疾走大工 ──軽トラにアイを乗せて

 ベンチに戻って十文字はヘルメットを外した。タオルでがしがしと顔や首まわりの汗を拭う。ちょっと息をついたらすぐに戻らなくては。
 背中と肩につけた番号は高校時代と同じ51。ユニフォームとその下の防具はまだ真新しい。1軍昇格と同時に支給されたものだ。
 目の前には青々と人工芝のフィールドが広がる。それは今しも鍛錬に励む多くの部員の姿で埋まる。みなウィザーズの誇る精鋭たちである。ここに来るまでに、丸1年を自分は費やしたのだ。



 大学では法学をやりたい。アメフトは続ける。十文字がそう伝えると父は黙って頷いた。眼鏡の奥、瞳の色を少し柔らかくして。
 その色に励まされるような気持ちを抱いて受験勉強に精を出した。高3の夏、部活を引退して志望校を考える段になると、担任からいくつか候補が挙げられた。そのリストの中に最京大学があった。関西の私学の雄であり、文武両道の有名校だ。ここの法学部は伝統と実績があるし、アメフトも盛んらしい。部も同好会も。偏差値的には上位校だが、もし東京を離れることに支障がないなら考えてみては。きみならできると思う。
 十文字に否やはなかった。担任が話したようなことをとっくに知っていたし先々について考えをめぐらせてもいたのだ。二者面談、ついで秋の三者面談。後者にやってきたのは父である。そこで担任の立ち会いのもと、十文字は最終的に志望校を決定したのだった。
 模試や勉学はそれほど苦ではなかった。十文字にはめざすものがあったからだ。
 それが最京大学のアメフト部、ウィザーズである。
 強豪がしのぎを削る関西の大学リーグの中でも、他の追随を許さない名門チーム。
 その強さは冬が来る頃には界隈で以前よりなお一層話題になった。攻守ともに鉄壁のライン勢、それに少々アクは強いが卓越した技術を誇るバックス陣。リーグ戦を破竹の勢いで勝ち進む。
 そんな光景を目にし、また情報を耳にするたび十文字は血が逸るような思いを感じた。俺もそこへ、と。そう遠くない未来、必ずこのチームの一員となる。レギュラーの座を掴みそして頂点を獲るのだ。まるで頬の傷が疼くような感覚を何度も覚えた。
 春先に合格通知を受け取った時は大きな喜びに包まれた。同時に、身が引き締まるような思いもやってきた。中学からの付き合いである二人の仲間は早々に就職を決めており、もとデビルバッツのキッカーが設立したクラブチームへ加入するという。目標はアメフト日本一、すなわちライスボウルである。自分も同様だ。黒木や戸叶は、これからは自分のライバルなのだ。自分はまず大学で日本一をめざす。さらにライスボウルで勝利を。
 そう決意して十文字はウィザーズの入部試験に臨んだ。そしてその結果。

 ──3軍判定という現実を突きつけられた。

 一時は愕然とした。最初からレギュラーに、または1軍に入れるほど甘くないだろうと薄々考えてはいた。けれど目の前の壁がここまで高く厚かったとは。
 同じ判定を受けた同級生の中には諦めの良い者もいた。さっさと部やおのれやアメフトそのものに見切りをつけて、いわば自分を〝高く買って〟くれる別の競技へと入って行ったのだ。だが十文字は彼らの跡を追うことなどまったく考えなかった。他人は他人、自分は自分だ。
 それに、と十文字は考えた。あの部活ざんまいの日々、くぐり抜けた死闘。幾度も考えたことをまた思った。

 ──負けっぱなしは趣味じゃねえ!




