あるQBの帰国 ──海外で成功して派手に帰ってきたヒル魔を栗田とムサシが出迎える話
ちらりと視線だけを右手にやった。インカムからの連絡でもうすぐだということが職員には分かっている。右手の自動ドア。税関を通った旅客が出てくるその扉はもうまもなく開くはずだ。
N国際空港第2ターミナル1階、国際線の到着ロビー。税関通過後のゲートは5ヵ所あり、そのうち1つがこれから迎える一人の旅客専用となっている。このゲートから先へ臨時に設けられたパーティションが伸びる。内側には腕章をつけた各報道機関のカメラマンがずらり、そして外側には人だかり。やがて姿を現すだろう人物を待ち構える人々が群れをなす。パーティションで作られた通路の向かい側で職員はカメラマンたちを眺める位置だ。
ざわめきと人いきれの中で、職員はさりげなく周囲を見渡した。人々の位置と自分に与えられた役割を胸の中で反芻する。警備は警備でも今日の職務は少々特殊なのだ。
ヒル魔という通り名で呼ばれているらしいアメフト選手、この場に集まった人々が迎えようとしているのはそういう人物だ。昨日までの打ち合わせと、そして自分で調べた蛭魔選手の経歴を職員はまた思い出した。
蛭魔妖一という少し変わった名のこの選手は中学時代にアメフトを始めた。わずかな仲間とともに学内でアメフト部を立ち上げたのだという。チーム名は悪魔の蝙蝠、デビルバッツ。長く弱小のチームだったが、高2の蛭魔選手に率いられて全国大会を制した。その後大学へ進学した蛭魔選手は、最終学年時には社会人実業団をも降してチームを日本一の座につけた。これだけでも十分華々しい経歴である。しかも卒業後は単身渡米して、宿願であったらしいプロ入りを果たした。前人未踏の日本人NFLプレーヤーとなったのだ。
渡航後の活動は決して順風満帆ではなかったようだ。一時はチームの不振、そして負傷休場の憂き目を見たこともあるらしい。だが、そこから蛭魔選手とチームは這い上がった。昨年度は地区優勝に輝きワイルドカードとしてプレーオフに進出した。そして今シーズンも優勝争いの一翼を担う。今回の一時帰国はサマーキャンプ前のチームの宣伝、そしてこの国のいわば青田買いのためであるという。
アメフトというスポーツについて、職員はニュースなどで報道される以上の詳細な情報は持たなかった。だが蛭魔選手について上記のようなことを少し知っただけでも大したものだという心情は湧いた。アメフトは米国の国技であり、そのプロリーグは世界最高峰のアスリートたちが集結する最高の舞台だ。蛭魔選手はそこで──驚いたことに後輩だという縁の──小早川選手とともに一躍スターダムにのし上がった。言うなればサクセスストーリーを地で行く選手ということである。職員が知らなくともこの国のアメフトファンの間ではとうの昔から二人は話題、しかも絶大な人気を誇っていた。
蛭魔選手のポジションはQB、攻撃の司令塔である。もともとフィジカルでは中堅もしくはそれ以下の凡庸なプレーヤーだったという。だが蛭魔選手は数々のハンデを並外れた手腕あるいは努力で克服していった。典型的な動く砲台、モバイル型のプレースタイルを習得し磨き上げ、国内でも有数の卓越した投球技術を身につけた。何よりこの選手が名をとどろかせることになったのはその頭脳においてである。作戦、知略、計略。時には謀略。悪魔のようだと評されるほど鋭く切れる頭脳を十二分に利用して幾度もチームを勝利へ導いた。
そのような経験からか、度胸はおそろしく座っているらしい。またその口はつねに周囲を戸惑わせ驚かせるビッグマウスだ。態度には少々の難があるものの、その〝有言実行〟ぶりは衆目の一致するところである。
