疾走大工 ──軽トラにアイを乗せて
思考をめぐらせつつ素早く辺りの様子を窺う。突然乗り込んできた車、そして部外者。ところがフィールドの男たちは誰もムサシを──車の男は無論ムサシである──気に留めていない。それぞれのペースでトレーニングに精を出している。この光景に何の違和感もないようで、十文字はこれにも驚きを覚えた。まさかこのオッサンはもう何度もこうして来てるってことか。こんなんが1軍の当たり前なのかよ。十文字にしてみれば、ベンチ近くに停まった車と停めた男にここは駐車場じゃねえぞと言いたいところである。それに、その他にも知りたいことは山ほどある。
百歩譲ってこの闖入がヒル魔の工作によるところだったとしても、この男──武蔵厳、通称ムサシという男がここに来た理由が分からない。十文字はかつてはこのムサシとヒル魔とチームを同じくした。泥門デビルバッツというチームを。だが現在ヒル魔はともかくムサシは最京大ウィザーズと無関係だ。この男は武蔵工バベルズのキッカーである。ムサシは高校を卒業後、大工を生業としている。もしかしてヒル魔の依頼で何かグラウンドに細工でも施すのだろうか。いやそれにしたってヒル魔はこっちの、大学周辺の業者を幾らでも使う腕と頭脳と脅迫手帳を持っているはずだ。
脳内の幾つもの疑問をどう表明するか考える。そんな十文字を、ムサシは黙って見守っている。返事を待っているのだろう。1軍に上がって良かったなと十文字は言われたし無沙汰でもあるし、胸中で心も構えた。まずは挨拶らしいものをしなければ。だがここで、はたと十文字は気づいた。なんて呼びゃいいんだ、と。高校時代の自分はムサシをオッサンなどと言い(先ほども脳内でそう呼んだ)、言われた本人もそれに淡々と応えていた。だが卒業して2年目、もはや自分もあの頃とは違う。そんならええと……ムサシさんとか? いやこれ何かぞわぞわすんな、じゃあタケクラさん……こっちは他人行儀が過ぎる。いったいどうしたら。
逡巡するうちに、十文字は何とも涼しい顔でこの場に立つムサシの様子に巻き込まれてしまったようだ。結局その口から出たのは昔と同じ呼び方で、しかも挨拶とも聞きたいことともまるで違うせりふだった。
「オ……、オッサン」
「おう。なんだ」
「あの……すげえ車だな」
「ん? そうか?」
「それ」
十文字が金の看板を指差すと、ムサシはちらと後ろに目をやった。
「ああ、こりゃ最近つけたんだ。店の宣伝用にな。いいだろ」
「いや、いいって言うか……。派手だよな」
「宣伝だからな。こういうのは派手な方がいい。それに」
「それに?」
「あいつもこうしろって言ったしな」
始まったと十文字は思った。何が始まったかというと、この男特有のものの言い方がさっそく始まったのだ。あいつとはどいつのことか、口にせずとも分かるだろうという顔だ。厚かましい顔である。〝あいつ〟が誰を意味するのか十文字はもちろん知っている。知っているが久しぶりに耳にすると改めて、そういやこのオッサンはこうだったっけと思い出す。〝あいつ〟に関しては図々しいことこの上ないのだ、この男は。
ここでようやく持ち前の負けん気が十文字の中で頭をもたげた。これ以上呑まれてたまるか。仕切り直しだ。
十文字がおのれを奮い立たせて口を開こうとすると、ムサシがふいと十文字から視線を外した。グラウンドを観察するようだ。ぐるりと見渡して、まだ終わらねえようだなと呟いた。
腕組みをして、片足に重心をかけてムサシはゆったりと構えた。鍛え抜く男たちを眺め始める。思い出したようにまた十文字を見た。
「行かなくていいのか。練習中だろ」
さっさとフィールドに戻れと言いたいらしい。いきなりやってきたと思ったらその途端いかにも訳知り顔でこの場に佇む男。負けん気が増幅して十文字はむかっ腹が立った。
「オ、オッサン!」
今度は少し強めな声が出た。やっと文句をつけることができそうだ。
「あ?」
「こんなとこに停めていいと思ってんのかよ、こんなん」
車を指して詰問するとムサシはまるで動じずに答えた。
「ああ。許可なら取ったぞ、あいつが」
再度〝あいつ〟である。十文字はまたも思った。いや分かるけどよ、そう口にする時のその厚顔ぶりは何だ。それに。
「うちのグラウンドになんかすんのかよ。なんか、その……細工とか」
「そういう予定はねえな」
「じゃあなんで来た」
「? 何が」
「なんでいきなり来たんだよ。何が目的で」
ムサシは眉を寄せて訝しげな顔で十文字を見た。
「お前どうした。何をカリカリしてるんだ」
カリカリなんかしてねえよと十文字は言い返した。その口の下から苛立ちを感じた。どうしてこのオッサンはこうマイペースなんだ。マイペースっつーか、ゴーイングマイウェイじゃねえか。
「東京 からわざわざ来たんだろ」
「あっちってどっちだ」
「東京だ東京。オッサン東京だろが」
「そりゃまあそうだ」
ムサシは至極当然という口ぶりで答える(実際その通りだ)。
「何で来たんだよ、あっちの方から」
「何でって、別にそんな遠くないぞ。地続きだし」
そうじゃねえよと十文字は思った。どこまでも泰然とムサシは答えるが、自分が聞きたいのはこの男がここにやってきた理由である。それに地続きって何だ。その理屈で言えば例えば青森と山口だって地続きだが、それでもこの男は軽トラを駆って来るのか。いややりかねねえな、この男なら。いやそんなことは今どうでもいい。
「何が狙いだ。あんたは部外者だ、ここに入っていいわけがねえ」
「だから許可なら取ってるぞ。車も俺も」
「だからって何で来た」
「あー……」
腕組みを解いて、ムサシは小指を片耳に突っ込んで掻いた。答えに詰まって慌てるような顔色ではない。逆だ。十文字から見たら小面憎いほど落ち着いている。問い詰める様子の後輩を眺めて、要するにあれか、とムサシは口にした。ゆったりとまた腕を組んだ。
「要するにあれか、お前は俺がどういう理由でここに来たのか知りたいってことか」
「だからそうだっつってんだろ!」
「迎え」
「は?」
「聞こえなかったのか。迎え」
「誰を」
しまったと十文字は思った。ついムサシにつられて問いを発してしまった。こんなのは言わずもがなというものだ。しかし尋ねてしまったからには目の前の男は答えるだろう。それもこの男流のやり方で。そういうところはむやみに律儀なのだ、この男は。そして現実は十文字の悔やんだ通りになった。