 タオルをごしごしと使って汗を拭う。十字傷の頬から額へ、ついでに頭へも。空を見上げればのどかな晴天が広がる。が、この新年度に念願の1軍入りを果たしたとはいえ、十文字にとってここでおのれの地位を築き上げるのはまだこれからのことだ。のんびり天気など愛でる暇はない。まして──。

 まして、さっきからフィールド上空を実に凶々しいものが飛び交っているのだ。

 黒いドローン。

 空中からフィールドを撮影するためのドローンは現在多くのチームで採用されている。ただしここウィザーズのドローンは尋常ではない。
 何しろそれは銃撃をかます。
 少しでも気を抜く部員を見つければ情け容赦なくズパラタタタと激しい威嚇射撃をかましてくる。つい先ほども十文字の同期が餌食になったばかりだ。黒光りするその銃口がいつ自分に向くか分からない。早く戻らなくては。

「おおい、ヒル魔あ」

 フィールドから閉口したような声が上がった。あの人だなと十文字は思った。メットと防具の下は大先輩である。4年の山伏、もと神龍寺ナーガの名ラインマン。
「大概にしてくれんか」
 後輩を庇うようにして山伏は呼びかける。ドローンの操縦者、このチームのQBへ。巷で〝地獄の司令塔〟の異名を取るヒル魔妖一というQBへ。
 山伏の言いたいのは無論、さっきから断続的に繰り出される威嚇射撃をやめてくれということだろう。だが返ってきたのは甲高い笑い声。ケケケとけたたましく、山伏の制止など毛筋ほども気に留めていないだろう悪魔笑いだ。十文字はそれを呆れるような思いで聞いた。やっぱり、こいつはここでもこうなんだな。多分、おそらく、どこまでも。

 ──だいたい

 なんであいつが前衛こっちにいるんだ。

 十文字には最初それが不思議だった。

 ウィザーズの1軍、いわば精鋭部隊の練習は、フィールドをほぼ四分して行う。攻守および前衛ライン後衛バックスに分かれるのだ。さらに部員たちは少人数のグループごとに様々なノルマをこなす。前衛ならタックル練習、パスプロやラッシュ、フットワーク。2on1。ヒル魔は投手、QBであり、すなわちバックスの一員だ。RBやWRとの連携プレーも、それを支える練習も欠かしてはならない。実際ヒル魔は後衛の集まるエリアへすっと入ることもあるのだが、ラインマンたちがやれやれ行ってくれたとほっとするのも束の間、すぐまたドローンとともに舞い戻ってきて屈強な男たちを震撼とさせるのだ。
 ヒル魔はユニフォーム姿ではあるがメットはつけていない。それにポジション柄その防具はそう重たくはない。しかもこの男はやたらと身軽だ。ケケケと性悪な笑い声を響かせながらあちらからこちらへ、またこちらへと飛び回って男たちに指示を放ち監視する。高校時代と何も変わらぬ挑発的な物腰で。
 バックスはバックスでやることがあんだろうに、なんであいつは俺ら前衛のとこに。ここに上がったばかりの自分は周りの動きに合わせればいいだけだが、みんな文句もつけずあいつに従うようなのはどうしてだろう。
 そういう疑問を十文字は今日の練習開始早々から感じていた。上級生に尋ねてみようと思い、先ほど実際にそうした。スキンヘッドの巨体の最上級生に。昔々、十文字と二人の仲間を地に叩きつけた──そして奮起のきっかけを作ってくれた、いわば恩人のようなものでもある先達に。
 あの、番場さん。そう呼び止めて聞いてみると、番場はああと気がついたような顔をした。そうか、お前は上がったばかりだったな。
 十文字は1軍に昇格してまだまもない。だから知らないのも無理はないだろう。番場はそう言いたいらしかった。重々しくその口から出たのは次のような1軍の事情だった。
 ヒル魔は投手であり攻撃の司令塔だ。ただ以前からありとあらゆるポジションのコーチングにもたずさわっている。攻守両面、ラインもバックスも。特に今日のような、監督その他幹部のいない自主練習日にはヒル魔がチーム活動の主軸となる。その目的はコーチングを通じて意思の疎通をスムーズにし、試合時にQBとして自在に仲間を動かすことだ。無論ヒル魔だとて普段はオフェンス勢とともに激しい鍛錬を積んでいる。が、自主練日には指導部の公の認可の下、攻守ラインのトレーニングをも指揮している。部員たちもそれは了承済みだ。まあ、あいつのやり方は少々極端ではあるがな。そんなことを番場は口にした。
 へえと十文字は思った。ヒル魔は高校でも部のキャプテンであり、チームの牽引役だった。ウィザーズにおいてもそれは同様であるらしい。多分ここに至るまでにこの男はおそろしく研鑽を積んだのだろう。強豪ウィザーズの、それも1軍となれば全国に名をとどろかす猛者揃いだ。その一流選手たちの中でまずは司令塔としておのれの地位を確立しなければならない。それに加えて指導指南の腕前だとて相当に磨いたのだろう。でなければこの男流のやり方が通じるわけがないのだ。
 こいつに俺は敵うのか、などという思いがちらと頭をかすめた。文字通り八面六臂のQB。同じ高校出身、かつて同じ部で同じ試合を戦った。が、だからと言ってヒル魔はこの場でわざわざ十文字に声をかけたり気を使う様子はまるでない。それは十文字も当然だと理解している。
 だが敵うか敵わないか、そんなことは問題じゃねえな。十文字は頬を引き締めた。とにかく、自分には明確にめざすものがある。そのためにはやるしかないのだ。それにしても相変わらずあいつがやることは無茶苦茶ではあるが。
 ──無茶苦茶と言えば
 不気味に唸りを上げるドローンから目を離して、十文字はフィールドの片隅に視線をやった。また呆れるような気持ちで。

