あるQBの帰国 ──海外で成功して派手に帰ってきたヒル魔を栗田とムサシが出迎える話
──あ、そう……
──そう……なのか……
混乱の後にやっと理解が追いついた。
このふたりはそういう仲なのか、と。
別に自分が焦る必要はない。なのにわけもなく頬が熱い。あまりにも意表を突かれて職員はあたふたと汗をかいてしまった。こういうことは話しておいてくれたら良かったのに、と上役を思った。
進み出た短髪は手を差し伸べた。落ち着き払って、ヒル魔へ。すると。
歩みをゆるめることなくヒル魔は短髪に近づき身を寄せた。そしてすっぽりと短髪の腕の中におさまったのだ。当たり前のように、何の照れもてらいもなく堂々と。しかもヒル魔の手は短髪の──首へ、これも何のためらいもなく回った。
しっかりとお互いを抱き合うふたり。職員の耳に低い声が届いた。笑みを含みつつもどこか重々しい短髪の声。
(おかえり)
ヒル魔の返事もまた強気な笑みを帯びる。
(おう)
短髪のまなざしはヒル魔を、ヒル魔の瞳も短髪を見つめる。まっすぐに。顔と顔を寄せ合ってふたりは申し合わせたようにまぶたを閉じた。短髪の方がやや顔を傾けた。
──接吻が始まった。
もしも接吻に選手権などというものがあるとしたら、例えば迫力部門でこのふたりが優勝するのではないか。そんな現実離れした想像が職員の頭を訪れた。
百戦錬磨のつわもの、強者。
職員にはそう見える。
ニッカポッカと金髪のVIPが。
片やしっかりと相手の腰に手を回し片やしっかりと首もとを抱く。平然と。あたかも自然に。
公衆の面前。
白昼堂々。
理解がやってくると職員は落ち着けとおのれを叱った。少し驚いたが考えてみれば同性のカップルなど今時奇異でも珍しくもない。だがどういうわけか頰が熱くこそばゆい思いが離れない。
おそらく、と職員は考えた。当人たちがあまりにも堂々たるものだから見ている自分がかえって照れてしまっているのだ。ここが職場であるからには早く平静にならなければ。
そうは思うがどうも照れ臭くてどきどきする。それにふたりの間の雰囲気が職員にとってはたいそう気になる。
ニッカポッカと金髪のVIP。
言語にするとおそろしく不釣り合いかつ不似合いなようだ。しかしこのふたりの様子はまったく逆である。職員はそう感じ取った。この感じはなんというか──。
ええと。
あれ。
そうだ、あれ。
ツレ。
俗語だがツレという言い方がおそらくぴったりだ。
そういう気がする。
なんの迷いもためらいもなく歩み寄ったヒル魔。
なんの迷いもためらいもなくそのヒル魔を抱き取った短髪。──〝ムサシ〟。
衆目の中でお互いを抱き合うふたり。
世間では恋人と表現されるし実際そういう仲なのだろう。ただ、このふたりはきっと互いを恋人というよりツレと考えているのではないか。ツレ。あえて一般的な表現にするなら連れ合い。そう、目前のふたりとその抱擁は恋人というより連れ合い感がとてつもない。おそらく、きっと、もう長年の仲なのではないか。いやきっとそうに違いない。
そこまで考えて職員は今更ながらはっとした。気を鎮めることとふたりの様子を目に慣らすことに精一杯で、周りへの注意がおろそかになっていたのである。慌てて窺う。
すると何とも奇妙な、また感心するような思いに再びみまわれた。
周囲のプレス、人だかり。
その中に騒ぎ立てる者などいないのだ。
誰も。
一人として。
こんな場面にありがちないわゆる黄色い悲鳴も上がらない。
職員と同様にあたふた、またはあっけにとられたようなのはごく少数で、大半の人々が訳知り顔をしている。ある者は素知らぬ風にあさっての方向を向きある者は赤面しつつも奥ゆかしく目を伏せる。笑みをこらえつつ見ている者はまたかと言いたげだ。笑み崩れたもろに照れ笑いのような顔もある。固く抱き合ったふたりのかたわら、最も近くに立つのは巨漢である。この巨漢も汗をかきながらも笑顔だ。ぼんのくぼに片手をやって各方面にしきりに笑いかける。やあ、うちのふたりがすみませんとでも言いたいのだろう。ふたりをおもんぱかってか言葉は発しないけれど。全体としてふたりの青年を取り巻く空気は周囲の方が照れつつもあたたかい。次に職員は気がついた。ついさっきまでかまびすしかったシャッター音が聞こえない。見るとカメラはみな一様に下を向く。行動からこのふたりの青年が恋人同士であることは明白だ。それも多分昔から。なのにプレスは誰も先ほどから立っていた短髪に接触しようとはしなかった。米国で活躍するスター選手の恋人、そういうことならば何かしらのコンタクトは取りそうなものだがそんな動きはみじんもなかったのである。そしてこの場をも──絶好のシャッターチャンスであるはずの抱擁をも撮ろうとしないプレスたち。何か、紳士協定のようなものでも存在するのだろうか。
