となりのだいくさん
エレベーターからたっと駆け出すとマンションの外に車が見えた。
──あ。車だ
男児にはすぐに分かった。あれはトラック。軽トラという車種だ。買ってもらった図鑑で覚えたばかりなのだ。遅れて男児の父もエレベーターを降りた。
「ナツキー、ちょっとここで待ってて」
父はエレベーターの正面のダスト室へ入っていく。燃えるゴミや燃えないゴミの入った袋をいくつも抱えて。
男児はこれから父と公園に出かけるところだ。遊びに行くには言いつけ通り、ダスト室の前で父を待たなければならない。けれど男児は車の方へ吸い寄せられていく。玄関ホールのガラス越しに見える白い車体。
よく見ると随分使い込まれているようだ。大きな傷などはついていないものの白い塗装はかなりの経年を感じさせる。
荷台には男児の知らない男の人が乗っていて何かしている。物を移動させて整理しているような動き。
──もっと近くで見たいな
男児は乗り物、特に自動車や電車が大好きだ。一人でマンションの外に出ちゃだめ、と父からも母からも何度も言われている。でもちょっと玄関のドアを出るくらいならいいんじゃないかな。見たい車はすぐそこだし。パパに怒られるかもしれないけど、ちょっと出るくらいなら。
男児は物怖じしない性格だ。思い切って自動ドアの前に立つとスーっと左右に開いた。小さな足を上げて、外に出た。玄関前に停められた軽トラに近づく。使い込まれた白いボディ。
「なんだ、ぼうず」
上から声が降ってきてびっくりした。目を上げると荷台から男が見下ろしている。
ぼうずというのが自分のことだとは何となく分かった。こういう呼び方をされたのは男児は初めてだ。ぶっきらぼうで驚いたけれど、不思議と男児には臆する気持ちが湧かない。怖くはない、そう男児は思った。
ただ、この男の人は僕のパパとは全然違うな。
そう感じた。
男児の父はいつも静かだし穏やかな口調で話す。外見も細身で、どちらかといえば優男タイプだ。一方男児を見下ろしているのはまるで違う男。黒々と太い眉に濃い髭。タンクトップの上からでも分かるたくましい胸。びんと強そうな腕。
おじさんて呼んでいいのかな。そう男児は思った。まず髭が目についたからだ。
そのまま口にしてみた。
「おじさん、これおじさんの車?」
男児にはまだ分からないが苦笑という笑い方を男は見せた。
「おい、おじさんはやめろ。まだそんな歳じゃねえぞ俺は」
「じゃあなんて呼べばいいの?」
「そうだな」
男は考え込むような顔つきをした。ただ、思いついたのは別のことのようだ。
「それよりお前、一人か」
「…………」
どう答えたらいいのか男児は分からない。ママは家で掃除をしてて、パパは今日はゴミの係で。
男が助け舟を出すように言ってくれた。
「父さんか母さんはどこにいる」
ええと。
「ママはうち。パパはいまゴミ捨て」
「そうか」
声の調子から考えると悪い人ではなさそうだ。男児はそう感じた。車体に目を当てる。荷台から運転席の方へ。ドアには太々と漢字が書かれていて、それは男児にはまだ読めないが武蔵工務店というものだ。
「これおじ……お兄さんの車?」
「そうだ。車が好きか、ぼうず」
「うん」
「ここに住んでるのか」
こことはこのマンションのことだろう。
「うん」
「俺もだ。何階だ?」
「6階」
「ナツキ!」
きつめな声にはっと男児は振り向く。玄関に立つ父。
「一人で外に出ちゃいけないってあれほど言っただろう」
心配とほのかな怒り。そういう色を父は浮かべている。いつも優しく穏やかな父が。
悪いことをしてしまったという気持ちが男児を包む。うなだれて謝罪の言葉を口にした。
「……ごめんなさい」
「坂口さんのお子さんでしたか」
男が平静な口調で言った。どうしてぼくんちの名前を知ってるんだろうとうなだれながらも男児は思う。男はすみません、気が付かなくて、と続けた。
父が近づいて来て男児の頭に手を置いた。男につられたのか、落ち着きを取り戻したようだ。
「いえいえ、いいんです。こちらこそすみません武蔵さん、息子がお仕事の邪魔をしたようで」
「いやそんなことはないですよ、少し話してただけです。息子さんは車がお好きなようですね」
「この間乗り物の図鑑を買ってやったんですよ。そしたら夢中になったようで」
「そうですか」
男は微笑した。男児はほっとした。パパはともかく、このお兄さんはぼくが話しかけたことを怒ってはいないようだ。それに笑うとちょっと優しい顔になる。父の言葉で分かったがタケクラさんというらしい。
「すみませんでした。行くよ、ナツキ」
父が男児の背中を押した。
「パパ管理室の人に用があるから、大人しくしててな」
