疾走大工 ──軽トラにアイを乗せて
糞長男。
高校時代に幾度こう呼ばれたか数え切れない。何でもかんでも頭に放送禁止用語をつける口と根性の悪いQBに。二人の仲間と合わせて3兄弟などと言われたりもした。兄弟じゃねー! とそのたびに自分らは叫んだものだ。大学に進学して自分は3軍から部活を始めることになり、1軍のヒル魔はある意味遠い存在だった。3軍から2軍へ、晴れてこの春1軍へ。とは言っても昇格してまだ日は浅く、十文字は正投手であるヒル魔と言葉を交わすことはろくになかった。そのヒル魔の口から発せられた昔の呼称。どういうわけか十文字は胸がとどろいた。反発や意地、懸念や信頼、対抗心。かつてこの〝悪魔のQB〟に抱いていたもろもろが一気によみがえる。十文字はヒル魔に顔を向けた。少しどぎまぎするような思いで。
「な、何だよ」
ヒル魔はユニフォーム姿のまま、荷物をまとめ上げて肩に担いでいる。愛用のPCだけは手に抱えて。
「俺ぁ先に上がるぞ、糞ジジイが来たしな」
「あ、ああ分かった」
「あとはテメーに任せるからな」
「は?」
「あとは任せる。せいぜい励みやがれ」
「任せるって何を」
「練習 に決まってんだろが。てめーが指揮しろ」
「はア!?」
十文字は再び目を剥いた。先ほどはムサシの登場に驚愕したが今度はヒル魔の言葉に不意打ちを食らった。驚きのあまり昔と同じ調子を取り戻してヒル魔に食ってかかった。
「そんなんできるわけねーだろ! 何で俺だよ、いくらでも先輩がいんだろが」
「アホ、下っ端だから任せんだ。いいからやれ」
PCのキーボードをヒル魔がトンと叩く。途端にベンチの下で何かがうごめいて十文字はぎょっとした。
金属的な音を立てながら細いアームが飛び出した。ベンチ下から出てきたそのアームは分厚そうな書類を抱えている。
なんだこれと思わず十文字は手に取ってしまった。表紙は白紙だ。だが一枚、もう一枚とめくってみると。
それはびっしりと印字で埋まる。トレーニングメニューの種類と順序とグループ構成、タイムテーブル、注意事項、さらには1軍メンバー個々人のデータ。性格とそれへの対処法、プレーの傾向と癖とその対策。戸惑う十文字にヒル魔が命じた。
「C3てあんだろ。そっから始めろ」
「だから何で俺が。下っ端だからってどういうことだよ」
「今日は雨は降らねえ。足場が悪くなるこたねえからみっちりやっとけ」
「話を聞けよ! そんなんしたことねえし第一バックスのことなんか分かんねえぞ俺は」
「それ見りゃ分かる。見てなんか言や奴ら勝手に動くから安心しろ」
ヒル魔は十文字の抗議にまったく耳を貸さない。十文字をこき使う理由も明確にしない。口早に、相変わらず強引にことを進めようとする。次にヒル魔は黒い物体を十文字の手元に放った。ドローンのコントローラーだ。
「たるんでる奴ぁこれで撃て」
「するかンなこと!」
十文字の口から飛び出したのは先ほどムサシに向けた突っ込みと似たようなせりふだ。本人はそれに気づいていない。コントローラーはカメラという精密機器付きである。それゆえ地に投げつけることを十文字は必死に思いとどまった。
「行くぞ」
ゆったりとくそ落ち着きに落ち着いた声。これはムサシのものである。もう軽トラのドアを開けている。運転席も助手席も。
おう、と応えてヒル魔も車に向かった。助手席にヒル魔が乗り込みムサシがそのドアを閉める。次にムサシは運転席に回り自分も乗り込んだ。窓から顔を出した。
「しっかりやれよ」
重々しいムサシの口調を呆然と十文字は聞いた。あんたに言われる筋合いはねえと口答えする余裕はなかった。車はヒル魔を乗せて発進する。みるみる切り返して、もと来た方向を向いた。今度は助手席からヒル魔がにゅっと上半身を突き出した。黒い銃器を抱えて。
車の窓から上半身と大型機関銃の全容を陽の下にさらけ出して、しかも明らかに十文字を狙いつつ地獄の司令塔は叫んだ。
「いいか、てめーがアタマに立てよ!」
「おら口開けて見てんじゃねえ!」