幼い頃から株で荒稼ぎして多額の金を所有し、噂では島を買ったこともあるという。敵を挑発することを好み味方へも数々の火器をもって発破をかける。しかも、この国でプレーしていた頃の蛭魔選手は──職員が呆れたことに──脅迫手帳なるものを駆使して多くの〝奴隷〟をこき使っていたという。だが単身海を渡る際その奴隷を一人残らず解き放ち、手帳も処分したのだとか。これを知って職員は蛭魔選手を筋の通った男だなと感じた。立つ鳥跡を濁さずと言う。それに、おのれの退路を断つというような覚悟もおそらくあったことだろう。
画像を見た限りでは蛭魔選手は外見上もかなり印象的だ。早く実際に見てみたいなと職員は思った。もうまもなく自分の目前を通り過ぎるはずである。
スターの到着を待つ人だかりは膨れ上がる。野次馬もいるのだろうが、海外でのプレーに挑戦し見事成功をおさめたヒーローをひと目見たい、歓迎したいという気持ちや熱気のようなものが職員にも感じ取れる。
パーティションで作られた進路ははゆるくS字を描き、ゲートから20メートルほど先のドア──職員用通路に通じるドアへと向かう。いわば花道のようなものだ。やがてゲートから出てくるだろう蛭魔選手はギャラリーの見守る中を進み、あとは一般客の入れない専用通路を通って駐車場へ誘導されることになっている。すでに駐車場にはど派手な真紅のキャデラックが待機していると先ほど同僚が職員に耳打ちしてきた。
蛭魔選手の到着時刻が近づき、プレスの動きも慌ただしくなる。カメラマンたちは機材のチェックに、記者たちもそれぞれの連絡や確認事項の伝達に飛び回っているようだ。熊袋さーん! という甲高い声がひときわ響いた。次第に賑やかになる現場。こんな現場が職員は嫌いではない。期待と活気に満ちるこの場を警備することにはむしろ仕事の面白みを感じる。
──ただ。
いつもと違う事情がたったひとつ。
ゲートの手前から一列に並んだ報道関係者たち。その列の端、職員のほぼ正面に一風変わった二人連れがいる。プレスではない。
蛭魔選手の出迎えの二人だ。
昨日の打ち合わせで職員は上司からある役目を仰せつかった。蛭魔選手には格別な友人がいる。プレスのほか、その二人だけは特例としてパーティションの内側に入れるから、すまないが注意して見ていてくれないか。
分かりましたと職員は答えた。そして今この現場で件の二人のほぼ真向かいに位置取り、二人とその周囲に気を配っているのだ。
現場の混乱の防止。それ自体は通常の職務と全く変わらない。ただ今日のこの場合は蛭魔選手とギャラリーのほか、目の前の二人連れに不測の事態が起こることを防ぐという責務が加わる。
目の前の二人連れ。
一見で個性的と判じられる二人連れに。
職業柄、日々多くの空港利用者を職員は目にする。各種の問い合わせに答え、トラブルの対応なども仕事のうちだ。そのためさまざまなタイプの人間と接することに慣れているし、少々のことでは動じない自信もある。今ここにいる二人は、その人に慣れた職員から見ても思わず目を引かれる。これはと思う外見だ。
一人は縦にも横にも体が大きい。巨躯の上に乗るのはまんまるな顔。しかも、先ほどから大にこにこの笑顔だ。友人である蛭魔選手の到着が楽しみで仕方ないらしい。そんな笑顔であるものだから巨体でも決して威圧感を醸してはいない。むしろ親しみやすい、愛らしいとも見える巨漢だ。
この巨漢の隣にいるのは黒髪の短髪の男。ある意味、ひと目で目立つ巨漢よりこちらの方が一層印象的かもしれない。そう職員は感じた。
