走れ栗田

 ──これ、もうきついんだよなあ

 そう制服を思いながら栗田はせかせかと廊下を歩く。走ってはいけないという決まりだから急ぐには早足しかない。
 いわゆる学ラン。動くたびに腕や足の付け根が引き攣れる感覚があって窮屈だ。だがどうせもうすぐ卒業なのだから我慢しろと親に言われている。栗田本人もそれは仕方ないと思っている。
 早く教室に戻らなくちゃ。うっすらと額に汗を浮かべて思う。あのふたりを放っておくわけにはいかない。
 担任に呼ばれて一人で職員室に行ってきたところだ。どんな用かと思ったら慰められ、褒められた。神龍寺に進学することができなくなったのは残念だった、でもお前はよくやってる。模試の成績も上がってるぞ、がんばれ、と。
 褒められたのは素直に嬉しい。歩きながら喜びも栗田の胸にはやってくる。一時は相当落胆していた、ふたりの親友にも申し訳ないと自分を責める気持ちで一杯だった。
 でもきっぱりと栗田は自分を切り替えることにした。親からも、ふたりの親友にも励まされた。親友たちは自分のためにわざわざ志望校を変えてくれた。そういう大切な人たちのためにも、がんばらなくちゃ。そう奮起したのだ。
 その、ふたりの親友──ムサシとヒル魔。考えるだけで温かい思いがこみ上げる。アメフトという縁で結ばれたふたりの友。ヒル魔は校長にねじ込んで栗田を神龍寺高校への推薦枠に入れてくれた。思いもかけない横槍が入ったせいでそれは結局叶わなかった。落胆する栗田を、ヒル魔とそしてムサシがどれほど慰め、勇気づけ、励ましてくれたか。クリスマスボウルの夢。その夢を目指して前へ進むのだ、そう栗田の背中を押してくれたのはこのふたりの友である。
 がんばらなくちゃ。そのように思うと同時に深い感謝の気持ちを栗田は抱いた。デビルバッツというチームを3人でやっていくんだ、ムサシやヒル魔と一緒に。ラインマンとしてチームの役に立ちたい。ムサシやヒル魔を、今度は僕が助けるんだ。
 中3の冬をそのように栗田は過ごしていた。そして、そんな風に思いながらあらためて周囲を眺めると気がついたことがあった。
 ──早く戻らなくちゃ
 栗田の足はそれほど長くない。その足を懸命に動かして教室をめざす。あのふたりと来たら、そう思う。
 ──あのふたり、僕がいないと話もできないんだから
 毎日の勉強、部活。宿題、模試、そしてまた部活。栗田の日々は慌ただしい。なんか忙しいなと自分でも思う。でも今は張り切る気持ちで一杯だ。
 ──なんか国語の授業で習わなかったっけ
 なんだっけと考える。友達のために走る男の物語というのがあったような気がする。
 ──は、走れ…メ? メロ……
 いやそんなことどうでもいいやと思い直す。とにかくあのふたりをふたりだけで放っておくわけにはいかないのだ。
 ──ああ、忙しい忙しい
 逸る気持ちで休み時間の廊下を歩いていった。