ムサシは無造作に親指でフィールドを指した。
正確にはフィールドの一人の男を。
フィールドで飛び回るウィザーズのQB、ヒル魔妖一という男を。
その男は折りしも誰かの名を騒々しく連呼しながら目の前を横切って行った。
「あいつ」
「休みなんでな。明日から」
十文字の口から出たのは我ながら力ない応 えだった。
……そうかよ。
脳裏に空虚な突っ込みが浮かぶ。いやだから……と。どうもムサシの言葉から察するに、ヒル魔は明日から休暇を取るのだろう。その休みの期間を東京の家で過ごすことになっており、だから東京住まいの自分が車で迎えに来た。と、そういうことをムサシは言いたいらしい。
いやだから……と引き続き十文字は考える。ムサシの答えは確かに、十文字の一連の所感および疑問に対する答えではあった。一応は。派手な大看板はヒル魔にそうしろと言われた通り店の宣伝のため。車も自分もここに入るためヒル魔が許可を得た。そして自宅で休みを過ごそうとするヒル魔の迎車役をかって出て、ここにやってきた。それらは十文字にも把握できた。しかし、この男の発言はおそろしく天然かつ不十分だ。ゆえに十文字には新たな疑問点もしくは突っ込みどころが生じている。
──いや、だから……
ヒル魔が明日から休みだからといって、なぜ
ム サ シ が 迎 え に
来なければならないのか。
十文字にはこの点がさっぱり分からない。この疑問を口にのぼせることは容易い。なんであんたが迎えに来る必要があるんだ? と直接ムサシに聞けば良い。が、なんだかもう聞かなくてもいいような気がうっすらとしてきた。どうしてか徒労という語が胸に浮かぶのだ。そこで十文字は会話を切り上げようと思った。目の前の男の天然と厚顔によって自分に疲労がたまる一方のような気がするし、一通りのことは知り得た。何より、いい加減フィールドへ戻らなければ。
まあいいや。そう十文字は投げやりに呟いた。じゃあなと言い捨てて、再び足を踏み出そうとした。するとムサシが、ああ、あのなと呼び止めた。
「なんだよ」
振り向いた後輩の目に映ったのはくそ真面目な漢の瞳。
面の皮にもどっしりと厚みと重みを漂わせて。
「あいつのうちは俺のうちだ。知らなかったかお前」
「知るかンなこと!」
叫んだら明確な疲労感が十文字のもとへやってきた。
ムサシとのやり取りを最初からしなければ良かったというか、無駄なエネルギーを使ってしまったという気持ちが心に広がる。しかしである。
しかし、ここで十文字はムサシに向き直った。押し寄せる疲労感の原因に立ち向かった。
十文字は根がアグレッシブな性格だ。特にアメフトという競技に打ち込み始めてからというもの、そういう部分はますます磨かれた。何事も挑戦だ。やってみなければ何も始まらねえ。そんな気持ちで日々を過ごしている。そのアグレッシブさと十文字の最大の長所、ガッツはここでも発露した。まあいいやなどとさっきは全てを打っちゃったが、やっぱり負けっぱなしは趣味じゃねえ。いわば力を振り絞って健気に最後の突っ込みに挑もうとした。
まず一つめ。
「一緒に住んでるからって何もあんたが迎えに来なくたっていいじゃねえか」
すると天然男はぬけぬけと答えた。
「俺もそうは思うけどな」
十文字、心の声。
思うけど何だよ。
「あいつが来いって言うんでな」
十文字はめまいを覚えた。が、ぐっとこらえた。
二つめ。最後の最後。
「あんたクルマ持ってねえのか」
「クルマ?」
「自家用車だ! 何も軽トラで来ることねえだろ、フツーの車とかねえのか」
東京から遠路はるばる移動するのに軽トラは不向きだろう。軽自動車などの家庭用車両は所持していないのか。十文字の意はそういうことだが、ムサシはそれを汲んだようだ。
「あるぞ。あるけどな」
答えながらムサシはおもむろに軽トラを指し示した。またも親指で。
一瞬つられて十文字の視線は車へ。それを確かめてムサシは言い切った。
「あいつが気に入ってる」
ドン!
もう十分だと十文字は思った。
足から力が抜けていくような感覚が十文字を包む。ふいに昔戸叶が貸してくれた漫画を思い出した。ギャグ漫画で、やりたい放題の主人公に振り回される脇役が出てきた。その脇役は虚ろな目をしていた。あれはこういう気持ちかもしれねえな。
あいつ。あいつ、あいつ。
ヒル魔。ヒル魔、ヒル魔。
やっぱり分かんねえなと十文字は感じた。
十文字が何を気にして何を解明したいと考えていたのか。
突き詰めると、それはこのムサシという男の根本に存在するものである。
遥か関東は東京から、ヒル魔の気に入りの軽トラで、ヒル魔を迎えに。乗り入れ禁止のグラウンドに車を駆ってやってきた男。
あまつさえおのれの行動はごくまっとうなもので、不自然でもなんでもないという態度の男。
虚脱した十文字の心に回想が浮かんだ。昔々の記憶だ。
思い起こせば高校時代から、ムサシという男はある点が謎めいていた。
ムサシは饒舌なタイプではない。寡黙な方だ。が、その寡黙さや慎重さ、考え深さや選手としての実力などがあいまって、チームに復帰したのちのこの男の存在を際立たせていた。そしてその存在感はムサシが占めるある場所においていっそう際立っていたのである。
それはヒル魔の後ろ。
ヒル魔妖一という男の後ろにおいてである。
ヒル魔の後ろにある謎の存在感。
つねにチームの先頭を行くのはヒル魔。ヒル魔は肩で風を切る。そのヒル魔の影になり日向になり、また影になりムサシは付き従う。後ろに佇む。しかも、ヒル魔のことなら何もかもわきまえているという顔で。
知った顔。我が物顔。迫力。圧。そういうものを大いに、というかむやみやたらとムサシは漂わせていたのである。ヒル魔の後ろのムサシという男は。
この現象あるいは光景は、部員たちの興味を著しく引いた。一時期、あの存在感は何なんだと後輩の間で物議を醸したものである。謎だよな、と。
栗田から聞かされた話によれば、栗田とヒル魔とムサシは中学以来の親友なのだという。それを考慮に入れたとしても、ムサシがヒル魔の後ろで発する空気は実に独特であった。ヒル魔は糞ジジイなどと高飛車に呼びつつムサシを従える。従えるとは言っても当のムサシがまとうのは決してヒル魔に盲従するような態度ではない。また保護者、庇護者というわけでもない。じゃあ何なんだろうと改めて十文字は実感する。