「うん」
軽トラのこともお兄さんのことも心残りだ。もっと車を見たりお兄さんと話したりしたい。でもわがままを言ってはいけない。男児は我慢した。父と連れ立って軽トラに背を向ける。
すると後ろから声がかかった。
「坂口さん」
「……はい?」
父子は振り向く。男が微笑を浮かべていた。荷台の縁に手をかけてひょいと飛び降りた。
「良かったら預かりますよ。息子さん」
「え……」
「管理室に行かれるんでしょう。ご用事が済むまでここで遊ばせてますよ。息子さんそういう顔をしてますし」
男児は飛びつくように父を見た。パパは何て答えるだろう、断るだろうか。でもぼくは。
「や、そんな……お邪魔ではないですか」
「いいえ、全然」
男──タケクラさんは気さくに笑う。いい人だなと男児は思った。タケクラさん、ぼくは好きだ。でもパパは何て言うだろう。
父は男児を見て迷うようだ。だが男児の顔色を察したらしい。じゃあお言葉に甘えてと口にした。
「ちょっと行って来ますので、すみませんがお願いできますか」
「もちろんです。ゆっくりでいいですよ」
「ありがとうございます。ナツキ、武蔵さんの言うことちゃんと聞くんだぞ」
「うん!」
父は玄関から中へ入って行った。見送る男児に男が声をかける。
「ナツキっていうのか」
見上げるとタケクラさんは笑顔だ。親しみやすい笑顔。嬉しくなって男児は返事をする。
「うん。夏に生まれたからナツキ。5さい」
年齢と、つねづね両親に教えられているままを言った。
「タケクラさんはなんていう名前なの?」
「俺は厳ていう」
タケクラ、ゲン。男児は胸の中で反芻する。難しそうな名前だけど、怖くは全然ない。
「じゃあゲンさんて呼んでいい?」
「さんはちょっとあれだな。お前くらいの子はみんな厳ちゃんて言ってるぞ」
男児は少しはにかんだ。ゲンちゃん。そう呼んでみたいけど、それにはもっとタケクラさんと仲良くならないと。ゲンさんと呼ばれるのも気が進まないみたいだ。やっぱりタケクラさんて呼ぼう。
考えていたらタケクラさんが軽く荷台を叩いた。
「ナツキ、ここ乗るか」
男児ははっとする。
「いいの?」
タケクラさんは笑った。
「乗りたくてしょうがないって顔してるぞお前」
男児はわくわくした。思わず背伸びして車体に触れてしまう。
すると体が急に軽くなった。
ふわり。
タケクラさんが男児を後ろから抱き上げてくれたのだ。
──わあ!
男児は夢中になってしまった。気がついたら生まれて初めて軽トラの荷台の上に立っていた。
続けてタケクラさんが身軽に飛び乗ってくる。
「わあ……」
今まで経験したことのない高さだ。玄関前の植え込みも道路も、見えるもの全部が自分の目の下にある。
ぐるりとあたりを見回した。何だかすごく新鮮だ。置かれているものにぶつからないように気をつけながら荷台の隅から隅まで歩いてみる。小さな窓越しに見える運転席と助手席。逆を向くと玄関前から近くの神社に続く道。紅色の小さな花を咲かせている木。昨日母と一緒に見上げた木がぐんと低くなったようだ。
ふと男児は足もとに置かれているものが気になった。材木の他は何なのかちっとも分からないけれど、タケクラさんはこれを使ってどんな仕事をしてるんだろう。
「これもタケクラさんのなの?」
木材を指差して聞くと、タケクラさんは俺のじゃなく店のだとあっさり答えた。
「お店やってるの? どんなお店?」
「工務店て分かるか。建物を作るのが仕事だ」
男児は幼稚園の先生から聞いたことを思い出した。家を建てる仕事を何というか。
「大工さん? タケクラさん、大工さんなの」
「そうだ」
「かっこいいね」
素直に感心するとタケクラさんは笑った。今度は少し照れたような笑みだ。
「これを使っておうちを建てるの?」
「そうだ。こういう材木も使うし、機械も使う。ここにある道具も使う」
「道具……」
「知りたいか?」
「うん!」
荷台に積まれた種々の道具。タケクラさんはそれを一つ一つ取り出して男児に説明してくれた。
木製やプラスチックの工具箱から出てくるのは男児にとって初めて見るものばかりだ。大小様々なかなづち。色々な形ののこぎり。いかにも使い込まれたかんな。大事そうに布に巻かれたのみ。砥石も錐も色々なものがある。危ないからとタケクラさんはほとんどのものを触らせてはくれなかったが、見ているだけでも男児には楽しい。大工さんという人と話すのは初めてだし、何より父以外の成人の男の人と知り合ったことが楽しい。目新しくてわくわくする。
荷台にしゃがみ込んで熱心にタケクラさんの話を聞いていると、やがて父が戻ってきた。今度は父の手で男児は車から下ろされた。少し残念だ。もっとタケクラさんと遊びたかった。
