光へ ──Part.2

 カーテンの売り場でざっと見本を眺めたあと、恋人はこれにするとあっさり決めた。ロールタイプのカーテンだ。
 恋人が選んだスクリーン型。それに一般的なドレープカーテン、ブラインド。種類も柄色彩も様々なものが並ぶフロアにふたりは居る。
「味気なくねえか?」
 ムサシは率直に聞いた。
「どこがだよ」
 ヒル魔は眉を寄せて不審そうだ。
「平面的なんでな。寒そうに見える」
 薄いグレーのロールカーテンをムサシがそう評すると、恋人はなんつう言い草だと言って笑い出した。続いて自分の所見を述べた。
「布のやつは洗うのがめんどくせえ。あと色もこれがいい」
「そうか」
 布のやつと恋人が言うのはありふれたドレープカーテンのことだろう。形にしろ色にしろ、恋人が積極的に望む品であるならそれでいい。ムサシは納得した。

 6年間の海外生活を終えて、ヒル魔はムサシのもとへ──ムサシとの住まいへ戻ってきた。つい昨日のことだ。これを機に先日ムサシは引っ越しをしていた。今までの住まいから3LDKの物件へ。本格的にヒル魔が帰国するなら2部屋では手狭だろうと考えたからだ。
 ヒル魔より一足先にムサシは北側の主寝室に落ち着き、すでに私物を運び込んでいた。残る2部屋がヒル魔の私室だ。1部屋はムサシがこっそり命名した〝暗黒部屋〟で、開封厳禁とヒル魔が記して送ってきた荷物がもう積み上げられている。
 家具類はおいおい買い揃えればいいし、またそういうことになるのだろう。そう考えながら今日の仕事を終えて帰宅すると恋人が待ち構えていた。隣市郊外の大型家具店の名をあげて、連れていけと言う。さっそく身の回りのものを揃えたいらしい。分かったとムサシは答えてミニバンの助手席に恋人を乗せた。
 仕事の関係で、ムサシは内装系の業者にも少しは顔がきく。実際、自分の私室や居間、台所の調度品の中にはそうした伝手によって割安で購入したものもある。ヒル魔も同じようにすればいいのではないかと思って家を出る前にそう口にしてみたが、恋人はいや買いに行くと主張した。
 伝手でもコネでも、利用できるものは余すところなく利用し尽くす。ヒル魔はそういう男のはずだが、なぜかこの件は別であるらしい。どうしてかと考えた結果、これがアメフトとは関係がないからだろうなとムサシは合点がいった。脅迫手帳や無数の奴隷、ヒル魔の身辺はそういう物騒なものでいろどられている。だがムサシの恋人は──意外にも──律儀だし、筋の通らないことや公私混同はしない。理解はしていたが久しぶりにそういう場面を目の当たりにして、あらためてムサシは感心するような思いを味わった。
 昨日、ヒル魔は空港からフィールドに駆けつけてムサシとバベルズに檄を飛ばした。震えるほどの歓喜、まるで生き返るような見違えるような力をムサシは感じたものだ。勝利をおさめた試合、その後の恋人との帰路。ムサシにとっては最良の一日だった。そして今日は肩を並べて買い物へ行く。ハンドルを握りながらしみじみと嬉しさを、静かな喜びをムサシは覚える。
 広いフロアを行き来しながらヒル魔はてきぱきと目的のものを見定め決断していく。ベッドにマットレス。布団類、箪笥。システムデスク。大型の本棚にハンガーラック。
 日常着を掛ける、あるいは一時的に掛けておくためにムサシも自室にハンガーラックを置いている。ヒル魔もそうするのだろうと見ていると恋人が売り場で言った。
「組み立てんのはテメーだからいいの選べ」
「なんだ、俺にやらせるのか」
「たりめーだ、テメーは大工だし俺ぁ帰りたてで疲れてんだぞ」
 むやみに威張りくさった様子の恋人。ムサシは思わず笑ってしまった。偉そうな顔で疲れてるも何もないだろう。
 でも楽しい。そうムサシは思った。連れ立って買い物するなどいつぶりのことだろう。心なしかヒル魔の足取りも軽いように見える。
 一通り必要なものを選び、支払いと配送手続きを済ませた。ラックの箱はムサシが持ってやった。フロアから今度は駐車場へ戻ろうと歩き始める。時計を見ると通常の夕食時間はとっくに過ぎている。
「腹減った」
「そうだな。食って帰るか」
「あの定食屋がいい」
 ムサシには恋人の意味するところがすぐに分かった。ヒル魔の気に入りの店だ。洋食や和食、さまざまを取り揃えたメニューが並び、メイン料理に小鉢やサラダと味噌汁がついた定食が多い。味もボリュームも上等であるため地元の評判も良い食堂だ。
「刺身食いてえな」
「珍しいな」
アメリカあっちじゃめったに食わなかったからな」
「あるんじゃねえか、あそこなら」
「ん」
 6年を経て帰国した恋人。その恋人と久しぶりにふたりきりの夕食を取ったのが昨夜のことだ。
 そして今夜も。
 ぐうと腹の虫が鳴るのをムサシは感じた。空腹だが胸は満ち足りている。何を食うかと思うことすら楽しい。
 駐車場へ上がるエレベーターにふたりは揃って乗り込んだ。