それにそうだ、もう一つ自分らの間で話題になっていたことがあった。このふたりはいったい──。
「おい」
ムサシの声で十文字は回想を破られた。見るとムサシは何かを注視している。
「なんだよ」
「あれは何だ」
「?」
ムサシの視線の方向を見るとベンチの向こうだ。何もない。十文字にはムサシの意図が分からない。このオッサンは何を言いたいんだ。
後輩の心の内をムサシは察した。人指し指であるものを指し示した。
「あれ」
十文字はますます疑問に思った。ムサシが指しているものは別に珍しくもないし十文字から見たら何の異常もない。やぐら。グラウンドのかたわらに立つ櫓をどうしてかムサシは気にするようだ。
「櫓がどうかしたのかよ」
フィールドを高所から撮影する目的で、昨今は多くのチームでドローンが取り入れられている。ウィザーズはそのドローンと櫓を併用している。後者は最近十文字やその他1軍の下級生らで新たに組み立てたばかりである。今はヒル魔がドローンを使用しているから櫓には誰も上っていない。その櫓にじっと目を当ててムサシは言った。
「歪んでる」
「は?」
「傾いてるぞ」
ムサシは言い直した。
「…………」
ありゃあ危ないなと誰にともなくムサシは呟いた。十文字はつい引き込まれた。
「分かるのか、オッサン」
「あれは使うな。あいつにも話しておく」
「わ、分かった」
「何かあってからじゃ遅い。建て直すんだな」
「あ、ああ」
「あと建てる時は面倒でも墨出し器を使え」
「墨……?」
「水平器を使えと言ってる。角度を確認するやつだ」
噛んで含めるような言葉に十文字は困惑した。
「そんなもん……」
「ないか。じゃあそれもあいつに話しておく」
「…………」
何も言えなくなって十文字は頷いた。職業が職業だし、このオッサンが言うなら櫓は確かに危険な状態なのだろう。
一応礼を言わなければ。十文字がそう考えた時、ベンチにチームスタッフがやってきた。何本ものボトルを下げた2年のマネージャーだ。するとムサシはその学生を呼び止めた。髪を後ろで束ねた女子学生はムサシを見とめて、こんにちはムサシさんと言った。慣れた様子だ。
十文字の見守る前で、ムサシは櫓を指差してマネージャーに何事か語り始めた。聞き手はすぐに目を瞠って櫓の方に顔を向けた。不安な表情を浮かべてムサシと櫓を交互に見比べる。
ムサシの話を熱心に聞き入って、女子学生は最後に強く頷いた。心得たというように。そして礼を述べて急ぎ足で去っていった。
──…………
十文字は無言でそのさまを眺めていた。マネージャーを見送ったムサシが戻ってくる。俺も礼を言うべきだよなと十文字は考えた。何というか感じ入ってしまったというか、このオッサンは色んな意味ですげえ男だよなという思いが生まれている。
癪に障る部分もないわけではないが、なんかもう色々踏ん切りがついた。そう思いつつ十文字はムサシを呼んだ。
「オッサン」
「おう」
「その……櫓のことありがとな。もう行くからな」
フィールドに戻ると伝えるとムサシは頷いて答えた。おう、頑張れ。
十文字はヘルメットをもう一度手に取った。正面に顔を向けた。仲間たちの励むグラウンド。最強の戦士たち。この中で自分も。
気持ちを切り替えた。
よし。
──だが。
またも。
心を新たにしたのも束の間、またも十文字の足は止まった。
──何してんだ。あれ
そういう戸惑いのような心境がやってきたからだ。
この心境の対象はこれまで会話していた男ではない。ヒル魔である。ヒル魔の様子がおかしい。
屈強な男たちがぶつかり合うグラウンド。そのグラウンドの中で、男たちから少し離れた場所にヒル魔は立つ。十文字やムサシに背中を見せて、あらぬ方向を向いて突っ立っている。先ほどまでの騒がしさはなりをひそめて、じっと何かを窺うようだ。
「どうした」
ベンチエリアから出て行かない十文字にムサシが声をかけた。十文字はチームのQBを指差す。
「なんか変だぞ」
「何がだ」
ムサシは十文字の示す先、ヒル魔を見た。
「何してんだあれ」
後輩の言いたいことをすぐさまムサシは理解した。こともなげに答えた。
「ああ。あれはな」
「天気を読んでる」
「風向きとか雲行きとか。あと湿度とかな」
「予報なんかより役に立つぞ。あいつのあれは」
十文字の心にある風景が浮かんだ。
清流。
清らかな水の流れ。
何故か十文字の心にそんな風景が浮かんだ。
なんつーか……いっそ清々しいな。
そういう思いで十文字はムサシを眺めた。これまでと違い平静な心持ちだったため、へえ、そうかとおとなしく相づちを打つこともできた。
視界の片隅に先ほどのマネージャーと姉崎が映った。二人は急いで櫓に向かい、上り口を封鎖するように紙を貼り付けた。姉崎が済まなそうな顔でムサシを拝む素振りをした。そして二人はムサシに手を振って去って行った。ムサシも軽く手を上げて見送る。それを十文字はただ見ていた。
胸にあるのは一周回って爽快さにも似た気持ちだ。仏教で言うところの悟りを十文字は開いた。
ある意味完膚なきまでに打たれたのかもしれない。心に少々虚ろを感じたし、この男の謎は未だ解明されないからだ。だがもう謎を謎のまま、ありのまま受け入れようという気持ちになった。ムサシの解説に相づちを返すことができたのはそのためだ。おそらく自分は解脱したのだろう。打たれ打たれたすえに。滝行かよ。神龍寺じゃあるまいし。
まあこの経験も意味はあった。何せ悟ったからな。
さて、練習だ。十文字はグラウンドに目を向けた。
ちょうどその時、件の男──ヒル魔がくるっと振り返った。首の滑らかな動きはまるで180度回転のようだ。ベンチ横のムサシの存在はとっくに知っていたのだろうが、ようやく気を向けるつもりになったらしい。部員たちの間を縫って、ずかずかとフィールドを横切ってやってきた。なんとなく十文字はそれを待った。
「何だよ遅えな」
ヒル魔の顔とせりふはムサシに向けられたものだ。十文字には目もくれない。それは別にどうでもいいが、いきなり文句かよと十文字は呆れた。ムサシは別に腹を立てるでもない。平然と答えた。
「混んでてな。飛ばしたんだが」
