快晴
1 晴れと月
よく晴れた日だ。だが西風が強く吹き荒れる。その日はそんな日だった。
横断歩道の手前でヒル魔は立ち止まった。目の前の信号は赤。隣のムサシも並んで立ち止まった。何となく信号と待ち時間を示すランプに目を向ける。
ほこりっぽい春の風。後方からどっと吹きつける。むずりと鼻が動いて、派手にくしゃみが出た。
「びえっくしょい!」
人差し指で鼻をこする。
するとムサシが動いた。ヒル魔の後ろに立つように。
「?」
少し疑問を感じた。わざとのように背後に立つ恋人。
振り返って尋ねた。どうした、と。
とぼけたような声音でムサシは答えた。
「風よけ」
一瞬、どういうことか分からなかった。そのあとに来た思い。何だか苦笑が湧くような気持ちだ。
好きにしろ、と思った。視線を前に戻す。
やがて信号が青に変わった。
隣に恋人が戻って、再び並んで歩き始めた。
風に運ばれて来たのか、ちらりと目に入ったものがある。桜の花びらだ。
特に気にもしないで歩を運んだ。
時々ヒル魔は思い出す。この時の、苦笑が湧くような思い。
もう少し別の気持ちを感じたのはずっとあとの話だ。
**********
俺ァアメリカ に行ってくる。そうヒル魔から言われた時のことをよくムサシは覚えている。そうか、行って来いと答えた。薄々そうなるんじゃないかと考えていたから別に意外なことではない。
関東にその名を馳せる最京大学のアメフトチーム、ウィザーズ。その一番手QBとしてヒル魔は大学生活を過ごした。著名な強豪の司令塔。自然、国内のアメフト界隈にヒル魔の存在は知れ渡ることになる。
そうした"名声"に甘えることもなく、ヒル魔は地道にアメフト連盟の主催するクリニックやコンバインにも参加した。毎年のように。そして連盟の関係者やエージェント、マネジメント会社などとパイプを作った。
様々なアメフト関連の催し物。特にコンバインの目的は主催側からすれば選手の適性検査と人材の発掘だ。また選手にとってはおのれをアピールする重要なチャンスである。
4年時に参加したコンバイン。その結果として連盟からの推薦を受けて、ヒル魔は海を渡ることになった。
グローバルな観点からすればこの国は多数のアメフト関係者にとって"辺境"だ。推薦されたとは言え将来の成功を約束されたわけでは決してない。
それでもヒル魔は彼の国のプロリーグに挑戦することを選んだ。卒業式の翌日、見送るムサシや友人たちの前からじゃあなと出かけて行った。手荷物検査口へ消えていく黒い背中。黙って見送ったことがムサシの記憶にある。
空港から帰宅すると、ふたりで暮らしたマンションの部屋は何だかいつもより広いように感じた。ほっと一息ついて、コーヒーでも淹れようと思った。
台所にはいつものマグカップ。白いのと茶色いの。
白い方に注いだコーヒーは少し味気なかった。
出立した時と同じように身軽にヒル魔は帰国した。ちょうど5年後のことだ。案外早かったなとムサシは思った。ヒル魔はヒル魔で思うところは山ほどあったのだろうが、ムサシはそんなことを根掘り葉掘り聞き出すような性分ではない。ただこれからどうするんだとは少し思った。