最初、職員はこの男を何処か空港内の工事現場から迷い込んできたのかと勘違いした。何しろ頭にタオルを巻きつけて下半身はニッカポッカといういでたちだったからだ。白のTシャツこそ何の変哲もないが、いかにも着慣れた様子が察せられる作業服姿。ただ、この男はこの場にやって来て巨漢と落ち合うと慣れた様子で挨拶を交わした。それに関係者だけに配られる腕章をつけており、そのため職員はそれ以上の勘違いをせずに済んだのだった。着衣から推察するにいわゆる建設作業員なのだろう。おそらく仕事からちょっと抜けて古い友人を出迎えるためにやって来たのではないだろうか。巨漢に指摘されて男は頭に巻いていたタオルを取った。別に決まりの悪そうな顔をするでもなく自然な仕草で。それから巨漢の隣に陣取って時折言葉を交わしながら蛭魔選手を待つようだ。少し手持ち無沙汰を感じているらしく、小指を片耳に突っ込んで掻いたりしている。何とも飾らない風だ。
蛭魔選手にとって〝格別の友人〟である二人。それぞれがそれぞれの意味で目立つような。ひょっとして、と職員は思った。
ひょっとして、この二人は蛭魔選手と同じくアメフト経験者なのかもしれない。いやおそらくそうだろう。もしかしたらまだ現役であるかもしれない。何しろ巨漢の体躯はシャツの上からでも並外れているのだろうパワーが窺える。
そして体の大きさは違えど短髪の男も強靭な力を秘めた様子である。もともとがっしりとした体型がアメフトや肉体労働でますます鍛え上げられたのではないだろうか。巨漢のような体格ではないものの筋骨たくましいという表現がいかにも似合う。
笑顔の巨漢はその笑顔通りの人柄なのだろうと察せられる。では短髪の方はどうだろう。気づかれぬように気配を探って、職員は短髪の観察を始めた。
眉とまなざしは黒々と太く強い。意志が強そうだなと職員は感じた。口もとと顎の線には髭をたくわえる。顔も体格もしっかりと確かな芯を持つようだ。
Tシャツの袖からはびんと焼けた腕。職人らしい肌だなと職員は見た。きっと、おのれとおのれの仕事に矜持というものを持っているのではないだろうか。
その一方で、職人にありがちなこだわりが過ぎるとか狷介な様子では決してない。ただ、納得しないことにはてこでも動かない強情さはありそうだ。やはり一風目立つ男だなと思う。
愛嬌のある巨漢と肝の座ったような短髪。二人並ぶとそこだけ個性が際立つようだ。こんな友人たちと付き合いが長いなら、帰国する蛭魔選手も相当なものなのだろう。
インカムから合図が聞こえた。いよいよだ。職員は気を引き締める。肩のモールにそっと手を当てた。警笛のついたそれはいざという時に止血帯や拘束具にもなる。着慣れた制服の一部ではあるが、こんなものは無論出番のない方が良い。何事もないようにと祈りながら少し触れるのが職員の習慣だ。そしてかねてからの打ち合わせ通り、二人連れの向かいからそのかたわらへ移動した。
「ねえ、ムサシ、ムサシ」
巨漢が短髪に話しかけた。わくわくとはずむような声。
「何だ」
短髪──〝ムサシ〟の方は淡々としたものだ。落ち着き払った声音。
「楽しみだねえ、早く会いたいよ」
これは蛭魔選手との再会のことを言っているのだろう。ムサシと呼ばれた男は苦笑して応えた。
「もう来るんだぞ、少しは落ち着け」
「う、うん、そうだね!」
ふと職員は微笑ましい気持ちを感じた。きっと巨漢は心から蛭魔選手を好きなのだろう。やはりこの巨漢、そして巨漢と並ぶムサシという男は蛭魔選手にとって特別なのだ。さて二人の友人を前に蛭魔選手はどんな反応をするのだろう。いずれにしても三人の様子と周囲に気を配らなければ。つつがなくこの場が運ぶように。
二人連れとほぼ同じ角度から職員も自動ドアを眺める。
乳白色の自動扉。
二枚のそれがついに静かな音を立てながら開いた。
途端にわあっとギャラリーが沸いた。