 ムサシ、そしてヒル魔。栗田の大切なクラスメイト、チームメイト、そして親友だ。デビルバッツというアメフトチームを3人で始めて、高校アメフトの全国大会決勝という目標に向かって邁進している。知り合ったのは去年だった。中3への進級時にヒル魔が"暗躍"して、現在は同じクラス。いつも3人一緒に行動している。
 そのふたりの親友の様子が変だ。そう栗田が気づいたのは、自分の推薦問題にいわばけりがついた最近のことだった。
 どうしたんだろうと最初は思った。喧嘩でもしたのかな、と。ムサシはヒル魔の顔を見ようとしないしヒル魔もムサシと視線を合わせようとしない。
 いつも3人で一緒にいるから、ムサシもヒル魔も栗田とは普通に会話する。冗談を言って笑うこともある。それでも何かぎくしゃくとした雰囲気は否めない。おい糞ジジイ、などと呼びながらもヒル魔はあさっての方向を向いているし、何だと答えるムサシもそっぽを向いている。
 おかしいな、変だなという違和感。喧嘩したなら僕が取り持ってあげなきゃ、でもそういうのとはちょっと違うような気もする。
 表向きは何でもない振りをしながら、栗田は注意深くふたりの親友の様子を観察した。らしくもなく俯きがちのムサシ、らしくもなく黙りがちのヒル魔。
 模試の成績が返ってきて、3人で見せっこをする。見てみて、上がってるよ。そう喜んで栗田は親友たちの前に成績表を広げた。どれどれとふたりが覗きこむ。3人で頭を寄せあうような形で。
 ──おお、やったな
 口ではそう言いながらも何故だかムサシは居心地の悪そうな顔をした。人差し指でぽり、と頬を掻く。照れている時の癖だ。
 ──ケケケ、こんだけありゃ泥門なら平気だな
 ヒル魔はヒル魔でそんなせりふのあとに一瞬だけムサシを窺うような顔をした。唇を引き結ぶ。困った時のヒル魔の癖だ。

 ──うーーん……

 困ったなと内心栗田は思った。これはどういうことなんだろう。
 考えても考えても分からない。一人で思いにふける日々が続いた、だがそのあとにひらめいた。
 栗田が毎週買っている雑誌。少年漫画の週刊誌だ。アクションやらギャグやら様々な連載があって面白い。巻末の一話読み切り形式のギャグ漫画は特に面白くて、いつだったか3人で読んでいて涙を流して大笑いしたこともある。
 そういう大笑いが最近はないな、と少し寂しく思いながら自室でその週刊誌を広げていた。いつも中盤あたりに掲載されている、ある漫画。柔らかな絵柄で主人公の少年や周りの人々の暮らし、心理が丁寧に描かれている。
 ──ん?
 ふと栗田の目があるコマで止まった。
 主人公が同級生の少女と話している。少々やんちゃと言うか、活発な少女だ。その少女が、風邪を引いて寝込んでいた主人公を心配する言葉をかけた。
 大丈夫だよ、と答える主人公。よく見ると頬に赤み。どこか決まりの悪そうな顔。
 何だかどこかで見たことがあるような気がする。そう思った栗田の脳裏にふたりの親友の表情が浮かんだ。最近しばしば同じような顔をムサシがしている。何だか困ったような顔、でも決して嫌そうではない。ヒル魔もヒル魔で、悪魔めいた耳朶をこの主人公のように薄赤く染めていたりする。

 ──もしかして

 栗田は考えてみた。もしかして。いやもしかしなくてもそうなのではないか。あのふたりは、ひょっとして。
 もしもそうだとしたら。あのふたりがもしも惹かれあっているのなら僕はどうしたらいいだろう。
 こういうことは第三者が口を出すと碌なことがない。それくらいはうすうす栗田にも見当がつく。だがあのふたりはあのままでは何も進まないだろう。
 雑誌どころではなくなって栗田は考えた。僕の思い違いだろうか、いやそんなことはないと思う。なにしろ目を合わせるのすらあのふたりは難しいようだ。こうして考えてみるとあれは確かに、照れくさいような表情だ。一緒にいることは決して苦痛なのではない、だって休み時間にはふたりとも僕の周りに集まってくるのだから。そして3人で話す。何だか──何だか、僕に助けを求めてるみたいにぎくしゃくと。

 ──そうか

 栗田は決意した。自分がなんとかしようと。かけがえのないふたりの親友、彼らが想いあっているのなら是非ともくっつけなくちゃ。
 ではどうしたらいいだろう。自分もそうだがムサシもヒル魔も、言っては何だがこういうことに慣れていなさすぎる。下手なことをしてしまったら元も子もない。ちょっとこれはよく考えてみる必要がありそうだ。
 何だかどきどきするような。でも力こぶを作りたいような気持ち。そういう気持ちで栗田は色々と考えることを始めた。




 授業も休み時間も部活も一緒。帰り道も3人で。そんな栗田とヒル魔とムサシであるから実はどの組み合わせでも2人になるということはあまりない。あったとしてもごく短時間だ。その機会を栗田は窺った。