 ◇

 湯船に肩まで浸かると、ヒル魔は大きくため息をついた。気持ちよさそうだ。ちゃぷ、と湯の音がひびく。
海外むこうじゃこうはいかねえだろ」
 後ろからムサシは恋人の体を軽く引き寄せる。そうだなと答えながらヒル魔もムサシにもたれた。
 いわゆるファミリータイプ、少し大きめの浴槽で体格の良い男ふたりでもゆったりと足を伸ばせる。ムサシにはこの上なく心地良い入浴だ。恋人にとってもそれは同じようで、ことりと金髪をムサシの肩に預けた。
 浴室は湯気でほどよく温まっている。先にムサシが入って体を洗い、続いてヒル魔も同じようにした。晩飯は旨かったし腹は満ちた。体を沈めた湯温は熱すぎもせずぬるくもなく、恋人は腕の中だ。極上だなとムサシは思った。
 またヒル魔がはあと息をついた。
「気持ちいいか」
「だいぶいいな」
 ちゃぷりと音がして恋人の片手が上がる。
 どうするのかと見ているとその手がムサシの頬に触れた。
 頬をヒル魔の指がなぞる。朝剃ったきりでもうムサシの髭は伸びかけているらしい。その髭を軽く逆さに撫でるような指。
 ヒル魔の指はムサシが意識的に整えている箇所にも触れる。口の上の髭。口の端から顎へとつながる髭。そして顎の輪郭に生えるそれへ。
「相変わらずだな」
「何が」
「ひげ」
「うん」
「剃んなよ」
「うん?」
「剃んな」
 ムサシは考えた。恋人の言うのは現状維持というか、現在たくわえている髭をそのままにしろということだろうか。いわばまっさらにつるりと剃り上げた状態にはするなということだろう。
 昔、ごく短期間だが自分はそうしていたこともある。それを思い出してムサシは言った。
「全部剃ってたこともあったろ。前、高校の時」
「あれぁ俺の本意じゃねえ」
 ヒル魔の返事が意外だったのでムサシは驚いた。
「気に入らなかったのか」
「テメーらしいとは思ったけどな」
「…………」
 恋人の言はムサシにとってかなり意想外だった。恋人の体を抱き直しながら脳裏に記憶をよみがえらせようとした。意識してそうすると古い記憶が次から次へぽっかりと浮かび上がってくる。

