もう雨は降らない
宴会場を一歩出ると、その中の賑やかさがいっそう際立って感じられた。
十文字はふうっと息をついてネクタイをゆるめた。少し飲みすぎたかもしれない。頭の芯がぐらつくようだ。
だがめでたい席である。場内は自分と同じくスーツ姿の男たちが大賑わいに盛り上がっている。雰囲気を壊してはいけないと一人でそっと抜けてきた。
どこか目立たない場所はないか。そう思いながら辺りを見回して、壁際の観葉植物の陰に数脚の肘掛椅子を見つけた。
会場の隅のテーブルから水を取って、また抜け出した。何本もの蔓が編み上げられた緑の葉の後ろに入り、ジャケットのボタンを外した。
深く腰を下ろすとまるで安堵のようなため息が洩れた。みなと同じく、自分も今日の集まりを心から祝う気持ちだ。だからこそこんな様子を見せてはいけない。少しこうして休んでいれば回復するだろう。
会場から男たちのさんざめきが聞こえる。やや深酔い気味ではあるが、十文字の頬に快い笑みが浮かんだ。まるで子供のようにはしゃぐみなが微笑ましい。
飲めや歌えや。まさにそんな様子で男たちはこの集まりを祝い、楽しんでいる。知った顔も知らない顔も。栗田はさっきまで嬉し泣きに泣き笑いっぱなしだった。片端から握手と乾杯を繰り返し、今は紋付姿の溝六と昔話に花を咲かせている。張り切って蝶ネクタイでやってきたモン太は峨王に大食い合戦を挑みその最中である。あの小兵のどこに入るんだと思う勢いだ。彼の国でプロ選手となったセナはこの日のために一時帰国したという。本場のアメフト事情に興味津々の男たちに取り囲まれて質問攻めに遭い、昔と同じ様子であたふたしているところを雪光に助け出された。男たちの中で十文字にとって最も付き合いの古いのは黒木と戸叶だ。会場に着いて見たら二人して受付を担当していた。十文字が近づいていくと、おう、ようこそと晴れやかに笑った。
氏名を記帳して、十文字は旧友に一声かけた。
あいつらも年貢の納め時ってやつだな。
黒木がにやりと応えた。
まあ、今日は祝ってやってくれ。
悪戯っぽく戸叶が続けた。
あいつらの殊勝な顔が拝めるぞ、きっと。
十文字も微笑んで返した。
ああ、楽しみだ。
あいつら。
ムサシとヒル魔。
十文字にとって1学年上、かつて泥門デビルバッツというチームを同じくしたこのふたりは、最近になってパートナー関係を公表した。互いの親族の前で指輪の交換式を行ったのだという。これを機に、ふたりは集められるだけ友人を集めて挨拶および披露会をやってしまおうと考えた。十文字はそれに招かれてやってきたわけだ。
前もって知らされたところによると、列席者は多数にのぼる。泥門高校、最京大学、武蔵工バベルズの関係者。それにアメフト協会の関係者。各高校や大学、社会人チームの選手に指導層。大きな集まりだなと十文字は感じた。
知らせを受けた時、特に驚くような気持ちはなかった。ムサシとヒル魔は高校を卒業して長くともに暮らしており、それはいわば同棲であると十文字も周りも受け取っていたからだ。ふたりが想いあっている恋人どうしだということを十文字が確信したのは大学時代だが、それから自分は院に進んで司法試験を経て就職した。指折り数えると8年ほども経つ。その間心変わりもせず、あらためてふたりで生きていくことに決めた。そういうかつてのチームメイト、ムサシとヒル魔というふたりの男に対して、十文字はよかったなという思いを素直に抱いたのだった。
椅子に片肘をかけて深くもたれ、少しずつ水を口に含む。冷たい水が喉を滑りおりていくのは爽快で、ぼうっと頭を霞めていた熱がおさまるようだ。これなら間もなく会場に戻れるなと思った。アメフト仲間がこのように一堂に会するなどめったにないことだ。参加者は話したい相手、聞きたい相手ばかりなのだ。それにあの輪の中は自分にとってなんとも心地良い。
カーペットを踏み締める気配がした。葉姿を透かして見ると手洗いの方から会場に戻っていく礼服姿。今日の主役、ムサシだ。自分は一息入れているだけだし、気を使わせてはいけない。見つからなきゃいいがと十文字は思った。ところがそうはいかなかった。ムサシがふと顔を向けたため、視線が合ってしまった。
「お」
ムサシは立ち止まった。
「どうした」
植物の後ろ側へ回り込んできた男に、十文字は笑ってみせた。
「よう、新郎サン」
