快晴
2 Jump!
黒木の妻はもとバベルズのチア団にいた。単なるチーム仲間として知り合ったのだがアメフトを続けるうちに意気投合したのだ。だからアスリートがよく験担ぎをするということも知っている。黒木のそれも。
試合の日の朝、黒木の験担ぎ。それは何かしら景気の良い曲を聴くというものだ。独身時代はむろん自分で選曲していたが、結婚して黒木はその選曲を妻に頼んだ。意外性を求めたのだ。妻は明るく快諾してくれた。普段口には出さないが、妻のそんなところを黒木はとても気に入っている。
3LDKのマンション。ふわあ、とあくびしながら洗面所に入った。顔を洗い、髭を剃る。黒木が起きたことを台所の妻は気づいたらしい。家の中に音楽が響き始めた。
ジージーと髭剃りの音を立てながら耳を傾ける。イントロはシンセサイザーの音色だ。新時代の幕開けを告げるような、明るく晴れやかな音色。黒木もこの曲を知っている。今日はまたずいぶん古い歌だなと思った。正確な年代は知らないが、おそらく黒木が生まれる頃に流行ったヒット曲だ。
イントロが終わって歌詞が始まる。どこか不敵なボーカルの声。シンセサイザーにギター、8ビートのドラム。いわゆるハードロックなのだがそれにしてはテンポはゆったりめだ。英語の歌詞。伸びやかにボーカルは歌う。外国語だから歌詞の全てが分かるわけではない。だがサビの部分で繰り返されるのは飛べ、前へ進めという意味の言葉だ。聞いていると胸がすくような。
「ジャンプ!」
息子の声が廊下から聞こえた。サビに合わせて飛び跳ねるように歩いていく気配。ダイニングへ向かうのだろう。黒木も身支度を済ませてそちらへ向かった。
「おはよう」
「おはよう、お父さん」
テーブルについた息子。11年前に生まれた時に陸と名づけた。大地を踏みしめて生きてほしいという願いを込めて。妻の佳奈はまだ台所だ。娘はどうしたかと目で探すとベランダにいる後ろ姿。洗濯物を干しているようだ。金木犀の香る季節に生まれたからそれにちなむ名を調べて、夫婦で話しあって決めた。桂花という。まだ中1だが気持ちの優しい子で、忙しい母の手伝いを率先してやっている。
テーブルにはもう何種類かの朝食メニューが並ぶ。食事を始めるのは娘が戻るまで待とうと黒木は思った。
「肉うどん、食べる?」
湯気の立つ味噌汁を運んできた妻に聞かれた。作ってあげましょうかという意味だ。献立を眺めて、いやいいよと答えた。試合当日、消化の良いうどんとスタミナのつく豚肉は格好の朝食だ。が、すでにテーブルにあるもので十分だと思った。
ベランダの窓が開いて、娘が部屋に入ってきた。手には洗濯かご。
「おはよ、お父さん」
「うん、おはよう」
「あー、お腹すいた〜」
「ありがとね、桂花」
妻が娘に声をかけた。干してくれて、と続ける。
「かごは置いといていいから、ごはんにしよう」
「うん、でもこれ置いてきちゃう」
何か始めたら最後まで。娘はそんな几帳面な性分だ。洗濯かごも洗面所のいつもの場所に置かないと、終わった気がしないのだろう。
「お姉ちゃん、早く〜」
「うるさい」
「陸、お前少しはお姉ちゃんを手伝え」
たしなめると息子は決まり悪そうに生返事をした。行儀悪く椅子に足を乗せて、手持ち無沙汰な様子だ。
「宿題、早目にやれよ。お父さん今日は見てやれるかどうか分かんないぞ」
「分かった」
「あと今日塾だろ。遅刻しないようにな」
「分かってる。お父さんも遅刻しないようにな」
苦笑いが黒木の頬に浮かぶ。男の子の歳相応の減らず口だ。
「お待たせ〜」
娘が戻ってきた。いつもの場所でいつもの椅子を引く。黒木が合図した。
「佳奈さん、いいかい」
「大丈夫ー」
「じゃあごはんだ」
「はーい」
黒木の言葉で家族全員がテーブルにつく。皆で軽く手を合わせる。
「いただきます」
居間から流れる音楽は延々とリピートされている。その中で黒木家の朝食は始まった。
