あるキッカーの日常

 ムサシはアマチュアフットボーラーである。泥門デビルバッツの、そして現在は武蔵工バベルズのキッカーを務めている。バベルズはムサシが高校を卒業したあとメンバーを集めて創設したクラブチームだ。発起人であるから代表を任せられている。
 大学への進学はせず、ムサシは高卒で家業を継いだ。病身の父を放ってはおけないという気持ちも無論あった、だが何より生家の武蔵工務店を背負って立つことは幼い頃からの夢だったからだ。
 チームメイトからも、家族や従業員からも頼りにされている。そんな立場がムサシは嫌いではない。むしろおのれを奮起させてくれるものだと考えている。ついでに恋人のヒル魔とはもう長く一緒に暮らしており、その仲はありていに言って熱々である。概ね自分の暮らしはうまく行っているとムサシは思う。自分は恵まれている、励まなければ、と。
 年明けすぐのライスボウルが終わり、アメフトはこれからオフ期に入る。目標としている大試合に今年も出場は叶わなかった。だが社会人リーグの中でバベルズは少しずつでもその存在感を増している。体を休めつつ、気力体力を充実させるように。そんな話を納会でしてきたばかりである。
 シーズン中は毎週末に行われるチーム練習。オフシーズンは各メンバーがそれぞれの方法で自主トレに励む。ムサシも今日の午前中、近所のジムで汗を流してきた。シャワーを浴びてさっぱりとした心持ちでマンションに帰る。
 玄関で靴を脱ぎ、廊下に入ると恋人の部屋から声がした。おかえり、と。出てくる様子はない。仕事でもしているのだろう。ただいまと返事をしてムサシは洗面所に向かった。
 仕事とアメフト。いずれにとっても自分の体は資本のようなものだ。うっかり風邪を引いて体調を崩すようなことがあってはならない。がらがらと丁寧にうがいをして、手を洗う。それからジムで使ったTシャツやらタオルやらをバッグから取り出した。
 かごに入っていた洗濯物と一緒に洗濯機に放り込む。スイッチボタンを押して、洗剤と柔軟剤の量を確認して入れる。蓋を閉めると同時に水栓が開く音がした。
 さて、とムサシは思った。昼飯は帰り道で軽く済ませてきた。あと午後はゆっくりするだけだ。あれを読まなければ。
 家業に必要な書籍類を除いて、ムサシはそう読書量が多い方ではない。ただたまさかの息抜きにミステリ小説を読むことがある。今まさに読みかけのそれがリビングのテーブルに置いてあるのだ。執筆量が並外れている人気作家の作品で、どんなものかと好奇心で手にしてみたらやはり面白かった。
 洗濯機の前。くつろいだトレーナー姿でううーんと大きく伸びをした。ヒル魔は部屋からいつ出てくるか分からないし、しばらく一人だ。ゆっくり本を楽しもう。
 洗面所から続く台所に入った。冷蔵庫を開けて緑茶のペットボトルを取り出す。居間にはテレビ、ローテーブルにソファ。そのソファにどっかり腰を落ち着けた。

 読みかけのページを開いて間もなく、作者の作り出す世界にムサシは引き込まれた。ただのミステリではなくアクションシーンが凄まじい。真冬の豪雪地帯、その山中に位置する巨大ダムが舞台だ。主人公はたった一人でそこに仕掛けられた爆弾とその犯人に立ち向かう。猛吹雪の中を。外部との連絡はいつ途切れるか分からない無線だけ。雑音に混じりかろうじて聞こえる味方の声。そのやり取りですら手に汗握る緊迫感と臨場感。
 確かこれは映画化もされていたはずだ。そんな記憶がちらとやってくる。あとで調べてみよう、ただ今はとにかく目が離せない。少しでも先へ読み進めたい。そんな気持ちでページをめくる手にも思わず力が入る。
 洗面所の方から洗濯機の終了音が聞こえた。すると恋人が部屋から出てくる気配。良かった、と思った。悪いが干すのは任せてしまっていいだろうか。
 ムサシが腰を据えているソファは居間のテレビ寄りにある。居間と廊下を分け隔てるドアはその斜め後ろ。ムサシの視界からは見えない。そのドアが開く音がした。
 ぎくり。
 ページをめくる手が止まった。
 後ろに恋人がいることをムサシの嗅覚は鋭敏にとらえた。だがいつもと様子が違う。
 禍々しい気配。
 何か黒いオーラが近づいてくる。
 恋人の声。