ムサシの思いは杞憂だったようだ。帰国したヒル魔にはあちこちからオファーがあった。戻ってからしばらくはその整理に飛び回っていたようだ。そしてあまたの誘いを断って結局は古巣の──ウィザーズの──オフェンスコーディネーターを務めることになった。黙って見ていたムサシはややほっとした。5年間の渡航生活。色々な思いも疲労もあるだろう。とにかく、恋人の暮らしが一刻も早く落ち着けばいい。そんな風に思っていたからだ。
冬から春へ。太陽の照りつける夏。日差しが柔らぐ秋。そしてまた冬。ムサシとヒル魔の周りで季節はめぐる。ムサシは家業とバベルズの運営に精を出し、ヒル魔もまたチームと教え子の指導に、そしてアメフト界のために駆けめぐる。
ウィザーズのヘッドコーチに。そうヒル魔が大学から請われたのは帰国して数年後のことだった。そしてヒル魔はそれを受けた。名だたる名門チームの最高指導者。界隈では異例の若さで抜擢されたわけだ。責任は重大だ、だがムサシの恋人はそれをプレッシャーに思うような性格ではない。現役の頃、そして米国帰りのコーディネーターとしてチームに貢献してきたこと。それが認められたのだろうことを恋人のためにムサシは喜んだ。
気がつけばムサシもヒル魔も三十路だ。恋人のこと、おのれのこと。ふと先を考えることも増えてきた。そしてそうするたびに懸念のようなものも湧く。
ヒル魔がおのれのもとへ戻った頃。その頃からムサシにはちらほらと縁談が舞い込んでくるようになっていた。無論ムサシには受ける気はないからその度に断りを入れる。まだ自分は半人前だ、仕事で精一杯だ。
そんな言い訳も次第に苦しくなってくる。大工の修行は一般的に約10年と言われる。高校を卒業して家業を継いで、若棟梁としての立場も実績もそれなりに育んで。ならばそろそろ身を固めるということもちっとも不自然ではないのだ。何が気に入らないの、と率直に母に聞かれたこともある。
縁談が降ってきて、それを断るたびにムサシは思う。というより、実感するようになってきた。人生を共に歩むパートナー、それはムサシにとってヒル魔のことだと。記憶に鮮やかな泥門の卒業式。桜の下での告白。そして一緒に暮らし初めて。
春夏秋冬、季節はめぐる。月日も矢のように経ってしまった。その中で、何ということもない当たり前の暮らしに自分は甘えていたのかもしれないと思う。おのれの気持ち。いつか恋人にきちんと告げなければならない。いや、そうしたい。そういう思いが押し寄せる。
──ヒル魔
我ながらうまくないと思ったが、ムサシが意を決めたのはある夜。台所で恋人がコーヒーを淹れているところだった。
調理台に置かれたいつものマグカップ。白いのと茶色いの。コーヒーメーカーのガラス瓶を手に立っているヒル魔。
声をかけると、あ? と恋人は答えた。いつも通り、無造作に。
──あのな
唾を飲み込む。言葉がうまく出てこない。
ヒル魔は不審に思ったようだ。ガラスのポットを持ったまま、何だよと怪訝そうな声。
──俺はな
──あ?
──その……、お前と一緒にいたいと思う
──…………
──この先もずっと。お前と一緒に生きたい、そう思う
──だから何だよ
──いや……何ってわけでもねえが
熱そうなコーヒーをカップに注いで、ヒル魔はガラス瓶を置いた。にやりと笑みを見せる。歩いてきた。台所の入り口に立つムサシの目の前に。
──いまさら何言ってんだ? テメーは
肩に恋人の腕がかかる。
ゆっくりとヒル魔は身を寄せてきた。
軽いキス。
閉じたまぶたを開けるとヒル魔の瞳。切長の目には悪戯な色。
──糞ジジイ
──……?