「ねえ、ムサシ」

 3人の志望校は揃って泥門高校だ。その泥門について何か知りたいことがあったらしく、担任をしばいてくると言ってヒル魔が職員室に行った。先生には気の毒だけどこれはチャンスだと栗田は思った。
 昼休みの教室。のんきにお喋り中のグループや、机に向かって自習しているクラスメートの姿もある。一番後ろの自分の席で、隣の親友に話しかけた。
「なんだ」
 ムサシは幼い頃から家業を手伝っている。栗田とはまた別の意味で中学生らしからぬ体格と貫禄だ。ゆったり体を背もたれに預けて、落ち着いた返事を寄越した。手には英語の問題集。
 少し身を寄せるようにして、栗田は声をひそめる。
「あのさ。──ムサシってヒル魔のこと好きだよね」
 ぴくり。
 ムサシの表情の変化を栗田は見逃さなかった。あくまでもムサシには正攻法で行こうと思っていた。ずばり、そのものを言おうと。
 ムサシは黙っている。日焼けした頬。その頬に徐々に血の気が上がる。ごまかされるかと思ったがそういうことはないようだ。
 少し黙っていたムサシがぎくしゃくと口を開いた。
「す、好き……って、どういう意味でだ」
「どういう意味もこういう意味もないよ。付き合いたいと思ってるよねヒル魔と」
「な、なッ……何をお前、──」
 今度こそムサシは真っ赤になった。しどろもどろとはこのことだなと栗田は思った。自分はムサシを直視している、でも同じことがムサシには出来ないようだ。視線はきょろきょろとあちこちをさまよう。らしくもなく口ごもるような上気した顔。
 自分の考えは間違っていなかったなと栗田は思った。それなら押せ押せだ。
「言われたくなかったならごめん。でもムサシがそういう気持ちでいるなら、行動した方がいいと思うよ」
「…………」
 ムサシは赤い顔を形ばかり広げた問題集に向けている。でもそんなもの見えていないだろうことは明白だ。
「最近、なんか変だと思ってたからさ。でもうじうじしてるなんてムサシらしくないよ」
「…………」
「自分の気持ちは素直に言わなくちゃ。きっといいことがあるよ」
 励ますように言葉をかける。するとムサシは実に──実に複雑そうな顔をした。
「自分の、気持ち……」
 独りごちるように呟く。栗田はここぞと重ねて言った。
「そうだよ、自分の気持ち。ちゃんと伝えてあげなよ、ヒル魔に」
「…………」
「ヒル魔だって分かってるよきっと。僕はそう思うよ」
「……そうかな」
「そうだよ、きっとそうだよ」
 親友の精悍な頬。その頬にあるためらい。そんなものを吹き飛ばそうと栗田は声をかける。
「もうすぐ卒業だよ。3人で泥門に行くんだよ。今みたいな……、なんか不自然な感じじゃ駄目だよ。ちゃんとヒル魔に言って、うまくいくようにしなくちゃ」
「…………」
「絶対うまくいくよ、僕が保証する。あとはムサシが行動するだけだよ」
「……そ、そうだろうか」
「そうだよ、決まってるよ」
 短く刈り込まれたムサシの髪。耳の上だけ寝癖がついていてぺしゃんこだ。それをいつも栗田は可愛いなと思っていて、今もそう考えているのだが無論そんなことはおくびにも出さない。
 考えに沈むようなムサシの横顔。口をつぐんで見守る。親友はやがて思い切ったように口にした。
「……言って、みるか」
「そうだよ、そうしなよ!」
「栗田」
「え?」
「……済まない」
「え、何が」
「なんか……お前にまで気を使わせて」
「いいんだよそんなこと。それより、ちゃんとヒル魔に」
「分かった。考えてみる」
「うん。──それでね、ムサシ」
「?」
 栗田は自分の耳の上を指差した。ちょっと注意しておこうと思った。
「それ。言う時はちゃんと直してね」
 戸惑ったようにムサシは自分の髪に手をやる。
「そこ、寝癖。そういうとこからまずちゃんとしてね」
「……そうか」
「どんな風に言うかはもちろん自由だけど、手伝った方がいいならいつでも手伝うよ。僕に出来ることがあったら何でも言ってくれていいよ」
「わ、分かった」
 よし、と心中で栗田は一息ついた。ムサシはどうにかなりそうだ。