ジャキッと構えられた大型銃は十文字の足元に弾の雨を降らせる。一瞬十文字の寿命が縮んだが銃口はすぐに別の方角を向いた。天だ。青空への連続射撃が始まる。走り去る軽トラから。
ヒル魔は高らかに叫んだ。
フィールドへ。
「すぐ戻る!」
「動け! 走れヤローども!」
「YAーーHAーー!」
去っていくヒル魔に誰かがのんびりと呼びかけた。ヒル魔あ、ゆっくり休んでこいよー。鍛錬の手を止められる者は止めて、申し合わせたように車を見送る。ライン勢もバックスの面々も。バックスのいるところからはちゃんと寝てくださいよーと細川の声がした。前のあれ頼むなーという声も。応えはケケケとけたたましい不敵な笑い、騒々しく天へ放たれる射撃の音。
エンジンの音と響く銃声。
それはカーブの向こう、林の陰へと姿を消し、遠くなっていった。
グラウンドの男たちは再び動き始めた。
──…………
十文字は立ち尽くす。
呆然。
唖然。
次に汗をかくような気持ちが十文字にやってきた。疾風のように去っていった男たち。非常にというかとてつもなく一方的だ。特にチームの司令塔の方は。
ぱらりと手元の紙をめくる。細密に記されたメニュー。これがあれば居並ぶ猛者たちに指示を出すということができるだろうか。まだ2回生の、しかも1軍に昇格したばかりの自分に。チームの指揮などしたことがなく、その上ラインはともかくバックスのことなど素人同然の自分に。どうして、あいつは俺に。いったいどういう理屈で。目的はなんだ。それが分からなければ動きようがない。
思考をめぐらせることはそう不得手な方ではない。ヒル魔という要素、チーム、それに自分という要素。さまざまを織り成して十文字は推し量ってみる。ヒル魔は何が目的で、何を自分に求め、何を自分にさせようというのか。チームをどうしようというのか。
ヒル魔の性格は熟知している。十文字はそのつもりである。大胆かと思えば意想外に細やかな部分も併せ持つ。1軍入りしたばかりの自分に先頭に立てというのが大胆というか無茶だし、かと思えば微に入り細を穿つマニュアルを示して託す。任務遂行のために。
そう。
ヒル魔という男は意外と細やかだ。それに情に厚い。たとえば高校時代は栗田や雪光のことをつねに気遣っていたし、特に栗田とヒル魔との交流はそれを近しく見ていた十文字の胸にも少しせまるものがあった。
情の厚さ。細やかさ。気くばり。
……そういうのが意外とあることはあるんだよな。
癪に障るトコは障るけどよ。
──ん?
何かがひらめいたような気がした。ちかりと頭の片隅をかすめたものを懸命に十文字はたぐりよせようとした。大胆不敵さとまるで相反するヒル魔の細やかさ。そこから今自分の脳裏を訪れたもの。1軍に合流して日が浅い自分。馴染むのはまだこれから、それにチームビルディングもまだこれからだ。
レギュラーを中心とする精鋭たち。個人技もチームワークも磨かなければならない。さらにはそこで地位を築かなければならない自分。
──ひょっとして
いやまさかと思わず首を振る。だが、とまた思い直す。
もしかしたらヒル魔は。
半信半疑という感が拭えないが、もしかして。
もしかしたらあの男は──。
自分がここに溶け込むチャンスを作ったのではないだろうか。
トレーニングの指揮という仕事を通じて。
そんなことがあるだろうか。今まで自分に目もくれなかったあの男が。だがもしもそうなら、いやそうでなくてもこれを好機として自分は活かすべきではないだろうか。十文字の中に少しずつエネルギーのようなものが湧く。自分のひらめきが当たっているかどうか確証はない。けど、この際やるっきゃねえかという思いは生じた。
──あの野郎
再び紙面に目を落とす。びっしりと記されたトレーニングマニュアル。これはヒル魔のような立場の者にとっていわば財産だろう。こんなもんてめえで独占してればいいのに、こんなやり方でよこしやがって。
ふと泥門時代が心に浮かんだ。形ばかりのマシンルーム、土が剥き出しのグラウンド。おんぼろの部室。そういうものに最初は嫌悪や反発しか抱かなかった。当然だ、脅されて無理やり、しぶしぶアメフトを始めたのだから。
でも惹かれた。
アメフトという競技に。