──一蓮托生って知ってっか
──ああ
──テメーと俺はそういうこった
──……そうか
──ケケケ
こつんと額を突き合わせる。そうしながら何とも言えないおかしさがムサシの胸にやってきた。笑みを浮かべたらヒル魔も同じようにした。しばらく笑いあって、ふたりでコーヒーを飲んだ。
それから少し話しあって家を出て、車に乗り込んだ。
ムサシの実家へ向かうため。
何となく汗をかくような思いで父母と向き合う。用件を話すとまず母がそうなのと言った。ムサシよりよほど落ち着き払って、平然と。父も動揺などしなかった。苦虫を噛み潰すような顔をするかとムサシは予想していたのだが。少し黙っていたあと、しっかりやれと言っただけだ。翌日会ったヒル魔の父も同じだった。
肩すかしというのも変だが、ムサシはそんな妙な気持ちに襲われた。無論、大いにほっとしたことはほっとしたのだが。何でもやってみないと分からねえもんだな。もしかしたら自分は考えすぎて構えてしまっていたのかもしれない。そんな風に思った。
親に話したあとはさっそく栗田に一報を入れた。驚くかもしれないが、と前置きして。
ヒル魔と生きていくことにした、そう送ったLINE。どういうわけか間髪を入れず栗田からはスタンプが来た。愛らしい熊のイラスト。顔いっぱいに笑っている。上には丸文字で「おめでとう!」と。ここでもムサシはどこか当てが外れたような妙な思いを味わった。こうだったと話したらヒル魔は何も言わず笑った。
恋人は──ヒル魔は飄々としている。以前から、そしてムサシとの"先"が決まってからも。
歳を取っても本当にこいつは変わらねえな。そう恋人をムサシは眺めた。少し新鮮な思いで。
5年間の海外生活を経てヒル魔はクリーツを脱いだ。切り替えの速さは得意技だ。現役時代、そして海外での経験。そういうものをこれからは指導のために生かそうと決意した。
帰るぞと連絡したら恋人は分かったと答えた。あっさりと。そういうムサシを、やっぱりこいつはいい男だなとヒル魔は思ったものだ。スマホの画面を眺めながら。
ついでだと思って父にも帰国を知らせた。案外早く来た返事は一言、奇しくも恋人と同じ言葉だった。
幼少の頃、ヒル魔は母を亡くした。父とぎくしゃくするようになったのはそれからだ。おもに母の看護に関する事情が理由だった。
一時は父だなどと呼びたくないとも思い詰めていた。だから中学で家を出たのだ。支配人を脅すことでホテルの一室での暮らしを長く続けた。そこを出たのは泥門の卒業後だからずいぶん長いこと独りでいたようだ。
ただムサシと暮らし始めて、さらにその後海外での生活を続け、おのれのまなざしが変化したようだとヒル魔は感じた。父もつらかっただろう。そんな、今までにない気持ちがきざしたのだ。
そういう変化は恋人──武蔵厳、ムサシという男──に対しても生じた。
出会って間もなく、中学の頃からヒル魔はムサシを好きだった。一途に恋慕の情を抱いていた。高校を出るときに想いが通じあい、同棲を始めた。
何かヒル魔は勝ち誇るような気持ちだった。長く想い続けていた男。その男をついに自分は手に入れたのだ。好きで好きでたまらなかった男。ヒル魔の好きなムサシのまなざし、それはもう自分のものだ。
激しくぶつける。ムサシに対するおのれの愛情をヒル魔はそのように動かした。ヒル魔がいなくとも独りで生きていける、ムサシは自立した一人の男だ。束縛しようなどとは思わない、第一おのれとてそんなことをされるのは我慢ならない。恋は成就した。ふたりでいられたらそれでいい。そんな風に考えていた。
自分の気持ちが良い意味で静まったなと感じたのは渡航生活の中のことだった。ヒル魔は月を眺め、月もまたヒル魔を見ていた。恋しい唯一無二の存在と離れて暮らすヒル魔を。
静かな月を眺めながら考えたこと。ヒル魔の中に芽生え、次第に確固たる存在になった思い。
何があってもムサシと離れたくはない。それはそんな気持ちだった。あいつは今頃どうしているだろう。怪我や病気をしていないだろうか、家のことは、チームはうまくやっているだろうか。