 ──さて

 あとはもう一人の親友。うまくやらなくちゃ。



 数日後。
 体育館の裏に行くと、見慣れた金髪頭が背を向けてかがみ込んでいた。
 ふっといなくなったヒル魔。多分ここだろうなと栗田は考えた。ムサシは教室に残してきた。ちょっと僕が話をしてみるから、と言って。
「ヒル魔〜」
 しゃがんだ親友の前にはごつい首輪をつけた"愛犬"とその小屋。犬は勢いよく銀のボウルに鼻先を突っ込んでいる。がふがふ、そんな様子で餌をかっ食らう犬。
 ヒル魔はその犬をじっと見ているようだ。だが栗田は知っている。この友人は何か考えに沈むような時、餌やりのふりをしてこんな風にうつむいているということを。
「餌、やってたのかい」
 そう言いながら栗田もかがむ。ヒル魔は喉の奥で生返事をした。
 ぽかぽかと日差しが背中に優しい。少し風はあるがちょうどいい陽だまりで寒さはそれほど気にならない。
 ちらりと友人を窺う。犬を見つめているようで見ていない、うつむきがちの視線。
「──ねえ、ヒル魔」
「ん」
「あのさ」
「何だ」
「ムサシがさ。ヒル魔のこと気にしてるみたいだよ」
「…………」
 ヒル魔は返事をしない。だがその横顔にある緊張のようなものが走るのを栗田は見た。
「……どういうことだ」
「うん。だからね」
 子供をさとすような口ぶりで言う。嚼んで含めるように。
「きっとね。ムサシはヒル魔のことが好きなんだと思う」
「…………」
 ヒル魔は無言だ。だが息を飲む気配。顔を見られるのは恥ずかしいだろうなと思って栗田はわざと友人を見ないふりをした。
「な、何を……言い出しやがるんだテメーは」
 しどろもどろ。うろたえる。そんな風にヒル魔はやっと口にした。
「大体──す、好きってどういう意味でだ」
「うん。あのね」
「…………」
「特別、っていうことだよ。ムサシは僕のことも好きでいてくれてると思うけど、それとはまた別の気持ちをヒル魔に持ってると思う。きっとヒル魔のことをとても大切に思ってるんだよ」
 ごくりと唾を飲みこむ。そんなヒル魔の表情。
 そ、そんなこと──あるわけ……。
 必死に口にした言葉は語尾が消える。
 可愛いな、とここでも栗田は思った。無論口が裂けてもそんなことは言うつもりはない。
「間違ってたらごめんだけど、ヒル魔も同じ気持ちでいるんじゃないかなって。もしそうだとしたら、きっとうまくいくと思うよ」
「…………」
「最近、ふたりとも様子が変だなって思っててさ、僕。考えたらそういうことなんじゃないかって思った。きっと、ムサシもヒル魔の気持ちを分かってくれてると思うんだ」
 顔から耳朶までヒル魔は真っ赤だ。隠す気がないというより隠すことができないのだろう。これは相当思い詰めてるなと栗田は感じた。
「だからね。もしムサシが何か言ってきたらちゃんと聞いて、素直にした方がいいよ」
「……何をだ」
「え?」
 低い親友の言葉。聞き取ろうと栗田は少し耳を寄せた。
「い、言ってくる……って、何を」
 ぼそぼそと聞き取りづらいヒル魔の言葉。一瞬栗田の胸をかすめる思い。こんなヒル魔の顔、僕しか知らないだろうな。
 少し声を励まして告げる。
「何って、気持ちだよ」
「…………」
「ムサシがさ。もし自分の気持ちを伝えたいってなったらヒル魔も素直にならなきゃ」
「…………」
「そういう場面がこの先きっとあると思うんだ。元気出して、ヒル魔が素直になればきっといいことがあるよ」
 犬がたくましい鼻先を上げた。食い終わったらしい。フン、と荒く鼻息。目の前の二人から離れた。ごろりと横になる。
 その姿を目で追いながらヒル魔の様子を窺う。
 何とも複雑そうな友の横顔。
 校舎から鐘の音が聞こえた。いけない、と栗田は思った。授業だ。
「ヒル魔。そろそろ戻ろうよ、休み時間終わっちゃう」
「……分かった」
 立ち上がって制服のほこりを少し払った。いつもの悪口を封印したかのような風情のヒル魔。元気出して、と思わずまた口にした。
「行こう、ヒル魔」
 少し猫背気味の背中を軽く叩くようにした。痛ェぞなどという減らず口もヒル魔は忘れてしまったようだ。
 きっといいことがあるから。
 僕がついてるから。
 そんな思いで、栗田はヒル魔と校舎へ戻り始めた。