「すみませんでした武蔵さん、ありがとうございます」
「いえいえ、俺も楽しかったですよ。ナツキ、またな」
「ありがとうタケクラさん! また遊んでね!」
こら、調子に乗るなと父に軽く頭をこづかれながら男児はその場を離れたのだった。
その晩、男児は父や母からタケクラさんについて教えてもらった。意外なことに、タケクラさんは男児の隣の住人だった。男児の一家はこのマンションに越して来てまだ間もない。入居時の挨拶に行ったのは父で、その時に少し立ち話をしたらしい。
男児が本人から聞いた通り、タケクラさんは大工を生業としている。実家である店はここからほど近い商店街にあり、タケクラさんはこのマンションに住んで実家に〝通勤〟しているのだとか。自営業はそうでもしないと仕事に終わりがないからなあ、と父は男児に分からないことを言った。そうねと母もうなずく。
「ぼくタケクラさん好き」
そう言ったら父も母も笑った。
「ずいぶん武蔵さんが気に入ったんだねナツキは」
「うん」
「でもお仕事の邪魔しちゃだめよ」
「うん」
そんなことは分かってるもん、と内心男児は思った。邪魔はしちゃいけないだろうけど話しかけるくらいならいいだろう。もっとタケクラさんと仲良くなりたいもん。
男児は人懐っこい性格だ。幼稚園でも近所でも友達に恵まれている。タケクラさんとも友達になれたらいいな。
そんな思いと共にその夜は眠りについた。
意識してみたら男児は意外とマンションの中でタケクラさんと顔を合わせるということに気がついた。共用廊下を歩いている時、庭でボール遊びをしている時。朝、登園のために家を出る時。タケクラさんを目にすると何だか男児は嬉しくなる。タケクラさーん! とはずむ声をかけてしまう。タケクラさんはそのたびに笑顔で応えてくれる。おう、ナツキか、と。一人歩きはまだ男児にはできないので大方の場合父か母が一緒ではあったのだけれど。
「こんにちはタケクラさん!」
「おう、こんちは」
「これから動物園行くんだよ、地下鉄で」
「そりゃいいな、行ってこい」
「どこ行くんだ、ナツキ」
「公園! ボール遊びするんだ」
「おはようタケクラさん!」
「おう、おはよう。朝から元気だな」
「あのね今日のお弁当はね……」
「おう、ナツキ。今日も公園か」
「そう! パパがサッカー教えてくれるんだ」
廊下ですれ違いながらの会話、もしくは立ち話。
そんなことをしているうちに男児はタケクラさんのことをもう少し知った。
タケクラさんは大工さんだが、スポーツもしているらしい。チームを組んで。タケクラさんはボールを蹴るのが役目、でもその競技はサッカーではなくアメフトという。話を聞いた父がテレビでアメフトの試合を男児に見せてくれた。男児は目を瞠った。大きな男の人たちが激しくぶつかったり走ったりしている。ぼくには分からないけど、タケクラさんがしているならきっと楽しいスポーツなんだろうなと思った。
この間共用廊下ですれ違った時、タケクラさんは一人ではなかった。男児は少なからず驚いた。タケクラさんと一緒の男が派手な金髪だったからだ。物怖じしない男児から見てもちょっと近寄りがたい印象を受けて、その金髪には声をかけなかった。金髪も男児には興味がないようだ。父や母とは普通に挨拶を交わしていたが。
タケクラさんのお友達かな。パパやママは挨拶してたし、タケクラさんはあのお友達と一緒に住んでるのかな。
軽い疑問のようなものも湧いた。今度タケクラさんに会ったら聞いてみてもいいだろうか。パパとママに聞くよりタケクラさんと話したいし。
「あ、おはようタケクラさん!」
ドアを開けたらほぼ同時に隣のドアが開いた。出てきたタケクラさんに張り切って男児は声をかけた。爽やかな雨上がりの朝のことだ。
「おう。おはよう」
──あれ?
何だか違和感を感じた。タケクラさんの様子がいつもと違う。
普段はきりっとした眉が今日は下がり気味だ。目にも張りがない。しかも頬には細い傷。2本もあるそれは引っ掻き傷のように見える。薄赤いみみず腫れ。
──どうしたんだろう
元気がない。それに怪我をしているようだ。そんなタケクラさんが気がかりになって、男児は聞いてみようと思っていたことを忘れてしまった。
「タケクラさん、怪我したの」
男児はタケクラさんの顔を指差した。
「痛い?」
「ああ……うん、ちょっとな」
タケクラさんは頬に手をやって笑ったが、その笑みはどこか力ない。
「お仕事で怪我したの?」
「いや……そうじゃなくてな」
口の中でもごもごとタケクラさんは答える。
「ちょっと喧……いや何でもない」
けん、て何だろう。男児は考えた。けんか?