ムサシを思うとおのれの胸を訪れるあたたかさ。それはむろん愛でもあるし、言ってみれば感謝のようなものでもあるようだ。そういう自分の中の気持ちを少し新鮮な思いでヒル魔は迎えた。
もしも恋人が苦難を感じていたら助けてやりたい。寄り添い、心からいたわってやりたい。この先どう生きるかまだ分からない。ただ自分に分かっているのはたった一つ、ムサシという男に対する愛だけだ。
ムサシを大切に思う気持ち。それを自分は捧げたい。情動としてぶつけるのとは違う、文字通り「捧げる」ということをしたい。そんな生き方をしたい。
我ながら不思議だと思ったが、おのれの愛ばかりでなくムサシの自分に対する愛情も、ヒル魔は少しも疑う気にはならなかった。きっと、どこまでもあの男と自分は一緒に歩いていくのだろう。肩を並べて、一緒に。ぎゃあぎゃあと騒々しくも賑やかに。
月を眺めながらそう思うと、ヒル魔の頬には微笑が浮かんだ。異国ですらよく回ると評された舌、よく切れると呆れられた頭脳。本当にまるで悪魔みたいだ。ヒル魔をそう表現したある男は付き合ってみたら同性のパートナーと暮らしていた。周りからも認められて。なるほどとヒル魔は思った。まあ男どうしだから色々とあるだろうが、こういう生き方も悪くねえ。
──どうすっかな
思案するような思いも胸にはやってきた。どうするもこうするも自分の気持ちは決まっているのだが、問題はムサシだ。あの男には自分のような覚悟は決まってるんだろうか。
どこまでもムサシとともに歩いていく姿。それがヒル魔の目にはまざまざと見える。ただふたりの先々ということになると少しは話しあわないといけないだろう。
帰国したヒル魔を淡々とムサシは迎えた。飄々としているような、落ち着き払ったような。大丈夫かこいつは。それにしても何て切り出せばいいもんかな。まあそのうちちゃんと考えりゃいいか。
そんな風に思いながら暮らしていたら何とムサシから本題に迫ってきた。親に自分たちのことを話そうと。いいぞとヒル魔は答えた。
そしてふたりで車に乗った。
ムサシの実家に向かうため。
それは冴え冴えと綺麗な月夜だった。
空気までが澄んでいるようだ。
そんな風に感じながらヒル魔は前を見据えていた。
車を操るムサシとともに。
よく晴れた日だ。だが西風が強く吹き荒れる。その日はそんな日だった。
横断歩道の手前でヒル魔は立ち止まった。目の前の信号は赤。隣のムサシも並んで立ち止まった。何となく信号と待ち時間を示すランプに目を向ける。
ほこりっぽい春の風。後方からどっと吹きつける。むずりと鼻が動いて、派手にくしゃみが出た。
「びえっくしょい!」
人差し指で鼻をこする。
するとムサシが動いた。ヒル魔の後ろに立つように。
「?」
少し疑問を感じた。わざとのように背後に立つ恋人。
振り返って尋ねた。どうした、と。
とぼけたような声音でムサシは答えた。
「風よけ」
一瞬、どういうことか分からなかった。そのあとに来た思い。何だか苦笑が湧くような気持ちだ。
好きにしろ、と思った。視線を前に戻す。
やがて信号が青に変わった。
隣に恋人が戻って、再び並んで歩き始めた。
風に運ばれて来たのか、ちらりと目に入ったものがある。桜の花びらだ。
特に気にもしないで歩を運んだ。
時々ヒル魔は思い出す。この時の、苦笑が湧くような思い。
もう少し別の気持ちを感じたのはずっとあとの話だ。
**********
俺ァ
関東にその名を馳せる最京大学のアメフトチーム、ウィザーズ。その一番手QBとしてヒル魔は大学生活を過ごした。著名な強豪の司令塔。自然、国内のアメフト界隈にヒル魔の存在は知れ渡ることになる。
そうした"名声"に甘えることもなく、ヒル魔は地道にアメフト連盟の主催するクリニックやコンバインにも参加した。毎年のように。そして連盟の関係者やエージェント、マネジメント会社などとパイプを作った。
様々なアメフト関連の催し物。特にコンバインの目的は主催側からすれば選手の適性検査と人材の発掘だ。また選手にとってはおのれをアピールする重要なチャンスである。