「ヒル魔ー!」
「おかえりー!」
「ヒル魔さーん!」
「ヒル魔くんおかえりなさい!」
プレスもギャラリーも一斉に歓声を上げ、カメラマンは逃すかとばかりシャッターを切り始める。
ライトを浴びてその中に立つのは黒ずくめの長身の男。片手はボトムスのポケット、口元には膨らむガム。
ガムを口の中に仕舞い込んで、男──ヒル魔はぐるりとあたりを見渡した。
にやり。
満足げな笑みだ。
何とも感心するような思いに職員は包まれた。前もって見せられた画像である程度は分かっていたものの、現実に見るとこれはまた目立つ男である。歳は自分とそう変わらないように見える。だがヒル魔のまとうオーラは明らかにただものではない。職責を思い出して周囲に気を払いつつ、職員はヒル魔から目が離せない。
ヒル魔の後ろには護衛がついている。少し距離をおいて米国から同行した男たち。エージェントやトレーナー、マネージャーなどがつき従う。
ヒル魔はいわば先頭に立つという形である。
ゆっくりと歩を運び、列をなすカメラの前でヒル魔は一度立ち止まった。シャッターチャンスを与えるつもりらしい。不敵な笑みを浮かべながら。
身につけているのはごくシンプルなものだ。黒の開襟シャツに黒のスリムパンツ。黒の革靴。上質な、十二分に金をかけたものであることが職員にはひと目で分かる。
細身の長身。体のどこにもゆるみやたるみはない。よく引き締まりばねを感じさせる体つき。定評のあるその頭脳と同じほど体躯も鋭い敏捷性を思わせる。
ぴんと伸びた背筋に長い脚、そしてその体を包む黒の衣服。この男は自分の演出方法にきっとおそろしく長けているんだなと職員は思った。男の色気、という語が唐突に浮かんだ。もてるだろうなと余計なことをちらりと考えた。
ライトをヒル魔に向けて、カメラマンたちは連続してシャッターを切り続ける。その端から端までヒル魔は視線を送る。さあ思う存分に撮りやがれとうそぶくようだ。帰国会見は別の場所で行われることがあらかじめ決まっているが、記者たちはさっそくヒル魔にマイクを向ける。久しぶりの帰国ですが何か一言。一言でいいので何か。フライトお疲れ様でした、旅はどうでしたか。帰国してまずしたいことは何ですか。
ケケケとヒル魔は笑い声をひびかせた。たちの悪そうな笑い方だなと職員は思った。続けてヒル魔は、あとでな、と簡潔な応えを放った。質疑応答は会見まで待てということだろう。どうやらこの場で舌を叩く気はないらしい。
職員の位置からはヒル魔の横顔がよく見えた。目につくのはやたら尖った大きな耳だ。耳朶にはリング型のピアスが二つ。鼻梁はツンと鋭い。頬の線も。逆立てた威嚇的な金髪といい、この男は何もかもがいわば油断も隙もない。悪魔のように知恵がめぐりそうだし、実際そうであるらしい。どうやって手に入れたのか知らないが背後の護衛は無表情かつ屈強だ。そんなものを従えることがいかにも似合いそうな──決して一筋縄ではいかない大物、そしてくせものぶりが窺える。
内心で観察していると、やがてヒル魔がふと気を変えるのが分かった。切り上げどきだと判断したらしい。そのままヒル魔はこちらへ、職員の立つ方向へ視線を投げかけた。巨漢が顔を輝かせて躍り上がった。
「ヒル魔〜!」
「おかえり〜!」
ぶんぶんと大きく手を振る巨漢。ヒル魔はすぐに反応した。巨漢と隣の短髪をみとめ、あらためて笑みを浮かべた。お、と職員は思った。相変わらず強気な顔だが表情は少し柔らかくなったようだ。こんな顔もするのだな。
つかつかとヒル魔は歩み寄ってくる。出迎え役の、〝格別の〟友人たちのもとへ。
──と。
すいと短髪が一歩進み出た。
次の瞬間職員の前に繰り広げられたのは──。
──!?