今日は試合日だ。だから食卓に並ぶものはおもに自分のことを考えて妻が手作りしてくれたものが中心だ。子供たちは育ち盛りでもあるから食事には妻は常に気を使っている。大変だろうと思うから時折黒木は手伝いを申し出る。その度に妻は明るく笑い飛ばしてくれるのだが。
朝食のメインは大皿に盛られた香ばしい焼きお握りだ。厚切りの鮭も大根おろしと一緒に笹葉に乗せられて、銘々取られるのを待っている。かぼちゃの胡麻和え、じゃがいもの煮物。ふっくらとしただし巻き卵。豆腐と油揚げの味噌汁。黒木の椀だけ、油揚げは少なめになっている。色とりどりの果物の盛り合わせ。隣にはカステラがふた切れ、これは黒木用だ。
お握りをぱくつきながら陸が話しかけてきた。
「ねえお父さん、今日の相手強い?」
「ああ、まあ強いとこだ」
「お父さんとことどっちが強いの」
「ばか、お父さんとこに決まってるでしょ」
桂花の強めな声。黒木は笑った。娘の気持ちが嬉しい。
「お姉ちゃんの言う通りよ」
妻も口を合わせる。
娘は弟にむかっ腹を立てたようだ。
「大体あんたはうるさいのよ、余計なことばっかり言って」
「余計なことって何だよ」
「余計なことは余計なこと。あと手伝いもしないし」
「したよ」
「何したのよ」
「床掃除」
「いつ」
「昨日」
「へえ、珍しい」
口喧嘩と言えば口喧嘩。だがこの程度の言い合いなら慣れたものだ。黒木も妻も別に止めようとは思わない。もう少し騒々しく、あるいは刺々しくなればまた別だが。
「お父さん、今日見に行くね」
気を変えようと思ったらしく、娘が黒木に告げた。
「ほんとか」
「うん、お母さんと行く」
「そうか、じゃあ頑張らないとな」
「うん」
汁椀を手にした自分、かぼちゃに箸を伸ばす娘。軽く微笑みあう。
大きくなったな、と急に感じた。娘は今年の秋で13歳。誕生日はもう少し先だ。生まれた時は何しろ初めての子供だ、ほんの少しの不安はあった。だがそれを覆い打ち消すような大きな喜び。
中1になった今は週末に補習や塾があるから、娘はそれほど頻繁に父の試合を見に来るわけではない。幼い頃は母に連れられてよくスタンドに来ていた。がんばれー、という愛らしい声をチームエリアで聞きつけて、闘志の湧き立つような思いをしたこともある。
父親とは現金なもので、むろん子供は可愛いがやはり娘というものには格別な思い入れがある。溶けるような愛おしさ。自分の中にそんな感情が眠っていたこと、それが子供という存在によって呼び覚まされたことに黒木は我ながら驚き感心するような思いを味わった。
今でも黒木は覚えている。幼い娘の声援。きっと本人はもう覚えていないか、もしくは記憶の底にうっすらとある程度かもしれない。けれど黒木はいつまでも覚えている。忘れることはないのだろうと思う。
──お
青空の下のフィールド。チアと客席の歓声。妻と幼子の姿。食事を進めながらそんなものを反芻していたら、唐突にある光景がよみがえった。目の前の光景が信じられない、心底仰天した自分。
あん時はたまげたなと今でも思う。何しろあいつと子供の組み合わせなんて想像もしてなかったからな。
確かあの子はうちのと同い年だったはずだ。じゃああれはもう……8年、それくらい前か。
アメフトというスポーツは野球と同様、攻守が明確に分かれる。黒木はディフェンスラインの一員だ。8年前のある試合。チームの攻撃場面になりベンチに下がった。
ブルーシートの敷かれたベンチ。奥のテーブルには給水筒。ヘルメットを取り、水を汲もうと向かった視界の隅に、ちかりと瞬いたものがあった。
何となく顔を上げた黒木の目に信じがたいものが映った。
柵の向こうにヒル魔が立っている。瞬いたのはあの悪魔の金髪だった。言うまでもなくヒル魔はバベルズに出資しているし縁も深い。別に観戦していても何の不思議もない。黒木が仰天したのはヒル魔が──。
あの、ヒル魔が──。
──子供を連れていたことだ。
(……は?!)
