
 俺は黙っていた。
 あいつは言葉を続けた。
 ──残るは来年だ
 ──忘れるな
 ──もう俺らには来年しかねえ
 ──テメーは戻る
 その時な。
 戻るという言葉を耳にした途端──俺の中にくわッと何かが突き上げた。俺は激情に襲われた。ものも言わずあいつを車のドアに叩きつけた。鈍い音がしたがそんなことはその時の俺にとってどうでもいい。
 俺は力の限り押さえつけた。あいつの肩を。冷え込みのきつい日だったのに身体がめらめらと燃えるような感覚が俺を蝕む。息が上がる。目の前のあいつの顔。叩きつけられてほんの一瞬ゆがんだ目はすぐにまた冷徹な色を取り戻した。それで俺は余計に歯噛みするような思いに囚われた。
 ……俺の胸にあったのはな。
 あいつへの想いはあった。諦めようとしても諦めきれないあいつへの想い。だけどその時の俺を包んでいたのはそんな甘い感情じゃない。

 ……怒りだ。

 どこまでも勝手な野郎だという、あいつへの怒り。

 もとはと言えば俺の方が勝手だ、一度やると決めた部活から一方的に抜けたわけだからな。俺はあいつに何も言えた義理じゃない。だがあいつもあいつで一方的だ。俺が戻ると頭から思ってやがる。あの頭の切れるはずのあいつが理屈も何も抜きで俺が戻ると決めつけてる。俺が戻ることに──賭けてる。
 ……なんていう勝手な野郎だと震えるような怒りが俺にあった。
 ──戻るだと?
 ──できっこねえだろが
 俺はあいつを押さえつけたまま歯の間から押し出した。
 ──いいか。もう来るな
 ──二度と来るな
 ──俺は全部諦めた
 ──お前もだ
 ──諦めろ。いいな
 あいつの虹彩。息が触れるほど近くにある虹彩が大きくなった。諦めろと俺が口にした瞬間、いっぱいに開いた。目の色が変わった。これは何の色だ、そう感じた時。
 口にやわらかいものが触れた。
 あっと思った次の瞬間あいつに突き飛ばされた。あいつは俺を突き飛ばして飛びのいた。
 はあはあと息を切らせて──。
 あいつは自分のしたことが信じられないというように口を拭った。片腕で口をごしと拭って、そのまま──。
 顔をゆがませた。
 ……あいつのあんな顔を見たのは後にも先にもあの時っきりだ。
 目にあるのは悔しげな光。唇を震わせて、何か言いたいが何も言えないようだった。あの口から先に生まれてきたような男が何かに阻まれていた。
 あいつを阻んでいたのは、おそらく……。
 俺への怒り。悔しさ。どうしようもない現実に対するどうしようもない気持ち。……そういうものだったんじゃないかと思う。
 あいつは何も言わなかった。
 雨があいつの髪を濡らす。ぽつり、ぽつりと。冷たい雨が。
 呆然と立ち尽くしながら俺は心のどこかで感じた。あいつの身体が冷えてはいけないと感じていた。でもあいつと同じように俺も何も言えない、動けない。たった今俺に触れたやわらかいもの。それを現実として受け止めるのに必死で何もできなかった。
 ……夕闇が迫る。ぽつぽつと雨が降る。あいつの金の髪が濡れる。
 夕闇と雨にあいつの姿がけむる。
 その雨は俺とあいつを分け隔てる雨だ。
 冷たい雨。
 凍えるような。
 暗くなっていく景色の中であいつがゆっくりとまばたきをするのが見えた。
 あいつの頬をひとすじ流れていくものが見えた。
 俺がごくりと唾を飲みこむとそれを合図にしたようにあいつは顔を背けた。激しく。
 激しく身を翻してあいつは俺の視界から消えていった。

 あの時の顔は忘れられない。いまだに思い出すだけで俺は胸が詰まる。
 あいつの姿が見えなくなってからも、俺はそこから動けなかった。
 長いことそこから動けなかった。
 冷たい雨に打たれ続けた。
 俺とあいつを分け隔てる雨に。
 ……ようやく我に返ったのは真っ暗になる頃だ。まともに思考が戻ると共に俺はさっき感じたものを思い出した。あいつの気持ちを。あいつの思いを。

 あいつは。
 あいつも、俺を。

 ……あいつはあの時のことをあとで悔やんだかもしれない。おそらくそうだろうな。あれは一瞬の出来事だった、でもだからこそ分かるということもある。
 俺とあいつは、互いを──。

 ……想いあい、励ましあい、いたわりあうということができたらよかったけどな。だが今さらどうしようもない。学校に、部に戻れない以上俺には何もできない。俺はそんな風に考えた。
 いくらあいつの気持ちを悟ったところで、何のけじめもつけないままあいつに告白し想いを伝えるなんていうことは俺にはできなかった。それに万が一そんなことをしてもあいつも受け入れなかっただろう。
 ……そう考えることは苦しかった。心に穴が空いているようでな。仕事に打ち込んでも何をしていてもその穴は埋められない。
 ただ、それでも時は過ぎていく。
 毎日は過ぎていく。
 時間が解決してくれるということがあるならば早くそうなるといい。そんな風に願うような気持ちだった。……心に蓋をして、情を押し殺して、俺は店と家のことに打ち込んだ。
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