金木犀の記憶

 その金木犀は昔から駐車場の片隅にあって周囲を眺めている。

 心地よい微風に葉がそよぐ。

 夕方の気配が忍び寄る時刻だ。

 試合が終わったらしいことは空気で分かる。あの人間たちはまだだろうか。

 待ちかねた金木犀の目にやがて四つの人影が映った。こちらへ歩いてくる。ひと目で分かる巨漢、そして金髪。飛び跳ねるように歩く女児。それからもう一人。
 先ほど名があがっていた、おそらくあれがムサシという人間だろう。首から下はまだユニフォーム姿だ。のっしのっしと足運びはどこか重々しい。そしてその風貌は。
 近づいてくるその男。これはまたどうも、と金木犀は感じた。またどうも強い個性を持つようだ。巨漢とも金髪ともまるで異なる。が、地味なわけではない。
 きっぱりと短く刈り込まれた黒髪。見るからに意志の強そうな太い眉。その下の眼は試合の高揚感をまだ残しているのだろうか、何とも力強い。頬の線もたくましく、しかもざりざりと音を立てそうな髭。別に伸ばしているわけでもなさそうな、だが濃い髭がこれもまた強烈な力を感じさせる。その周りを女児が飛び跳ねる。この子も試合の興奮冷めやらぬ様子だ。
「むしゃしゃん、すごくかっこよかった!」
「ほんとだねえ、ほんとにかっこよかったよ!」
「応援してくれてありがとうな、栗田も弥生ちゃんも」
「とりあえずまた一勝だな、ケケケ」
 口々に言い合いながら四人は車のそばへやってきた。
「ね、むしゃしゃん、また見に来ていい?」
「ああ、もちろんだ」
「パパ、また連れて来てくれる?」
「もちろんだよ! 良かったよ、弥生が気に入ってくれて嬉しいよ」
「長ェからな、試合。最初どうかと思ったが良かったな」
「また来ようね、ひるましゃん」
「おう、いいぞ」
「じゃあ指切り!」
「ほれ」
「ゆーびきーりげんまん……」
 女児は大層楽しそうだし嬉しそうだ。よほど好きなのだろう。この金髪とそして黒髪のことが。そんな気持ちが金木犀の心にまで伝わってくる。
 しばらく立ち話をしたあと、女児はその父の手で車に乗せられた。帰路に着くのだろう。運転席にまたよっこいしょと乗り込む巨漢。おやと金木犀は思った。金髪はこの場に残るようだ。どうやって帰るのだろう。
「じゃあムサシ、ヒル魔、またね!」
 巨漢は明るく別れを言って車を発進させた。後ろの席では女児が懸命に手を振っているようだ。
「むしゃしゃん、ひるましゃん!」
 そんな元気な声が金木犀の耳にも届く。
「またね、またね!」
 精一杯張り上げる声。とても心残りそうだ。黒髪と金髪も声をそろえて応える。じゃあな、またな。気をつけて。弥生ちゃん、またな。弥生、またな。
 手を振ってやり、車が遠ざかるまで黒髪と金髪は見送った。肩を並べて。金木犀は考える。ではこの金髪は黒髪とともに家路をたどるのだろうか。ふたりで車を見守る姿は、さもそれが日常事だという風だ。

 微風の午後。

 ううーんと黒髪が伸びをした。その拳に細い指輪を金木犀は見た。思わず金髪の手を見るとそこにも同じもの。
「さて」
 黒髪が口を開いた。
けーるか」
 金髪が答えた。打てば響くように。阿吽の呼吸とはこのことかと金木犀は思う。
「腹減った」
「なんか食うか。途中で」
「そうしてえな」
「荷物は」
「もう積んだ」
「連中は」
「ああ、帰らせた」
「ンじゃ俺らもだな」
「うん」
 短い会話。短いけれど親密そうな。
「弥生がな」
「うん?」
「テメーを見分けたぞ」
「見分けた?」
「あのな……」
 会話を交わしながらふたりはゆっくりと遠ざかっていく。
 金木犀に背を見せるふたり。連れ立って歩んでいくことがごく自然なことらしい。
 このふたりはとても強いきずなで結ばれているようだ。そう金木犀は感じる。同じ形の指輪だけでなく、ふたりのまとう空気がそれを物語る。そしてこのふたりは去っていった巨漢とも、その娘とも同じようなきずなを築いてきたらしい。
 ──不思議なものだ
 人間という生き物は不思議だ。金木犀のように独りで生きていくことはできない。仲間、友人、家族。夫婦、恋人。色々なきずなを作り支え合って生きるものであるらしい。
 つまり人間という生き物は弱いのか、強いのか。どちらなのだろう。
 楽しみができたと金木犀は思った。考える時間は自分にはたっぷりとある。十分すぎるほど。
 行き交う人間たちを眺めながら自分は考えよう。そしてまた眺めて。考えて。
 あの人間たちがまた来ればいい。そう金木犀は願った。あたたかなきずなというものを感じさせてくれた四人。きっとここにいればまた会うこともあるだろう。
 別れはほんのしばしのことだ。
 きっと。
 もう少し歳を重ねたあの人間たち。そんな姿も見てみたい。あの女児などはすぐに大きくなるだろう。また見られる日が楽しみだ。
 今日は良いものを見た。
 良いものを。

 ほう、と息をつくような思いで金木犀は心を休める。微かな風に身を任せる。しばらく目を閉じて休息を取ろう。睡魔が来たら従えばいい。



 広大な駐車場のその片隅。
 オレンジ色の無数の花。
 風にふわりと甘い香りが漂う。
 また誰かが足をとめて愛でていった。
 



 
【Fin.】
   
3/3ページ
スキ