疾走大工 ──軽トラにアイを乗せて

 ◇◇



 グラウンドから遠ざかると、ヒル魔は長銃を座席の後ろに放り出した。ああ、あッちいと襟もとを引っ張りながらムサシが用意しておいたスポドリを飲み干す。それからユニフォームを脱ぎにかかった。半裸になって、ムサシが持ってきた冷タオルでがしがしと上半身を拭き上げる。バッグから黒のTシャツを取り出してずぼっとかぶった。プロテインバーを噛み砕きつつスパッツも盛大に脱ぎ散らかし、代わりにいつものスリムパンツをずり上げて着用に及んだ。脱いだものとスパイクを乱暴にまとめて座席後部の収納スペースに押し込む。最後に足元に置かれた革靴を履いて普段着姿になった。次にヒル魔はムサシが持ってきたタッパーを開けた。顔をしかめて鼻をつまみながら、さも嫌そうにレモンの輪切りを咀嚼する。口直しはと聞かれたのでムサシは答えた。麦茶がある。
「どれだ」
「茶色いやつ」
 ヒル魔がスポーツ飲料を飲み干して空にしたのは紺色の水筒だ。ムサシは別のボトルに麦茶も詰めて来た。ヒル魔は後ろを覗き込んでそれを取り出した。
 車は大学の敷地を抜けて一般道に入っている。やがて幹線道路に乗ってバイパスへ。高速へ。もう何度も通った道を今日もムサシは使うつもりだ。
 隣でヒル魔は麦茶を味わう。着替えを済ませて気を変えたせいか、それまでの騒々しさは一変した。いつもの黒ずくめで、長い足を組んで一息つくような横顔だ。ムサシもまたむやみに話しかけたりはしない。一杯飲み終わったところでヒル魔は軽く息をついた。身をかがめて足元のバッグから愛用のPCを取り出した。膝の上で片手で開く。
 流れるような打鍵の音が始まった。隣でムサシはハンドルを握る。いつもの光景だ。ヒル魔は一心に画面を見つめてキーを叩く。ガムをふくらませながら。滑らかな音がムサシの耳に届く。
「後ろの」
 ヒル魔が声を発した。
「うん?」
「あれコーヒーか」
 水筒は3本。スポドリ、麦茶、残る濃赤の水筒がコーヒーかとヒル魔は言いたいのだろう。ムサシは肯定した。隣の男はまた体をひねって座席後部に身を乗り出す。ごそごそと探って目的のものを見つけた。
「熱いから気をつけろ」
 ムサシが注意を促すとヒル魔は喉で生返事をした。これもいつものことである。
 コーヒーの香りが漂い始めた。
 片手にカップ。残る片手でヒル魔はキーを叩き続ける。横目で窺うと真剣な表情だ。細い鼻梁も切長の目もややうつむいてPCの画面に向けられる。ピアスも逆立てた金髪もこの前と同じ。何も変わらない。車を操りつつムサシは無言で楽しんだ。かたわらの男の存在を。
 押し黙って画面を見つめていた男がやがて顔を上げた。もう一度目を画面に落とし、ふっと肩の力を抜いた。PCを閉じてしまい込む。
 それから、ヒル魔はゆるゆると座席に身を沈めた。
 足を投げ出して、両手は体の脇へ。前方にやる目は少しやわらかくなったようだ。その体からゆっくりと力が抜けていく様子がムサシに伝わる。
 頃合いを見計らってムサシは声をかけた。
「少し寝たらどうだ」
 ヒル魔はまた生返事をする。ムサシは続けた。
「あんまり寝てないだろ」
 昨夜ヒル魔はそれほど睡眠を取っていないはずだ。後輩に、すなわち十文字に託す資料を仕上げるために。ムサシはこの計画と配慮を少し前から心得ている。もとより余計な口出しをする気はなかったし、テメーは一切知らぬ顔しろよとヒル魔に釘刺されていたのでそのように振る舞った。
 それほど疲労の様子はない。だが休め、ヒル魔。そう思うムサシの心は隣席の男にも伝わっている。その証拠にヒル魔の気配はだんだんと静まっていく。今日は素直だなとムサシは思った。眠気が強いらしい。
 ヒル魔の乗る助手席には座布団を敷いておいた。椅子が固えと文句をつけられたので今回は用意したのだ。以前より座り心地は良いはずだ。
 ホームセンターでムサシが買い求めた座布団の上で、まもなくヒル魔は寝入ってしまった。ムサシは窓を閉じた。隣席の窓は閉めてやれないが両方空いているよりは雑音が減るだろう。
 風を切る軽トラ。
 ヒル魔は平穏な寝息を立てる。
 ふとムサシは微笑んだ。この騒がしい男は意外と静かに眠るのだ。これを知るのは自分とあの心優しい巨漢くらいのものだろう。このことはいわば自分に与えられた特権のようなもので、手放す気を自分は持たない。この先もずっと。手放すつもりはない。
 通い慣れた道は東へ伸びる。それは住まいへ。ムサシと、ムサシの恋人の住まいへと通じる。
 遠ざかる背後にムサシは思いを馳せた。ヒル魔が後を託した後輩。根性のあるあの後輩は今頃どうしているだろう。
 久しぶりに会って言葉を交わした。何故か苛立つような様子も見せた。どうしたのかと思ったが、おそらく1軍に上がったばかりで気が逸っていたのだろう。会話するうちに落ち着きを取り戻したようだ。その後ヒル魔の〝仕掛〟にあんぐりと口を開けていたが。
 でもあいつならやり遂げるだろう。ヒル魔は相当根回しもしていたようだから、きっと大丈夫だ。
 そうムサシは結論づけた。



 後輩の苛立ちの理由にムサシはまるで気づかない。
 それはこのムサシという男の欠点でもあり最大の魅力でもある。十文字がゴーイングマイウェイと評した一直線ぶり、何よりそこにムサシの恋人は惹かれたのだから。
 その一直線な心でムサシはヒル魔を想う。
 ヒル魔のかたわら。そこがおのれの場所であることをムサシは信じて疑わない。ただまっすぐにそう信じる。そんな信念とそしてヒル魔へのまっすぐな想いがムサシの存在を際立たせる。かつて後輩らが噂したように。
 十文字はアイと見た。ムサシという男の根幹にあるものを。恋という語から想起されるその文字を、はにかみゆえに片仮名で表した。けれど十文字は正しく見抜いた。想う心の持ち主が、想いの対象を前にまとうもの。そしてその想いそのもの。そういうものをもしも引っくるめて呼ぶならば、それはまさしく「アイ」である。
 青空の下、ムサシを見抜いた後輩はフィールドで声を励ます。
 青空の下、ムサシの軽トラは疾走する。
 いつものサービスエリアに着いたら起こしてやろう。そうムサシは恋人を思った。尤も、その前に目覚めて腹が減ったの何だのと騒ぎ出すかもしれないが。
 そんな光景を思い浮かべて、ムサシの頰にまた微笑が浮かんだ。

 軽トラは走り続ける。

 そこには誰も知らないQBの寝顔。

 運転者の微笑みもまた知る者はない。

 目覚めたらきっとまた騒々しくなるだろう男のほかは。

 誰も知らない。

 軽トラは走る。

 アイを乗せてきた車。

 それはアイを乗せて東へと疾走して行った。

 

 
【Fin.】
 
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