 ムサシがおのれの髭と付き合いを始めたのは周囲の同級生と比べてかなり早く、しかもそれは髪質と同様に太く硬質だった。無精な外見にはならぬよう気をつけてはいたが、粗く野性的な髭。それはムサシを実年齢より何倍も老成もしくは重々しく見せたし、学内ではムサシのトレードマークにもなった。本当にムサシは濃いよねえと巨漢の親友に感心したように言われたこともある。そう言う親友はぼく髭が薄いみたいだよと笑っていた。ムサシには悪いようだけど楽でいいよ、と。たとえ生えてもそれはまばらで、産毛のような柔らかいものなのだという。そりゃ確かに楽でいいなとムサシは答えた。その時巨漢の隣で金髪も笑った。テメーの髭はそのまんまテメーの性格だな、と。どういう意味だとムサシは聞いた。するとヒル魔は憎まれ口を叩いた。暑ッ苦しいってこった。どう言い返したのかは覚えていないが、それを機にひとしきり軽口の叩き合いをして騒いだ記憶がうっすらとある。
 あれはまだ3人とも詰襟を着ていた帰り道だ。
 ブレザーに装いをあらためた16の春、ムサシの夢は破れた。それからは意固地に髭をたくわえた。学問や学生生活、そして何より大切なものと自分はもう縁が切れたのだ。家業を背負わなければならない。そういう片意地でひたすら大人ぶり、また大人びようとしていたからだ。
 その翌年。腹を決めて復学するあかし、ひとつのけじめとしてムサシは放置していた髭を剃り上げた。口周りも顎も。それからしばらくは身綺麗をこころがけていたものだ。ただすぐに辟易した。自分の髭は──分かっていたこととはいえ──自分でも閉口するほどたくましい。雑草のように頑丈で、油断すると頬骨のあたりまで覆う勢いで伸びかける。授業に補習に部活、試合。そんな慌ただしい生活の中でしまいにムサシは開き直った。無理にすべらかな顔を作ることはない。特に昔から濃く生える口周りと顎線に関しては以前と同じく短く刈り込んでいればそれでいいだろう。
 そういうわけで、おのれの体質を受け入れたあの頃から現在に至るまでムサシの口もとと顎の髭は変わらない。もう自分の体の一部のような気がしている。ただ、自分にとって当たり前でも恋人がどう思っているかは聞いたことがなかった。たった今の言によれば、どうも自分の髭は恋人にとって無いよりはあった方がいいらしい。
「どっちがいいんだ。あるのと無いのと」
 ムサシは尋ねた。確認のためだ。剃んなよと言うからには自分の髭を恋人は気に入っているのだろうが、もう少し直截な言葉を聞いてみたいというものだ。
「…………」
 ヒル魔は声を出さずに笑った。
 その手がまたムサシの顔に触れる。
 どこか愛おしむように撫で上げる。
「……この方がテメーらしい」
 〝らしい〟という言い方を再び恋人は使った。先ほどと矛盾するようだがヒル魔の意図は何となくムサシには伝わった。昔けじめとして剃り上げた、その態度はムサシらしい。が、やはり髭を生やしていた方が自分にとっては好ましい。そういうことなのだろう。
 胸を包むのはそうなのかという思い。そんな風に恋人は見ていたのかという新鮮な思いだ。
 高校や大学時代までなら恋人はこんなものの言い方はしなかったかもしれない。こんなせりふが聞ける日が来るとは、少し大げさに言えば生きていて良かったという気もする。大切な恋人がこのように言ってくれるなら、ずっとこのなりでいるか。
 何にしろ退屈しねえな。そうムサシは思った。こいつといると退屈はしない、と。
 透明な湯に浸かる体。ゆったりと自分にもたれた体をムサシは眺める。
 胸から腹。下肢。ヒル魔の体のどこにも無駄な肉は一片もない。熾烈であっただろう海外生活を経て筋量は増えたようだ。特に腕や太腿部にそれが見てとれる。精悍な体つき。けれどその体はムサシと抱き合う時だけはやわらかくとろけるのだ。ムサシにとってはたまらなく魅力的に。
 見事な腹筋を浮かび上がらせてはいても胴回りはムサシより細い。しなやかで強靭な体。以前よりもなお一層のこと。
 ヒル魔の腹の上でふたりの手は重なり合う。ムサシの手。それにヒル魔の手も重なる。
 何千何万というパスを投げた手だ。ムサシの焼けた厚みのある皮膚より少し白い。ヒル魔は陽の下でも赤銅色のような濃い肌色にはならない体質で、しかもそのことが不満であるらしい。おんなじ場所で練習してんのになんでテメーだけ焼けるんだと言いがかりのような文句をつけられたこともある。あの時のヒル魔はいかにも不服そうに口を尖らせており、ムサシはこいつ案外可愛いところもあるなとこっそり感じたのを覚えている。言ったら撃たれるのは明白だから黙っていた。
 仕事柄ムサシは爪の手入れを怠らないが、ヒル魔も同様にしている。短く切り揃えられた爪。指はくっきりと長い。ムサシに比べたらなだらかな線を持つがそれでも地に足をつけた強い男の指だ。
 この手で、腕で、体でどれだけの研鑽を積み経験を重ねたか。あるいは辛苦を舐めたのか。
 彼の国でヒル魔はQBとして地区優勝の栄光に輝いた。だが決して平坦な道程を歩んだわけではない。負傷による休場、チームの低迷。苦い記憶もあるだろう。そう思うとなおさら恋人はムサシに愛おしく映る。
 