「だから早めに出ろっつったろ、何度来りゃ学習しやがるんだテメーは」
「努力はしたぞ」
「結果の伴わねえ努力なんぞ意味がねえ」
「そういう言い方はないだろう」
「やかましい、遅刻は遅刻だ」
「来たんだからいいじゃねえか」
「開き直りかよ。反省ってもんがねえな糞大工」
「混み具合まではどうにもできんからな」
「混むかどうかじゃねえ、テメーが早出するかどうかだ」
「そう言われてもな」
「来やがるんなら最後まで責任持って来い」
「だからちゃんと来ただろ」
「たりめーだ、クルマ出すって抜かしたのはてめーだろが」
初手からがみがみとヒル魔はまくし立てる。
すると十文字にとってたいそう印象的なことが起こった。
ムサシがふっと笑みを浮かべたのだ。不思議な笑み。その笑みを見てヒル魔はどういうわけかケッと横を向いた。ベンチの私物をあれもこれも鷲掴みにしてまとめ始めた。口の中ではまだ悪態をついているようだがそれまでのムサシに突っかかるような物腰は影をひそめた。よく観察すると尖った耳朶が薄赤い。金属製のピアスまでがいつもより艷やかに見える。その様子はまるで──まるで、何かに照れてでもいるかのようだ。
上記の一連の事象を十文字は眺めていた。
黙って眺めていた。
着けようと思っていたヘルメットを片手に、一部始終を十文字は聞いて見ていた。
ムサシとヒル魔のやりとりは一見上はただの言い合いだ。が、違うなと十文字は感じた。目の前で繰り広げられた光景は言い合い、つまり口げんかとは似て非なるものだ。
これは口げんかという名の。
口げんかという名の──。
じゃれあい。
いちゃいちゃ。
いちゃいちゃって言うんじゃねえか、これ。
夫婦和合ってやつだろ。いやどっちもオトコだけどよ。琴瑟相和すってやつだろこれ。
そう十文字は見た。看破したと言っても良い。
先ほど浮かんだ記憶が再びよみがえる。ムサシという男の持つ謎の存在感。そのことで一時後輩らは持ちきりになったものだが、もう一つ話題になったことがあったのだ。
それはあのふたりが、いったい。
ムサシとヒル魔というあのふたりの男が、いったいいつ〝くっつく〟のかということだった。
くっつくというのはすなわち付き合うということだ。いわゆる恋人どうしとして。あれだけ濃厚な、濃密な空気を漂わせるあのふたりがいつそうなるのか。このテーマで十文字たち後輩はかなり盛り上がった。つーか、もう付き合ってんじゃね? という見解を述べたのは黒木である。黒木の言葉に漫画を読みながら戸叶がまぜっ返した。いや分かんねえぞ、あいつらアレでけっこう奥手かもしれねえ。
ヒ、ヒル魔さんが奥手……と目を白黒させたのはセナである。じゃあセナ、お前はどう思うんだよと十文字が聞くと、瞬足のRBは困ったように笑った。僕はそういうのよく分かんないし。モン太はどう思う? と友人に水を向けた。
え、俺かよ。モン太は自分を指して鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。次にこの小柄な熱血漢は腕組みをして唸り始めた。うーん……あのふたりならいつ生さぬ仲になってもおかしくないとは思うけどよ……。そこで懸命に頭をひねる同輩に十文字は訂正を入れてやった。お前の言いたいことは分かるけどな、それ意味が違うぞ。モン太はまた「え」と目を瞠った。
俗に言う生さぬ仲というのは血の繋がりのない親子のことである。そう十文字が説明すると、モン太はいやアハハと笑って誤魔化した。決まり悪そうな友人にセナが助け舟を出す。でもさ、そういう親子みたいな、なんか濃い関係であることはやっぱり間違いないんじゃないかな。ムサシさんとヒル魔さんて。
うん……そうだな。
フゴ……。
まあそうだな。
そうだよなあ……。
んじゃもう生さぬ仲ってことでいんじゃね?
だから違うっつってんだろ黒木。
結局この問題はヒル魔たちが卒業し次に十文字たちが高校を出ても解明されなかった。あれよあれよという間に月日は流れ、十文字は最京大で2回目の春を迎えた。そしてこの日、十文字の前に明らかになった事実が二つある。
一つはムサシという男の、謎の存在感。前述の通りこれは以前から分かっていたことだ。が、久方ぶりにムサシという男と間近で接して、十文字には改めてひしひしと感じられたことである。
そして二つ目。
──あいつのうちは俺のうちだ
そうムサシは十文字に証言した。
これはすなわち、ムサシとヒル魔が一緒に暮らしているということである。
──ということは、だ
頬を撫でる風を感じながら十文字は分析する。
ヒル魔のような男がねぐらを別の人間とともにする。こんな関係はよほどヒル魔と近しい者でないと不可能だろう。ヒル魔を一人の男として人間として尊重し、大切にし、ある意味たくみに手綱を取ることのできる者でないと。
ムサシというのはまさにそのためにいるような男だ。ムサシのヒル魔に対する佇まいや手腕のようなものは、おそらくは中学から高校にかけて年月とともに育まれ磨かれていった。そういうムサシだからこそ、ヒル魔も住まいをともにする気になったのではないか。
単なるルームシェア、共同生活だろうか。いやでも先ほどのヒル魔の様子。騒がしく文句をたれたかと思えばうっすら耳たぶを染めていた。あの口悪さはいわば照れ隠しではないだろうか。惚れた男が来てくれた嬉しさを押し隠すための悪態。ヒル魔は照れていたのだろう。ムサシという、おのれの惚れた男に。そういうひねくれた部分を人一倍、多分に持つ男だ。ヒル魔妖一という男は。
このように考えてみると、やはりこのふたりの共生は共生というより同棲なのだろう。同棲とは恋仲の二人がともに暮らすことだ。いつからそうなったのかそこは不明だが、少なくとも今現在このふたりは恋人どうし。〝付き合って〟いると見てよい。
十文字の胸を包むのは意外な思いではない。いつそうなってもおかしくないとは思っていたが、やっぱりそうなんだなという気持ちである。はた迷惑な部分もあるにはあるが、今このふたりは総じて仲睦まじいようだ。そんならまあ良かったな。黒木や戸叶にも教えてやらねえと。
このように十文字の思考は流れていった。
距離の近さは伊達じゃねえ。
が、それも今となっちゃますます当たり前だ。
悟りを開くと色々なものが鮮明になるらしい。こういうことだなきっと。