〝新郎〟は笑みを返しながらも気がかりそうな色を目に浮かべる。
「大丈夫かお前」
「平気だ。ちょっとな、休憩してる」
「酔ったか」
「ああ、まあちょっとな」
「水、もっと要るなら」
「いや、これで十分だ」
十文字の様子をムサシは観察するようだ。その結果心配は不要だと判断したらしい。が、それでも隣に腰を下ろした。やはり気遣ってくれているのだろう。十文字は努めてさばさばとした口調を使った。
「主役が雲隠れしてちゃまずいだろ。俺なら平気だぞ」
「ああ、いいんだ。盛り上がってるしヒル魔もいるしな」
ムサシも椅子に深くもたれて脚を組んだ。少しくらいならこうしていてもいいかと十文字は思い直した。
今日はおめでとう。そう口にすると、隣の男はありがとうと微笑んだ。穏やかな、良い笑みだなと十文字は感じた。今まで重ねてきた年月を目尻が物語る。それは今日のこの集まりと同じようにあたたかな色をたたえる。
「いい会だな。みんな楽しそうだ」
「ああ、喜んでもらえて何よりだ」
「でもあんたとヒル魔の挨拶には笑ったぞ」
「そうか?」
「そうかって、あんなやり方があるかよ」
くっと思い出し笑いが十文字にこみ上げた。
広間の高い天窓は上空に向かって開いていた。また、ムサシと並んでゲストを入口で迎えたヒル魔は──どうやって持ち込んだんだと十文字は呆れたものだが──黒光りするバズーカ砲を抱えて昔さながらの不敵な笑みを浮かべていた。見た時から十文字には予感があったのだがそれは見事に当たった。ぽっかりと覗く澄み渡る空。その空を目がけたヒル魔の〝祝砲〟からこの会は始まったのだ。とどろく砲声と腹に響くような爆発音。思わずどよめいた男らの頭上におびただしい紙吹雪が舞い散った。そればかりではない。誰かがひらひらと翻る紙片を手に取ってみたらしく、声を上げた。ちょ、これ懸賞つきじゃねえか。えっほんとか、あっこっちもだ。次々と上がる声に十文字も吹雪のごとき紙片を掴んでみた。すると白紙の他に5等と記されたものがあった。何等まであるのか知らないが賞の中身は気になると十文字も思ったし、他の男たちも騒ぎ出した。そこへマイク越しに響き渡ったのは。
──YAーーHAーー!!
──見ての通りだヤローども!
──ケケケ、中身は今日のしまいまで秘密だが特別に1等だけは教えてやる
──なんと渡航費用含むNFLの鑑賞券、さらにはそのゲームで見事MVPを獲るだろう糞チビのサインつきだ!
えええええ!? 仰天するセナはおろか良い歳であるはずの男たちがみな色めきたった。さらにそこへ会場隅の巨大サーキュレーターから大風が巻き起こり、床に散る紙吹雪を再び空へ舞い上がらせる。それっとばかりに一同はひとしきり掴み取りに熱中し、上位賞を握った者が興奮して手を振り回す。そうした賑やかさの中で司会が開会を告げて、わいわいと今日の集まりは始まったのだった。1等すなわち勝利の女神に微笑みかけられたのが誰かはまだ分からない。名乗りをあげていないからだ。でもそれもあとの楽しみができたようで面白いと十文字は感じた。
それより何より、最初からこの調子か。これはおそらく戸叶の言った〝殊勝な〟顔は拝めそうにないな。そう十文字は苦笑するような思いになったのだが、その思いは開会に続くふたりの挨拶で確実となった。
壇上に立ったふたり。黒のフォーマルスーツという正装だ。このふたりと近距離で顔を合わせるというのは久方ぶりで、それもあってつくづくと十文字は眺めた。
ムサシは昔と変わらず太く強いまなざしを見せる。きっぱりと切り揃えられた短髪。その髪は就職前に地毛に戻した十文字と同じく黒々と濃い。口もとや顎の線には強 そうな鬚。礼服の上からでも察せられる広い胸。いずれもこの男の気丈でまっすぐな性格を物語るようだ。
ムサシの隣にヒル魔が立つ。背丈こそそう変わらないものの、こうして並べばムサシより細身であることは瞭然だ。だが弱々しさなどこの男は微塵も感じさせない。学生の頃と何も変わらぬ笑みの口もと、ツンと尖った金の髪。一見するとまるで歳を取っていないようだが、頰には成熟の色がある。これはムサシも同様だ。
ふたりとも落ち着き払っており、緊張の様子はまるでない。ムサシの精悍な眉もヒル魔の性悪そうな口もとも。堂々、不敵、もしくはふてぶてしいとすら見える。司会に促されてマイクを握ったのはムサシで、どんな言葉があの口から紡がれるのだろうと十文字は注視した。しんと静まり返る会場。ムサシは一度ゆっくりとみなを見渡した。それから、重々しく口を開いた。
