プレシャス

 玄関に入るとムサシの靴があった。先に帰宅していたらしい。同様に靴を脱いで家に上がった。
 ただいま、と声を発したら台所の方から返事があった。夕食の支度でもしてくれているのだろう。ヒル魔も廊下からそちらへ向かった。
 居間に隣接する台所。覗いてみると恋人の背中。床にかがみ込んでいる。
「どうした」
「…………」
 ムサシは無言で振り返る。しくじった、というような顔。
 恋人の目の前の床を見てヒル魔も理解した。
「落としたのか」
「ああ。やっちまった」
 白い磁器の破片。粉々に欠けて床に散らばる。大きい破片は持ち手がついていて、もとの面影をかろうじてとどめる。
「手がすべった。うっかりした」
 何とも心残りだ。そういう心情をにじませたムサシの声音。破片を見てヒル魔は思った。復元はできないものだろうか。いや……これはもう無理だろう。
「さわらねえ方がいいぞ、指切ったりしちゃまずいだろ」
「ああ、でも大きいのだけは拾わねえと」
「気をつけろよ」
 他に言いようがないのでヒル魔はそう口にした。後片付けはムサシひとりでもできるだろう。いつもの習慣で洗面所に入ろうとした。ただ、その前に一言。
「糞ジジイ」
「?」
「そういうもんはいつかは壊れるもんだ。気にすんな」
 ほろ苦そうなムサシの笑顔。
 それを見てから踵を返した。

 ムサシとヒル魔の家にあるマグカップ。白いのと茶色いの。シンプルなものだが真ん中あたりに小さな抽象的な紋様が一つついている。数年前、誕生日にムサシがバベルズの仲間から贈られたものだ。家でふたりで開封してみて、使いやすそうだなとヒル魔がまず言った。そうだなとムサシは答えた。お前、どっち使う。
 少し考えてヒル魔は茶色い方を指した。俺ァこっちがいい、と。自然、残った方がムサシのものとなった。
 高校を卒業して同棲を始めてもうだいぶ経つ。ふたりの家には少しずつものが増えてきた。食器などはその最たるものだ。足りないからとふたりで買ったもの、ムサシの家からの貰い物。結婚式の引出物。くじの景品。
 コーヒーカップも件の贈り物が来るまでに複数が食器棚に並んでいた。でもどういうわけかムサシもヒル魔も仲間から贈られたものが気に入ったのだ。コーヒーは普段から愛飲しているし、それに使ってみたら容量もちょうどいい。持ってみると手に馴染む大きさ、厚みもほどよくてコーヒーが冷めにくい。
 朝や晩の食後、遅くまで机に向かわなければならない夜。ふたりでほっとくつろぐ休日。白と茶色のマグカップはいつもムサシとヒル魔と一緒だった。何ということもない日常の中、何ということもない平和な時間。それをいつもふたりとともに過ごしてきたのがこのマグカップだった。
 ──しくじったな
 ムサシの胸からはそういう思いが離れない。仕事道具を除いて、普段使いのものにムサシはそれほどこだわる方ではない。だが粉々に割れた破片を見て、何とも後悔するような気持ちに襲われた。取り返しのつかないことをしたというのは大げさだが、それに近いような気持ち。コーヒーカップなどまだいくらでもある。取り替えのきくものなのに、なぜかそう思うことができない。
「糞ジジイ」
「うん?」
 夕食後、向かい合ってコーヒーを飲むいつもの時間。
 顔を上げるとヒル魔が見ている。
 頬杖をついてのんびりした様子。
「まだ気にしてンのか」
「……まあな」
 ありあわせのカップを片手に、ムサシは苦笑する。どうも、いつものこととは言えこの恋人は勘が良い。
「さっきも言ったろ。こういうのは壊れるもんだ」
「うん」
「その白いやつでいいじゃねえか」
 ムサシがいま手にしているのは少し小ぶりなサイズのものだ。
「うーん……」
「なんだよ」
「なんかな」
 手の中のカップとヒル魔のもの。代わる代わるに見比べて、正直な気持ちをムサシは口にした。
「どうも落ち着かねえ」
 ヒル魔は苦笑いする。恋人はそんなにあれに愛着があったのか。
「ま、諦めろ。往生際ってことを考えろ、ジジイはジジイらしくな」
「……そう言われてもな」
「そのうち慣れンだろ。使ってれば何てことなくなる、多分な。それまでの辛抱だ」
 少しなだめるようにヒル魔は言った。
 いかにも心残りだという恋人の顔。
 少し経てば何とかなるだろうと思いながら。