仲間と同じ方向を見つめて進むことに。
仲間。それは長いこと十文字にとって黒木と戸叶のことだった。だがアメフトを通じてこの二人以外の仲間が生まれた。
それは部の仲間だ。セナやモン太や小結、瀧。雪光。そして心の優しい巨漢、復帰したキッカー。さらには悪魔の異名を取るQBすら十文字の中で大切な存在となった。ヒル魔は言うなれば十文字たち三人にとって元凶、災厄のようなものだった。その男とともに十文字たちは夢をめざし、それを叶えるという歓喜を味わった。すべては仲間とともに。チームとともに。
デビルバッツというチーム。それを作ったのは栗田とヒル魔とムサシであるという。幾多の苦難を乗り越えた三人。特にムサシの復帰後は暇さえあれば三人で寄り集まっていた。時に冗談を言って笑い、時にチームのこと試合のことを真剣に討議する。
その三人に、いつからか十文字はおのれと黒木と戸叶の姿を重ねていた。栗田とヒル魔の交流に胸が熱くなるような思いを抱いていたのはそのためである。ゆえにムサシが復学して戻ってきたことを、十文字は三人のために良かったと思った。ただ十文字にも意地や照れがあるから、本人たちには口が裂けてもこのような本心を語るつもりはないが。
栗田とヒル魔とムサシ。
栗田はあの試合で涙とともにムサシを迎えた。
ムサシが戻るなりヒル魔は昔の癖を取り戻した。銃を回転させては発砲しまた回転と発砲を繰り返すという、物騒極まりない悪癖だ。
それを詳しく解説したのはムサシである。ああ、あれはな、と平然と。この時以来この男はたちまちのうちに際立つ存在感を発揮した。ヒル魔のかたわらで。
十文字は思い浮かべた。
ムサシの天然。図々しさ、鈍感、一徹。気遣い。そしてあの佇まい。
フィールドを眺めていた横顔。
同時に思い浮かべた。
ヒル魔の不敵。図太さ、性悪さ。明晰さ、細やかさ、そしてあの風切る肩。
フィールドからまっすぐに歩み寄った姿。
──…………
やっぱり、と十文字は思った。
やっぱり、このふたりは。
一見何の変哲もないその態度のもと。
ほ、ほ……惚れあってんだろうな。
思うだけでどもってしまう。付き合う付き合わないはともかく、好いた惚れたということになると十文字には照れる気持ちがあるからだ。だがそれとともに改めて実感のようなものが湧いてきた。色々なものが改めて見えて来た。
デビルバッツというチームのすべての始まりは栗田でありヒル魔であるだろう。ただ、三人目としてやってきたムサシと、ヒル魔という男は、きっと。
今このふたりがそうしているように、きっと。
友情とはまた別のもので結ばれたのだ。
友情とはまた別のきずなで。
きっと──恋というきずなで。
十文字自身はそういうものと縁がない。硬派な不良だったしその後は部活ざんまいだったからだ。だがその十文字にも推察できることはある。心の中に浮かび上がるものはある。
──あのオッサンの
──あれは……
ムサシのあれ。
謎の存在感。
その正体は。
──そ、その……
──アレ
──アレなんじゃねえかな
すなわち。
──アイ
あれはアイというものなのではないだろうか。
揺るぎない、揺らがないアイ。
思うだけでも自分が照れるようだが、きっとそうだよな。
長いこと曖昧だったものを、十文字はやっと読み解けた。読み解けたと思った。胸の中にさきほどの光景がよみがえる。ムサシの不思議な笑みとヒル魔の耳朶。それを思い起こすと余計にそう感じる。
なんだかしんと心に沁みるような気持ちになった。三人のきずなが。ふたりのきずなが。そしてようやく悟ったもの、アイというものが。
高校時代を少しまぶしく感じた。卒業してかつての仲間たちと距離ができた。だからこそ見えるものもあるのかもしれない。あの頃は分からなかった、でも今なら。今だからこそ分かるというものもあるのかもしれない。
色々なことを自分は悟ったような気がする。
しばし十文字は動けなかった。
ヒル魔の残したものを手に。
(…………)
(おお〜い)
どこからか声がする。
その声は誰かを呼んでいるようだ。
(おお〜い)
誰を。
──!