自分の経験と照らし合わせて想像してみる。けんか。ほっぺたに怪我をするような。細い痛そうな傷。そういう傷をぼくも手に作ったことがある。あれはベルとけんかした時のことだ。
もしかしたらうちと同じで、タケクラさんもねこを飼ってるのかもしれない。ねことけんかして、引っ掻かれたんじゃないだろうか。それで痛いし悲しいんだろう。タケクラさんはとても弱っているように見える。
「タケクラさん、ねこに引っ掻かれたの?」
「……ん?」
タケクラさんは怪訝そうな顔をした。
違うのかな、でもほっぺたに傷なんてきっとそうだろう。
「けんかして引っ掻かれたんでしょ」
一生懸命に男児は続ける。タケクラさんにぼくのケイケンを教えてあげなくちゃ。
「ぼくもあるよ、引っ掻かれたこと。うちのベルに」
「…………」
「でもそれはぼくがベルに嫌なことしちゃったからなんだ。むりやり抱っこしちゃったから」
「…………」
「ごめんねって謝ればきっと許してくれるよ。ベルもそうだったよ」
タケクラさんはふっと真面目な目になった。
「だからタケクラさんも謝ってみて」
「……そうか」
「そうだよ、謝ればきっと大丈夫だよ」
「……そうだな」
タケクラさんは少しだけ元気を取り戻したような笑顔を見せた。大きな手で男児の頭を撫でる。
「ナツキはいい子だな」
男児は少し照れた。
「タケクラさんちのねこは何ていうの」
「え」
「名前。うちのねこはベルだよ」
「…………」
なぜかタケクラさんは戸惑った。そして変な音を出した。男児に聞こえたのはヒとかヨとかいう発音だ。妙な咳払いをしてやっと答えた。
「……イチだ」
「イチ? イチっていうの、ねこ」
「ああ、まあ」
ずいぶん変わった名前だなと男児は思った。でもきっとタケクラさんはイチを大事にしてるんだろう。引っ掻かれて元気を失くすくらいだもん。
「じゃあちゃんとイチに謝ってね」
「わかった」
こくりと真面目にタケクラさんはうなずく。なんか可愛いなと男児は思った。タケクラさんは大人だから、ぼくが可愛いなんて思うのは変かもしれないけど。でもちょっと可愛い。
男児を見てタケクラさんはあたたかい笑顔になった。ありがとな、ナツキ、と言った。
それから男児の父に挨拶して、仕事に出かけていった。
翌朝。
「行ってきまーす!」
父より先に玄関から飛び出すと昨日と同じようにまた隣のドアが開いた。あ、タケクラさんだ! と男児は思った。
タケクラさんは家の中にいる誰かと言葉を交わすようだ。見ていたらドアの陰からわずかに金色が覗いた。タケクラさんはその金色に顔を近づけた。と思ったら。
──わ!
どきりと男児の胸が鳴った。ちゅっという音が聞こえたのだ。あれはちゅーの音だ。パパとママがしてたことあるから分かる。
「ンじゃ行ってこい」
タケクラさんのではない声。おそらく金色の人の声。それに手。ひらついてから引っ込む。おう、行ってくると返事をしてからタケクラさんは男児に気がついた。
「おう、ナツキ。おはよう」
言い表すなら呆然と立っていた男児。その男児にタケクラさんが見せたのは昨日とまるで見違えるような笑顔だ。
タケクラさん、元気になったみたいだ。ちゅーしてたのは金色の人。多分前に見たことのある金髪の人とだろうな。ドアの陰でしてたからぼくが気づいてないと思ってるのかも。ちょっとびっくりした。
そこまで考えて男児は気を取り直した。
でもいいや、そんなこと。ちょっとびっくりはしたけど。
それよりも。
そんなことよりも、昨日からずっと気になっていたことを男児は口にした。
「おはよう。タケクラさん、イチに謝った?」
「ああ、謝った」
「じゃあ仲直りできた?」
「ああ、できた」
タケクラさんはとてもにこやかだ。男児はほっとした。
「お前のおかげだ。ありがとうな」
大きな手でまた男児は頭を撫でられた。何だか嬉しくなってしまった。
「どういたしまして!」
胸を張るような思いで返事をした。タケクラさんの役に立てて嬉しい。タケクラさんが元気になってよかった。
昨日はぼくがタケクラさんを励ましたけど、今日は不思議とタケクラさんに元気を分けてもらったような気がする。胸がはずむような、張り切るような気持ちでいっぱいになった。
父に促されて男児はタケクラさんにじゃあねと言った。ぶんぶんと腕を振って、エレベーターの方へ。タケクラさんは逆の方向だ。タンレンのために階段を使っているのだと以前教わった。
──そうだ
思いついたことがあった。
言ってみよう。
歩きながら振り向いてタケクラさんに手を振った。
「じゃーねー、ゲンちゃん!」
笑顔で大きく手を振った。
とびきりの笑顔で。
ゲンちゃんも大きく手を振り返してくれた。
明るい笑顔で。
となりのだいくさん。
──ぼくのともだち!