4年時に参加したコンバイン。その結果として連盟からの推薦を受けて、ヒル魔は海を渡ることになった。
グローバルな観点からすればこの国は多数のアメフト関係者にとって"辺境"だ。推薦されたとは言え将来の成功を約束されたわけでは決してない。
それでもヒル魔は彼の国のプロリーグに挑戦することを選んだ。卒業式の翌日、見送るムサシや友人たちの前からじゃあなと出かけて行った。手荷物検査口へ消えていく黒い背中。黙って見送ったことがムサシの記憶にある。
空港から帰宅すると、ふたりで暮らしたマンションの部屋は何だかいつもより広いように感じた。ほっと一息ついて、コーヒーでも淹れようと思った。
台所にはいつものマグカップ。白いのと茶色いの。
白い方に注いだコーヒーは少し味気なかった。
出立した時と同じように身軽にヒル魔は帰国した。ちょうど5年後のことだ。案外早かったなとムサシは思った。ヒル魔はヒル魔で思うところは山ほどあったのだろうが、ムサシはそんなことを根掘り葉掘り聞き出すような性分ではない。ただこれからどうするんだとは少し思った。
ムサシの思いは杞憂だったようだ。帰国したヒル魔にはあちこちからオファーがあった。戻ってからしばらくはその整理に飛び回っていたようだ。そしてあまたの誘いを断って結局は古巣の──ウィザーズの──オフェンスコーディネーターを務めることになった。黙って見ていたムサシはややほっとした。5年間の渡航生活。色々な思いも疲労もあるだろう。とにかく、恋人の暮らしが一刻も早く落ち着けばいい。そんな風に思っていたからだ。
冬から春へ。太陽の照りつける夏。日差しが柔らぐ秋。そしてまた冬。ムサシとヒル魔の周りで季節はめぐる。ムサシは家業とバベルズの運営に精を出し、ヒル魔もまたチームと教え子の指導に、そしてアメフト界のために駆けめぐる。
ウィザーズのヘッドコーチに。そうヒル魔が大学から請われたのは帰国して数年後のことだった。そしてヒル魔はそれを受けた。名だたる名門チームの最高指導者。界隈では異例の若さで抜擢されたわけだ。責任は重大だ、だがムサシの恋人はそれをプレッシャーに思うような性格ではない。現役の頃、そして米国帰りのコーディネーターとしてチームに貢献してきたこと。それが認められたのだろうことを恋人のためにムサシは喜んだ。
気がつけばムサシもヒル魔も三十路だ。恋人のこと、おのれのこと。ふと先を考えることも増えてきた。そしてそうするたびに懸念のようなものも湧く。
ヒル魔がおのれのもとへ戻った頃。その頃からムサシにはちらほらと縁談が舞い込んでくるようになっていた。無論ムサシには受ける気はないからその度に断りを入れる。まだ自分は半人前だ、仕事で精一杯だ。
そんな言い訳も次第に苦しくなってくる。大工の修行は一般的に約10年と言われる。高校を卒業して家業を継いで、若棟梁としての立場も実績もそれなりに育んで。ならばそろそろ身を固めるということもちっとも不自然ではないのだ。何が気に入らないの、と率直に母に聞かれたこともある。
縁談が降ってきて、それを断るたびにムサシは思う。というより、実感するようになってきた。人生を共に歩むパートナー、それはムサシにとってヒル魔のことだと。記憶に鮮やかな泥門の卒業式。桜の下での告白。そして一緒に暮らし初めて。
春夏秋冬、季節はめぐる。月日も矢のように経ってしまった。その中で、何ということもない当たり前の暮らしに自分は甘えていたのかもしれないと思う。おのれの気持ち。いつか恋人にきちんと告げなければならない。いや、そうしたい。そういう思いが押し寄せる。
──ヒル魔
我ながらうまくないと思ったが、ムサシが意を決めたのはある夜。台所で恋人がコーヒーを淹れているところだった。
調理台に置かれたいつものマグカップ。白いのと茶色いの。コーヒーメーカーのガラス瓶を手に立っているヒル魔。
声をかけると、あ? と恋人は答えた。いつも通り、無造作に。
──あのな
唾を飲み込む。言葉がうまく出てこない。
ヒル魔は不審に思ったようだ。ガラスのポットを持ったまま、何だよと怪訝そうな声。
──俺はな
──あ?