 恋人の頬に手を当てる。少し力を入れて誘う。ヒル魔は気づいたようだ。素直に顔を上げてムサシの方を向いた。ヒル魔の手もムサシの頬へ。

 静かなキス。

 ゆっくりとまた唇が離れる。

 目と目を交わして微笑みあう。

 ヒル魔に触れた。そうムサシは思った。
 ──ようやく
 帰って来たのだという実感が湧いた。
 夢でもまぼろしでもない。恋人はここにいる。
 そして明日もあさってもずっと一緒に。

 長かったような、短かったような。ムサシはずっとヒル魔を待っていた。その時間は今となってはそんなに苦でもなかったようだと感じる。
 ムサシは思い出す。ヒル魔の出立前の一日。言い交わしたあの日。
 あの日、あの言葉があったから今の自分が、恋人が在るのだ。あの時だから言い交わすということができた。お前が大切だと伝えた自分。あれから6年経った今ではもう少し別の言いようもあったのだろうと思う。けれどあの時は精一杯だった。そのムサシに恋人は応えてくれた。
 もしも。もしもあの日出かけなかったらどうなっていたのだろう。
 あれは確かヒル魔が言い出したのだ。海に行きてえと。それでふたりで車に乗り込んだ。
 ──…………
 ふとムサシは気になった。聞いてみようと思った。

「なあ、ヒル魔」
「ん」
「ずっと前な」
「うん」
「海に行ったの覚えてるか。お前と」
「覚えてる」
「あの時な。どうして行きたいと思ったんだ」
「…………」
 ヒル魔はしばらく黙っていた。ムサシの肩にもたれて。
 それから、やっぱり分かってねえのかテメーは、とつぶやいた。ムサシは疑問に思う。

「どういうことだ」
「ありゃあな」
「うん」
「テメーに見せたかったんだ」
「海をか」
「そうだ」
「……どうしてか教えてくれるか」

 またすぐには応えない。
 片手でヒル魔はムサシの手を軽くなぞるようにした。

 やがてぽつりと口にした。

「波は還るもんだろ」

 ムサシは理解しようと努めた。恋人の言葉。波は還る、と。あの日見た光景が徐々によみがえる。ゆるやかにうねりゆるやかに砕けていた波。金色に輝くしぶき。寄せては還り、還ってはまた寄せていた波。
 あの日あの光景を、どこかうら寂しいとムサシは感じた。手の届かない遠くへと去っていく波を眺めて。
 だが、とようやくムサシは気づいた。どうやら自分は思い違いをしてたようだ。それも真逆に。波は還る、恋人の言葉の通り。波も──そして恋人も還るべき場所へ還りついていく。

 ──……そうか

 ヒル魔の言葉。そこにこめられたヒル魔の心。それは静かに広がる波のようにムサシの心に沁み入る。
 6年という歳月のあとに。
 穏やかに微笑みたいような気持ち、それに少し目の奥が熱い。そんな感覚がムサシの中に生まれる。
「あん時のテメーはな」
 打って変わったさばさばとした調子で恋人が言った。
「しょげたでかい犬みてえなツラしてたぞ」
「そんなにか」
 決まりが悪いを通り越してムサシは笑ってしまった。ヒル魔には見抜かれていたのだ。敵わない、この恋人には。でもそれはどこか快い。ヒル魔もにやりと笑みを見せた。
 ムサシは恋人の体を抱き直す。
 そうしてしばらくふたりは無言でいた。

「あのな。ヒル魔」
「うん」
「…………」
「なんだよ」
「うん」
 ムサシは軽く息を飲み込む。今言ってもいいだろうか。言いたい。
 自分の鼓動が聞こえる。やはりこういうのは緊張するものだ。
「お前が帰ってきたらな。渡そうと思ってたものがある」
「…………」
 ムサシは努めてさりげない風を装った。
「──指輪なんだけどな」
 恋人はムサシの言葉に耳を傾けているようだ。
「つけてくれるか」
「いいぞ」
 すぐにヒル魔は応えた。ムサシはまた軽く唾を飲み込む。口の中が渇いている。