慌てて十文字は顔を上げた。呼ばれてるのは俺だ。
「お〜い、十文字〜〜」
「なに呆けてるんや〜〜」
現実がどっと押し寄せた。
「すいません!」
十文字は叫んで駆け寄ろうとした。自分を呼んだ男のもとへ。が、男は押しとどめるような手つきをした。そのままでええと言うことだろう。そこで十文字は足を止めて待った。
背後に自転車を置いてやってくる最上級生を。
もと帝黒学園のキャプテン、平良呉ニを。
平良はふんふんと鼻歌でも歌っていそうなのどかな様子だ。ジャージ姿で歩いて来る。この春に現役を引退してコーチ陣に名を連ねているが、今日は自主練日であるからグラウンドに平良はいなかった。おそらく林の向こうの部室棟から来たのだろう。飾らない人柄で、部員みなから親しまれ頼られている。十文字はヒル魔に押しつけられた〝任務〟をこの人に相談しようと思った。少し勢い込んだ。
「へ、平良さん。これ」
「おう、どないした。それヒル魔の虎の巻やろ」
「あの……」
あいつはこれを置いてさっさと帰ってしまった。一方的にチームの指揮を命じられて困惑している。そう説明すると、ははあと言って平良は笑った。何故か動じない。
十文字は虎の巻と呼ばれたマニュアル書を平良に示した。
「こんなもん渡されても……。みんな俺にあれこれ言われても困るんじゃないかと思うんスけど」
どういうつもりなんだか、とヒル魔のことを呟くと、逆に平良が聞いてきた。
「お前はどう思うんや」
「え……」
「ヒル魔がどう思てると思う」
「…………」
少々迷ったが、ええいと十文字は口にした。確証はないがと前置きして。これはひょっとしたらヒル魔が自分に与えたチャンスではないか。そう思いついたということを話してみた。
「……そうか」
平良は普段から細い目をますます細くして笑った。不思議と嬉しそうに見える。
「そやな」
「は?」
「読み通りやろ。お前の」
十文字は耳を疑った。だが平良はあっさりと繰り返した。お前の読み通りやろ、と。またも呆然とするような気持ちが十文字にやってきた。平良の言葉にも、そして大元のヒル魔の思惑にもである。まさかとは思ったが、あいつ。
「ええやないか。ええとこあるやないか、あいつも」
「…………」
「ま、なんならここで見といたる。やってみい、十文字」
「……いいんスか」
「ええも悪いも、お前がヒル魔に任されたんやろ」
十文字はおのれの心を探った。まだ少しためらいのようなものがある。きっと緊張しているのだろう。足が固くて動かしづらい。平良がそんな十文字を見て声をかけた。
「何や、煮え切らんな。そんならええもん貸したる」
平良はベンチの道具箱を引っ掻き回し始めた。これでもないあれでもないと豪快に放り出したあげく、十文字に示したのは笛と黄色い拡声器。
「ほれ。これ使え」
かつての闘士がにこにこと差し出すものを、十文字は唾を飲み込んで見つめた。
背中をばんと平良が叩いた。寄り添うようにかたわらに立って。
「コーチングデビューやな。行ったれ行ったれ、十文字」
十文字はチームのQBを思った。相変わらずあいつは無茶だ。せめてもうちょっと別のやり方ができねえのかよ。
でも胸がざわめく。
熱く滾る。
〝あいつ〟の残したせりふがよみがえった。
──下っ端だから任せんだ
──アタマに立てよ!