──は!?
──……は!?
混乱、困惑。そしてまた混乱。
そんな心境が職員を襲った。
N国際空港第2ターミナル1階、国際線の到着ロビー。税関通過後のゲートは5ヵ所あり、そのうち1つがこれから迎える一人の旅客専用となっている。このゲートから先へ臨時に設けられたパーティションが伸びる。内側には腕章をつけた各報道機関のカメラマンがずらり、そして外側には人だかり。やがて姿を現すだろう人物を待ち構える人々が群れをなす。パーティションで作られた通路の向かい側で職員はカメラマンたちを眺める位置だ。
ざわめきと人いきれの中で、職員はさりげなく周囲を見渡した。人々の位置と自分に与えられた役割を胸の中で反芻する。警備は警備でも今日の職務は少々特殊なのだ。
ヒル魔という通り名で呼ばれているらしいアメフト選手、この場に集まった人々が迎えようとしているのはそういう人物だ。昨日までの打ち合わせと、そして自分で調べた蛭魔選手の経歴を職員はまた思い出した。
蛭魔妖一という少し変わった名のこの選手は中学時代にアメフトを始めた。わずかな仲間とともに学内でアメフト部を立ち上げたのだという。チーム名は悪魔の蝙蝠、デビルバッツ。長く弱小のチームだったが、高2の蛭魔選手に率いられて全国大会を制した。その後大学へ進学した蛭魔選手は、最終学年時には社会人実業団をも降してチームを日本一の座につけた。これだけでも十分華々しい経歴である。しかも卒業後は単身渡米して、宿願であったらしいプロ入りを果たした。前人未踏の日本人NFLプレーヤーとなったのだ。
渡航後の活動は決して順風満帆ではなかったようだ。一時はチームの不振、そして負傷休場の憂き目を見たこともあるらしい。だが、そこから蛭魔選手とチームは這い上がった。昨年度は地区優勝に輝きワイルドカードとしてプレーオフに進出した。そして今シーズンも優勝争いの一翼を担う。今回の一時帰国はサマーキャンプ前のチームの宣伝、そしてこの国のいわば青田買いのためであるという。
アメフトというスポーツについて、職員はニュースなどで報道される以上の詳細な情報は持たなかった。だが蛭魔選手について上記のようなことを少し知っただけでも大したものだという心情は湧いた。アメフトは米国の国技であり、そのプロリーグは世界最高峰のアスリートたちが集結する最高の舞台だ。蛭魔選手はそこで──驚いたことに後輩だという縁の──小早川選手とともに一躍スターダムにのし上がった。言うなればサクセスストーリーを地で行く選手ということである。職員が知らなくともこの国のアメフトファンの間ではとうの昔から二人は話題、しかも絶大な人気を誇っていた。
蛭魔選手のポジションはQB、攻撃の司令塔である。もともとフィジカルでは中堅もしくはそれ以下の凡庸なプレーヤーだったという。だが蛭魔選手は数々のハンデを並外れた手腕あるいは努力で克服していった。典型的な動く砲台、モバイル型のプレースタイルを習得し磨き上げ、国内でも有数の卓越した投球技術を身につけた。何よりこの選手が名をとどろかせることになったのはその頭脳においてである。作戦、知略、計略。時には謀略。悪魔のようだと評されるほど鋭く切れる頭脳を十二分に利用して幾度もチームを勝利へ導いた。
そのような経験からか、度胸はおそろしく座っているらしい。またその口はつねに周囲を戸惑わせ驚かせるビッグマウスだ。態度には少々の難があるものの、その〝有言実行〟ぶりは衆目の一致するところである。
