◇コトバのチカラ
長いこと机に向かっていたために体が凝った。
思い切り伸びをして息をつく。
コーヒーでも淹れるか。
部屋を出て台所に立って行った。
ヤカンを火にかけて、引き出しからドリップバッグを取り出す。
すぐに沸いた湯を少し冷まし、頃合いを見てカップに乗せた紙バッグに注ぐ。
鼻をくすぐる香りにほっとする。
適量の湯を注ぎ終わったところで玄関の鍵が開く音がした。
廊下を歩いてくる足音。
出迎えようと台所を出た。
廊下とリビングを繋ぐドアが開いてムサシが入ってきた。
おかえり、糞ジジイ。
いつものように声をかけようとして異変に気づいた。
頰が少し削げている。
疲労の溜まった顔。
「おかえり」
「……おう」
どうしたのかと思っていたらムサシが近づいて来て俺の腰に手を回した。
自然に抱き合う形になる。
「どうしたよ糞ジジイ」
ムサシは俺の肩に顔を伏せた。
「……少し疲れた。甘えさせろ」
コイツがこんなことを言うのは珍しい。
仕事で何かあったのか。
普段のムサシは家業についてあまり喋らない。喋ることを好まない。
職人気質ってやつだろうか。
もちろん愚痴も言ったりしない。
でもこの状況なら少しは俺が話を聞いてやった方がいいだろう。
抱き合ったまま聞いた。
「なにか俺にできることはあるか」
「…………」
ムサシは暫く黙っていた。
俺はただ待つだけだ。
「……少しトラブっててな」
「…………」
「新築物件の基礎工事を請け負うことになってるんだが、施工主がやたら値切ってくる」
「…………」
「それじゃ文字通りこの家の屋台骨に関わると言っても聞く耳持たねえ」
「…………」
「今日も折衝に時間かかって帰りが遅くなった。ウチの従業員も腹立ててやる気をなくしかけてる。宥めるのに骨が折れた」
「…………」
「明日も朝一で話し合いだ。言いたくねえが気が重い」
どうも近頃元気がないと見ていたが、そんなことになってたのか。
コイツのことだから嫌気が差して他の同業者に投げるなんてことはしないだろう。それはムサシの店の信用と沽券に関わる。
俺はあいにくムサシの仕事に関しては門外漢だ。
アドバイスなどできるはずもない。
でも有益な助言なら同業の年かさの強者たちが何かしらしてくれるはずだ。必要ならムサシは自分から彼等に働きかけるだろう。
それなら俺は俺にできることをしよう。
俺はムサシの背を撫でた。
「テメーはトシの割に重たいものを背負ってるからな。苦労することもあるだろう」
「…………」
「何なら俺が乗り込んで話つけてやるか。脅迫手帳でもチラつかせてな」
なに言ってる、とムサシは僅かに笑った。お前の出る幕じゃないし、第一お前はアメフト以外でそんなもの使わないだろう。
解ってるな糞ジジイ。付き合いが長いだけのことはある。
俺の出る幕じゃないってのも尤もだ。
「そんなら厳しいことを言うようだが、テメーが自分で何とかするしかないな」
「…………」
「しっかりしろよ武蔵工務店の大黒柱。仕事に関しちゃ俺には何もしてやれないが、愚痴を聞くくらいなら幾らでも聞いてやる。しんどいときは俺に頼れ。俺がテメーを支えてやる」
「…………」
「いいか、覚えておけよ」
俺にしてはちょっと思い切って続けた。
「……テメーには、俺がついてるんだからな」
俺たちは正面から顔を合わせた。
ムサシが穏やかに言った。……そうだな。しんどくても俺にはお前がついていてくれるんだな。忘れるとこだった。
「ソコは忘れるとこじゃねえぞ糞ジジイ」
ムサシは笑った。
「そうか。そうだな、すまない」
「難しいだろうがテメーならできる。頑張れよ」
「そうだな、やれるところまでやってみよう」
「とりあえず飯を食え。それともどっか食いに行くか。それから今夜は休め」
「いや、飯はウチの連中をなだめがてら一緒に食ってきた。あとは明日の話し合いの準備をしなきゃならない」
「そうか」
「お前はどうするんだ」
「俺もまだすることがある。飯はあとにする」
「忙しいな」
「お互いにな」
「でも頑張るか」
「ああ、頑張るしかねえな」
そう言って俺はムサシに軽くキスをした。
元気の出るオマジナイだ。
「あっ」
「どうした」
「コーヒー淹れてたんだ、思い出した」
台所に行って確かめると見事に冷めていた。
追ってきたムサシが言った。
「もったいないことしたな、悪かった」
「淹れ直すから構わねえ。それよりテメーは明日の準備とやらをしろ」
「そうだな、そうする」
俺は再びヤカンを手に取り、2人分のコーヒーの準備を始めた。
ムサシは自室に向かった。
「ヒル魔」
ヤカンに目を向けたまま答えた。
「なんだ」
「ありがとう」
うお。
柄にもなくドキッとした。
台所の向こうからムサシの声が聞こえてくる。
「俺がついてる、ってのが何より効いた。ありがとう」
足音が遠ざかって行った。
そうか。
役に立ったか糞ジジイ。
せっかくのオマジナイに言及しやがらなかったのは多少残念だが。
テメーには俺がいる、もう忘れるなよ。
それにしても。
ありがとう、とはいい言葉だ。
なんだかくすぐったいような、胸が暖かくなるような。
物心ついてから俺は使ったことがないようだ。
いつか俺からテメーに言うこともあるかもな。
その時が来たら俺も照れずに素直に言ってやるよ。
俺にもテメーがいることだしな。
元気が出てよかったな。