──俺たちはふたりで同じ道を歩くことにした
──みなに感謝する
──これからもよろしく頼む
──以上をもって挨拶とする
ムサシはマイクをテーブルに置いた。そこで主役の‘挨拶’が終わったと知れたが、一瞬拍子抜けしたような空気が会場を包んだ。それだけか? という風に。そしてそのあと。
誰かがぷっと吹き出した。それは周りへ、そのまた周りへと伝染した。別の誰かが陽気に叫んだ。おい、こんな態度のでかい新郎は見たことがねえぞ。これを皮切りに、男たちの間を笑いが波のように広がっていった。みな笑い出してしまったのだ。十文字も同様だった。
なんとまあ、あのオッサンらしい。でんと構えてぶっきらぼう、そして面の皮が厚い。そう思いつつ、十文字は黒木や戸叶と顔を見合わせて同じ笑いを笑いあった。聞けば、旧友たちは受付など裏方の仕事こそ頼まれたものの、会の進行や内容など肝心なことは知らされていなかったのだという。〝祝砲〟もムサシの礼句も、だから今初めてことだ。まったくしょうがねえな、短すぎ、思い切りがよすぎねえかと口々に言い合って、十文字は旧友となおも笑った。他の男たちもそれぞれ笑みの顔を見合わせて、笑声はしばらく賑やかに続いた。
「あんたたちらしいとは思ったけどな。愉快だった」
十文字が笑うと、そうかと応えてムサシも笑った。
「お前、就職したんだろう」
「ああ、おかげさんでな」
「試験、一発だったってな。よかったな」
ムサシが言うのは昨年の司法試験のことだろう。十文字は少し照れた。確かに合格まで多少の苦労はあったが、この男にねぎらわれるのは少々面映い気もする。
「あんたにそう言われると間が悪いな」
「どうして」
「褒められたことなんかねえし」
「俺にか」
「そうだ」
「俺はお前ならやれると思ってたぞ」
ムサシは真面目な顔で続けた。
「根性のあるやつだと昔から思ってたからな」
「へえ、そうなのか」
「ああ。根性というかガッツがあった。あと」
ムサシの目が茶目っ気を帯びた。
「ついでに言うと負けん気ときかん気もな。大したもんだった」
十文字は笑っていなした。
「あんただって相当一徹だったじゃねえか」
「そうか?」
「何言ってんだ今さら」
くすくすと二人で笑う。
大鉢の観葉植物の陰。
二人の周りに人影はない。
会場から聞こえるさんざめき。
古い記憶を十文字はたぐり寄せた。
「あんたは一徹で──一筋だった」
「キッカー一筋。大工一筋」
「そして──」
「ヒル魔一筋」
「ずっと好きだったんだろ」
静かに尋ねると、ムサシは黙って頬を掻いた。今度はムサシが間が悪そうな様子だ。
十文字の中に、忘れかけていた記憶がよみがえりつつある。この男については昔からの謎、知りたいことがあった。脳裏にそれを描くと不意に思いついた。もう少しここで話したらその謎を聞き出すことができるのではないだろうか。
十文字の知りたかったこと。ムサシという男について十文字が抱く謎。
それはこの男がどのようにしてヒル魔と恋仲になったのだろうということだ。
高校時代、ムサシとヒル魔というふたりの男は、特にムサシの復学後は栗田以外誰も触れることのできぬような濃密な空気を漂わせていた。そのため後輩たちは、あいつら付き合ってるんだろうなと何となく考えていた。ただこれは別に本人に聞いて確かめたわけではなく、あくまでも漠然と後輩らの共通の認識になっていたことである。その後、十文字は最京大のグラウンドまではるばる車を駆ってきたムサシと会話して、この男のヒル魔への愛情を確信した。だがここでも、あくまでもムサシとヒル魔が〝付き合っている〟という既成事実を確認したに過ぎない。いつ、どこで、どうやってふたりがその仲を進展させていったのか。おそらくこれを知るのは栗田くらいのものだろうし、そしてこの優しい巨漢は意外と口が固い。十文字らにとってはムサシとヒル魔の〝そういう〟関係の流れというのは漠とした謎のままなのだ。これを解明したいという欲望が、十文字の中でむくりとよみがえり膨らんだ。
「黒木たちとはどうしてる」
ムサシは話題を変えたいようだ。十文字は応えた。
「ああ、たまに飲んだりしてる」
「そうか。俺も栗田とそうだ」
「黒木と戸叶は何て呼んでるんだ。あんたのこと」