──あ。車だ
男児にはすぐに分かった。あれはトラック。軽トラという車種だ。買ってもらった図鑑で覚えたばかりなのだ。遅れて男児の父もエレベーターを降りた。
「ナツキー、ちょっとここで待ってて」
父はエレベーターの正面のダスト室へ入っていく。燃えるゴミや燃えないゴミの入った袋をいくつも抱えて。
男児はこれから父と公園に出かけるところだ。遊びに行くには言いつけ通り、ダスト室の前で父を待たなければならない。けれど男児は車の方へ吸い寄せられていく。玄関ホールのガラス越しに見える白い車体。
よく見ると随分使い込まれているようだ。大きな傷などはついていないものの白い塗装はかなりの経年を感じさせる。
荷台には男児の知らない男の人が乗っていて何かしている。物を移動させて整理しているような動き。
──もっと近くで見たいな
男児は乗り物、特に自動車や電車が大好きだ。一人でマンションの外に出ちゃだめ、と父からも母からも何度も言われている。でもちょっと玄関のドアを出るくらいならいいんじゃないかな。見たい車はすぐそこだし。パパに怒られるかもしれないけど、ちょっと出るくらいなら。
男児は物怖じしない性格だ。思い切って自動ドアの前に立つとスーっと左右に開いた。小さな足を上げて、外に出た。玄関前に停められた軽トラに近づく。使い込まれた白いボディ。
「なんだ、ぼうず」
上から声が降ってきてびっくりした。目を上げると荷台から男が見下ろしている。
ぼうずというのが自分のことだとは何となく分かった。こういう呼び方をされたのは男児は初めてだ。ぶっきらぼうで驚いたけれど、不思議と男児には臆する気持ちが湧かない。怖くはない、そう男児は思った。
ただ、この男の人は僕のパパとは全然違うな。
そう感じた。
男児の父はいつも静かだし穏やかな口調で話す。外見も細身で、どちらかといえば優男タイプだ。一方男児を見下ろしているのはまるで違う男。黒々と太い眉に濃い髭。タンクトップの上からでも分かるたくましい胸。びんと強そうな腕。
おじさんて呼んでいいのかな。そう男児は思った。まず髭が目についたからだ。
そのまま口にしてみた。
「おじさん、これおじさんの車?」
男児にはまだ分からないが苦笑という笑い方を男は見せた。
「おい、おじさんはやめろ。まだそんな歳じゃねえぞ俺は」
「じゃあなんて呼べばいいの?」
「そうだな」
男は考え込むような顔つきをした。ただ、思いついたのは別のことのようだ。
「それよりお前、一人か」
「…………」
どう答えたらいいのか男児は分からない。ママは家で掃除をしてて、パパは今日はゴミの係で。
男が助け舟を出すように言ってくれた。
「父さんか母さんはどこにいる」
ええと。
「ママはうち。パパはいまゴミ捨て」
「そうか」
声の調子から考えると悪い人ではなさそうだ。男児はそう感じた。車体に目を当てる。荷台から運転席の方へ。ドアには太々と漢字が書かれていて、それは男児にはまだ読めないが武蔵工務店というものだ。
「これおじ……お兄さんの車?」
「そうだ。車が好きか、ぼうず」
「うん」
「ここに住んでるのか」
こことはこのマンションのことだろう。
「うん」
「俺もだ。何階だ?」
「6階」
「ナツキ!」
きつめな声にはっと男児は振り向く。玄関に立つ父。
「一人で外に出ちゃいけないってあれほど言っただろう」
心配とほのかな怒り。そういう色を父は浮かべている。いつも優しく穏やかな父が。
悪いことをしてしまったという気持ちが男児を包む。うなだれて謝罪の言葉を口にした。
「……ごめんなさい」
「坂口さんのお子さんでしたか」
男が平静な口調で言った。どうしてぼくんちの名前を知ってるんだろうとうなだれながらも男児は思う。男はすみません、気が付かなくて、と続けた。
父が近づいて来て男児の頭に手を置いた。男につられたのか、落ち着きを取り戻したようだ。
「いえいえ、いいんです。こちらこそすみません武蔵さん、息子がお仕事の邪魔をしたようで」
「いやそんなことはないですよ、少し話してただけです。息子さんは車がお好きなようですね」
「この間乗り物の図鑑を買ってやったんですよ。そしたら夢中になったようで」
「そうですか」
男は微笑した。男児はほっとした。パパはともかく、このお兄さんはぼくが話しかけたことを怒ってはいないようだ。それに笑うとちょっと優しい顔になる。父の言葉で分かったがタケクラさんというらしい。
「すみませんでした。行くよ、ナツキ」
父が男児の背中を押した。
「パパ管理室の人に用があるから、大人しくしててな」
「うん」