糞ジジイ。
思い切り伸びをして息をつく。
コーヒーでも淹れるか。
部屋を出て台所に立って行った。
ヤカンを火にかけて、引き出しからドリップバッグを取り出す。
すぐに沸いた湯を少し冷まし、頃合いを見てカップに乗せた紙バッグに注ぐ。
鼻をくすぐる香りにほっとする。
適量の湯を注ぎ終わったところで玄関の鍵が開く音がした。
廊下を歩いてくる足音。
出迎えようと台所を出た。
廊下とリビングを繋ぐドアが開いてムサシが入ってきた。
おかえり、糞ジジイ。
いつものように声をかけようとして異変に気づいた。
頰が少し削げている。
疲労の溜まった顔。
「おかえり」
「……おう」
どうしたのかと思っていたらムサシが近づいて来て俺の腰に手を回した。
自然に抱き合う形になる。
「どうしたよ糞ジジイ」
ムサシは俺の肩に顔を伏せた。
「……少し疲れた。甘えさせろ」
コイツがこんなことを言うのは珍しい。
仕事で何かあったのか。
普段のムサシは家業についてあまり喋らない。喋ることを好まない。
職人気質ってやつだろうか。
もちろん愚痴も言ったりしない。
でもこの状況なら少しは俺が話を聞いてやった方がいいだろう。
抱き合ったまま聞いた。
「なにか俺にできることはあるか」
「…………」
ムサシは暫く黙っていた。
俺はただ待つだけだ。
「……少しトラブっててな」
「…………」
「新築物件の基礎工事を請け負うことになってるんだが、施工主がやたら値切ってくる」
「…………」
「それじゃ文字通りこの家の屋台骨に関わると言っても聞く耳持たねえ」
「…………」
「今日も折衝に時間かかって帰りが遅くなった。ウチの従業員も腹立ててやる気をなくしかけてる。宥めるのに骨が折れた」
「…………」
「明日も朝一で話し合いだ。言いたくねえが気が重い」
どうも近頃元気がないと見ていたが、そんなことになってたのか。
コイツのことだから嫌気が差して他の同業者に投げるなんてことはしないだろう。それはムサシの店の信用と沽券に関わる。
俺はあいにくムサシの仕事に関しては門外漢だ。
アドバイスなどできるはずもない。
でも有益な助言なら同業の年かさの強者たちが何かしらしてくれるはずだ。必要ならムサシは自分から彼等に働きかけるだろう。
それなら俺は俺にできることをしよう。
俺はムサシの背を撫でた。
「テメーはトシの割に重たいものを背負ってるからな。苦労することもあるだろう」
「…………」
「何なら俺が乗り込んで話つけてやるか。脅迫手帳でもチラつかせてな」
なに言ってる、とムサシは僅かに笑った。お前の出る幕じゃないし、第一お前はアメフト以外でそんなもの使わないだろう。
解ってるな糞ジジイ。付き合いが長いだけのことはある。
俺の出る幕じゃないってのも尤もだ。
「そんなら厳しいことを言うようだが、テメーが自分で何とかするしかないな」
「…………」
「しっかりしろよ武蔵工務店の大黒柱。仕事に関しちゃ俺には何もしてやれないが、愚痴を聞くくらいなら幾らでも聞いてやる。しんどいときは俺に頼れ。俺がテメーを支えてやる」
「…………」
「いいか、覚えておけよ」
俺にしてはちょっと思い切って続けた。
「……テメーには、俺がついてるんだからな」
俺たちは正面から顔を合わせた。
ムサシが穏やかに言った。……そうだな。しんどくても俺にはお前がついていてくれるんだな。忘れるとこだった。
「ソコは忘れるとこじゃねえぞ糞ジジイ」
ムサシは笑った。
「そうか。そうだな、すまない」
「難しいだろうがテメーならできる。頑張れよ」
「そうだな、やれるところまでやってみよう」
「とりあえず飯を食え。それともどっか食いに行くか。それから今夜は休め」
「いや、飯はウチの連中をなだめがてら一緒に食ってきた。あとは明日の話し合いの準備をしなきゃならない」
「そうか」
「お前はどうするんだ」
「俺もまだすることがある。飯はあとにする」
「忙しいな」
「お互いにな」
「でも頑張るか」
「ああ、頑張るしかねえな」
そう言って俺はムサシに軽くキスをした。
元気の出るオマジナイだ。
「あっ」
「どうした」
「コーヒー淹れてたんだ、思い出した」
台所に行って確かめると見事に冷めていた。
追ってきたムサシが言った。
「もったいないことしたな、悪かった」
「淹れ直すから構わねえ。それよりテメーは明日の準備とやらをしろ」
「そうだな、そうする」
俺は再びヤカンを手に取り、2人分のコーヒーの準備を始めた。
ムサシは自室に向かった。
「ヒル魔」
ヤカンに目を向けたまま答えた。
「なんだ」
「ありがとう」
うお。
柄にもなくドキッとした。
台所の向こうからムサシの声が聞こえてくる。
「俺がついてる、ってのが何より効いた。ありがとう」
足音が遠ざかって行った。
そうか。
役に立ったか糞ジジイ。
せっかくのオマジナイに言及しやがらなかったのは多少残念だが。
テメーには俺がいる、もう忘れるなよ。
それにしても。
ありがとう、とはいい言葉だ。
なんだかくすぐったいような、胸が暖かくなるような。
物心ついてから俺は使ったことがないようだ。
いつか俺からテメーに言うこともあるかもな。
その時が来たら俺も照れずに素直に言ってやるよ。
俺にもテメーがいることだしな。
元気が出てよかったな。
糞ジジイ。
【END】
1/1ページ