「ムサシさんだな」
「じゃあヒル魔は」
「糞ジジイ」
「なんだ、変わんねえのかよ」
思わず十文字はまた笑ってしまった。
同時に話を戻した。おのれの思う方向へ。
「いつからだ」
「何が」
「いつ頃ヒル魔に惚れたんだよ」
「さあな」
「とぼけるな。聞かせろよ」
「そんなこと知りてえのか」
「そりゃ興味あるさ。高校ん時からあった」
「そうなのか」
ムサシは目を瞠るような顔をした。そんなこととは思ってもみなかったらしい。十文字は笑った。
「あんたは分かりにくいようで分かりやすかったからな」
「…………」
「いつもヒル魔といたろ。チームに戻ってから」
「……ああ」
「よかったな。戻れて」
「あの時。チームに」
その言葉はさらりと十文字の口から紡がれた。
口にしてみると案外簡単だったなという思いが胸を訪れた。
十文字のこれは本心だ。栗田とヒル魔とムサシ。中学以来の親友、けれどムサシの家の事情で離れ離れになってしまった。その三人に、十文字はおのれと二人の仲間を重ねて思い入れを感じていた。だが学生の頃は周りに対して肩肘を張るような気持ちが多分にあって、そのため思いを飲み込むことも十文字は多かった。父との関係において特にそれは顕著だった。十文字の長所と欠点、すなわちガッツと片意地は表裏一体のものであった。前者はともかく、後者は自分の悪所だという自覚はあった。
ただ、年月と共に──歳を取るごとに少しずつ十文字は父との関係を修復した。おのれをも父をも客観的に見つめ、平常心や優しさをもって父と接することができるようになった。もしかしたらそういう自分だからこそ、目の前の男にこんな風に自然体でものを言うこともできるようになったのかもしれない。そう十文字は頭の片隅で考えた。
それはそうと、この男を話題にしたい。どうにかしてこの男に語らせたいものだ。
「戻ってからのあんたがな」
「…………」
「ヒル魔の後ろで醸す空気はすげえもんだったぞ」
「何だそりゃ」
ムサシは戸惑いを顔に浮かべる。
目に揶揄の色を十文字は見せた。
「謎の存在感て噂してた。俺らはな」
「……そうなのか」
「自覚ねえのか、やっぱり」
「ないな」
十文字は声を出さずに笑った。ムサシは決まり悪そうにまた指で頬を掻く。
「なあ」
「なんだ」
「どうやってモノにしたんだよ。あいつのこと」
「モノに……というか」
「うん」
「気がついたらそうなってたってだけだな」
「そうなったってどうなったんだよ」
「なんだ、やけに追及するな」
十文字は正直なところを述べた。言ったろ、興味がある。
「この際だ。聞かせろよ」
「そんなに知りたいのか」
「知りてえな」
遠慮は捨てて少々この男をここで独占してやろう。そう十文字はたくらんだ。後輩としてここは多少ごねてもいいのではないだろうか。こんな機会は滅多にないし、しばらくこの男の時間を借りてやろう。頃合いを見て解放してやればいい。一度この男の話をじっくりと聞いてみたい。ムサシに軽く手を広げてみせた。
「ここなら外野に聞かれねえし俺は知りてえし」
「…………」
もう一押し。
悪戯っぽく十文字は言いつのる。
「ゲストをもてなすのが今日のあんたの仕事じゃねえか?」
ムサシは困惑したように後輩を眺める。客はお前だけじゃないからなと席を立つこともこの男にはできるはずだ。が、そういうことはなさそうだ。生真面目に後輩の相手をするつもりなのだろう。
十文字はわざと視線を外して顔を前方へ向けた。催促するように自分の肘でムサシの肘を軽く突いた。
「…………」
目を伏せてムサシは頭をがりと掻いた。困った様子だ。だが十文字のてこでも動かない風を察したらしい。
顔をあげてムサシは視線を前方にやった。後輩と同じように。
じゃあ、まあ……と慎重そうに、この男らしい口火の切り方をした。
「……ちっと昔話でもするか」
胸の中で十文字はあるポーズを取ったが無論そんなことはおくびにも出さない。
黙って、足を組み替えてゆったりと構えた。耳を傾ける姿勢を示すと、ムサシもあらためて椅子に腰を落ち着けた。
「…………」
話す気にはなったのだろうが、ムサシはそれから少し考えこんだ。何をどう後輩に語るか、おのれの思考や記憶をさぐっているのだろう。しばし沈黙が二人の男の間を流れた。
そのあと、ゆっくりとムサシは語り始めた。
思慮深いまなざしで。
低い声。