 **********


 ざわめく昼休みの教室。
 ムサシは先に行かせた。よし、と栗田は自分にも気合を入れる。いよいよだ。

「ヒル魔〜」

 教室の片隅で物思いにふける風の親友に声をかけた。努めてさりげない顔で。
 少し声をひそめる。
「あのね」
「何だ」
「ムサシが待ってるって。体育館の裏で」
「…………」
 ヒル魔は何とも言えないような顔をした。
「待ってる……って、なんで」
「何か用があるんだって。話したいって」
「…………」
「行ってきなよ、ほら早く」
 話って、とぼそり親友は呟く。
「俺には別にねえし」
「ヒル魔になくてもムサシにあるんだよ。早くしないと授業始まっちゃうよ」
「テメーが聞いて来ればいいじゃねえか」
 少しふてくされたようにヒル魔は口にする。
「ちゃんと聞いてきなよ。きっといいことがあるよ」
「ヤだ」
「は?」
「俺はヤだ。テメーが聞いてきてくれ」
「なに言ってんのさ」
 栗田は少し呆れた。行きたくてたまらないくせに。
「ムサシはヒル魔に用があるんだよ。自分の気持ちを話したいって」
「……自分の、きもち……、て……」
「そうだよ、気持ち。ちゃんと話、聞いてきなよ。でないと」
 最後のダメ押しだ。
「このままじゃチームだって駄目になるよ」
 途端に弾かれたような顔をヒル魔はした。
「……チームが」
「そう、僕たちのチームがさ。そんなことになったら悲しいよ。ヒル魔だって嫌でしょ」
「…………」
「ほら、立って」
 おずおずと立ち上がる親友。何だか体がうまい具合に動かないような様子だ。それでも耳朶を薄赤く染めて。
 行って、と栗田は励ました。ヒル魔は見るからに緊張している。悪魔笑いをどこかに忘れてきたように。
 ゆっくりと教室を出ていく姿を、自分の席に座って見送った。