(……え?!)
文字通り黒木は固まってしまった。何を自分は見てるんだろう。
凝視する黒木に気付いたのか、ヒル魔が軽く片手を上げた。ごくりと黒木は唾を飲み込む。言いたいことは山ほどあるが言葉が喉につかえて出てこない。
ヒル魔の隣の女児。まだ小さい、自分の娘と同じくらいではないだろうか。ヒル魔と同じように自分を見ている。Tシャツにミニスカート、黒い膝丈のタイツ。きらきらしたまなざし。艷やかな黒髪は後ろで束ねているようだ。
──よう。しっかりやれよ
ヒル魔に声をかけられて、我に返った。また唾を飲み込む。
──ヒ、ヒル魔……、さん!
──おう
──あの、その、
──なんだよ
──その、それ……
──それってなんだよ
──そ、その子は
黒木の言いたいことをヒル魔は悟ったらしい。呆れたような声を出した。
──勘違いすンな阿呆。栗田の子だ
──あ、……そ……、そっスか……
我ながら間抜けな顔だっただろうなと思う。答えを聞いてなぜか当てが外れたような、ほっとするような真逆の気分がやってきたことを黒木は覚えている。
自分が話題になっていることが分かったのか、女児は笑顔になった。明るい瞳。何の迷いもためらいもない、明るい笑顔。それでもそのまなざしはどこか強い。
女児の父、栗田。かつての泥門デビルバッツの名センター。アメフトに賭ける情熱もその闘志も誰にも負けない。栗田が立てばフィールドの空気が変わると言われた、そんな父親の強さをどこかに感じさせる女児。一瞬ここが闘いの場であることも忘れて黒木は小さな女児を眺めた。
「お父さん、どれくらい食べる?」
はっと見ると娘が銘々皿を手にしている。果物を取ってくれるつもりらしい。ああ、ありがとうと答えた。キウイにりんご、オレンジ、そしてバナナ。適当に数を言って、盛られた皿を受け取る。食事と同じように、一つ一つゆっくりと咀嚼する。消化不良は試合の大敵だ。
娘の隣では息子がしゃべり続けている。授業のこと、先生のこと。適度にあいづちを打つのは妻の役目だ。そろそろ自分は今日の試合に頭を向けなければならない。
息子に話した通り、今日の相手は強豪だ。だが負けるわけにはいかない。春季最後の試合、まだリーグ戦ではないが大切な一戦だ。チームの課題を明らかにすること、勝って一つでも良い戦績を残すこと。何より、今日のゲームは長年貢献してくれたある仲間の引退試合でもあるのだ。
──頑張らねえとな
四十路を前にした黒木はもうラインマンとしては十分すぎるほどのベテランだ。引退を決めた仲間は更にその一つ上、今年ついに大台に乗る。年齢のこともあるし、経営する会社や父の事業の手伝いに専念したい。そう言って、惜しまれながらも現役を退くことを決意した名QB。
良い結果で送り出してやりたい。心から黒木は思った。そのためにも、頑張らねえと。
今日は妻だけでなく娘も観戦に来てくれる。何だか体の底から力がみなぎるようだ。
──俺を沈ませるものなんか何もない
居間から流れる曲はまさにそんな歌詞を歌っている。
飛べ、前へ進め、と。
──よし
心中でおのれに気合を入れる。食事もデザートも済んだ。出かける支度をしなければ。
「ごちそうさま!」
明るく力強い声が出た。
それを黒木は自分のために、そして家族のために嬉しいと思った。
黒木の妻はもとバベルズのチア団にいた。単なるチーム仲間として知り合ったのだがアメフトを続けるうちに意気投合したのだ。だからアスリートがよく験担ぎをするということも知っている。黒木のそれも。
試合の日の朝、黒木の験担ぎ。それは何かしら景気の良い曲を聴くというものだ。独身時代はむろん自分で選曲していたが、結婚して黒木はその選曲を妻に頼んだ。意外性を求めたのだ。妻は明るく快諾してくれた。普段口には出さないが、妻のそんなところを黒木はとても気に入っている。