──えーと……
あとこれはいつまで続くんだろう。
熱い抱擁。
目のやり場に困りながらそう考えていると、巨漢がそっと動いた。ヒル魔のシャツの裾を引く。まるで、そろそろ僕のことも気にしてよという風に。
ヒル魔は片目を開けて気づいた。そしてやっと短髪から離れた。今度は巨漢を軽くハグする。巨漢はほっとしたようなにこにこ顔だ。互いに心を許し合っていることが傍目にも窺える友人どうしのハグ。同時にあちこちから再びシャッターが切られ始めた。こちらは撮っても良いものらしい。
巨漢から身を離し、ヒル魔は居並ぶプレスを見渡してにやりと笑った。軽く顎を引く。それでいいとでも言う様子である。職員はまた感心した。どうも、この国のマスコミはこのヒル魔という男によほど躾けられているらしい。短髪とヒル魔の間柄は周知の事実なのだろうが、手出しはしないというのが不文律になっているのだろう。そしてそれはギャラリー──ファンの間でも同様のことであるようだ。
再び上がり始めた歓声の中、ニッカポッカの短髪がもう一度ヒル魔に身を寄せた。通路の先へと促すようだ。行くぞ、と。たった今の愛の行為にも別に浮き足立つこともなく、どこまでもこの髭面は沈着に見える。何もかも全てわきまえているかのような落ち着きっぷり。見ようによってはいっそ小面憎いとも思えるのではないか。ヒル魔のかたわら、〝格別な〟場所をおのれが占めることに、この男はずいぶんと自信も確信もあるらしい。
──何だろう
そう職員は思った。
ヒル魔に寄り添う短髪。
その短髪から漂う空気に何と名をつけたら良いのだろう。
あの、その……腰を抱くのはどうなんだと突っ込みたい気持ちを職員は飲み込んだ。〝ムサシ〟の手はまたもしっかりとヒル魔の腰に回され、大変くだけた言い方をするならば途方もない〝我がもの〟感を醸し出す。問答無用とはこのことだなと職員は思った。ヒル魔という例のない有名人の隣にどっしりと腰を据える男。誰にも何も言わせない、したたかに自信と確信に満ちた様子は圧巻ですらある。考えながら直立していてふと職員は思いついた。〝ムサシ〟のまとう空気、それは──亭主面。こういうのをきっと亭主面とか旦那面とか言うのではないだろうか。
ただその一方で、職員は感じた。腰を抱かれたヒル魔が別にしおらしいというわけではない。楚々とした女房らしさなどこの性悪そうな金髪のどこにもない。疑いようもない一流のアスリート、チームばかりかプレスをも自由自在に操り不敵に笑むヒル魔。亭主面の〝ムサシ〟に抱かれながらもヒル魔もまたムサシという髭面の男の〝連れ合い〟なのだ。
胸の中で職員はそっとつぶやいた。
──何か、その……
──すごいな
見ていて圧倒される。
気持ちが良いほどの比肩ぶり。
巨漢も含めて三人は先へと足を運ぶ。職員に背を向けて。この先の警備は同僚の担当になっている。職員の持ち場から三人は離れた形だ。
ヒル魔は悠然と短髪の腕におさまり歩いていく。その背後にはまるでふたりを守るかのような巨漢。後ろから賑やかに話しかけ、ヒル魔がそれに応えているようだ。ゆったりとした足取りでギャラリーの拍手と歓声の中を去りつつある。職員の立つ場所からはプレスも陣取っていた見物客たちも移動しようとしている。
──はあ
見るからに強いオーラを放つVIP、それに格別な友人。VIPの恋人。世の中にはいろんな人間がいるものだ。
そんな感嘆するような思いが職員の胸に押し寄せた。それは不思議とどこか爽快だ。できるものなら明るく手を振って見送りたい、そういう気持ちがする。
この場がつつがなく終わって良かった。いや、自分のさっきの慌てようはつつがないどころではなかったが、ともかく職務は何事もなく済んだのである。
一安心だなと思いながら職員は三人を眺める。
照明に金髪がちかりと光った。ヒル魔も、そして寄り添う短髪も姿勢が良い。
名残惜しいような気もするが、そろそろ頭を切り替えなければ。職員は後片付けのことを考え始めた。散って行く人々に視線を移す。
目の奥には恋人たちの後ろ姿。
白と黒、颯爽と力強いふたつの背中。
それはきっとどこまでも並び歩いていくのだろう。
どこまでもきっと、胸を張って。
【Fin.】
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