 ──はあ
 これでよし。
 きっとうまくいくだろう。
 栗田の席は教室の一番後ろで、窓に近い。右隣がヒル魔、反対側の隣がムサシの席だ。空の席を眺めて、何だか一仕事終えた後のような爽快感。
 ──なんか慌しかったけど、これでよし
 頬杖をつくと自然に笑顔になった。一人でにこにこしてしまう。良かった、という温かい気持ち。
 ──あのふたり、うまく行ったら
 そう思った。うまく行ったらきっとこれまで以上に親密な関係になるのだろう。いつも世話になっている、自分を鼓舞し勇気づけてくれる親友たち。役に立つことができたかな、少しでも恩返しすることができたかな。
 付き合い始めたらどんなことをするんだろう。僕にはまだそういう経験はないけど、多分デートとかもするんだろうな。ヒル魔が行き先を考えてムサシが賛同する。いや逆かもしれないな、あれでヒル魔は少し古風なところがあるから。そういうところ、多分ムサシもわかってるだろうからうまくいくだろう。どんなところで遊ぶのかな。
 ゲーセン……はちょっと風情がないな、あとどういうところならあのふたりは楽しむだろう。遊園地とか映画とかかな。試合を見に行ったりするのはもちろん楽しいだろうけど。
 きっと楽しいし、幸せだろうな。もしかしたら幸せすぎてはしゃいだりするかもしれない。
 あのふたりが浮かれる。きっとそんなのクラスの子たちには分からないだろうな、僕くらいしか。でも今までより仲良くなればべたべたするようなこともあるんだろうか。ふたりとも照れ屋だからそんなことはないのかな。
「おい、栗田」
 楽しい思いを突然破られた。見るとムサシだ、栗田は仰天した。何でここにいるのさ。しかも一人で。
「ど、どうしたのムサシ」
「助けてくれ」
 ムサシは情けない顔をする。よく見ると右頬が赤い。でも上気しているのとは違う。
「どうしたの、なにがあったの」
 慌てて尋ねるとムサシは赤い頬に手をやった。
「俺、殴られた」
「ええっ?」
「その……、こ、告白したら殴られた。ヒル魔に」
 やるせない顔のムサシ。
「あいつ、立てこもりやがった。俺を殴って」
「立てこもる……って、どこに」
「倉庫。いくら叩いても出てこねえ」
「ああ〜……」
「一緒に来てくれ。なんとかしてあいつを出さねえと」
「え、それはまずいよムサシ」
「何で」
 何でもなにも。今度は栗田はムサシに呆れた。
「だってそれ、どう考えてもヒル魔は照れてるだけだよ。僕が行ってもどうにもならないし逆効果だよ」
「そ、そうだろうか」
 心もとない。そんな風にムサシは呟く。
「そうだよ、なに言ってんのさ。それくらい我慢しなきゃ駄目だよ、相手はヒル魔なんだから」
「…………」
「ほら行って。ムサシが自分で何とかしなきゃ」
「そう言われても……」
「僕にできることならなんでもするって言ったけどさ、これはまた別だよ。ふたりの問題だよこれは」
「…………」
「とにかく声をかけてかけまくって。どうせもうすぐ授業だしヒル魔だって分かってるよ。ふたりで戻ってこれるよきっと。ここは一番、ムサシが頑張らなきゃ!」
 バン、と強めに腕を叩いてやった。わ、分かったと頷くムサシ。くるり、方向転換してあたふたとまた出ていった。
 ──もう
 しょうがないなあと思う。本当に、ヒル魔もムサシもしょうがない。
 まあ、だから放っておけないんだけど。そう思うとまた頬がゆるんでしまう。
 可愛いな。
 ──へへ
 のんびりとまた頬杖をつく。
 あの話はどうなったんだっけ、と思った。友達のために走る人の話。
 確かハッピーエンドだったと思うけど。
 僕もメロになれたかな。
 きっとうまくいく、あのふたりなら。
 うまくいったふたりと一緒に、受験もがんばらなくちゃ。高校に入ったらいよいよクリスマスボウルが目の前だ。
 にこにこと微笑む栗田。
 
 暖かな小春日和の日。
 柔らかな日差しが心地よく降り注ぐ。
 澄んだ鐘の音が午後の授業の始まりを告げた。



 その頃の、栗田の親友たち。
 急ぎ足で廊下を歩く。ふたりとも少し赤い顔をして。
「遅れたらテメーのせいだからな」
「お前が出てこなかったからだろう」
「うるせえ」
「いいから早く戻るぞ」
 戻ったら栗田になんて言おう。
 ふたりとも同じようなことを考えているのだが無論当人たちにはそんなことは分からない。
 どこかくすぐったい気持ち。居心地が悪いような、幸せなような。
 ムサシの頬は痛み始めているのだがそんなことはどうでもいい。これじゃ手を握るなんてのは一体いつになるか。でもとにかく栗田のおかげで前進した。良かった、とほっとするような思いもある。
 ヒル魔はヒル魔でやはりどこか安堵する。ずっと思い続けていたことが、めでたい意味で決着したのだ。良かった。でもやっぱり照れ臭くてたまらない。
 とにかく早く戻ろう。栗田に報告しなくては。
 まん丸顔の大切な親友。
 きっと輝くような笑顔でおかえりと迎えてくれるだろう。
 ずっと別れていたわけでもないのに何故か懐かしいような気持ち。
 教室の扉を、そんな気持ちでふたりは引き開けた。



【END】

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