幼い頃から株で荒稼ぎして多額の金を所有し、噂では島を買ったこともあるという。敵を挑発することを好み味方へも数々の火器をもって発破をかける。しかも、この国でプレーしていた頃の蛭魔選手は──職員が呆れたことに──脅迫手帳なるものを駆使して多くの〝奴隷〟をこき使っていたという。だが単身海を渡る際その奴隷を一人残らず解き放ち、手帳も処分したのだとか。これを知って職員は蛭魔選手を筋の通った男だなと感じた。立つ鳥跡を濁さずと言う。それに、おのれの退路を断つというような覚悟もおそらくあったことだろう。
画像を見た限りでは蛭魔選手は外見上もかなり印象的だ。早く実際に見てみたいなと職員は思った。もうまもなく自分の目前を通り過ぎるはずである。
スターの到着を待つ人だかりは膨れ上がる。野次馬もいるのだろうが、海外でのプレーに挑戦し見事成功をおさめたヒーローをひと目見たい、歓迎したいという気持ちや熱気のようなものが職員にも感じ取れる。
パーティションで作られた進路ははゆるくS字を描き、ゲートから20メートルほど先のドア──職員用通路に通じるドアへと向かう。いわば花道のようなものだ。やがてゲートから出てくるだろう蛭魔選手はギャラリーの見守る中を進み、あとは一般客の入れない専用通路を通って駐車場へ誘導されることになっている。すでに駐車場にはど派手な真紅のキャデラックが待機していると先ほど同僚が職員に耳打ちしてきた。
蛭魔選手の到着時刻が近づき、プレスの動きも慌ただしくなる。カメラマンたちは機材のチェックに、記者たちもそれぞれの連絡や確認事項の伝達に飛び回っているようだ。熊袋さーん! という甲高い声がひときわ響いた。次第に賑やかになる現場。こんな現場が職員は嫌いではない。期待と活気に満ちるこの場を警備することにはむしろ仕事の面白みを感じる。
──ただ。
いつもと違う事情がたったひとつ。
ゲートの手前から一列に並んだ報道関係者たち。その列の端、職員のほぼ正面に一風変わった二人連れがいる。プレスではない。
蛭魔選手の出迎えの二人だ。
昨日の打ち合わせで職員は上司からある役目を仰せつかった。蛭魔選手には格別な友人がいる。プレスのほか、その二人だけは特例としてパーティションの内側に入れるから、すまないが注意して見ていてくれないか。
分かりましたと職員は答えた。そして今この現場で件の二人のほぼ真向かいに位置取り、二人とその周囲に気を配っているのだ。
現場の混乱の防止。それ自体は通常の職務と全く変わらない。ただ今日のこの場合は蛭魔選手とギャラリーのほか、目の前の二人連れに不測の事態が起こることを防ぐという責務が加わる。
目の前の二人連れ。
一見で個性的と判じられる二人連れに。
職業柄、日々多くの空港利用者を職員は目にする。各種の問い合わせに答え、トラブルの対応なども仕事のうちだ。そのためさまざまなタイプの人間と接することに慣れているし、少々のことでは動じない自信もある。今ここにいる二人は、その人に慣れた職員から見ても思わず目を引かれる。これはと思う外見だ。
一人は縦にも横にも体が大きい。巨躯の上に乗るのはまんまるな顔。しかも、先ほどから大にこにこの笑顔だ。友人である蛭魔選手の到着が楽しみで仕方ないらしい。そんな笑顔であるものだから巨体でも決して威圧感を醸してはいない。むしろ親しみやすい、愛らしいとも見える巨漢だ。
この巨漢の隣にいるのは黒髪の短髪の男。ある意味、ひと目で目立つ巨漢よりこちらの方が一層印象的かもしれない。そう職員は感じた。