低い、深い声が十文字の耳に届く。
──こういうことには慣れねえが
──あいつのことを話すなら……
十文字はふうっと息をついてネクタイをゆるめた。少し飲みすぎたかもしれない。頭の芯がぐらつくようだ。
だがめでたい席である。場内は自分と同じくスーツ姿の男たちが大賑わいに盛り上がっている。雰囲気を壊してはいけないと一人でそっと抜けてきた。
どこか目立たない場所はないか。そう思いながら辺りを見回して、壁際の観葉植物の陰に数脚の肘掛椅子を見つけた。
会場の隅のテーブルから水を取って、また抜け出した。何本もの蔓が編み上げられた緑の葉の後ろに入り、ジャケットのボタンを外した。
深く腰を下ろすとまるで安堵のようなため息が洩れた。みなと同じく、自分も今日の集まりを心から祝う気持ちだ。だからこそこんな様子を見せてはいけない。少しこうして休んでいれば回復するだろう。
会場から男たちのさんざめきが聞こえる。やや深酔い気味ではあるが、十文字の頬に快い笑みが浮かんだ。まるで子供のようにはしゃぐみなが微笑ましい。
飲めや歌えや。まさにそんな様子で男たちはこの集まりを祝い、楽しんでいる。知った顔も知らない顔も。栗田はさっきまで嬉し泣きに泣き笑いっぱなしだった。片端から握手と乾杯を繰り返し、今は紋付姿の溝六と昔話に花を咲かせている。張り切って蝶ネクタイでやってきたモン太は峨王に大食い合戦を挑みその最中である。あの小兵のどこに入るんだと思う勢いだ。彼の国でプロ選手となったセナはこの日のために一時帰国したという。本場のアメフト事情に興味津々の男たちに取り囲まれて質問攻めに遭い、昔と同じ様子であたふたしているところを雪光に助け出された。男たちの中で十文字にとって最も付き合いの古いのは黒木と戸叶だ。会場に着いて見たら二人して受付を担当していた。十文字が近づいていくと、おう、ようこそと晴れやかに笑った。
氏名を記帳して、十文字は旧友に一声かけた。
あいつらも年貢の納め時ってやつだな。
黒木がにやりと応えた。
まあ、今日は祝ってやってくれ。
悪戯っぽく戸叶が続けた。
あいつらの殊勝な顔が拝めるぞ、きっと。
十文字も微笑んで返した。
ああ、楽しみだ。
あいつら。
ムサシとヒル魔。
十文字にとって1学年上、かつて泥門デビルバッツというチームを同じくしたこのふたりは、最近になってパートナー関係を公表した。互いの親族の前で指輪の交換式を行ったのだという。これを機に、ふたりは集められるだけ友人を集めて挨拶および披露会をやってしまおうと考えた。十文字はそれに招かれてやってきたわけだ。
前もって知らされたところによると、列席者は多数にのぼる。泥門高校、最京大学、武蔵工バベルズの関係者。それにアメフト協会の関係者。各高校や大学、社会人チームの選手に指導層。大きな集まりだなと十文字は感じた。
知らせを受けた時、特に驚くような気持ちはなかった。ムサシとヒル魔は高校を卒業して長くともに暮らしており、それはいわば同棲であると十文字も周りも受け取っていたからだ。ふたりが想いあっている恋人どうしだということを十文字が確信したのは大学時代だが、それから自分は院に進んで司法試験を経て就職した。指折り数えると8年ほども経つ。その間心変わりもせず、あらためてふたりで生きていくことに決めた。そういうかつてのチームメイト、ムサシとヒル魔というふたりの男に対して、十文字はよかったなという思いを素直に抱いたのだった。
椅子に片肘をかけて深くもたれ、少しずつ水を口に含む。冷たい水が喉を滑りおりていくのは爽快で、ぼうっと頭を霞めていた熱がおさまるようだ。これなら間もなく会場に戻れるなと思った。アメフト仲間がこのように一堂に会するなどめったにないことだ。参加者は話したい相手、聞きたい相手ばかりなのだ。それにあの輪の中は自分にとってなんとも心地良い。
カーペットを踏み締める気配がした。葉姿を透かして見ると手洗いの方から会場に戻っていく礼服姿。今日の主役、ムサシだ。自分は一息入れているだけだし、気を使わせてはいけない。見つからなきゃいいがと十文字は思った。ところがそうはいかなかった。ムサシがふと顔を向けたため、視線が合ってしまった。
「お」
ムサシは立ち止まった。
「どうした」
植物の後ろ側へ回り込んできた男に、十文字は笑ってみせた。
「よう、新郎サン」