軽トラのこともお兄さんのことも心残りだ。もっと車を見たりお兄さんと話したりしたい。でもわがままを言ってはいけない。男児は我慢した。父と連れ立って軽トラに背を向ける。
すると後ろから声がかかった。
「坂口さん」
「……はい?」
父子は振り向く。男が微笑を浮かべていた。荷台の縁に手をかけてひょいと飛び降りた。
「良かったら預かりますよ。息子さん」
「え……」
「管理室に行かれるんでしょう。ご用事が済むまでここで遊ばせてますよ。息子さんそういう顔をしてますし」
男児は飛びつくように父を見た。パパは何て答えるだろう、断るだろうか。でもぼくは。
「や、そんな……お邪魔ではないですか」
「いいえ、全然」
男──タケクラさんは気さくに笑う。いい人だなと男児は思った。タケクラさん、ぼくは好きだ。でもパパは何て言うだろう。
父は男児を見て迷うようだ。だが男児の顔色を察したらしい。じゃあお言葉に甘えてと口にした。
「ちょっと行って来ますので、すみませんがお願いできますか」
「もちろんです。ゆっくりでいいですよ」
「ありがとうございます。ナツキ、武蔵さんの言うことちゃんと聞くんだぞ」
「うん!」
父は玄関から中へ入って行った。見送る男児に男が声をかける。
「ナツキっていうのか」
見上げるとタケクラさんは笑顔だ。親しみやすい笑顔。嬉しくなって男児は返事をする。
「うん。夏に生まれたからナツキ。5さい」
年齢と、つねづね両親に教えられているままを言った。
「タケクラさんはなんていう名前なの?」
「俺は厳ていう」
タケクラ、ゲン。男児は胸の中で反芻する。難しそうな名前だけど、怖くは全然ない。
「じゃあゲンさんて呼んでいい?」
「さんはちょっとあれだな。お前くらいの子はみんな厳ちゃんて言ってるぞ」
男児は少しはにかんだ。ゲンちゃん。そう呼んでみたいけど、それにはもっとタケクラさんと仲良くならないと。ゲンさんと呼ばれるのも気が進まないみたいだ。やっぱりタケクラさんて呼ぼう。
考えていたらタケクラさんが軽く荷台を叩いた。
「ナツキ、ここ乗るか」
男児ははっとする。
「いいの?」
タケクラさんは笑った。
「乗りたくてしょうがないって顔してるぞお前」
男児はわくわくした。思わず背伸びして車体に触れてしまう。
すると体が急に軽くなった。
ふわり。
タケクラさんが男児を後ろから抱き上げてくれたのだ。
──わあ!
男児は夢中になってしまった。気がついたら生まれて初めて軽トラの荷台の上に立っていた。
続けてタケクラさんが身軽に飛び乗ってくる。
「わあ……」
今まで経験したことのない高さだ。玄関前の植え込みも道路も、見えるもの全部が自分の目の下にある。
ぐるりとあたりを見回した。何だかすごく新鮮だ。置かれているものにぶつからないように気をつけながら荷台の隅から隅まで歩いてみる。小さな窓越しに見える運転席と助手席。逆を向くと玄関前から近くの神社に続く道。紅色の小さな花を咲かせている木。昨日母と一緒に見上げた木がぐんと低くなったようだ。
ふと男児は足もとに置かれているものが気になった。材木の他は何なのかちっとも分からないけれど、タケクラさんはこれを使ってどんな仕事をしてるんだろう。
「これもタケクラさんのなの?」
木材を指差して聞くと、タケクラさんは俺のじゃなく店のだとあっさり答えた。
「お店やってるの? どんなお店?」
「工務店て分かるか。建物を作るのが仕事だ」
男児は幼稚園の先生から聞いたことを思い出した。家を建てる仕事を何というか。
「大工さん? タケクラさん、大工さんなの」
「そうだ」
「かっこいいね」
素直に感心するとタケクラさんは笑った。今度は少し照れたような笑みだ。
「これを使っておうちを建てるの?」
「そうだ。こういう材木も使うし、機械も使う。ここにある道具も使う」
「道具……」
「知りたいか?」
「うん!」
荷台に積まれた種々の道具。タケクラさんはそれを一つ一つ取り出して男児に説明してくれた。
木製やプラスチックの工具箱から出てくるのは男児にとって初めて見るものばかりだ。大小様々なかなづち。色々な形ののこぎり。いかにも使い込まれたかんな。大事そうに布に巻かれたのみ。砥石も錐も色々なものがある。危ないからとタケクラさんはほとんどのものを触らせてはくれなかったが、見ているだけでも男児には楽しい。大工さんという人と話すのは初めてだし、何より父以外の成人の男の人と知り合ったことが楽しい。目新しくてわくわくする。
荷台にしゃがみ込んで熱心にタケクラさんの話を聞いていると、やがて父が戻ってきた。今度は父の手で男児は車から下ろされた。少し残念だ。もっとタケクラさんと遊びたかった。