──その……、お前と一緒にいたいと思う
──…………
──この先もずっと。お前と一緒に生きたい、そう思う
──だから何だよ
──いや……何ってわけでもねえが
熱そうなコーヒーをカップに注いで、ヒル魔はガラス瓶を置いた。にやりと笑みを見せる。歩いてきた。台所の入り口に立つムサシの目の前に。
──いまさら何言ってんだ? テメーは
肩に恋人の腕がかかる。
ゆっくりとヒル魔は身を寄せてきた。
軽いキス。
閉じたまぶたを開けるとヒル魔の瞳。切長の目には悪戯な色。
──糞ジジイ
──……?
──一蓮托生って知ってっか
──ああ
──テメーと俺はそういうこった
──……そうか
──ケケケ
こつんと額を突き合わせる。そうしながら何とも言えないおかしさがムサシの胸にやってきた。笑みを浮かべたらヒル魔も同じようにした。しばらく笑いあって、ふたりでコーヒーを飲んだ。
それから少し話しあって家を出て、車に乗り込んだ。
ムサシの実家へ向かうため。
何となく汗をかくような思いで父母と向き合う。用件を話すとまず母がそうなのと言った。ムサシよりよほど落ち着き払って、平然と。父も動揺などしなかった。苦虫を噛み潰すような顔をするかとムサシは予想していたのだが。少し黙っていたあと、しっかりやれと言っただけだ。翌日会ったヒル魔の父も同じだった。
肩すかしというのも変だが、ムサシはそんな妙な気持ちに襲われた。無論、大いにほっとしたことはほっとしたのだが。何でもやってみないと分からねえもんだな。もしかしたら自分は考えすぎて構えてしまっていたのかもしれない。そんな風に思った。
親に話したあとはさっそく栗田に一報を入れた。驚くかもしれないが、と前置きして。
ヒル魔と生きていくことにした、そう送ったLINE。どういうわけか間髪を入れず栗田からはスタンプが来た。愛らしい熊のイラスト。顔いっぱいに笑っている。上には丸文字で「おめでとう!」と。ここでもムサシはどこか当てが外れたような妙な思いを味わった。こうだったと話したらヒル魔は何も言わず笑った。
恋人は──ヒル魔は飄々としている。以前から、そしてムサシとの"先"が決まってからも。
歳を取っても本当にこいつは変わらねえな。そう恋人をムサシは眺めた。少し新鮮な思いで。
5年間の海外生活を経てヒル魔はクリーツを脱いだ。切り替えの速さは得意技だ。現役時代、そして海外での経験。そういうものをこれからは指導のために生かそうと決意した。
帰るぞと連絡したら恋人は分かったと答えた。あっさりと。そういうムサシを、やっぱりこいつはいい男だなとヒル魔は思ったものだ。スマホの画面を眺めながら。
ついでだと思って父にも帰国を知らせた。案外早く来た返事は一言、奇しくも恋人と同じ言葉だった。
幼少の頃、ヒル魔は母を亡くした。父とぎくしゃくするようになったのはそれからだ。おもに母の看護に関する事情が理由だった。
一時は父だなどと呼びたくないとも思い詰めていた。だから中学で家を出たのだ。支配人を脅すことでホテルの一室での暮らしを長く続けた。そこを出たのは泥門の卒業後だからずいぶん長いこと独りでいたようだ。
ただムサシと暮らし始めて、さらにその後海外での生活を続け、おのれのまなざしが変化したようだとヒル魔は感じた。父もつらかっただろう。そんな、今までにない気持ちがきざしたのだ。
そういう変化は恋人──武蔵厳、ムサシという男──に対しても生じた。
出会って間もなく、中学の頃からヒル魔はムサシを好きだった。一途に恋慕の情を抱いていた。高校を出るときに想いが通じあい、同棲を始めた。