「む」

「さ」

「し」

「♡」

 ムサシは本を放り出した。
 膝に手を置いてかしこまる。
「はい」
「ほお。返事はいいな」
 不気味ににこやかな声。
 ヒル魔がムサシの前に来た。何か持っている。洗濯物のようだ、黒のおそらくはTシャツ。
 しまった、とムサシは思った。
「ちょっとこれを見ろ、糞ジジイ」
「はい」
 恋人は洗濯物のある部分をムサシの鼻先に突きつける。
「どんな有様か分かるか?」
 ヒル魔の声はあくまでも優しい。洒落でも何でもなく悪魔のように。満足しきった、悦に入ったような上機嫌な声。
 ムサシは唾を飲み込んだ。じわりと額に汗。
「……はい」
 目の前の黒い上衣。ムサシの恋人が好んで身につける黒色の。
 その衣服がびっしりと細かい塵のようなものにまみれている。どうしてこんなことになったのか、すでにムサシは悟っている。先ほどの洗濯の際、ポケットからティッシュを抜き忘れたからだ。いつも履いている普段着のパンツ。尻のポケットには小型のティッシュをムサシは入れている。洗濯機に放り込む時にうっかり出すのを忘れた。恋人が手にしているものも、おそらくは他のものも今頃は塵まみれだろう。ヒル魔の怒りも尤もだ。
「テメーこれで何度目だ? あ?」
 優しいが底しれぬ恐ろしさを秘めた声。そんな声で恋人はムサシに問いかける。
「……、ご……」
「あん?」
「……ご、5回目……です」
「そうかそうか、数も数えられるんだなテメーは」
 ムサシはヒル魔の顔を見ることができない。ちぢみあがる。背筋にぞくぞくと悪寒。
 ヒル魔の声。
「あれだけ言っといたにも関わらずだ」
「……はい」
「返事もできる、数も数えられる。でもたかがほんの一手間だ。ポケットを見るっつう、ほんの一手間がかけられねえってのはどういうことだ?」
「……はい」
「どうやら口で言ってもテメーには分からねえようだな」
「いや、あの、それは」
 思わず顔を上げるとヒル魔と目が合った。うわ、とムサシは反射的に首をすくめる。
「いや、じゃねえ。あの、でもねえ。口がダメなら体で覚えさせるしかねえな」
「…………」
 一瞬だけ迷った。だが考えるより先に体が動いた。だっとムサシは逃げ出した、玄関の方向へ。
「逃げンな糞ジジイ!」
 馬鹿なことをしたと気づいたのはドアに背中をつけて追い詰められてからだ。これではもう逃げ場がないではないか。家の外に飛び出したらこの寒い中閉め出されるに決まっている、それは避けたい。何とか、この目の前の恋人をなだめる手段はないものか。
「待ってくれヒル魔、悪かった。洗い直すから」
「たりめーだ」
 ヒル魔は笑顔だ。耳元近くまで裂ける悪魔笑い、でも爛々と光る目はこれっぽっちも笑っていない。額には青筋。心底ムサシは震え上がる。
「洗い直しなんてのは当然テメーの仕事だ。俺の仕事は別にある」
 にじり寄るヒル魔。じりじりとムサシに迫る。
「どんな仕事か分かるか? 糞ダーリン」
「いや、えと……」
「どうした。言えねえのか?」
「……、……」
「そんならテメーの代わりに言ってやる。俺様はヤサシイからな」
「ひ、ひるま」
「俺の仕事。──それはな」
 くわッとヒル魔の口が開く。
「物覚えの悪ィテメーみてェな男に体で覚えさせるってことだ!」
 ──万事休す
 ムサシは観念の眼を閉じた。