ぶるりと十文字の体が震えた。武者震いだ。あいつ──ヒル魔の心。平良の思いやり。胸に沁みる。ここまで来たらやるっきゃねえ。そうだ、自分は前へ進むのだ。どこまでも前へ。
笛を取って、深く息を吸い込んで咥えた。鋭い音がフィールドに響き渡る。皆がこちらを向くのが分かった。
メガホンを口に当ててまた息をひとつ。
それから十文字は思い切り叫んだ。
「集合ーー!!」
高校時代に幾度こう呼ばれたか数え切れない。何でもかんでも頭に放送禁止用語をつける口と根性の悪いQBに。二人の仲間と合わせて3兄弟などと言われたりもした。兄弟じゃねー! とそのたびに自分らは叫んだものだ。大学に進学して自分は3軍から部活を始めることになり、1軍のヒル魔はある意味遠い存在だった。3軍から2軍へ、晴れてこの春1軍へ。とは言っても昇格してまだ日は浅く、十文字は正投手であるヒル魔と言葉を交わすことはろくになかった。そのヒル魔の口から発せられた昔の呼称。どういうわけか十文字は胸がとどろいた。反発や意地、懸念や信頼、対抗心。かつてこの〝悪魔のQB〟に抱いていたもろもろが一気によみがえる。十文字はヒル魔に顔を向けた。少しどぎまぎするような思いで。
「な、何だよ」
ヒル魔はユニフォーム姿のまま、荷物をまとめ上げて肩に担いでいる。愛用のPCだけは手に抱えて。
「俺ぁ先に上がるぞ、糞ジジイが来たしな」
「あ、ああ分かった」
「あとはテメーに任せるからな」
「は?」
「あとは任せる。せいぜい励みやがれ」
「任せるって何を」
「
「はア!?」
十文字は再び目を剥いた。先ほどはムサシの登場に驚愕したが今度はヒル魔の言葉に不意打ちを食らった。驚きのあまり昔と同じ調子を取り戻してヒル魔に食ってかかった。
「そんなんできるわけねーだろ! 何で俺だよ、いくらでも先輩がいんだろが」
「アホ、下っ端だから任せんだ。いいからやれ」
PCのキーボードをヒル魔がトンと叩く。途端にベンチの下で何かがうごめいて十文字はぎょっとした。
金属的な音を立てながら細いアームが飛び出した。ベンチ下から出てきたそのアームは分厚そうな書類を抱えている。
なんだこれと思わず十文字は手に取ってしまった。表紙は白紙だ。だが一枚、もう一枚とめくってみると。
それはびっしりと印字で埋まる。トレーニングメニューの種類と順序とグループ構成、タイムテーブル、注意事項、さらには1軍メンバー個々人のデータ。性格とそれへの対処法、プレーの傾向と癖とその対策。戸惑う十文字にヒル魔が命じた。
「C3てあんだろ。そっから始めろ」
「だから何で俺が。下っ端だからってどういうことだよ」
「今日は雨は降らねえ。足場が悪くなるこたねえからみっちりやっとけ」
「話を聞けよ! そんなんしたことねえし第一バックスのことなんか分かんねえぞ俺は」
「それ見りゃ分かる。見てなんか言や奴ら勝手に動くから安心しろ」
ヒル魔は十文字の抗議にまったく耳を貸さない。十文字をこき使う理由も明確にしない。口早に、相変わらず強引にことを進めようとする。次にヒル魔は黒い物体を十文字の手元に放った。ドローンのコントローラーだ。
「たるんでる奴ぁこれで撃て」
「するかンなこと!」
十文字の口から飛び出したのは先ほどムサシに向けた突っ込みと似たようなせりふだ。本人はそれに気づいていない。コントローラーはカメラという精密機器付きである。それゆえ地に投げつけることを十文字は必死に思いとどまった。
「行くぞ」
ゆったりとくそ落ち着きに落ち着いた声。これはムサシのものである。もう軽トラのドアを開けている。運転席も助手席も。
おう、と応えてヒル魔も車に向かった。助手席にヒル魔が乗り込みムサシがそのドアを閉める。次にムサシは運転席に回り自分も乗り込んだ。窓から顔を出した。
「しっかりやれよ」
重々しいムサシの口調を呆然と十文字は聞いた。あんたに言われる筋合いはねえと口答えする余裕はなかった。車はヒル魔を乗せて発進する。みるみる切り返して、もと来た方向を向いた。今度は助手席からヒル魔がにゅっと上半身を突き出した。黒い銃器を抱えて。
車の窓から上半身と大型機関銃の全容を陽の下にさらけ出して、しかも明らかに十文字を狙いつつ地獄の司令塔は叫んだ。