3LDKのマンション。ふわあ、とあくびしながら洗面所に入った。顔を洗い、髭を剃る。黒木が起きたことを台所の妻は気づいたらしい。家の中に音楽が響き始めた。
ジージーと髭剃りの音を立てながら耳を傾ける。イントロはシンセサイザーの音色だ。新時代の幕開けを告げるような、明るく晴れやかな音色。黒木もこの曲を知っている。今日はまたずいぶん古い歌だなと思った。正確な年代は知らないが、おそらく黒木が生まれる頃に流行ったヒット曲だ。
イントロが終わって歌詞が始まる。どこか不敵なボーカルの声。シンセサイザーにギター、8ビートのドラム。いわゆるハードロックなのだがそれにしてはテンポはゆったりめだ。英語の歌詞。伸びやかにボーカルは歌う。外国語だから歌詞の全てが分かるわけではない。だがサビの部分で繰り返されるのは飛べ、前へ進めという意味の言葉だ。聞いていると胸がすくような。
「ジャンプ!」
息子の声が廊下から聞こえた。サビに合わせて飛び跳ねるように歩いていく気配。ダイニングへ向かうのだろう。黒木も身支度を済ませてそちらへ向かった。
「おはよう」
「おはよう、お父さん」
テーブルについた息子。11年前に生まれた時に陸と名づけた。大地を踏みしめて生きてほしいという願いを込めて。妻の佳奈はまだ台所だ。娘はどうしたかと目で探すとベランダにいる後ろ姿。洗濯物を干しているようだ。金木犀の香る季節に生まれたからそれにちなむ名を調べて、夫婦で話しあって決めた。桂花という。まだ中1だが気持ちの優しい子で、忙しい母の手伝いを率先してやっている。
テーブルにはもう何種類かの朝食メニューが並ぶ。食事を始めるのは娘が戻るまで待とうと黒木は思った。
「肉うどん、食べる?」
湯気の立つ味噌汁を運んできた妻に聞かれた。作ってあげましょうかという意味だ。献立を眺めて、いやいいよと答えた。試合当日、消化の良いうどんとスタミナのつく豚肉は格好の朝食だ。が、すでにテーブルにあるもので十分だと思った。
ベランダの窓が開いて、娘が部屋に入ってきた。手には洗濯かご。
「おはよ、お父さん」
「うん、おはよう」
「あー、お腹すいた〜」
「ありがとね、桂花」
妻が娘に声をかけた。干してくれて、と続ける。
「かごは置いといていいから、ごはんにしよう」
「うん、でもこれ置いてきちゃう」
何か始めたら最後まで。娘はそんな几帳面な性分だ。洗濯かごも洗面所のいつもの場所に置かないと、終わった気がしないのだろう。
「お姉ちゃん、早く〜」
「うるさい」
「陸、お前少しはお姉ちゃんを手伝え」
たしなめると息子は決まり悪そうに生返事をした。行儀悪く椅子に足を乗せて、手持ち無沙汰な様子だ。
「宿題、早目にやれよ。お父さん今日は見てやれるかどうか分かんないぞ」
「分かった」
「あと今日塾だろ。遅刻しないようにな」
「分かってる。お父さんも遅刻しないようにな」
苦笑いが黒木の頬に浮かぶ。男の子の歳相応の減らず口だ。
「お待たせ〜」
娘が戻ってきた。いつもの場所でいつもの椅子を引く。黒木が合図した。
「佳奈さん、いいかい」
「大丈夫ー」
「じゃあごはんだ」
「はーい」
黒木の言葉で家族全員がテーブルにつく。皆で軽く手を合わせる。
「いただきます」
居間から流れる音楽は延々とリピートされている。その中で黒木家の朝食は始まった。
今日は試合日だ。だから食卓に並ぶものはおもに自分のことを考えて妻が手作りしてくれたものが中心だ。子供たちは育ち盛りでもあるから食事には妻は常に気を使っている。大変だろうと思うから時折黒木は手伝いを申し出る。その度に妻は明るく笑い飛ばしてくれるのだが。