十文字はそう締めくくった。
グラウンドを前にして十文字はひとつ深呼吸をした。ヒル魔は帰り支度をしていたようだし、それなら今日のトレーニングはもう終盤なのだろう。すっかり時間を費やしてしまった。戻らなければ。
ヘルメットをかぶろうと指をかけた。
「糞長男!」
十文字の胸が跳ねた。
百歩譲ってこの闖入がヒル魔の工作によるところだったとしても、この男──武蔵厳、通称ムサシという男がここに来た理由が分からない。十文字はかつてはこのムサシとヒル魔とチームを同じくした。泥門デビルバッツというチームを。だが現在ヒル魔はともかくムサシは最京大ウィザーズと無関係だ。この男は武蔵工バベルズのキッカーである。ムサシは高校を卒業後、大工を生業としている。もしかしてヒル魔の依頼で何かグラウンドに細工でも施すのだろうか。いやそれにしたってヒル魔はこっちの、大学周辺の業者を幾らでも使う腕と頭脳と脅迫手帳を持っているはずだ。
脳内の幾つもの疑問をどう表明するか考える。そんな十文字を、ムサシは黙って見守っている。返事を待っているのだろう。1軍に上がって良かったなと十文字は言われたし無沙汰でもあるし、胸中で心も構えた。まずは挨拶らしいものをしなければ。だがここで、はたと十文字は気づいた。なんて呼びゃいいんだ、と。高校時代の自分はムサシをオッサンなどと言い(先ほども脳内でそう呼んだ)、言われた本人もそれに淡々と応えていた。だが卒業して2年目、もはや自分もあの頃とは違う。そんならええと……ムサシさんとか? いやこれ何かぞわぞわすんな、じゃあタケクラさん……こっちは他人行儀が過ぎる。いったいどうしたら。
逡巡するうちに、十文字は何とも涼しい顔でこの場に立つムサシの様子に巻き込まれてしまったようだ。結局その口から出たのは昔と同じ呼び方で、しかも挨拶とも聞きたいことともまるで違うせりふだった。
「オ……、オッサン」
「おう。なんだ」
「あの……すげえ車だな」
「ん? そうか?」
「それ」
十文字が金の看板を指差すと、ムサシはちらと後ろに目をやった。
「ああ、こりゃ最近つけたんだ。店の宣伝用にな。いいだろ」
「いや、いいって言うか……。派手だよな」
「宣伝だからな。こういうのは派手な方がいい。それに」
「それに?」
「あいつもこうしろって言ったしな」
始まったと十文字は思った。何が始まったかというと、この男特有のものの言い方がさっそく始まったのだ。あいつとはどいつのことか、口にせずとも分かるだろうという顔だ。厚かましい顔である。〝あいつ〟が誰を意味するのか十文字はもちろん知っている。知っているが久しぶりに耳にすると改めて、そういやこのオッサンはこうだったっけと思い出す。〝あいつ〟に関しては図々しいことこの上ないのだ、この男は。
ここでようやく持ち前の負けん気が十文字の中で頭をもたげた。これ以上呑まれてたまるか。仕切り直しだ。
十文字がおのれを奮い立たせて口を開こうとすると、ムサシがふいと十文字から視線を外した。グラウンドを観察するようだ。ぐるりと見渡して、まだ終わらねえようだなと呟いた。
腕組みをして、片足に重心をかけてムサシはゆったりと構えた。鍛え抜く男たちを眺め始める。思い出したようにまた十文字を見た。
「行かなくていいのか。練習中だろ」
さっさとフィールドに戻れと言いたいらしい。いきなりやってきたと思ったらその途端いかにも訳知り顔でこの場に佇む男。負けん気が増幅して十文字はむかっ腹が立った。
「オ、オッサン!」
今度は少し強めな声が出た。やっと文句をつけることができそうだ。
「あ?」
「こんなとこに停めていいと思ってんのかよ、こんなん」
車を指して詰問するとムサシはまるで動じずに答えた。
「ああ。許可なら取ったぞ、あいつが」
再度〝あいつ〟である。十文字はまたも思った。いや分かるけどよ、そう口にする時のその厚顔ぶりは何だ。それに。
「うちのグラウンドになんかすんのかよ。なんか、その……細工とか」
「そういう予定はねえな」
「じゃあなんで来た」
「? 何が」
「なんでいきなり来たんだよ。何が目的で」
ムサシは眉を寄せて訝しげな顔で十文字を見た。
「お前どうした。何をカリカリしてるんだ」
カリカリなんかしてねえよと十文字は言い返した。その口の下から苛立ちを感じた。どうしてこのオッサンはこうマイペースなんだ。マイペースっつーか、ゴーイングマイウェイじゃねえか。
「
「あっちってどっちだ」
「東京だ東京。オッサン東京だろが」
「そりゃまあそうだ」
ムサシは至極当然という口ぶりで答える(実際その通りだ)。
「何で来たんだよ、あっちの方から」
「何でって、別にそんな遠くないぞ。地続きだし」
そうじゃねえよと十文字は思った。どこまでも泰然とムサシは答えるが、自分が聞きたいのはこの男がここにやってきた理由である。それに地続きって何だ。その理屈で言えば例えば青森と山口だって地続きだが、それでもこの男は軽トラを駆って来るのか。いややりかねねえな、この男なら。いやそんなことは今どうでもいい。
「何が狙いだ。あんたは部外者だ、ここに入っていいわけがねえ」
「だから許可なら取ってるぞ。車も俺も」
「だからって何で来た」
「あー……」
腕組みを解いて、ムサシは小指を片耳に突っ込んで掻いた。答えに詰まって慌てるような顔色ではない。逆だ。十文字から見たら小面憎いほど落ち着いている。問い詰める様子の後輩を眺めて、要するにあれか、とムサシは口にした。ゆったりとまた腕を組んだ。
「要するにあれか、お前は俺がどういう理由でここに来たのか知りたいってことか」
「だからそうだっつってんだろ!」
「迎え」
「は?」
「聞こえなかったのか。迎え」
「誰を」
しまったと十文字は思った。ついムサシにつられて問いを発してしまった。こんなのは言わずもがなというものだ。しかし尋ねてしまったからには目の前の男は答えるだろう。それもこの男流のやり方で。そういうところはむやみに律儀なのだ、この男は。そして現実は十文字の悔やんだ通りになった。
ムサシは無造作に親指でフィールドを指した。
正確にはフィールドの一人の男を。
フィールドで飛び回るウィザーズのQB、ヒル魔妖一という男を。
その男は折りしも誰かの名を騒々しく連呼しながら目の前を横切って行った。