最初、職員はこの男を何処か空港内の工事現場から迷い込んできたのかと勘違いした。何しろ頭にタオルを巻きつけて下半身はニッカポッカといういでたちだったからだ。白のTシャツこそ何の変哲もないが、いかにも着慣れた様子が察せられる作業服姿。ただ、この男はこの場にやって来て巨漢と落ち合うと慣れた様子で挨拶を交わした。それに関係者だけに配られる腕章をつけており、そのため職員はそれ以上の勘違いをせずに済んだのだった。着衣から推察するにいわゆる建設作業員なのだろう。おそらく仕事からちょっと抜けて古い友人を出迎えるためにやって来たのではないだろうか。巨漢に指摘されて男は頭に巻いていたタオルを取った。別に決まりの悪そうな顔をするでもなく自然な仕草で。それから巨漢の隣に陣取って時折言葉を交わしながら蛭魔選手を待つようだ。少し手持ち無沙汰を感じているらしく、小指を片耳に突っ込んで掻いたりしている。何とも飾らない風だ。
蛭魔選手にとって〝格別の友人〟である二人。それぞれがそれぞれの意味で目立つような。ひょっとして、と職員は思った。
ひょっとして、この二人は蛭魔選手と同じくアメフト経験者なのかもしれない。いやおそらくそうだろう。もしかしたらまだ現役であるかもしれない。何しろ巨漢の体躯はシャツの上からでも並外れているのだろうパワーが窺える。
そして体の大きさは違えど短髪の男も強靭な力を秘めた様子である。もともとがっしりとした体型がアメフトや肉体労働でますます鍛え上げられたのではないだろうか。巨漢のような体格ではないものの筋骨たくましいという表現がいかにも似合う。
笑顔の巨漢はその笑顔通りの人柄なのだろうと察せられる。では短髪の方はどうだろう。気づかれぬように気配を探って、職員は短髪の観察を始めた。
眉とまなざしは黒々と太く強い。意志が強そうだなと職員は感じた。口もとと顎の線には髭をたくわえる。顔も体格もしっかりと確かな芯を持つようだ。
Tシャツの袖からはびんと焼けた腕。職人らしい肌だなと職員は見た。きっと、おのれとおのれの仕事に矜持というものを持っているのではないだろうか。
その一方で、職人にありがちなこだわりが過ぎるとか狷介な様子では決してない。ただ、納得しないことにはてこでも動かない強情さはありそうだ。やはり一風目立つ男だなと思う。
愛嬌のある巨漢と肝の座ったような短髪。二人並ぶとそこだけ個性が際立つようだ。こんな友人たちと付き合いが長いなら、帰国する蛭魔選手も相当なものなのだろう。
インカムから合図が聞こえた。いよいよだ。職員は気を引き締める。肩のモールにそっと手を当てた。警笛のついたそれはいざという時に止血帯や拘束具にもなる。着慣れた制服の一部ではあるが、こんなものは無論出番のない方が良い。何事もないようにと祈りながら少し触れるのが職員の習慣だ。そしてかねてからの打ち合わせ通り、二人連れの向かいからそのかたわらへ移動した。
「ねえ、ムサシ、ムサシ」
巨漢が短髪に話しかけた。わくわくとはずむような声。
「何だ」
短髪──〝ムサシ〟の方は淡々としたものだ。落ち着き払った声音。
「楽しみだねえ、早く会いたいよ」
これは蛭魔選手との再会のことを言っているのだろう。ムサシと呼ばれた男は苦笑して応えた。
「もう来るんだぞ、少しは落ち着け」
「う、うん、そうだね!」
ふと職員は微笑ましい気持ちを感じた。きっと巨漢は心から蛭魔選手を好きなのだろう。やはりこの巨漢、そして巨漢と並ぶムサシという男は蛭魔選手にとって特別なのだ。さて二人の友人を前に蛭魔選手はどんな反応をするのだろう。いずれにしても三人の様子と周囲に気を配らなければ。つつがなくこの場が運ぶように。
二人連れとほぼ同じ角度から職員も自動ドアを眺める。
乳白色の自動扉。
二枚のそれがついに静かな音を立てながら開いた。
途端にわあっとギャラリーが沸いた。
「ヒル魔ー!」
「おかえりー!」
「ヒル魔さーん!」
「ヒル魔くんおかえりなさい!」
プレスもギャラリーも一斉に歓声を上げ、カメラマンは逃すかとばかりシャッターを切り始める。