朝食のメインは大皿に盛られた香ばしい焼きお握りだ。厚切りの鮭も大根おろしと一緒に笹葉に乗せられて、銘々取られるのを待っている。かぼちゃの胡麻和え、じゃがいもの煮物。ふっくらとしただし巻き卵。豆腐と油揚げの味噌汁。黒木の椀だけ、油揚げは少なめになっている。色とりどりの果物の盛り合わせ。隣にはカステラがふた切れ、これは黒木用だ。
お握りをぱくつきながら陸が話しかけてきた。
「ねえお父さん、今日の相手強い?」
「ああ、まあ強いとこだ」
「お父さんとことどっちが強いの」
「ばか、お父さんとこに決まってるでしょ」
桂花の強めな声。黒木は笑った。娘の気持ちが嬉しい。
「お姉ちゃんの言う通りよ」
妻も口を合わせる。
娘は弟にむかっ腹を立てたようだ。
「大体あんたはうるさいのよ、余計なことばっかり言って」
「余計なことって何だよ」
「余計なことは余計なこと。あと手伝いもしないし」
「したよ」
「何したのよ」
「床掃除」
「いつ」
「昨日」
「へえ、珍しい」
口喧嘩と言えば口喧嘩。だがこの程度の言い合いなら慣れたものだ。黒木も妻も別に止めようとは思わない。もう少し騒々しく、あるいは刺々しくなればまた別だが。
「お父さん、今日見に行くね」
気を変えようと思ったらしく、娘が黒木に告げた。
「ほんとか」
「うん、お母さんと行く」
「そうか、じゃあ頑張らないとな」
「うん」
汁椀を手にした自分、かぼちゃに箸を伸ばす娘。軽く微笑みあう。
大きくなったな、と急に感じた。娘は今年の秋で13歳。誕生日はもう少し先だ。生まれた時は何しろ初めての子供だ、ほんの少しの不安はあった。だがそれを覆い打ち消すような大きな喜び。
中1になった今は週末に補習や塾があるから、娘はそれほど頻繁に父の試合を見に来るわけではない。幼い頃は母に連れられてよくスタンドに来ていた。がんばれー、という愛らしい声をチームエリアで聞きつけて、闘志の湧き立つような思いをしたこともある。
父親とは現金なもので、むろん子供は可愛いがやはり娘というものには格別な思い入れがある。溶けるような愛おしさ。自分の中にそんな感情が眠っていたこと、それが子供という存在によって呼び覚まされたことに黒木は我ながら驚き感心するような思いを味わった。
今でも黒木は覚えている。幼い娘の声援。きっと本人はもう覚えていないか、もしくは記憶の底にうっすらとある程度かもしれない。けれど黒木はいつまでも覚えている。忘れることはないのだろうと思う。
──お
青空の下のフィールド。チアと客席の歓声。妻と幼子の姿。食事を進めながらそんなものを反芻していたら、唐突にある光景がよみがえった。目の前の光景が信じられない、心底仰天した自分。
あん時はたまげたなと今でも思う。何しろあいつと子供の組み合わせなんて想像もしてなかったからな。
確かあの子はうちのと同い年だったはずだ。じゃああれはもう……8年、それくらい前か。
アメフトというスポーツは野球と同様、攻守が明確に分かれる。黒木はディフェンスラインの一員だ。8年前のある試合。チームの攻撃場面になりベンチに下がった。
ブルーシートの敷かれたベンチ。奥のテーブルには給水筒。ヘルメットを取り、水を汲もうと向かった視界の隅に、ちかりと瞬いたものがあった。
何となく顔を上げた黒木の目に信じがたいものが映った。
柵の向こうにヒル魔が立っている。瞬いたのはあの悪魔の金髪だった。言うまでもなくヒル魔はバベルズに出資しているし縁も深い。別に観戦していても何の不思議もない。黒木が仰天したのはヒル魔が──。
あの、ヒル魔が──。
──子供を連れていたことだ。
(……は?!)