「すみませんでした武蔵さん、ありがとうございます」
「いえいえ、俺も楽しかったですよ。ナツキ、またな」
「ありがとうタケクラさん! また遊んでね!」
こら、調子に乗るなと父に軽く頭をこづかれながら男児はその場を離れたのだった。
その晩、男児は父や母からタケクラさんについて教えてもらった。意外なことに、タケクラさんは男児の隣の住人だった。男児の一家はこのマンションに越して来てまだ間もない。入居時の挨拶に行ったのは父で、その時に少し立ち話をしたらしい。
男児が本人から聞いた通り、タケクラさんは大工を生業としている。実家である店はここからほど近い商店街にあり、タケクラさんはこのマンションに住んで実家に〝通勤〟しているのだとか。自営業はそうでもしないと仕事に終わりがないからなあ、と父は男児に分からないことを言った。そうねと母もうなずく。
「ぼくタケクラさん好き」
そう言ったら父も母も笑った。
「ずいぶん武蔵さんが気に入ったんだねナツキは」
「うん」
「でもお仕事の邪魔しちゃだめよ」
「うん」
そんなことは分かってるもん、と内心男児は思った。邪魔はしちゃいけないだろうけど話しかけるくらいならいいだろう。もっとタケクラさんと仲良くなりたいもん。
男児は人懐っこい性格だ。幼稚園でも近所でも友達に恵まれている。タケクラさんとも友達になれたらいいな。
そんな思いと共にその夜は眠りについた。
意識してみたら男児は意外とマンションの中でタケクラさんと顔を合わせるということに気がついた。共用廊下を歩いている時、庭でボール遊びをしている時。朝、登園のために家を出る時。タケクラさんを目にすると何だか男児は嬉しくなる。タケクラさーん! とはずむ声をかけてしまう。タケクラさんはそのたびに笑顔で応えてくれる。おう、ナツキか、と。一人歩きはまだ男児にはできないので大方の場合父か母が一緒ではあったのだけれど。
「こんにちはタケクラさん!」
「おう、こんちは」
「これから動物園行くんだよ、地下鉄で」
「そりゃいいな、行ってこい」
「どこ行くんだ、ナツキ」
「公園! ボール遊びするんだ」
「おはようタケクラさん!」
「おう、おはよう。朝から元気だな」
「あのね今日のお弁当はね……」
「おう、ナツキ。今日も公園か」
「そう! パパがサッカー教えてくれるんだ」
廊下ですれ違いながらの会話、もしくは立ち話。
そんなことをしているうちに男児はタケクラさんのことをもう少し知った。
タケクラさんは大工さんだが、スポーツもしているらしい。チームを組んで。タケクラさんはボールを蹴るのが役目、でもその競技はサッカーではなくアメフトという。話を聞いた父がテレビでアメフトの試合を男児に見せてくれた。男児は目を瞠った。大きな男の人たちが激しくぶつかったり走ったりしている。ぼくには分からないけど、タケクラさんがしているならきっと楽しいスポーツなんだろうなと思った。
この間共用廊下ですれ違った時、タケクラさんは一人ではなかった。男児は少なからず驚いた。タケクラさんと一緒の男が派手な金髪だったからだ。物怖じしない男児から見てもちょっと近寄りがたい印象を受けて、その金髪には声をかけなかった。金髪も男児には興味がないようだ。父や母とは普通に挨拶を交わしていたが。
タケクラさんのお友達かな。パパやママは挨拶してたし、タケクラさんはあのお友達と一緒に住んでるのかな。
軽い疑問のようなものも湧いた。今度タケクラさんに会ったら聞いてみてもいいだろうか。パパとママに聞くよりタケクラさんと話したいし。
「あ、おはようタケクラさん!」
ドアを開けたらほぼ同時に隣のドアが開いた。出てきたタケクラさんに張り切って男児は声をかけた。爽やかな雨上がりの朝のことだ。
「おう。おはよう」
──あれ?
何だか違和感を感じた。タケクラさんの様子がいつもと違う。
普段はきりっとした眉が今日は下がり気味だ。目にも張りがない。しかも頬には細い傷。2本もあるそれは引っ掻き傷のように見える。薄赤いみみず腫れ。
──どうしたんだろう
元気がない。それに怪我をしているようだ。そんなタケクラさんが気がかりになって、男児は聞いてみようと思っていたことを忘れてしまった。
「タケクラさん、怪我したの」
男児はタケクラさんの顔を指差した。
「痛い?」
「ああ……うん、ちょっとな」
タケクラさんは頬に手をやって笑ったが、その笑みはどこか力ない。
「お仕事で怪我したの?」
「いや……そうじゃなくてな」
口の中でもごもごとタケクラさんは答える。
「ちょっと喧……いや何でもない」
けん、て何だろう。男児は考えた。けんか?