「いいか、てめーがアタマに立てよ!」
「おら口開けて見てんじゃねえ!」
ジャキッと構えられた大型銃は十文字の足元に弾の雨を降らせる。一瞬十文字の寿命が縮んだが銃口はすぐに別の方角を向いた。天だ。青空への連続射撃が始まる。走り去る軽トラから。
ヒル魔は高らかに叫んだ。
フィールドへ。
「すぐ戻る!」
「動け! 走れヤローども!」
「YAーーHAーー!」
去っていくヒル魔に誰かがのんびりと呼びかけた。ヒル魔あ、ゆっくり休んでこいよー。鍛錬の手を止められる者は止めて、申し合わせたように車を見送る。ライン勢もバックスの面々も。バックスのいるところからはちゃんと寝てくださいよーと細川の声がした。前のあれ頼むなーという声も。応えはケケケとけたたましい不敵な笑い、騒々しく天へ放たれる射撃の音。
エンジンの音と響く銃声。
それはカーブの向こう、林の陰へと姿を消し、遠くなっていった。
グラウンドの男たちは再び動き始めた。
──…………
十文字は立ち尽くす。
呆然。
唖然。
次に汗をかくような気持ちが十文字にやってきた。疾風のように去っていった男たち。非常にというかとてつもなく一方的だ。特にチームの司令塔の方は。
ぱらりと手元の紙をめくる。細密に記されたメニュー。これがあれば居並ぶ猛者たちに指示を出すということができるだろうか。まだ2回生の、しかも1軍に昇格したばかりの自分に。チームの指揮などしたことがなく、その上ラインはともかくバックスのことなど素人同然の自分に。どうして、あいつは俺に。いったいどういう理屈で。目的はなんだ。それが分からなければ動きようがない。
思考をめぐらせることはそう不得手な方ではない。ヒル魔という要素、チーム、それに自分という要素。さまざまを織り成して十文字は推し量ってみる。ヒル魔は何が目的で、何を自分に求め、何を自分にさせようというのか。チームをどうしようというのか。
ヒル魔の性格は熟知している。十文字はそのつもりである。大胆かと思えば意想外に細やかな部分も併せ持つ。1軍入りしたばかりの自分に先頭に立てというのが大胆というか無茶だし、かと思えば微に入り細を穿つマニュアルを示して託す。任務遂行のために。
そう。
ヒル魔という男は意外と細やかだ。それに情に厚い。たとえば高校時代は栗田や雪光のことをつねに気遣っていたし、特に栗田とヒル魔との交流はそれを近しく見ていた十文字の胸にも少しせまるものがあった。
情の厚さ。細やかさ。気くばり。
……そういうのが意外とあることはあるんだよな。
癪に障るトコは障るけどよ。
──ん?
何かがひらめいたような気がした。ちかりと頭の片隅をかすめたものを懸命に十文字はたぐりよせようとした。大胆不敵さとまるで相反するヒル魔の細やかさ。そこから今自分の脳裏を訪れたもの。1軍に合流して日が浅い自分。馴染むのはまだこれから、それにチームビルディングもまだこれからだ。
レギュラーを中心とする精鋭たち。個人技もチームワークも磨かなければならない。さらにはそこで地位を築かなければならない自分。
──ひょっとして
いやまさかと思わず首を振る。だが、とまた思い直す。
もしかしたらヒル魔は。
半信半疑という感が拭えないが、もしかして。
もしかしたらあの男は──。
自分がここに溶け込むチャンスを作ったのではないだろうか。
トレーニングの指揮という仕事を通じて。
そんなことがあるだろうか。今まで自分に目もくれなかったあの男が。だがもしもそうなら、いやそうでなくてもこれを好機として自分は活かすべきではないだろうか。十文字の中に少しずつエネルギーのようなものが湧く。自分のひらめきが当たっているかどうか確証はない。けど、この際やるっきゃねえかという思いは生じた。
──あの野郎
再び紙面に目を落とす。びっしりと記されたトレーニングマニュアル。これはヒル魔のような立場の者にとっていわば財産だろう。こんなもんてめえで独占してればいいのに、こんなやり方でよこしやがって。
ふと泥門時代が心に浮かんだ。形ばかりのマシンルーム、土が剥き出しのグラウンド。おんぼろの部室。そういうものに最初は嫌悪や反発しか抱かなかった。当然だ、脅されて無理やり、しぶしぶアメフトを始めたのだから。
