うそつきな恋

 黒いデスクに一冊のノートがある。その上に一枚の枯葉。黄色い銀杏の葉だ。持ち主の手がそれをつまんで拾い上げた。細いがどこか強靭さを感じさせる指。
 いくつものボールに触れた。何万というパスを投げた指。そのあるじは枯葉と同じ色の髪を持つ。
 じっと枯葉を見つめる。これを贈られたのはもう何年も前だ。だが銀杏は不思議と色褪せない。綴じ込まれたノートの中で年月を過ごしてきた。金の髪のその持ち主とともに。
 枯葉は残る。記憶も残る。

 どうしてか、時折鮮やかによみがえる記憶。



 **********



 その病院の待合室はかなり広い。

 ムサシと同じように座っている者、または立っている者。歩いていく者、立ち話中の者。静かなざわめきを聴きながらムサシはテレビ画面に目を当てている。
 いくつもの長椅子。その正面には巨大なテレビが設置されて昼の情報番組を放送している。先ほどから流れて行くのは料理やグルメ、観光や芸能などのちょっとしたニュースだ。
 鼻腔には嗅ぎ慣れた匂い。消毒薬の匂いだ。父が入院してからというもの、すっかり馴染みになってしまった。
 静かだがこういう待合室はやはり、どこか陰気だな。そう思いながら人を待っている。待ち人はチームのQB。泥門デビルバッツの悪魔のQB。
 ──医者ンとこ行くから付き合え
 数日前にそう言われて分かったと答えた。付き合えだなどとどういう風の吹き回しだとは少し思ったが。
 アメフトにおいてQBというポジションは攻撃の司令塔である。ムサシのチームのQBはそればかりではなく守備でもセーフティ──最後の砦を務める。助っ人の確保、スケジューリングを含めた部のマネジメントも。トレーナーの溝六とともに部員全員の日々の鍛錬をも指揮する。
 八面六臂。ヒル魔という男はまさにそんな活躍ぶりだ。そしてその活躍もしくは暗躍と同じほど謎も多い。白秋戦で負傷したヒル魔がどこの病院で診察を受けているのか誰も知らない。部員たちに分かっているのはただ作るのに幾らかかったんだと思うような移動型酸素カプセル。その車を操りながらケケケと笑う包帯姿、それだけだった。
 その謎が少なくともムサシには解けた。言われた通りついてきたのは泥門高校の所在地からそう離れてはいないある都市。駅から徒歩圏の整形外科病院だった。
 ここなら良さそうだ。院内の設備や雰囲気を一通り見て回り、ムサシは今そう思っている。評判などは後で調べてみないと分からないが、少なくとも立ち働くスタッフからは活気と明るさが伝わってくる。
 携帯電話を開いて時刻を確かめた。ここで待ってろと言い残して、ヒル魔が上の階へ姿を消してから1時間弱。そろそろ来るだろうとゆったり足を組み直した。

「糞ジジイ」
 ほどなく、後ろから声をかけられた。振り向くと包帯で腕を吊った金髪頭。診察は終わったらしい。黒のセーターに白いジャケットを肩に羽織った姿だ。
「終わったか」
「ああ」
 尻をずらして隣にスペースを作る。これから会計までにまだ少し時間がかかるだろう。空いた空間に音もなくヒル魔は腰を下ろした。
「どうだ、具合は」
「順調に決まってンだろアホ」
「そうか」
「もう来なくていいとさ」
 嘘つけとムサシは思った。まだぐるぐる巻きにされてる身で何を言ってんだこいつは。
 そんなことはおくびにも出さず、まるで別のことを口にした。
「それ抽選会の時のやつだな」
「覚えてやがるか」
 にやりとヒル魔は唇の端を上げる。
 ムサシが目で指したのはヒル魔の白い上着だ。フードのついた中綿入りのジャケット。今は無造作に羽織っているその純白のジャケット姿で先月のはじめ、ヒル魔とチームの全員は全国大会の抽選会に臨んだのだ。白。白星。勝ち星。こいつが験を担いでやがると思ったからムサシは覚えていた。ただ他にも理由はある。
「そりゃ覚えてる。ありゃあなかなかのもんだったしな」
 ムサシは笑った。ヒル魔は疑問に思ったようだ。
「なかなかって何がだ」
「いろいろだ」
「何だそりゃ」
「まあいいだろ」
「よくねえ」
「いいじゃねえか」
「何のことだか言え」
「言わねえ」
「何でだよ」
「言いたくねえからだ」
「なんで」
「なんでもだ」
 胸にあるのは一波乱も二波乱もあった抽選の席。そして何より、少しまぶしく映った金髪頭の装い。"なかなか"であったのはそれだが無論ムサシは口にしようとは思わない。こういう時、是が非でも白状させる気ならヒル魔は得意の銃器を持ち出すのだろう。が、ここは病院の待合室だ。さすがに場所柄をわきまえたらしく低く悪態をつくにとどめた。
 そのうちこいつの順番が来るだろう。会計窓口に目をやって、それからまたムサシはのんびりとテレビ画面を眺め始めた。