自分の経験と照らし合わせて想像してみる。けんか。ほっぺたに怪我をするような。細い痛そうな傷。そういう傷をぼくも手に作ったことがある。あれはベルとけんかした時のことだ。
もしかしたらうちと同じで、タケクラさんもねこを飼ってるのかもしれない。ねことけんかして、引っ掻かれたんじゃないだろうか。それで痛いし悲しいんだろう。タケクラさんはとても弱っているように見える。
「タケクラさん、ねこに引っ掻かれたの?」
「……ん?」
タケクラさんは怪訝そうな顔をした。
違うのかな、でもほっぺたに傷なんてきっとそうだろう。
「けんかして引っ掻かれたんでしょ」
一生懸命に男児は続ける。タケクラさんにぼくのケイケンを教えてあげなくちゃ。
「ぼくもあるよ、引っ掻かれたこと。うちのベルに」
「…………」
「でもそれはぼくがベルに嫌なことしちゃったからなんだ。むりやり抱っこしちゃったから」
「…………」
「ごめんねって謝ればきっと許してくれるよ。ベルもそうだったよ」
タケクラさんはふっと真面目な目になった。
「だからタケクラさんも謝ってみて」
「……そうか」
「そうだよ、謝ればきっと大丈夫だよ」
「……そうだな」
タケクラさんは少しだけ元気を取り戻したような笑顔を見せた。大きな手で男児の頭を撫でる。
「ナツキはいい子だな」
男児は少し照れた。
「タケクラさんちのねこは何ていうの」
「え」
「名前。うちのねこはベルだよ」
「…………」
なぜかタケクラさんは戸惑った。そして変な音を出した。男児に聞こえたのはヒとかヨとかいう発音だ。妙な咳払いをしてやっと答えた。
「……イチだ」
「イチ? イチっていうの、ねこ」
「ああ、まあ」
ずいぶん変わった名前だなと男児は思った。でもきっとタケクラさんはイチを大事にしてるんだろう。引っ掻かれて元気を失くすくらいだもん。
「じゃあちゃんとイチに謝ってね」
「わかった」
こくりと真面目にタケクラさんはうなずく。なんか可愛いなと男児は思った。タケクラさんは大人だから、ぼくが可愛いなんて思うのは変かもしれないけど。でもちょっと可愛い。
男児を見てタケクラさんはあたたかい笑顔になった。ありがとな、ナツキ、と言った。
それから男児の父に挨拶して、仕事に出かけていった。
翌朝。
「行ってきまーす!」
父より先に玄関から飛び出すと昨日と同じようにまた隣のドアが開いた。あ、タケクラさんだ! と男児は思った。
タケクラさんは家の中にいる誰かと言葉を交わすようだ。見ていたらドアの陰からわずかに金色が覗いた。タケクラさんはその金色に顔を近づけた。と思ったら。
──わ!
どきりと男児の胸が鳴った。ちゅっという音が聞こえたのだ。あれはちゅーの音だ。パパとママがしてたことあるから分かる。
「ンじゃ行ってこい」
タケクラさんのではない声。おそらく金色の人の声。それに手。ひらついてから引っ込む。おう、行ってくると返事をしてからタケクラさんは男児に気がついた。
「おう、ナツキ。おはよう」
言い表すなら呆然と立っていた男児。その男児にタケクラさんが見せたのは昨日とまるで見違えるような笑顔だ。
タケクラさん、元気になったみたいだ。ちゅーしてたのは金色の人。多分前に見たことのある金髪の人とだろうな。ドアの陰でしてたからぼくが気づいてないと思ってるのかも。ちょっとびっくりした。
そこまで考えて男児は気を取り直した。
でもいいや、そんなこと。ちょっとびっくりはしたけど。
それよりも。
そんなことよりも、昨日からずっと気になっていたことを男児は口にした。
「おはよう。タケクラさん、イチに謝った?」
「ああ、謝った」
「じゃあ仲直りできた?」
「ああ、できた」
タケクラさんはとてもにこやかだ。男児はほっとした。
「お前のおかげだ。ありがとうな」
大きな手でまた男児は頭を撫でられた。何だか嬉しくなってしまった。
「どういたしまして!」
胸を張るような思いで返事をした。タケクラさんの役に立てて嬉しい。タケクラさんが元気になってよかった。
昨日はぼくがタケクラさんを励ましたけど、今日は不思議とタケクラさんに元気を分けてもらったような気がする。胸がはずむような、張り切るような気持ちでいっぱいになった。
父に促されて男児はタケクラさんにじゃあねと言った。ぶんぶんと腕を振って、エレベーターの方へ。タケクラさんは逆の方向だ。タンレンのために階段を使っているのだと以前教わった。
──そうだ
思いついたことがあった。
言ってみよう。
歩きながら振り向いてタケクラさんに手を振った。
「じゃーねー、ゲンちゃん!」
笑顔で大きく手を振った。
とびきりの笑顔で。
ゲンちゃんも大きく手を振り返してくれた。
明るい笑顔で。
となりのだいくさん。
──ぼくのともだち!
【Fin.】
BGM:戸川純「隣の印度人」
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