〝新郎〟は笑みを返しながらも気がかりそうな色を目に浮かべる。
「大丈夫かお前」
「平気だ。ちょっとな、休憩してる」
「酔ったか」
「ああ、まあちょっとな」
「水、もっと要るなら」
「いや、これで十分だ」
十文字の様子をムサシは観察するようだ。その結果心配は不要だと判断したらしい。が、それでも隣に腰を下ろした。やはり気遣ってくれているのだろう。十文字は努めてさばさばとした口調を使った。
「主役が雲隠れしてちゃまずいだろ。俺なら平気だぞ」
「ああ、いいんだ。盛り上がってるしヒル魔もいるしな」
ムサシも椅子に深くもたれて脚を組んだ。少しくらいならこうしていてもいいかと十文字は思い直した。
今日はおめでとう。そう口にすると、隣の男はありがとうと微笑んだ。穏やかな、良い笑みだなと十文字は感じた。今まで重ねてきた年月を目尻が物語る。それは今日のこの集まりと同じようにあたたかな色をたたえる。
「いい会だな。みんな楽しそうだ」
「ああ、喜んでもらえて何よりだ」
「でもあんたとヒル魔の挨拶には笑ったぞ」
「そうか?」
「そうかって、あんなやり方があるかよ」
くっと思い出し笑いが十文字にこみ上げた。
広間の高い天窓は上空に向かって開いていた。また、ムサシと並んでゲストを入口で迎えたヒル魔は──どうやって持ち込んだんだと十文字は呆れたものだが──黒光りするバズーカ砲を抱えて昔さながらの不敵な笑みを浮かべていた。見た時から十文字には予感があったのだがそれは見事に当たった。ぽっかりと覗く澄み渡る空。その空を目がけたヒル魔の〝祝砲〟からこの会は始まったのだ。とどろく砲声と腹に響くような爆発音。思わずどよめいた男らの頭上におびただしい紙吹雪が舞い散った。そればかりではない。誰かがひらひらと翻る紙片を手に取ってみたらしく、声を上げた。ちょ、これ懸賞つきじゃねえか。えっほんとか、あっこっちもだ。次々と上がる声に十文字も吹雪のごとき紙片を掴んでみた。すると白紙の他に5等と記されたものがあった。何等まであるのか知らないが賞の中身は気になると十文字も思ったし、他の男たちも騒ぎ出した。そこへマイク越しに響き渡ったのは。
──YAーーHAーー!!
──見ての通りだヤローども!
──ケケケ、中身は今日のしまいまで秘密だが特別に1等だけは教えてやる
──なんと渡航費用含むNFLの鑑賞券、さらにはそのゲームで見事MVPを獲るだろう糞チビのサインつきだ!
えええええ!? 仰天するセナはおろか良い歳であるはずの男たちがみな色めきたった。さらにそこへ会場隅の巨大サーキュレーターから大風が巻き起こり、床に散る紙吹雪を再び空へ舞い上がらせる。それっとばかりに一同はひとしきり掴み取りに熱中し、上位賞を握った者が興奮して手を振り回す。そうした賑やかさの中で司会が開会を告げて、わいわいと今日の集まりは始まったのだった。1等すなわち勝利の女神に微笑みかけられたのが誰かはまだ分からない。名乗りをあげていないからだ。でもそれもあとの楽しみができたようで面白いと十文字は感じた。
それより何より、最初からこの調子か。これはおそらく戸叶の言った〝殊勝な〟顔は拝めそうにないな。そう十文字は苦笑するような思いになったのだが、その思いは開会に続くふたりの挨拶で確実となった。
壇上に立ったふたり。黒のフォーマルスーツという正装だ。このふたりと近距離で顔を合わせるというのは久方ぶりで、それもあってつくづくと十文字は眺めた。
ムサシは昔と変わらず太く強いまなざしを見せる。きっぱりと切り揃えられた短髪。その髪は就職前に地毛に戻した十文字と同じく黒々と濃い。口もとや顎の線には
ムサシの隣にヒル魔が立つ。背丈こそそう変わらないものの、こうして並べばムサシより細身であることは瞭然だ。だが弱々しさなどこの男は微塵も感じさせない。学生の頃と何も変わらぬ笑みの口もと、ツンと尖った金の髪。一見するとまるで歳を取っていないようだが、頰には成熟の色がある。これはムサシも同様だ。
ふたりとも落ち着き払っており、緊張の様子はまるでない。ムサシの精悍な眉もヒル魔の性悪そうな口もとも。堂々、不敵、もしくはふてぶてしいとすら見える。司会に促されてマイクを握ったのはムサシで、どんな言葉があの口から紡がれるのだろうと十文字は注視した。しんと静まり返る会場。ムサシは一度ゆっくりとみなを見渡した。それから、重々しく口を開いた。