 ──やっぱり
 ──やっぱ……いるんだよな、あいつも
 ──つーか、参加してんのか……

 十文字が目を当てているもの。それは折りしも数人のラインマンを猛烈な勢いで追い立てている。ガウガウと凶暴に。
 ──まあ、なんかヒル魔の……〝仲間〟らしいし
 疾駆する短毛の中型犬。ドドドという効果音が聞こえてきそうな迫り方で部員を狩りたてるその犬は、十文字もよく知っている存在だ。かつては泥門高校アメフト部に〝在籍〟していた。ヒル魔の進学とともに現在は最京大の構内に棲息する。
 その名はケルベロス。
 ケルベロスである。
 十文字が昔聞いた話では、この犬はまだ詰襟を着ていた頃のヒル魔と知り合って関係を結んだらしい。数えたらそれから7年ほど経っている。人間の年齢で言えば壮年をとっくに過ぎているはずだ。だが面構えといい体格といい、この犬は衰えた様子にはとても見えない。むしろ百戦錬磨の若者たちの中にあって負けず劣らず、まるで学生らを威圧するようだ。実際、十文字の目の前で現在只今この〝地獄の番犬〟は部員らを容赦なく追撃している。かつてセナに4.2秒台を叩き出させたあの凄まじさはまるで衰えていないのだ。
 フィールドの向こうからエンドゾーンを経由してこちら側へ。そこまで学生を追い立てて、ケルベロスは一区切りつけようと思ったらしい。速度をゆるめて、ベンチの方向へ歩いてきた。ぬるい、もっと励まんか。しょうもない。犬だというのにそんな表情を浮かべている。
 十文字には目もくれず、犬はやれやれというようにベンチのそばにやってきた。おもむろに腰を落としたから一息つこうとしているのだろう。やばいなと十文字は思った。ぼやぼやしてると今度は俺がこいつに襲われる。もしくはあのドローンに。タオルをしまって戻ろう。
 ベンチとその周りには部員たちのバッグやボトルなどさまざまな私物が置かれる。数は多いが乱雑ではなく、どこか整然と統制が取れている。こんなところも2軍以下と1軍では違うんだなと昇格した直後は思った。
 息は落ち着いたし汗もある程度引いた。やっぱり1軍の練習はきつい。きついが、ついていく自信も覚悟もある。時間的にも自主練は後半に入っているはずだ。頑張らねえとな。
 タオルを押し込んでバッグの口を閉じた。フィールドへと片足を踏み出した。