 冬の日差し。柔らかな光が肩に降りそそぐ。ムサシの茶のブルゾンは頑丈でかなり寒さを遮断してくれる。それに今日はのどかな日和だ。だがヒル魔こいつはどうかと少し思った。
 病院を出て、しばらくは閑静な住宅街を歩く。歩きながらヒル魔に声をかけた。
「寒くねえか」
「別に」
 心なしかヒル魔の返事はそっけない。
 ムサシもヒル魔も手ぶらだ。財布と携帯電話はポケットに押し込んである。肌身離さないノート型のパソコンをヒル魔は今日は持っていない。
「あれはもういいのか」
「何だか分かるように言え糞ジジイ」
「あの妙な車」
 このところしばらくヒル魔が乗り回していた、"妙な車"。酸素カプセルを電動の二輪車に搭載したものだ。縦横無尽に操縦しながらヒル魔は通学、部活、そして部員と客人たちのマンツーマンコーチに檄を飛ばしていた。今日はそれに乗ってはいない。ここまでの行程に電車を使ったから当然と言えば当然かもしれないが、もう使わなくとも大丈夫なのかという意味でムサシは聞いた。
「…………」
 ヒル魔は答えない。横目で窺うと口元からふくらむガム。まぶたを少しおろした目。答えるつもりはないんだなとムサシは判断した。

 ふたりがいるのは近年の住宅建築ラッシュで急激に人口が増えた新興都市だ。病院周辺にも複数の集合住宅、それに真新しい香りのするような戸建て。それらに混じって古くから住まっていることが一目で察せられる家々もある。そうした住宅街を抜けて駅に近づくと次第に街並みは変わる。小さな商店や雑居ビル、公共施設の建物などが代わって現れる。ビジネスや商業に関わる建物が増え、やがて目の前に広々としたロータリーとバスターミナル。その向こうが目指す鉄道の駅となる。
 ──お
 ムサシの目はあるものにとまった。
 いま歩いてきた道は駅前から放射状に伸びる道路のうちの一つで、いわば支線のようなものだ。ムサシが見つけたのは駅の正面、この街のメインストリートなのだろう太い道。多くの車両が行き交う6車線の道路。
 その道路は見事な並木道となっている。銀杏の大木が堂々と枝を広げ、しかもそれらは目がくらむような鮮やかな黄金色だ。
「なあ、ヒル魔」
「あ?」
 ムサシは指差した。
「あの道。歩かねえか」
「は?」
 心底訝しげな声をヒル魔は出した。
「そこが駅じゃねえか。何で離れンだ」
「まあいいじゃねえか」
 不審そうな金髪頭にムサシは笑う。
 ──もう少し
 もう少しこの金髪頭と一緒にいたいと思っている。
「たまにはな。散歩だと思え」
「なんか用があンのかよ」
「いや別に」
「じゃなんでだ」
「だから散歩だ。それとも何か、怪我人だから歩けねえか」
 からかうように言ってみたらヒル魔のこめかみに青筋ができた。ぴき、と音がしそうな。
 ムサシは目指す方向へ足を向けた。ヒル魔も黙ってついてくる。
 ロータリーを囲むように、放射状の道路を繋いでいる歩道。それをふたりは渡り始めた。