「あいつ」
「休みなんでな。明日から」
十文字の口から出たのは我ながら力ない
……そうかよ。
脳裏に空虚な突っ込みが浮かぶ。いやだから……と。どうもムサシの言葉から察するに、ヒル魔は明日から休暇を取るのだろう。その休みの期間を東京の家で過ごすことになっており、だから東京住まいの自分が車で迎えに来た。と、そういうことをムサシは言いたいらしい。
いやだから……と引き続き十文字は考える。ムサシの答えは確かに、十文字の一連の所感および疑問に対する答えではあった。一応は。派手な大看板はヒル魔にそうしろと言われた通り店の宣伝のため。車も自分もここに入るためヒル魔が許可を得た。そして自宅で休みを過ごそうとするヒル魔の迎車役をかって出て、ここにやってきた。それらは十文字にも把握できた。しかし、この男の発言はおそろしく天然かつ不十分だ。ゆえに十文字には新たな疑問点もしくは突っ込みどころが生じている。
──いや、だから……
ヒル魔が明日から休みだからといって、なぜ
ム サ シ が 迎 え に
来なければならないのか。
十文字にはこの点がさっぱり分からない。この疑問を口にのぼせることは容易い。なんであんたが迎えに来る必要があるんだ? と直接ムサシに聞けば良い。が、なんだかもう聞かなくてもいいような気がうっすらとしてきた。どうしてか徒労という語が胸に浮かぶのだ。そこで十文字は会話を切り上げようと思った。目の前の男の天然と厚顔によって自分に疲労がたまる一方のような気がするし、一通りのことは知り得た。何より、いい加減フィールドへ戻らなければ。
まあいいや。そう十文字は投げやりに呟いた。じゃあなと言い捨てて、再び足を踏み出そうとした。するとムサシが、ああ、あのなと呼び止めた。
「なんだよ」
振り向いた後輩の目に映ったのはくそ真面目な漢の瞳。
面の皮にもどっしりと厚みと重みを漂わせて。
「あいつのうちは俺のうちだ。知らなかったかお前」
「知るかンなこと!」
叫んだら明確な疲労感が十文字のもとへやってきた。
ムサシとのやり取りを最初からしなければ良かったというか、無駄なエネルギーを使ってしまったという気持ちが心に広がる。しかしである。
しかし、ここで十文字はムサシに向き直った。押し寄せる疲労感の原因に立ち向かった。
十文字は根がアグレッシブな性格だ。特にアメフトという競技に打ち込み始めてからというもの、そういう部分はますます磨かれた。何事も挑戦だ。やってみなければ何も始まらねえ。そんな気持ちで日々を過ごしている。そのアグレッシブさと十文字の最大の長所、ガッツはここでも発露した。まあいいやなどとさっきは全てを打っちゃったが、やっぱり負けっぱなしは趣味じゃねえ。いわば力を振り絞って健気に最後の突っ込みに挑もうとした。
まず一つめ。
「一緒に住んでるからって何もあんたが迎えに来なくたっていいじゃねえか」
すると天然男はぬけぬけと答えた。
「俺もそうは思うけどな」
十文字、心の声。
思うけど何だよ。
「あいつが来いって言うんでな」
十文字はめまいを覚えた。が、ぐっとこらえた。
二つめ。最後の最後。
「あんたクルマ持ってねえのか」
「クルマ?」
「自家用車だ! 何も軽トラで来ることねえだろ、フツーの車とかねえのか」
東京から遠路はるばる移動するのに軽トラは不向きだろう。軽自動車などの家庭用車両は所持していないのか。十文字の意はそういうことだが、ムサシはそれを汲んだようだ。
「あるぞ。あるけどな」
答えながらムサシはおもむろに軽トラを指し示した。またも親指で。
一瞬つられて十文字の視線は車へ。それを確かめてムサシは言い切った。
「あいつが気に入ってる」
ドン!
もう十分だと十文字は思った。
足から力が抜けていくような感覚が十文字を包む。ふいに昔戸叶が貸してくれた漫画を思い出した。ギャグ漫画で、やりたい放題の主人公に振り回される脇役が出てきた。その脇役は虚ろな目をしていた。あれはこういう気持ちかもしれねえな。
あいつ。あいつ、あいつ。
ヒル魔。ヒル魔、ヒル魔。
やっぱり分かんねえなと十文字は感じた。
十文字が何を気にして何を解明したいと考えていたのか。
突き詰めると、それはこのムサシという男の根本に存在するものである。
遥か関東は東京から、ヒル魔の気に入りの軽トラで、ヒル魔を迎えに。乗り入れ禁止のグラウンドに車を駆ってやってきた男。
あまつさえおのれの行動はごくまっとうなもので、不自然でもなんでもないという態度の男。
虚脱した十文字の心に回想が浮かんだ。昔々の記憶だ。
思い起こせば高校時代から、ムサシという男はある点が謎めいていた。
ムサシは饒舌なタイプではない。寡黙な方だ。が、その寡黙さや慎重さ、考え深さや選手としての実力などがあいまって、チームに復帰したのちのこの男の存在を際立たせていた。そしてその存在感はムサシが占めるある場所においていっそう際立っていたのである。
それはヒル魔の後ろ。
ヒル魔妖一という男の後ろにおいてである。
ヒル魔の後ろにある謎の存在感。
つねにチームの先頭を行くのはヒル魔。ヒル魔は肩で風を切る。そのヒル魔の影になり日向になり、また影になりムサシは付き従う。後ろに佇む。しかも、ヒル魔のことなら何もかもわきまえているという顔で。
知った顔。我が物顔。迫力。圧。そういうものを大いに、というかむやみやたらとムサシは漂わせていたのである。ヒル魔の後ろのムサシという男は。
この現象あるいは光景は、部員たちの興味を著しく引いた。一時期、あの存在感は何なんだと後輩の間で物議を醸したものである。謎だよな、と。
栗田から聞かされた話によれば、栗田とヒル魔とムサシは中学以来の親友なのだという。それを考慮に入れたとしても、ムサシがヒル魔の後ろで発する空気は実に独特であった。ヒル魔は糞ジジイなどと高飛車に呼びつつムサシを従える。従えるとは言っても当のムサシがまとうのは決してヒル魔に盲従するような態度ではない。また保護者、庇護者というわけでもない。じゃあ何なんだろうと改めて十文字は実感する。
それにそうだ、もう一つ自分らの間で話題になっていたことがあった。このふたりはいったい──。
「おい」
ムサシの声で十文字は回想を破られた。見るとムサシは何かを注視している。