 イッツ・ショータイム。



 **********



 ばたん。
 ソファに倒れ込むと自分からそういう音が出たような気がした。
 はあ、はあ。息も絶え絶えの様子でムサシは転がる。ほうほうの体で。目には青あざ、頬には引っ掻き傷。
 落ち度は自分にあるのだから抵抗できない。それをいいことに恋人から好き放題の責め苦を食らった。十字固めに手固め、腕緘うでがらみ。卍固め。せめて脚は許してくれと懇願しその願いは聞き届けられたものの、上半身に数々の関節技を決められてなすすべもなく苦しんだ。ばんばん床を叩いてもヒル魔は斟酌してくれなかった。自業自得とは言え、ちょっとこれは酷すぎるんじゃないだろうか。らしくもなくそんな恨めしい気持ちも湧いてしまう。
 関節技だけでは飽き足らず、しまいにヒル魔はどこに隠し持っていたのか鞭と蝋燭まで取り出してきた。そういう趣味はあいにくムサシにはない。悪かったと心から頭を下げて、ようやく解放されたのだ。
 満身創痍とはよく言うが今の自分がそうなのだな。脱力しきって寝そべった姿でムサシは思う。それにしてもあの拷問具はなんだ。あいつ、どこでどうやって使うつもりだったんだ。
 読みかけの、楽しみだったミステリ小説。床に投げ出されたそれがちらりと目に入った。ついさっきまでは没頭してたんだが、俺は。
「おい、糞ジジイ」
「あ?」
 物騒なものを片付けたらしい恋人がまたムサシのもとへやってきた。へばっているムサシの前で仁王立ちする。
「洗濯は後回しだ。俺は決めた」
「あ?」
「俺は決めた」
「何を」
「結婚する」
「……は?」
「決めたからな。結婚する」
「だ、誰が」
「俺がだ、アホ」
「誰と」
「テメーとに決まってンだろアホ」
「……?」
 ぽかんとムサシの口が開く。
 ヒル魔は仁王立ちのままだ。人差し指をムサシに突きつける。
「テメーみたいな粗忽者は独りで置いとくとロクなことがねえ。この俺様が結婚して末長く面倒見てやるからありがたく思え」
「え」
「馬鹿みてェに口開けてンな、閉じろ」
「あ、はあ」
 おとなしくムサシは口を閉じた。何だか混乱する。情報量が脳内で処理しきれない。
「ええと……、あのな、ヒル魔」
「なんだ」
 起き上がってきちんと座位の姿勢を取る。何とか、形勢を立て直さなくては。
「け、結婚……って言ったよな今」
「そうだ。テメー車出せ」
「? なんで」
「挨拶しに行くからだ、決まってンだろ」
「誰に」
「親父さんとお袋さんだ、テメーの」
「ああ……」
 そうか、ついに俺も結婚するのか。頭の隅でムサシは考える。何となく角隠しを身につけた恋人の姿が浮かんだ。女装は趣味ではないがこいつが着たら綺麗かもしれない。いや別に女装させる必要もないわけだが、やはり角隠しというのはその言葉通りこいつがつけるんだろうか。
「ぼーっとしてんじゃねえ、オラ行くぞ」
 げし、と脛を蹴られて我に返った。
「い、いやちょっと待ってくれヒル魔」
「何だよ」
「お、お前とそういうことになるのはやぶさかじゃない。だけどな」
「だから何だよ」
「あの……、その、こういうことはまずお前の親父さんとこに行くのが筋じゃないか」
「何で」
 ヒル魔は心底怪訝そうな顔をする。
「いや、だってあの」
「何を心配してンだか知らねえが俺の親父ならとっくに知ってるぞ」
「……は?」
「だから知ってるっつの。俺らのことなら」
「お、お前話したのか」
「いや別に」
「じゃなんで知ってるんだ」
「知らね。武蔵くんと幸せになとか言ってたから知ってンじゃね」
「…………」
 何だかあんぐりとまた口が開いてしまった。そうムサシは自覚する。大体、それはどうとでも取れるせりふなんじゃないだろうか。それにとにかく、ムサシのかねてからの考えではふたり揃ってヒル魔の父のところへ行くはずだった。ヒル魔の家庭は父一人子一人だ。母はすでに亡いという。揃って父のもとに挨拶に赴き、母の仏前で粛々とふたりの縁を報告し、誓う。そんなふうに自分は思っていたのだが。