 冬晴れの下。朝晩の冷え込みはきつくなって来たが日中は陽気があれば寒さはそれほど厳しくない。ふたりが歩いているのはちょうどそんな気温の下だ。数日前は降雪があったが天気は回復し、いまは柔らかな冬日が差す。目を上げればおびただしい金色の光。時折はらりと落ちて足元をも彩る。
 駅に背を向けるような形で、ふたりは銀杏の並木道をそぞろ歩く。ムサシの提案をヒル魔はどう受け取ったのか、黙って肩を並べている。交通量の多い道路の両脇は大きな建物が中心だ。オフィスビルや商業ビルが立ち並び、歩道も十分な広さが確保されている。香ばしい匂いを感じてムサシは鼻をうごめかした。少し先を見ると茶色いBAKERYの看板。あれかと思った。パンの焼ける匂いだ。道路に面したその店から男が出てきた。バゲットの覗く細長い袋を抱えるように。急ぎ足でふたりとすれ違う。何だか洒落た光景だなとムサシは思った。ヒル魔は全く気にとめていないようだ。
「何で銀杏って多いんだろうな」
 ふとそう思って声をかけたらヒル魔が答えた。
「知らね。丈夫とかそんなんだろ」
「ああ、そうか」
 そういうことかと納得がいった。街路樹に利用されるのはヒル魔の言の通り"丈夫"な樹木だ。桜などはその最たるものだろう。何か他にもあるような気がするが、何だったかな。姿は浮かぶが名が思い出せない。
 "丈夫"な樹木。病害虫に強い、剪定にも強い。風雨によく耐える。すくすくと成長して悠然たる大きな枝を広げる。
 なぜかムサシの頭にチームのことが浮かんだ。
 ──デビルバッツ
 泥門デビルバッツ。
 栗田とヒル魔とムサシで作ったチームだ。ただの弱小チームだった、長いこと。それが東京大会を乗り越え、全国大会へ。そしてそれをも勝ち抜いて次は──。
 どの試合も部員は必死だった。今もそうだ、来る決戦に向けて地獄のマンツーマン練習に励んでいる。
 ──あいつ
 胸に浮かぶのは一年下の部員。パワフルな小兵のWR。
「良かったな。モン太が何とかなって」
「心配してたのかよ」
「まあな」
 ある衝撃を受けて大事なチームメイトの一人──モン太は意気消沈していた。セナの気遣いと励ましでもとの力を取り戻したのが数日前だ。
「心配じゃなかったのか。お前は」
 隣を見るとヒル魔は前を向いたままだ。ガムのふくらむ口元。ぱちんとはじけさせて答えた。
「あんな打たれ強い奴ァいねえ」
 思わずムサシは笑った。そうだな、確かにその通りだ。
 信じていたんだな。
 そう思った。
「みんな強くなってる」
「たりめーだ」
「何とかなるな。この先も」
「なるに決まってンだろ」
「そうだな」
 にやり。ヒル魔が笑った。
「こっちにゃ糞坊主どもがいンだ」
 ほうとムサシは思った。こいつらしくもない。本音か。
 少し嬉しくなって口を開いた。
「そんなら俺もいるぞ」
「大口叩きやがるな」
「ほんとのことだろ」
「謙遜てことを知らねえのかテメーは」
「必要ねえ」
 ヒル魔は低く笑う。
「なあ。ヒル魔」
「あ?」 
「…………」
 前を向いたままムサシは少し呼吸を整えた。
 ついでに気持ちも。

 ──…………

 脳裏にあるのはこれまでのさまざまだ。一万と数千時間の空白。数々の試合。
 白秋戦で負傷したヒル魔。
 命のロングパス。
 包帯姿のQB、そして船上パーティー。
 酸素カプセルに行くという金髪頭をムサシは黙って見送った。どういうわけかその時ムサシの胸にあったのは出会いの頃の記憶だった。

 ──ケケケ 蹴りたくなる
 ──これは蹴りたくなる
 ──俺なら蹴る

 そして。

 ──あれから1万3千297時間と

 ──49分 遅刻だ

 これまでのこと。ヒル魔への思い。
 信じたい。そうムサシは思った。重ねてきた月日、ヒル魔とのきずな。そういうものを信じたい。そして。

 伝えたい。

 それも決戦前に。
 おのれの意志を、決意を伝えたい。
 そう思った。

 信じる。そんな言葉がこの金髪頭の口から発せられたことはないしこの先もそういうことがあるかどうかは分からない。だが自分は別だ。そうムサシは思った。

 信じたい。
 伝えたい。

 何だよとまたヒル魔が言った。ムサシはすぐには応えない。少し胸が鼓動した。

「──俺はな」

 ゆっくりと。
 愛おしむように言葉を紡いだ。



「俺はな。ヒル魔」



「好きだ。お前が」



「──お前が。好きだ」



 雑踏が静まりかえったような感覚。
 ムサシの耳は何も聞こえなくなった。



「…………」



 ヒル魔は何も言わない。何も起こっていないような顔。
 少しの静寂のあと音が戻ってきた。人通り、車両の交通音。クラクションの音。
「…………」
「…………」
 どうしたもんかなとムサシは思った。ヒル魔は無言の行のつもりだろうか、口から先に生まれたようなこの男が。それならどうするべきか。
 と。
 ムサシと同じようにゆっくりとヒル魔が口を開いた。前方に目を向けたまま。