「なんだよ」
「あれは何だ」
「?」
ムサシの視線の方向を見るとベンチの向こうだ。何もない。十文字にはムサシの意図が分からない。このオッサンは何を言いたいんだ。
後輩の心の内をムサシは察した。人指し指であるものを指し示した。
「あれ」
十文字はますます疑問に思った。ムサシが指しているものは別に珍しくもないし十文字から見たら何の異常もない。やぐら。グラウンドのかたわらに立つ櫓をどうしてかムサシは気にするようだ。
「櫓がどうかしたのかよ」
フィールドを高所から撮影する目的で、昨今は多くのチームでドローンが取り入れられている。ウィザーズはそのドローンと櫓を併用している。後者は最近十文字やその他1軍の下級生らで新たに組み立てたばかりである。今はヒル魔がドローンを使用しているから櫓には誰も上っていない。その櫓にじっと目を当ててムサシは言った。
「歪んでる」
「は?」
「傾いてるぞ」
ムサシは言い直した。
「…………」
ありゃあ危ないなと誰にともなくムサシは呟いた。十文字はつい引き込まれた。
「分かるのか、オッサン」
「あれは使うな。あいつにも話しておく」
「わ、分かった」
「何かあってからじゃ遅い。建て直すんだな」
「あ、ああ」
「あと建てる時は面倒でも墨出し器を使え」
「墨……?」
「水平器を使えと言ってる。角度を確認するやつだ」
噛んで含めるような言葉に十文字は困惑した。
「そんなもん……」
「ないか。じゃあそれもあいつに話しておく」
「…………」
何も言えなくなって十文字は頷いた。職業が職業だし、このオッサンが言うなら櫓は確かに危険な状態なのだろう。
一応礼を言わなければ。十文字がそう考えた時、ベンチにチームスタッフがやってきた。何本ものボトルを下げた2年のマネージャーだ。するとムサシはその学生を呼び止めた。髪を後ろで束ねた女子学生はムサシを見とめて、こんにちはムサシさんと言った。慣れた様子だ。
十文字の見守る前で、ムサシは櫓を指差してマネージャーに何事か語り始めた。聞き手はすぐに目を瞠って櫓の方に顔を向けた。不安な表情を浮かべてムサシと櫓を交互に見比べる。
ムサシの話を熱心に聞き入って、女子学生は最後に強く頷いた。心得たというように。そして礼を述べて急ぎ足で去っていった。
──…………
十文字は無言でそのさまを眺めていた。マネージャーを見送ったムサシが戻ってくる。俺も礼を言うべきだよなと十文字は考えた。何というか感じ入ってしまったというか、このオッサンは色んな意味ですげえ男だよなという思いが生まれている。
癪に障る部分もないわけではないが、なんかもう色々踏ん切りがついた。そう思いつつ十文字はムサシを呼んだ。
「オッサン」
「おう」
「その……櫓のことありがとな。もう行くからな」
フィールドに戻ると伝えるとムサシは頷いて答えた。おう、頑張れ。
十文字はヘルメットをもう一度手に取った。正面に顔を向けた。仲間たちの励むグラウンド。最強の戦士たち。この中で自分も。
気持ちを切り替えた。
よし。
──だが。
またも。
心を新たにしたのも束の間、またも十文字の足は止まった。
──何してんだ。あれ
そういう戸惑いのような心境がやってきたからだ。
この心境の対象はこれまで会話していた男ではない。ヒル魔である。ヒル魔の様子がおかしい。
屈強な男たちがぶつかり合うグラウンド。そのグラウンドの中で、男たちから少し離れた場所にヒル魔は立つ。十文字やムサシに背中を見せて、あらぬ方向を向いて突っ立っている。先ほどまでの騒がしさはなりをひそめて、じっと何かを窺うようだ。
「どうした」
ベンチエリアから出て行かない十文字にムサシが声をかけた。十文字はチームのQBを指差す。
「なんか変だぞ」
「何がだ」
ムサシは十文字の示す先、ヒル魔を見た。
「何してんだあれ」
後輩の言いたいことをすぐさまムサシは理解した。こともなげに答えた。
「ああ。あれはな」
「天気を読んでる」
「風向きとか雲行きとか。あと湿度とかな」
「予報なんかより役に立つぞ。あいつのあれは」
十文字の心にある風景が浮かんだ。
清流。
清らかな水の流れ。
何故か十文字の心にそんな風景が浮かんだ。
なんつーか……いっそ清々しいな。
そういう思いで十文字はムサシを眺めた。これまでと違い平静な心持ちだったため、へえ、そうかとおとなしく相づちを打つこともできた。
視界の片隅に先ほどのマネージャーと姉崎が映った。二人は急いで櫓に向かい、上り口を封鎖するように紙を貼り付けた。姉崎が済まなそうな顔でムサシを拝む素振りをした。そして二人はムサシに手を振って去って行った。ムサシも軽く手を上げて見送る。それを十文字はただ見ていた。
胸にあるのは一周回って爽快さにも似た気持ちだ。仏教で言うところの悟りを十文字は開いた。
ある意味完膚なきまでに打たれたのかもしれない。心に少々虚ろを感じたし、この男の謎は未だ解明されないからだ。だがもう謎を謎のまま、ありのまま受け入れようという気持ちになった。ムサシの解説に相づちを返すことができたのはそのためだ。おそらく自分は解脱したのだろう。打たれ打たれたすえに。滝行かよ。神龍寺じゃあるまいし。
まあこの経験も意味はあった。何せ悟ったからな。
さて、練習だ。十文字はグラウンドに目を向けた。
ちょうどその時、件の男──ヒル魔がくるっと振り返った。首の滑らかな動きはまるで180度回転のようだ。ベンチ横のムサシの存在はとっくに知っていたのだろうが、ようやく気を向けるつもりになったらしい。部員たちの間を縫って、ずかずかとフィールドを横切ってやってきた。なんとなく十文字はそれを待った。
「何だよ遅えな」
ヒル魔の顔とせりふはムサシに向けられたものだ。十文字には目もくれない。それは別にどうでもいいが、いきなり文句かよと十文字は呆れた。ムサシは別に腹を立てるでもない。平然と答えた。
「混んでてな。飛ばしたんだが」
「だから早めに出ろっつったろ、何度来りゃ学習しやがるんだテメーは」
「努力はしたぞ」
「結果の伴わねえ努力なんぞ意味がねえ」
「そういう言い方はないだろう」
「やかましい、遅刻は遅刻だ」
「来たんだからいいじゃねえか」
「開き直りかよ。反省ってもんがねえな糞大工」
「混み具合まではどうにもできんからな」