──俺たちはふたりで同じ道を歩くことにした
──みなに感謝する
──これからもよろしく頼む
──以上をもって挨拶とする
ムサシはマイクをテーブルに置いた。そこで主役の‘挨拶’が終わったと知れたが、一瞬拍子抜けしたような空気が会場を包んだ。それだけか? という風に。そしてそのあと。
誰かがぷっと吹き出した。それは周りへ、そのまた周りへと伝染した。別の誰かが陽気に叫んだ。おい、こんな態度のでかい新郎は見たことがねえぞ。これを皮切りに、男たちの間を笑いが波のように広がっていった。みな笑い出してしまったのだ。十文字も同様だった。
なんとまあ、あのオッサンらしい。でんと構えてぶっきらぼう、そして面の皮が厚い。そう思いつつ、十文字は黒木や戸叶と顔を見合わせて同じ笑いを笑いあった。聞けば、旧友たちは受付など裏方の仕事こそ頼まれたものの、会の進行や内容など肝心なことは知らされていなかったのだという。〝祝砲〟もムサシの礼句も、だから今初めてことだ。まったくしょうがねえな、短すぎ、思い切りがよすぎねえかと口々に言い合って、十文字は旧友となおも笑った。他の男たちもそれぞれ笑みの顔を見合わせて、笑声はしばらく賑やかに続いた。
「あんたたちらしいとは思ったけどな。愉快だった」
十文字が笑うと、そうかと応えてムサシも笑った。
「お前、就職したんだろう」
「ああ、おかげさんでな」
「試験、一発だったってな。よかったな」
ムサシが言うのは昨年の司法試験のことだろう。十文字は少し照れた。確かに合格まで多少の苦労はあったが、この男にねぎらわれるのは少々面映い気もする。
「あんたにそう言われると間が悪いな」
「どうして」
「褒められたことなんかねえし」
「俺にか」
「そうだ」
「俺はお前ならやれると思ってたぞ」
ムサシは真面目な顔で続けた。
「根性のあるやつだと昔から思ってたからな」
「へえ、そうなのか」
「ああ。根性というかガッツがあった。あと」
ムサシの目が茶目っ気を帯びた。
「ついでに言うと負けん気ときかん気もな。大したもんだった」
十文字は笑っていなした。
「あんただって相当一徹だったじゃねえか」
「そうか?」
「何言ってんだ今さら」
くすくすと二人で笑う。
大鉢の観葉植物の陰。
二人の周りに人影はない。
会場から聞こえるさんざめき。
古い記憶を十文字はたぐり寄せた。
「あんたは一徹で──一筋だった」
「キッカー一筋。大工一筋」
「そして──」
「ヒル魔一筋」
「ずっと好きだったんだろ」
静かに尋ねると、ムサシは黙って頬を掻いた。今度はムサシが間が悪そうな様子だ。
十文字の中に、忘れかけていた記憶がよみがえりつつある。この男については昔からの謎、知りたいことがあった。脳裏にそれを描くと不意に思いついた。もう少しここで話したらその謎を聞き出すことができるのではないだろうか。
十文字の知りたかったこと。ムサシという男について十文字が抱く謎。
それはこの男がどのようにしてヒル魔と恋仲になったのだろうということだ。
高校時代、ムサシとヒル魔というふたりの男は、特にムサシの復学後は栗田以外誰も触れることのできぬような濃密な空気を漂わせていた。そのため後輩たちは、あいつら付き合ってるんだろうなと何となく考えていた。ただこれは別に本人に聞いて確かめたわけではなく、あくまでも漠然と後輩らの共通の認識になっていたことである。その後、十文字は最京大のグラウンドまではるばる車を駆ってきたムサシと会話して、この男のヒル魔への愛情を確信した。だがここでも、あくまでもムサシとヒル魔が〝付き合っている〟という既成事実を確認したに過ぎない。いつ、どこで、どうやってふたりがその仲を進展させていったのか。おそらくこれを知るのは栗田くらいのものだろうし、そしてこの優しい巨漢は意外と口が固い。十文字らにとってはムサシとヒル魔の〝そういう〟関係の流れというのは漠とした謎のままなのだ。これを解明したいという欲望が、十文字の中でむくりとよみがえり膨らんだ。
「黒木たちとはどうしてる」
ムサシは話題を変えたいようだ。十文字は応えた。
「ああ、たまに飲んだりしてる」
「そうか。俺も栗田とそうだ」
「黒木と戸叶は何て呼んでるんだ。あんたのこと」
「ムサシさんだな」
「じゃあヒル魔は」
「糞ジジイ」
「なんだ、変わんねえのかよ」