「俺ァ嫌いだ」



 微笑がムサシの頬に浮かぶ。



「そうか」
「そうだ」
「俺は好きだ」



 またヒル魔は返事をしない。
 黙ってゆったりと歩む。
 手を握りたいなとムサシは思った。だがここでは人目があるしな。第一いきなりそんなことをしたら殴られるだろう。
「そんなことよりテメーのその格好を何とかしやがれ」
「? なんか問題か」
「いつもいつも寒ィとそのジャンパーだろ」
「何で分かる」
「俺の記憶力舐めンな」
 今度はムサシは苦笑した。確かに、随分前から自分の冬服は毎年似たようなものだ。色も形も。無論サイズだけは変えてはいるが。
 よく知っているらしい。
 この、目の前の金髪頭は。
 意味もなく胸があたたかくなる。
「なに笑ってンだよ」
「別に」
 ヒル魔はガムをふくらませる。よく見ると悪魔めいた耳朶には赤み。頬にも。
 気づかれないようにムサシは笑った。精一杯肩肘を張るようなのが何ともおかしい。
 落ち葉の舞い散る道。枯葉を踏みしめて歩む。
 何だか、ずっと前からこうしているようだ。
 道は続く。どこまでも。
 この道は続いている。
 全国大会決勝へ。
 クリスマスボウルへ。
 ヒル魔がもう一度呟いた。ぼっそりと。
「テメーなんか嫌ェだ」
「うん」
「うんて何だよ」
「うんはうんだ」
「何だそりゃ」
「他に何言やいいんだ」
「知らね」
「試合」
「あ?」
「試合。頑張らねえとな」
「あったりめーだアホ」
「なあ、ヒル魔」
「何だよ」
「ホテル行くか」
 かっとヒル魔の頬が染まる。激しく蹴飛ばすような仕草をするから思わずムサシは避けた。
「テメーの頭にはそんなことっきゃねえのか」
「そういうわけでもねえが」
 はらり。目の前に落ちてきた金色。ふっとムサシはつまんだ。
 指で回すようにすると綺麗な枯葉だ。鮮やかな黄色。隣の男に重なる。
 ヒル魔に差し出した。
「やる」
「…………」
 枯葉を見つめるヒル魔。要らねと言われるかと思ったが受け取った。
「こんなもんどうしろってんだ」
 ムサシはまた低く笑った。悪態をつきながら、それでも枯葉をポケットにしまい込む金髪頭。
 並木道は突き当たりに差し掛かろうとしている。そろそろこのそぞろ歩きもおしまいだ。
けーるぞ」
「そうだな」
 ゆっくりと振り向く。
 ふたりはもと来た方向へ戻り始めた。
「腹減った」
「そうだな。ラーメンでも食うか」
「テメーのおごりな」
「何でだ」
「何でもだ」
「早食いで負けた方のおごりってのはどうだ」
「まあいいぞ」
「じゃあ探さないとな。店」
「…………」
「…………」
 ボトムのポケットにヒル魔は手を突っ込んだままだ。落ち着いてムサシも歩む。ゆったりと、もと来た道を。
 ふたりで。
 はらはらと金色の舞う歩道。
 車道にはクラクションの響き、タイヤの音。
 どこか柔らかく響く喧騒の中。
 



 **********



 あの日帰ってノートに挟んだ銀杏の葉。不思議といつまでも鮮やかなままだ。それは持ち主の記憶とともにここにある。金の髪のその持ち主。つまんだ葉をじっと見つめる。
 これをくれた男はあの日言った。あれはもういいのか、と。あの妙な車に乗らなくていいのかという意味だ。
 まだ自分には必要だった酸素カプセル。あの日使わなかったのはあの男と歩きたいと思ったからだ。来るべき大勝負の前に、できたら肩を並べて。できたらふたりきりで。
 こんなつもりだったとあの男に語ることはない。照れ臭いから一生の秘密だ。
 好きだと言われたから俺は嫌ェだと思わず答えた。確か二度そう言ったのだがあの男は黙って笑った。ずうずうしいジジイだなと思ったことをまだ覚えている。
 唇が微笑の形を作る。
 ぴくりと耳が動いた。名前を呼ばれたのだ。自室の外からあの男──恋人の声。何だか困惑するような声だ。
 どうせまた台所で何やら困ってるんだろう。金髪頭の頬に苦笑が浮かぶ。声のした方に向かって返事を投げた。
 鮮やかな葉はまたノートに挟まれた。

 持ち主の手で。

 そっと、丁寧に。




【END】


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