何かヒル魔は勝ち誇るような気持ちだった。長く想い続けていた男。その男をついに自分は手に入れたのだ。好きで好きでたまらなかった男。ヒル魔の好きなムサシのまなざし、それはもう自分のものだ。
激しくぶつける。ムサシに対するおのれの愛情をヒル魔はそのように動かした。ヒル魔がいなくとも独りで生きていける、ムサシは自立した一人の男だ。束縛しようなどとは思わない、第一おのれとてそんなことをされるのは我慢ならない。恋は成就した。ふたりでいられたらそれでいい。そんな風に考えていた。
自分の気持ちが良い意味で静まったなと感じたのは渡航生活の中のことだった。ヒル魔は月を眺め、月もまたヒル魔を見ていた。恋しい唯一無二の存在と離れて暮らすヒル魔を。
静かな月を眺めながら考えたこと。ヒル魔の中に芽生え、次第に確固たる存在になった思い。
何があってもムサシと離れたくはない。それはそんな気持ちだった。あいつは今頃どうしているだろう。怪我や病気をしていないだろうか、家のことは、チームはうまくやっているだろうか。
ムサシを思うとおのれの胸を訪れるあたたかさ。それはむろん愛でもあるし、言ってみれば感謝のようなものでもあるようだ。そういう自分の中の気持ちを少し新鮮な思いでヒル魔は迎えた。
もしも恋人が苦難を感じていたら助けてやりたい。寄り添い、心からいたわってやりたい。この先どう生きるかまだ分からない。ただ自分に分かっているのはたった一つ、ムサシという男に対する愛だけだ。
ムサシを大切に思う気持ち。それを自分は捧げたい。情動としてぶつけるのとは違う、文字通り「捧げる」ということをしたい。そんな生き方をしたい。
我ながら不思議だと思ったが、おのれの愛ばかりでなくムサシの自分に対する愛情も、ヒル魔は少しも疑う気にはならなかった。きっと、どこまでもあの男と自分は一緒に歩いていくのだろう。肩を並べて、一緒に。ぎゃあぎゃあと騒々しくも賑やかに。
月を眺めながらそう思うと、ヒル魔の頬には微笑が浮かんだ。異国ですらよく回ると評された舌、よく切れると呆れられた頭脳。本当にまるで悪魔みたいだ。ヒル魔をそう表現したある男は付き合ってみたら同性のパートナーと暮らしていた。周りからも認められて。なるほどとヒル魔は思った。まあ男どうしだから色々とあるだろうが、こういう生き方も悪くねえ。
──どうすっかな
思案するような思いも胸にはやってきた。どうするもこうするも自分の気持ちは決まっているのだが、問題はムサシだ。あの男には自分のような覚悟は決まってるんだろうか。
どこまでもムサシとともに歩いていく姿。それがヒル魔の目にはまざまざと見える。ただふたりの先々ということになると少しは話しあわないといけないだろう。
帰国したヒル魔を淡々とムサシは迎えた。飄々としているような、落ち着き払ったような。大丈夫かこいつは。それにしても何て切り出せばいいもんかな。まあそのうちちゃんと考えりゃいいか。
そんな風に思いながら暮らしていたら何とムサシから本題に迫ってきた。親に自分たちのことを話そうと。いいぞとヒル魔は答えた。
そしてふたりで車に乗った。
ムサシの実家に向かうため。
それは冴え冴えと綺麗な月夜だった。
空気までが澄んでいるようだ。
そんな風に感じながらヒル魔は前を見据えていた。
車を操るムサシとともに。
晴れと月【END】
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