(……え?!)
文字通り黒木は固まってしまった。何を自分は見てるんだろう。
凝視する黒木に気付いたのか、ヒル魔が軽く片手を上げた。ごくりと黒木は唾を飲み込む。言いたいことは山ほどあるが言葉が喉につかえて出てこない。
ヒル魔の隣の女児。まだ小さい、自分の娘と同じくらいではないだろうか。ヒル魔と同じように自分を見ている。Tシャツにミニスカート、黒い膝丈のタイツ。きらきらしたまなざし。艷やかな黒髪は後ろで束ねているようだ。
──よう。しっかりやれよ
ヒル魔に声をかけられて、我に返った。また唾を飲み込む。
──ヒ、ヒル魔……、さん!
──おう
──あの、その、
──なんだよ
──その、それ……
──それってなんだよ
──そ、その子は
黒木の言いたいことをヒル魔は悟ったらしい。呆れたような声を出した。
──勘違いすンな阿呆。栗田の子だ
──あ、……そ……、そっスか……
我ながら間抜けな顔だっただろうなと思う。答えを聞いてなぜか当てが外れたような、ほっとするような真逆の気分がやってきたことを黒木は覚えている。
自分が話題になっていることが分かったのか、女児は笑顔になった。明るい瞳。何の迷いもためらいもない、明るい笑顔。それでもそのまなざしはどこか強い。
女児の父、栗田。かつての泥門デビルバッツの名センター。アメフトに賭ける情熱もその闘志も誰にも負けない。栗田が立てばフィールドの空気が変わると言われた、そんな父親の強さをどこかに感じさせる女児。一瞬ここが闘いの場であることも忘れて黒木は小さな女児を眺めた。
「お父さん、どれくらい食べる?」
はっと見ると娘が銘々皿を手にしている。果物を取ってくれるつもりらしい。ああ、ありがとうと答えた。キウイにりんご、オレンジ、そしてバナナ。適当に数を言って、盛られた皿を受け取る。食事と同じように、一つ一つゆっくりと咀嚼する。消化不良は試合の大敵だ。
娘の隣では息子がしゃべり続けている。授業のこと、先生のこと。適度にあいづちを打つのは妻の役目だ。そろそろ自分は今日の試合に頭を向けなければならない。
息子に話した通り、今日の相手は強豪だ。だが負けるわけにはいかない。春季最後の試合、まだリーグ戦ではないが大切な一戦だ。チームの課題を明らかにすること、勝って一つでも良い戦績を残すこと。何より、今日のゲームは長年貢献してくれたある仲間の引退試合でもあるのだ。
──頑張らねえとな
四十路を前にした黒木はもうラインマンとしては十分すぎるほどのベテランだ。引退を決めた仲間は更にその一つ上、今年ついに大台に乗る。年齢のこともあるし、経営する会社や父の事業の手伝いに専念したい。そう言って、惜しまれながらも現役を退くことを決意した名QB。
良い結果で送り出してやりたい。心から黒木は思った。そのためにも、頑張らねえと。
今日は妻だけでなく娘も観戦に来てくれる。何だか体の底から力がみなぎるようだ。
──俺を沈ませるものなんか何もない
居間から流れる曲はまさにそんな歌詞を歌っている。
飛べ、前へ進め、と。
──よし
心中でおのれに気合を入れる。食事もデザートも済んだ。出かける支度をしなければ。
「ごちそうさま!」
明るく力強い声が出た。
それを黒木は自分のために、そして家族のために嬉しいと思った。