思わず十文字はまた笑ってしまった。
同時に話を戻した。おのれの思う方向へ。
「いつからだ」
「何が」
「いつ頃ヒル魔に惚れたんだよ」
「さあな」
「とぼけるな。聞かせろよ」
「そんなこと知りてえのか」
「そりゃ興味あるさ。高校ん時からあった」
「そうなのか」
ムサシは目を瞠るような顔をした。そんなこととは思ってもみなかったらしい。十文字は笑った。
「あんたは分かりにくいようで分かりやすかったからな」
「…………」
「いつもヒル魔といたろ。チームに戻ってから」
「……ああ」
「よかったな。戻れて」
「あの時。チームに」
その言葉はさらりと十文字の口から紡がれた。
口にしてみると案外簡単だったなという思いが胸を訪れた。
十文字のこれは本心だ。栗田とヒル魔とムサシ。中学以来の親友、けれどムサシの家の事情で離れ離れになってしまった。その三人に、十文字はおのれと二人の仲間を重ねて思い入れを感じていた。だが学生の頃は周りに対して肩肘を張るような気持ちが多分にあって、そのため思いを飲み込むことも十文字は多かった。父との関係において特にそれは顕著だった。十文字の長所と欠点、すなわちガッツと片意地は表裏一体のものであった。前者はともかく、後者は自分の悪所だという自覚はあった。
ただ、年月と共に──歳を取るごとに少しずつ十文字は父との関係を修復した。おのれをも父をも客観的に見つめ、平常心や優しさをもって父と接することができるようになった。もしかしたらそういう自分だからこそ、目の前の男にこんな風に自然体でものを言うこともできるようになったのかもしれない。そう十文字は頭の片隅で考えた。
それはそうと、この男を話題にしたい。どうにかしてこの男に語らせたいものだ。
「戻ってからのあんたがな」
「…………」
「ヒル魔の後ろで醸す空気はすげえもんだったぞ」
「何だそりゃ」
ムサシは戸惑いを顔に浮かべる。
目に揶揄の色を十文字は見せた。
「謎の存在感て噂してた。俺らはな」
「……そうなのか」
「自覚ねえのか、やっぱり」
「ないな」
十文字は声を出さずに笑った。ムサシは決まり悪そうにまた指で頬を掻く。
「なあ」
「なんだ」
「どうやってモノにしたんだよ。あいつのこと」
「モノに……というか」
「うん」
「気がついたらそうなってたってだけだな」
「そうなったってどうなったんだよ」
「なんだ、やけに追及するな」
十文字は正直なところを述べた。言ったろ、興味がある。
「この際だ。聞かせろよ」
「そんなに知りたいのか」
「知りてえな」
遠慮は捨てて少々この男をここで独占してやろう。そう十文字はたくらんだ。後輩としてここは多少ごねてもいいのではないだろうか。こんな機会は滅多にないし、しばらくこの男の時間を借りてやろう。頃合いを見て解放してやればいい。一度この男の話をじっくりと聞いてみたい。ムサシに軽く手を広げてみせた。
「ここなら外野に聞かれねえし俺は知りてえし」
「…………」
もう一押し。
悪戯っぽく十文字は言いつのる。
「ゲストをもてなすのが今日のあんたの仕事じゃねえか?」
ムサシは困惑したように後輩を眺める。客はお前だけじゃないからなと席を立つこともこの男にはできるはずだ。が、そういうことはなさそうだ。生真面目に後輩の相手をするつもりなのだろう。
十文字はわざと視線を外して顔を前方へ向けた。催促するように自分の肘でムサシの肘を軽く突いた。
「…………」
目を伏せてムサシは頭をがりと掻いた。困った様子だ。だが十文字のてこでも動かない風を察したらしい。
顔をあげてムサシは視線を前方にやった。後輩と同じように。
じゃあ、まあ……と慎重そうに、この男らしい口火の切り方をした。
「……ちっと昔話でもするか」
胸の中で十文字はあるポーズを取ったが無論そんなことはおくびにも出さない。
黙って、足を組み替えてゆったりと構えた。耳を傾ける姿勢を示すと、ムサシもあらためて椅子に腰を落ち着けた。
「…………」
話す気にはなったのだろうが、ムサシはそれから少し考えこんだ。何をどう後輩に語るか、おのれの思考や記憶をさぐっているのだろう。しばし沈黙が二人の男の間を流れた。
そのあと、ゆっくりとムサシは語り始めた。
思慮深いまなざしで。
低い声。
低い、深い声が十文字の耳に届く。
──こういうことには慣れねえが
──あいつのことを話すなら……