でも惹かれた。
アメフトという競技に。
仲間と同じ方向を見つめて進むことに。
仲間。それは長いこと十文字にとって黒木と戸叶のことだった。だがアメフトを通じてこの二人以外の仲間が生まれた。
それは部の仲間だ。セナやモン太や小結、瀧。雪光。そして心の優しい巨漢、復帰したキッカー。さらには悪魔の異名を取るQBすら十文字の中で大切な存在となった。ヒル魔は言うなれば十文字たち三人にとって元凶、災厄のようなものだった。その男とともに十文字たちは夢をめざし、それを叶えるという歓喜を味わった。すべては仲間とともに。チームとともに。
デビルバッツというチーム。それを作ったのは栗田とヒル魔とムサシであるという。幾多の苦難を乗り越えた三人。特にムサシの復帰後は暇さえあれば三人で寄り集まっていた。時に冗談を言って笑い、時にチームのこと試合のことを真剣に討議する。
その三人に、いつからか十文字はおのれと黒木と戸叶の姿を重ねていた。栗田とヒル魔の交流に胸が熱くなるような思いを抱いていたのはそのためである。ゆえにムサシが復学して戻ってきたことを、十文字は三人のために良かったと思った。ただ十文字にも意地や照れがあるから、本人たちには口が裂けてもこのような本心を語るつもりはないが。
栗田とヒル魔とムサシ。
栗田はあの試合で涙とともにムサシを迎えた。
ムサシが戻るなりヒル魔は昔の癖を取り戻した。銃を回転させては発砲しまた回転と発砲を繰り返すという、物騒極まりない悪癖だ。
それを詳しく解説したのはムサシである。ああ、あれはな、と平然と。この時以来この男はたちまちのうちに際立つ存在感を発揮した。ヒル魔のかたわらで。
十文字は思い浮かべた。
ムサシの天然。図々しさ、鈍感、一徹。気遣い。そしてあの佇まい。
フィールドを眺めていた横顔。
同時に思い浮かべた。
ヒル魔の不敵。図太さ、性悪さ。明晰さ、細やかさ、そしてあの風切る肩。
フィールドからまっすぐに歩み寄った姿。
──…………
やっぱり、と十文字は思った。
やっぱり、このふたりは。
一見何の変哲もないその態度のもと。
ほ、ほ……惚れあってんだろうな。
思うだけでどもってしまう。付き合う付き合わないはともかく、好いた惚れたということになると十文字には照れる気持ちがあるからだ。だがそれとともに改めて実感のようなものが湧いてきた。色々なものが改めて見えて来た。
デビルバッツというチームのすべての始まりは栗田でありヒル魔であるだろう。ただ、三人目としてやってきたムサシと、ヒル魔という男は、きっと。
今このふたりがそうしているように、きっと。
友情とはまた別のもので結ばれたのだ。
友情とはまた別のきずなで。
きっと──恋というきずなで。
十文字自身はそういうものと縁がない。硬派な不良だったしその後は部活ざんまいだったからだ。だがその十文字にも推察できることはある。心の中に浮かび上がるものはある。
──あのオッサンの
──あれは……
ムサシのあれ。
謎の存在感。
その正体は。
──そ、その……
──アレ
──アレなんじゃねえかな
すなわち。
──アイ
あれはアイというものなのではないだろうか。
揺るぎない、揺らがないアイ。
思うだけでも自分が照れるようだが、きっとそうだよな。
長いこと曖昧だったものを、十文字はやっと読み解けた。読み解けたと思った。胸の中にさきほどの光景がよみがえる。ムサシの不思議な笑みとヒル魔の耳朶。それを思い起こすと余計にそう感じる。
なんだかしんと心に沁みるような気持ちになった。三人のきずなが。ふたりのきずなが。そしてようやく悟ったもの、アイというものが。
高校時代を少しまぶしく感じた。卒業してかつての仲間たちと距離ができた。だからこそ見えるものもあるのかもしれない。あの頃は分からなかった、でも今なら。今だからこそ分かるというものもあるのかもしれない。
色々なことを自分は悟ったような気がする。
しばし十文字は動けなかった。
ヒル魔の残したものを手に。
(…………)
(おお〜い)
どこからか声がする。
その声は誰かを呼んでいるようだ。
(おお〜い)
誰を。
──!