「それで──それをな」

 人差し指でムサシはヒル魔の指をそっとなぞった。

「ここにつけてほしい」

 左手の薬指。

 恋人の、左手の薬指。

「いいか」

 胸の鼓動を聴きながら返事を待った。

「いいぞ」
 恋人は落ち着き払って応える。
「……いいのか」
「だからいいっつったろ」
「そうか」
「うん」
「ヒル魔」
「何だよ」
「ありがとう」
「何で礼だよ」
「何でもだ」

 大きな安堵。ムサシの胸に広がる。大きなあたたかさも。それとともに胸がいっぱいになった。中学。高校。就職に大学。そしてまた卒業、その後の6年。今までのことどもが次から次へと思い起こされる。良い思い出も苦い思い出も。今のムサシはそれを優しさとともに思い出す。いつも、つねに自分はヒル魔とともにあった。
 そしてこれからも。
 ヒル魔と。
 恋人とともに。
「……まったく、テメーは」
 この男にしては珍しく、感じ入った様子でヒル魔が口を開いた。それはだが感動したというより芯から呆れたというような声音だ。
「雰囲気もへったくれもねえなまったく」
「何だ雰囲気って」
「こんな素っ裸の時に言い出すやつがあるかよ」
 大事なことを切り出すならもう少しタイミングや場所を考えろと言いたいらしい。
「すまん」
 一応謝るとヒル魔は胸を張ってふんぞりかえった。湯が音を立てる。
「まあ許してやる。俺ぁ寛大なんでな」
 恋人に気づかれないようにムサシは笑った。尊大ぶる恋人がおかしく、くすぐったい。
 でも幸せそうに見える。
 それを恋人のため、自分のために嬉しいとムサシは思った。

「それとな、糞ジジイ」
 何故か取ってつけたように恋人が言い出した。
「何だ」
「つけるのはやぶさかじゃねえけどな」
 指輪のことかとムサシは思った。
「うん?」
「条件がある」
「何だ今さら」
「剃んなよ」
これをか」
「おう」
 ムサシはまた考える。恋人と連れ添うためには──もうそれを一生涯のこととムサシは誓っているが──自分はこの髭とも連れ合わなければならないらしい。
 こんなことを言い出すからには恋人はやはりムサシの口髭や顎髭を気に入っているのだろう。それはムサシとしてはもちろん嬉しい。少し引っかかるのは恋人の言う〝条件〟がムサシにとってごく簡易なことで、これでは取引にも何もならないだろうということだ。駆け引きに長けた恋人の言葉とも思えない。
 注意して様子を窺うとピアスを嵌めた恋人の耳もとはうす赤い。ほんのり朱を帯びる。
 どうやら、とムサシは推察した。
 なんでもいいから何かしら注文をつけたくなっただけだな。
 指輪をつけてくれるか。そうムサシが尋ねたつい先ほどはヒル魔は度量の大きいところを見せた。そのくせあとからじわじわと照れる気持ちが来たらしい。
 そんな恋人を心から微笑ましく、嬉しくムサシは眺めた。
「分かった」
 そう答えると恋人は満足そうな様子を見せた。

 あたたかい湯けむり。
 ふたりを包む。

「来月」
 ヒル魔は何か別の話を思いついたようだ。
「うん?」
「誕生日だろ」
「ああ」
「なんか欲しいもんあんのか」
「ああ。もうもらった」
 匂わせぶりに言うと、ヒル魔は怪訝な顔をした。だがすぐにムサシの意味するところを悟ったらしい。そんなんでいいのかよと笑った。ムサシも笑う。
「いいんだ」
「いいのかよ」
「うん」
 満ち足りた。そんな思いがムサシを包む。恋人のうす赤い耳朶にやわらかいキスを贈った。

 こころからのくちづけを。




 今日恋人が選んだのは薄いグレーのロールカーテン。
 それは部屋の主によって開けられ、閉じられるだろう。
 繰り返される日常。毎日のこと。
 日々の幸福。もしかしたら波乱もあるのかもしれない。
 けれどカーテンが開けられ閉じられる限りは大丈夫だ。
 ムサシにはそんな気がする。

 窓の外は明るい。
 あたたかなその光がムサシには見える。

 光は道を作る。恋人と歩む道だ。

 光の道。
 希望の道。

 その道を思い描きながら、ムサシはあらためて恋人を抱き締めた。
 

 
【Fin.】
 
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