ライトを浴びてその中に立つのは黒ずくめの長身の男。片手はボトムスのポケット、口元には膨らむガム。
ガムを口の中に仕舞い込んで、男──ヒル魔はぐるりとあたりを見渡した。
にやり。
満足げな笑みだ。
何とも感心するような思いに職員は包まれた。前もって見せられた画像である程度は分かっていたものの、現実に見るとこれはまた目立つ男である。歳は自分とそう変わらないように見える。だがヒル魔のまとうオーラは明らかにただものではない。職責を思い出して周囲に気を払いつつ、職員はヒル魔から目が離せない。
ヒル魔の後ろには護衛がついている。少し距離をおいて米国から同行した男たち。エージェントやトレーナー、マネージャーなどがつき従う。
ヒル魔はいわば先頭に立つという形である。
ゆっくりと歩を運び、列をなすカメラの前でヒル魔は一度立ち止まった。シャッターチャンスを与えるつもりらしい。不敵な笑みを浮かべながら。
身につけているのはごくシンプルなものだ。黒の開襟シャツに黒のスリムパンツ。黒の革靴。上質な、十二分に金をかけたものであることが職員にはひと目で分かる。
細身の長身。体のどこにもゆるみやたるみはない。よく引き締まりばねを感じさせる体つき。定評のあるその頭脳と同じほど体躯も鋭い敏捷性を思わせる。
ぴんと伸びた背筋に長い脚、そしてその体を包む黒の衣服。この男は自分の演出方法にきっとおそろしく長けているんだなと職員は思った。男の色気、という語が唐突に浮かんだ。もてるだろうなと余計なことをちらりと考えた。
ライトをヒル魔に向けて、カメラマンたちは連続してシャッターを切り続ける。その端から端までヒル魔は視線を送る。さあ思う存分に撮りやがれとうそぶくようだ。帰国会見は別の場所で行われることがあらかじめ決まっているが、記者たちはさっそくヒル魔にマイクを向ける。久しぶりの帰国ですが何か一言。一言でいいので何か。フライトお疲れ様でした、旅はどうでしたか。帰国してまずしたいことは何ですか。
ケケケとヒル魔は笑い声をひびかせた。たちの悪そうな笑い方だなと職員は思った。続けてヒル魔は、あとでな、と簡潔な応えを放った。質疑応答は会見まで待てということだろう。どうやらこの場で舌を叩く気はないらしい。
職員の位置からはヒル魔の横顔がよく見えた。目につくのはやたら尖った大きな耳だ。耳朶にはリング型のピアスが二つ。鼻梁はツンと鋭い。頬の線も。逆立てた威嚇的な金髪といい、この男は何もかもがいわば油断も隙もない。悪魔のように知恵がめぐりそうだし、実際そうであるらしい。どうやって手に入れたのか知らないが背後の護衛は無表情かつ屈強だ。そんなものを従えることがいかにも似合いそうな──決して一筋縄ではいかない大物、そしてくせものぶりが窺える。
内心で観察していると、やがてヒル魔がふと気を変えるのが分かった。切り上げどきだと判断したらしい。そのままヒル魔はこちらへ、職員の立つ方向へ視線を投げかけた。巨漢が顔を輝かせて躍り上がった。
「ヒル魔〜!」
「おかえり〜!」
ぶんぶんと大きく手を振る巨漢。ヒル魔はすぐに反応した。巨漢と隣の短髪をみとめ、あらためて笑みを浮かべた。お、と職員は思った。相変わらず強気な顔だが表情は少し柔らかくなったようだ。こんな顔もするのだな。
つかつかとヒル魔は歩み寄ってくる。出迎え役の、〝格別の〟友人たちのもとへ。
──と。
すいと短髪が一歩進み出た。
次の瞬間職員の前に繰り広げられたのは──。
──!?
──は!?
──……は!?
混乱、困惑。そしてまた混乱。
そんな心境が職員を襲った。
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