「そういうわけで俺の親父のことなら心配は要らねえ。あとはテメーんちだ、それ行くぞ」
 せきたてるように口にするヒル魔。ぼうっとしているムサシを置いて早くも出かける素振りを見せる。
「ま、待ってくれヒル魔」
「まだなんかあンのかよ」
「お、俺のうちに行くのはいいが、いきなり行くのもどうかと思う。第一、親父もお袋もうちにいるかどうか」
「さっきお袋さんからLINE来た。うちでのんびりしてます、とさ」
「あ……そうデスカ……」
 いつの間に俺のお袋と。でもそう言えばこいつは何だかお袋と仲がいいんだよな。
 ヒル魔はムサシの"親友"として子供の頃から武蔵工務店に出入りしている。いつごろからそうなったのかムサシには記憶がないが、気がついたらムサシの母とヒル魔は意気投合していた。最近母は携帯電話を機種変更してスマホを持つようになった。あっという間にLINEを始めて、ムサシがぼうっとしている間に息子より先にヒル魔と通話するようになった。ふたりでムサシの実家を訪れると決まって母がスマホの使い方を尋ねる。ムサシが返事をするとあんたの説明じゃ分かんないなどと言われてしまう。代わってヒル魔が丁寧に教えたりする場面もしょっちゅうだ。何だか額を突き合わせてきゃっきゃうふふしている姿を、ムサシは横で眺めていたりする。
 いやそんなことはどうでもいいとムサシは思い直した。それにしても心の準備というものが。俺にも、親にも。
「テメーなんか腑抜けてンな。もしかしてヤなのか」
「い、いやそんなことはない。だけどな、ヒル魔」
「しつけェな、何だよ」
「こ、こういうことは心の準備が必要なんじゃないかと俺は思う。うちの親にも、揃って行く前にまず俺が話して」
「親父さんになら話したぞ」
「……え」
 ヒル魔はけろりと言い放つ。
「こないだ酒飲ましてもらった時に。話した」
「で、で、それで何て。親父は」
「"孫の顔は見れないがそんなことはかまわない。息子あいつは至らないところもあるがそんなに悪いやつではないと思う。よろしく頼む"。確かそんなこと言われたぞ」
「…………」
 今度こそムサシは何も言えなくなった。開いた口がふさがらないというのはこのことだ。いやヒル魔と結婚することは幸せだしそれはかねてからのムサシの願いでもあった、でもまさかこんな風にことが運ぶとは。
 ど、どうしよう。すっかりヒル魔のペースに乗せられてしまった。幸せは幸せなのだろうが何だか気が抜けてしまったようだ。
「オラ立て。行くったら行くぞ」
 恋人にせっつかれてようやっと腰を上げた。呆然と家を出て呆然と駐車場に向かう。停めてある軽トラにふたりで乗り込む。ムサシが運転席、恋人は助手席。いつものように。
 どっかりとシートに身を預けたヒル魔。ムサシがベルトを締めるのを確認して、一言言い放った。
「出発」
 横柄なその口ぶりに無論ムサシは逆らえない。ぶるり、一度首を振った。しっかりしろ、運転だ、とおのれに言い聞かせる。
 差し込んだ鍵をひねる。エンジンの音、発進する軽トラ。
 ──はあ
 駐車場の出入り口から車は出た。外はよく晴れている。
 ハンドルを握るムサシの耳にかすかな音が響いたような気がした。荘厳な雅楽の調べだ。同時にうっすらとある光景が脳裏に浮かぶ。
 袴姿も凛々しい男。そのもとへしずしずと歩く白無垢の花嫁。うつむきがちの角隠し。
 その顔は。

 ──はあ

 おのれの胸のうちをぼそり、呟きたい。そんな気持ちがやってくる。
 ぼやくわけではないし恋人に聞かれて困るわけでもない。でもやっぱり心の中だけにしておこう。そうムサシは考えた。



 ──なんか俺、嫁入りするみたいだな……




【END】

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