 数日後。
「ヒル魔、ヒル魔」
 帰宅すると奥からムサシが飛び出してきた。
「どうした」
「見つけた」
「? 何を」
「あれ、あのカップ」
「カップ?」
「忘れたのか、割ったやつ」
「ああ」
「来て見ろ、ほら」
 まるで手を取られるように台所に入る。すると調理台にふたつのマグカップ。茶色いのと、白いのとだ。
「見ろ、同じやつだ。見つけた」
 得意そうな、嬉しそうなムサシの声。ヒル魔はふたつを手に取って比べる。紋様までが割れたものと同じ。
「そっくりだな」
「同じやつだからな」
「なんで分かる」
「対で売られてたからだ。店に無理言ってこれだけ売ってもらった」
「へえ、よく見つけたな」
「偶然だけどな。たまたま入った店にあった」
「まあ良かったな」
 ヒル魔は笑った。恋人のはしゃぐ様子が微笑ましい。
 きっとムサシはこの数日、探し回っていたのだろう。見つかったのは本当に偶然なのかもしれないが、努力が実って良かった。
「これで落ち着いて飲める」
 ムサシは満足そうだ。
 そうだな、とヒル魔も相槌を打った。何だか肩の荷が下りたような風情の恋人。これで俺も落ち着けるなとこっそり思った。
 そう思ったら急に空腹を覚えた。
「メシ、どうする」
「ああ、まだ支度してない。これから作る」
「いや、外行こうぜ。俺様が奢ってやる」
「?」
 ヒル魔はにやりと笑ってみせた。
「また揃った記念。テメーのカップに免じて」
「…………」
 ムサシは破顔した。ヒル魔の好きな笑顔だ。
「じゃあ甘えるか」
「そうしろ、そうしろ」
 着替えてくる、と恋人は台所から出ていった。それを見送って、ヒル魔は再びカップに目をやる。
 何の変哲もない、シンプルなマグカップ。白いのと茶色いの。
 正直を言えば自分はものにこだわらない。だから万が一これが割れたとしてもムサシのようには振る舞わないだろう。それでもムサシが──恋人が大事にしている以上、自分も同じほど大切にしたいと思う。ムサシの気持ち、ムサシのこころ。それを大切にしたいと思う。
 ふたつのマグカップ。手に取って、食器棚のいつもの場所へ丁寧に収めた。
 それからヒル魔も台所を出て行った。
 今夜はムサシと外食だ。
 少々大げさかもしれないが祝杯だ。
 恋人の私室に向かって声をかけた。
「まだかー、糞ジジイ」
 いま行く、と明るい返事があった。



 予想外にものを大切にするんだな。
 恋人の行動を少し微笑ましく思ったヒル魔だが、そのヒル魔にも大切にしているものがある。
 木製のPCスタンドだ。高3の時、ムサシが作ってくれたもの。折り畳みができて携帯も可能になっている。
 ニスが剥げたりねじが緩んだりするとヒル魔はムサシのところに持っていく。糞ジジイ、直してくれと。
 作業自体は簡単だから無論自分でできないことはない。ムサシにもそう言われたことはある。ただそのたびにヒル魔は屁理屈をこねるのだ。テメーが作ったもんなんだから責任を持て、と。
 そう言われるとムサシもそれもそうかと思ってしまう。そして黙って受け取って修理してやる。ほれ、できたぞと持って行ってやる。
 ムサシは今回のことでマグカップを前より一層大切にするようになった。
 ヒル魔はヒル魔で無骨な木製のスタンドを今日も抱えて家を出る。
 年を経ても変わらない大切なもの。
 年を経てもずっと一緒だ、そう思う心。
 ムサシもヒル魔も思いは同じなのだが別に口にしようとは思わない。
 今日もムサシは白いカップでコーヒーを飲む。
 今日もヒル魔は黒いバッグにPCスタンドを詰め込んで出かけていく。
「じゃあな」
「じゃあな」
 いつもの言葉を玄関で交わして。

 昨日も。
 今日も。

 そして明日もあさっても。


【END】
 

 
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