「混むかどうかじゃねえ、テメーが早出するかどうかだ」
「そう言われてもな」
「来やがるんなら最後まで責任持って来い」
「だからちゃんと来ただろ」
「たりめーだ、クルマ出すって抜かしたのはてめーだろが」
初手からがみがみとヒル魔はまくし立てる。
すると十文字にとってたいそう印象的なことが起こった。
ムサシがふっと笑みを浮かべたのだ。不思議な笑み。その笑みを見てヒル魔はどういうわけかケッと横を向いた。ベンチの私物をあれもこれも鷲掴みにしてまとめ始めた。口の中ではまだ悪態をついているようだがそれまでのムサシに突っかかるような物腰は影をひそめた。よく観察すると尖った耳朶が薄赤い。金属製のピアスまでがいつもより艷やかに見える。その様子はまるで──まるで、何かに照れてでもいるかのようだ。
上記の一連の事象を十文字は眺めていた。
黙って眺めていた。
着けようと思っていたヘルメットを片手に、一部始終を十文字は聞いて見ていた。
ムサシとヒル魔のやりとりは一見上はただの言い合いだ。が、違うなと十文字は感じた。目の前で繰り広げられた光景は言い合い、つまり口げんかとは似て非なるものだ。
これは口げんかという名の。
口げんかという名の──。
じゃれあい。
いちゃいちゃ。
いちゃいちゃって言うんじゃねえか、これ。
夫婦和合ってやつだろ。いやどっちもオトコだけどよ。琴瑟相和すってやつだろこれ。
そう十文字は見た。看破したと言っても良い。
先ほど浮かんだ記憶が再びよみがえる。ムサシという男の持つ謎の存在感。そのことで一時後輩らは持ちきりになったものだが、もう一つ話題になったことがあったのだ。
それはあのふたりが、いったい。
ムサシとヒル魔というあのふたりの男が、いったいいつ〝くっつく〟のかということだった。
くっつくというのはすなわち付き合うということだ。いわゆる恋人どうしとして。あれだけ濃厚な、濃密な空気を漂わせるあのふたりがいつそうなるのか。このテーマで十文字たち後輩はかなり盛り上がった。つーか、もう付き合ってんじゃね? という見解を述べたのは黒木である。黒木の言葉に漫画を読みながら戸叶がまぜっ返した。いや分かんねえぞ、あいつらアレでけっこう奥手かもしれねえ。
ヒ、ヒル魔さんが奥手……と目を白黒させたのはセナである。じゃあセナ、お前はどう思うんだよと十文字が聞くと、瞬足のRBは困ったように笑った。僕はそういうのよく分かんないし。モン太はどう思う? と友人に水を向けた。
え、俺かよ。モン太は自分を指して鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。次にこの小柄な熱血漢は腕組みをして唸り始めた。うーん……あのふたりならいつ生さぬ仲になってもおかしくないとは思うけどよ……。そこで懸命に頭をひねる同輩に十文字は訂正を入れてやった。お前の言いたいことは分かるけどな、それ意味が違うぞ。モン太はまた「え」と目を瞠った。
俗に言う生さぬ仲というのは血の繋がりのない親子のことである。そう十文字が説明すると、モン太はいやアハハと笑って誤魔化した。決まり悪そうな友人にセナが助け舟を出す。でもさ、そういう親子みたいな、なんか濃い関係であることはやっぱり間違いないんじゃないかな。ムサシさんとヒル魔さんて。
うん……そうだな。
フゴ……。
まあそうだな。
そうだよなあ……。
んじゃもう生さぬ仲ってことでいんじゃね?
だから違うっつってんだろ黒木。
結局この問題はヒル魔たちが卒業し次に十文字たちが高校を出ても解明されなかった。あれよあれよという間に月日は流れ、十文字は最京大で2回目の春を迎えた。そしてこの日、十文字の前に明らかになった事実が二つある。
一つはムサシという男の、謎の存在感。前述の通りこれは以前から分かっていたことだ。が、久方ぶりにムサシという男と間近で接して、十文字には改めてひしひしと感じられたことである。
そして二つ目。
──あいつのうちは俺のうちだ
そうムサシは十文字に証言した。
これはすなわち、ムサシとヒル魔が一緒に暮らしているということである。
──ということは、だ
頬を撫でる風を感じながら十文字は分析する。
ヒル魔のような男がねぐらを別の人間とともにする。こんな関係はよほどヒル魔と近しい者でないと不可能だろう。ヒル魔を一人の男として人間として尊重し、大切にし、ある意味たくみに手綱を取ることのできる者でないと。
ムサシというのはまさにそのためにいるような男だ。ムサシのヒル魔に対する佇まいや手腕のようなものは、おそらくは中学から高校にかけて年月とともに育まれ磨かれていった。そういうムサシだからこそ、ヒル魔も住まいをともにする気になったのではないか。
単なるルームシェア、共同生活だろうか。いやでも先ほどのヒル魔の様子。騒がしく文句をたれたかと思えばうっすら耳たぶを染めていた。あの口悪さはいわば照れ隠しではないだろうか。惚れた男が来てくれた嬉しさを押し隠すための悪態。ヒル魔は照れていたのだろう。ムサシという、おのれの惚れた男に。そういうひねくれた部分を人一倍、多分に持つ男だ。ヒル魔妖一という男は。
このように考えてみると、やはりこのふたりの共生は共生というより同棲なのだろう。同棲とは恋仲の二人がともに暮らすことだ。いつからそうなったのかそこは不明だが、少なくとも今現在このふたりは恋人どうし。〝付き合って〟いると見てよい。
十文字の胸を包むのは意外な思いではない。いつそうなってもおかしくないとは思っていたが、やっぱりそうなんだなという気持ちである。はた迷惑な部分もあるにはあるが、今このふたりは総じて仲睦まじいようだ。そんならまあ良かったな。黒木や戸叶にも教えてやらねえと。
このように十文字の思考は流れていった。
距離の近さは伊達じゃねえ。
が、それも今となっちゃますます当たり前だ。
悟りを開くと色々なものが鮮明になるらしい。こういうことだなきっと。
十文字はそう締めくくった。
グラウンドを前にして十文字はひとつ深呼吸をした。ヒル魔は帰り支度をしていたようだし、それなら今日のトレーニングはもう終盤なのだろう。すっかり時間を費やしてしまった。戻らなければ。
ヘルメットをかぶろうと指をかけた。
「糞長男!」
十文字の胸が跳ねた。