慌てて十文字は顔を上げた。呼ばれてるのは俺だ。
「お〜い、十文字〜〜」
「なに呆けてるんや〜〜」
現実がどっと押し寄せた。
「すいません!」
十文字は叫んで駆け寄ろうとした。自分を呼んだ男のもとへ。が、男は押しとどめるような手つきをした。そのままでええと言うことだろう。そこで十文字は足を止めて待った。
背後に自転車を置いてやってくる最上級生を。
もと帝黒学園のキャプテン、平良呉ニを。
平良はふんふんと鼻歌でも歌っていそうなのどかな様子だ。ジャージ姿で歩いて来る。この春に現役を引退してコーチ陣に名を連ねているが、今日は自主練日であるからグラウンドに平良はいなかった。おそらく林の向こうの部室棟から来たのだろう。飾らない人柄で、部員みなから親しまれ頼られている。十文字はヒル魔に押しつけられた〝任務〟をこの人に相談しようと思った。少し勢い込んだ。
「へ、平良さん。これ」
「おう、どないした。それヒル魔の虎の巻やろ」
「あの……」
あいつはこれを置いてさっさと帰ってしまった。一方的にチームの指揮を命じられて困惑している。そう説明すると、ははあと言って平良は笑った。何故か動じない。
十文字は虎の巻と呼ばれたマニュアル書を平良に示した。
「こんなもん渡されても……。みんな俺にあれこれ言われても困るんじゃないかと思うんスけど」
どういうつもりなんだか、とヒル魔のことを呟くと、逆に平良が聞いてきた。
「お前はどう思うんや」
「え……」
「ヒル魔がどう思てると思う」
「…………」
少々迷ったが、ええいと十文字は口にした。確証はないがと前置きして。これはひょっとしたらヒル魔が自分に与えたチャンスではないか。そう思いついたということを話してみた。
「……そうか」
平良は普段から細い目をますます細くして笑った。不思議と嬉しそうに見える。
「そやな」
「は?」
「読み通りやろ。お前の」
十文字は耳を疑った。だが平良はあっさりと繰り返した。お前の読み通りやろ、と。またも呆然とするような気持ちが十文字にやってきた。平良の言葉にも、そして大元のヒル魔の思惑にもである。まさかとは思ったが、あいつ。
「ええやないか。ええとこあるやないか、あいつも」
「…………」
「ま、なんならここで見といたる。やってみい、十文字」
「……いいんスか」
「ええも悪いも、お前がヒル魔に任されたんやろ」
十文字はおのれの心を探った。まだ少しためらいのようなものがある。きっと緊張しているのだろう。足が固くて動かしづらい。平良がそんな十文字を見て声をかけた。
「何や、煮え切らんな。そんならええもん貸したる」
平良はベンチの道具箱を引っ掻き回し始めた。これでもないあれでもないと豪快に放り出したあげく、十文字に示したのは笛と黄色い拡声器。
「ほれ。これ使え」
かつての闘士がにこにこと差し出すものを、十文字は唾を飲み込んで見つめた。
背中をばんと平良が叩いた。寄り添うようにかたわらに立って。
「コーチングデビューやな。行ったれ行ったれ、十文字」
十文字はチームのQBを思った。相変わらずあいつは無茶だ。せめてもうちょっと別のやり方ができねえのかよ。
でも胸がざわめく。
熱く滾る。
〝あいつ〟の残したせりふがよみがえった。
──下っ端だから任せんだ
──アタマに立てよ!
ぶるりと十文字の体が震えた。武者震いだ。あいつ──ヒル魔の心。平良の思いやり。胸に沁みる。ここまで来たらやるっきゃねえ。そうだ、自分は前へ進むのだ。どこまでも前へ。
笛を取って、深く息を吸い込んで咥えた。鋭い音がフィールドに響き渡る。皆がこちらを向くのが分かった。
メガホンを口に当ててまた息をひとつ。
それから十文字は思い切り叫んだ。
「集合ーー!!」