 ──その時。

 うずくまっていた犬がふと鼻先を上げた。耳を動かす。
 ゆっくりと立ち上がり、犬はある方向を注視する様子になった。
 ──……?
 十文字は訝しく思った。普段ものに動じないこの犬が何かに注意を引かれている。何に気を取られてるんだ。ケルベロスの視線の方向へ、つい十文字もつられるように顔を向けた。
 1軍のグラウンドは広大だ。それは広い道路と空き地と林に囲まれている。近隣の野球部の施設すら林のはるか向こうに位置する。グラウンドと外界を繋ぐ道路は緩くカーブを描き林の陰に隠れる。犬はそちらを窺うようだ。
 自分には何も見えないがこの犬はどうしたんだろう。
 そう考えた十文字の耳に、やがてかすかにエンジンの音が聞こえてきた。
 多分これは車のエンジンの音だ。犬は十文字より先にこれを聞きつけたのだろう。
 だが、おかしい。
 十文字はさらにそう訝しく思った。車など別に珍しいものでも何でもないが、ここはウィザーズのしかも1軍のグラウンドだ。人の出入りは厳しく制限されているし車の乗り入れも禁止であるはずだ。そこへ近づいてくるらしい車。どういうことだ。
 ──…………
 林の陰。
 犬と十文字の見守る前に、林の陰からカーブを曲がって姿を現したもの。
 それは。
 その車は。



 ──は?



 十文字は目を剥いた。



 ──はア?



 ──はあぁあぁあああ!!?



 昔はこんな声を腹から出して、よく威嚇をやっていた。二人の仲間とともに。だがここの、この場合の十文字の叫びは一人で心中で発したものであり、また威嚇というわけでもない。まったく別のものだ。
 それは驚きから生じた叫び。
 驚き、もっと言えば驚愕から生まれた叫びである。
 声を発しなかったからには自分にはまだ少し冷静さがあるのだろう。そういうおのれを十文字は褒めたいと思った。褒めても別に降って湧いた幾つもの疑問は解決しないのであるが。

 ──なんだ

 ──なんでここに

 棒を飲んだように突っ立って、十文字は車を眺め続けた。





 神聖なグラウンドに車が乗りつけるなど前代未聞だ。少なくとも十文字はそう思う。おそらくこりゃヒル魔が手を回してんだろうな。でなきゃありえねえ。しかもアレだし。
 次第に大きくなるエンジンの音を響かせて、悠々と近づくその車は目にも鮮やかな白いボディ。トラックだ。小型トラック、いわゆる軽トラ。地面の起伏に時折軽く跳ねながらも悠然とこちらを目指していることがもう明らかである。十文字はこの軽トラがどこの誰のもので運転者がどこの誰なのか、すでに知っている。アレ・・だと思う。なぜそう判別できるかというと、軽トラはその頭上にとんでもないものを掲げているからだ。乗席後ろのフレームから立ち上がるプレート──でかでかと派手な金色の看板。陽の光を浴びて燦然と輝く。縁と文字は太々と黒。ど真ん中の太い円の内に武蔵の文字。そしてその左右にこれもでかでかと。

 武蔵工務店。

 武蔵工務店。

 と、そう刻まれた大看板。

 その大看板を掲げて、くどいようだが悠々と軽トラは疾走の姿を近づける。
 呆然と眺める十文字の目前に、やがてそれはキキーッと音を立てて停まった。
 ばたりとドアが開く。
 運転者がおもむろに地に足をつけた。ドアの陰から姿を見せた。
 十文字の目に映ったのはたくましい白のトレーナー姿。潔く刈った髪、眉とまなざしは黒々と強い。顎と口もとには硬そうな髭。ざっくりと飾り気のない茶のズボン。
 そういう様で男はまず犬を見やった。重々しく口を開いた。

「おう。ケルベロス」

「元気そうだな」

 犬はフンと鼻を鳴らした。返事のつもりなのかもしれないが、かと言って別に尾を振るわけでも愛嬌を見せる風でもない。男が声をかけると同時にこの犬はもう何に対しても興味を無くしたようだ。元通りにベンチのそばでうずくまった。それを見届けて、男は次に十文字に目を当てた。落ち着き払って声をかけてきた。

「十文字か」

「久しぶりだな。2軍と聞いてたが」

「ここにいるってことは上がったんだな。良かったな」



 どこから突っ込みゃいいんだと十文字は思った。この男のせりふは至極まっとうなようだが、それ以前の行動が謎でありすぎる。 
 胸の中で十文字は準備運動を始めた。会話および疑問解明のためである。
 俺より先に犬に声かけんのかよ。
 まずここからしてどうなんだと思いながら。
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