影身
ごくりと唾を飲み込む。
ようやくヒル魔は言葉を押し出した。
「──何か用か」
ムサシが歩いてくる。
白い敷石の手前でふたりは向かい合った。
「話がある」
ムサシの目。まっすぐに向けられたその目を見ることがヒル魔には出来ない。背を向けた。
「俺にはねえ。荷物なんざとっくに送っただろ、帰れ」
そっけなく言い放つことができただろうか。ヒル魔には分からない。心臓が破れそうだ。
ムサシは重ねて言った。
「話がある」
「俺にはねえよ」
「お前になくても俺にはある。聞きたくないならそれでもいい。勝手に話す」
「…………」
「話したら帰るから安心しろ」
「…………」
「なあ、ヒル魔」
声の調子が変わる。
少し柔らかい声音。
なあ、ヒル魔。
いろいろと考えてみたんだけどな。
俺は我儘でな。大切なものは何も、一つも取りこぼしたくない。
家のことも。店のことも、親のことも。
それから──お前のことも。
俺は将来、今の店をもっと広げたい。そういう気持ちを持ってる。
無論親だって大事にしたい。
そしてそれだけじゃない。
なあ、ヒル魔。
俺は二つの手を持ってる。
片手は店とうちの親。
それからな。
もう片方の手は。
「ヒル魔」
「黙れ」
「ヒル魔」
「黙れ」
「ヒル魔。お前と」
「黙れ!」
「お前と繋いでいきたい」
激しくヒル魔は目を閉じた。喉元まで押し寄せるもの。飲み込む。どうしたら──一体、どうしたら。
「ヒル魔」
耳に届く声。
「愛してる」
「……!」
ヒル魔はただ立ちすくむ。激情を必死にこらえる、動くこともできない。足が動かない。早く去らなければならない。歩いて、自宅に入ればいいだけだ。この男の目の前でドアを閉ざす、そうすればいいだけだ。頭の隅ではそう思う、でも動けない。
目を閉ざす。何も見たくない、聞きたくない。息が上がる。肩で呼吸を繰り返す。
聞きたくない言葉。背後からそれでも聞こえる懐かしい声。
なあ、ヒル魔。
お前が好きだ。
お前を愛してる。
今まできちんと伝えなくて済まなかった。
俺が出て行ったのはな。
何が何でも──別れたいというお前の気持ちを尊重したつもりだった。
でもそれは愚かなことだった。
俺は自分をとても愚かだったと思う。
お前を愛して、お前のためだと考える自分の愚かしさに騙されていた。
でもな、ヒル魔。
俺は考えた。
ひとを愛するということは愚かしいことなんだろうか。
俺がお前を愛する気持ち、お前が俺を大切に思ってくれる気持ち。
そういうものが愚かしいとは俺には思えない。
誰かが何かを大切にしたいと思う気持ち。愛する気持ち。
そんなものを馬鹿にしたり踏みにじったりする権利は誰にもない。
もしもそういう人間がいたら俺はそれと戦う。
戦いたいと思う。
何よりも、わけの分からないものを恐れる自分と戦いたいと思う。
何よりも俺自身のために。
そしてお前のために。
なあ、ヒル魔。
何もかも捨てられるなんて思うな。
捨てようなんて思わないでくれ。
お前の本当の気持ちを俺は信じる。
信じてる。
手を繋いで歩こう。
俺はそうしたい。
心から。
心から俺はそう思う。
こんな気持ちは迷惑か。
言ってくれ。
ヒル魔。
「──め、」
おのれを叱咤する。言わなければ。
「ヒル魔」
「迷惑だ」
「ヒル魔」
「決まってんだろ、俺は──」
「じゃあなんで泣いてる」
叩きつけるようにムサシは言った。
目を開けたが何も見えない。熱い、ヒル魔はそう思った。まぶたが濡れている。まばたきをして初めて気がついた。涙。
滂沱の涙。
ヒル魔の頬を濡らす。
「──馬鹿野郎」
震えるおのれの声を聞いた。
「馬鹿野郎」
「ああ」
「テメーは大馬鹿だ」
「そうだな」
「俺の──俺の気持ちなんか分かってねえ」
「俺はそうは思わない」
「分かってねえ。ムサシ、テメーは」
「ヒル魔」
声が近づく。
正面にムサシが立った。
「ヒル魔」
だらりと垂れたヒル魔の手。その手をムサシはそっと握った。
思いをこめて。
「苦しいことも嫌なこともあるかもしれない。それでも俺はお前と一緒に生きていきたい。俺は信じてる。お前も同じ気持ちだってな」
「…………」
「一緒に歩いてくれ。ヒル魔。雨の日も、晴れの日も。一緒に」
「俺、は──」
「ああ。ヒル魔」
「でも」
「でももだってもいらない。言ってくれ。ヒル魔」
「……、しんどいぞ」
「分かってる」
「いろんなことがある。きっと」
「分かってる」
「どんなことがあるか──」
「分かってる。でもお前と一緒なら俺はいい」
「…………」
「一緒に歩いてくれ。ヒル魔」
息を吸い込む。唇を噛み締める。
涙をヒル魔は飲み込んだ。
何か言いたい、でも言えない。
首を横に振らなければ、意志を伝えなければ。
だがいつの間にか頭を垂れていた。
恋人の言葉に。
唇を、心を震わせて。
頭を垂れていた。
ムサシの腕がその体を抱く。
懐かしいぬくもり。愛おしいぬくもりがムサシに伝わる。
ヒル魔の肩に顔を寄せると懐かしい匂いがした。ムサシの好きな匂いだ。
懐かしく、慕わしい香り。鼻腔いっぱいにムサシは吸い込む。
腕にしっかりと恋人を抱いて。
夜目にも白く立ちこめる霧。うっすらと夜露がおりている。
ふたつからひとつになった人影。
いつまでも離れない影姿。
ひそやかな声。
ささやかれたのは誓いの言葉。
霧が全てを優しく包み込んでいた。
ようやくヒル魔は言葉を押し出した。
「──何か用か」
ムサシが歩いてくる。
白い敷石の手前でふたりは向かい合った。
「話がある」
ムサシの目。まっすぐに向けられたその目を見ることがヒル魔には出来ない。背を向けた。
「俺にはねえ。荷物なんざとっくに送っただろ、帰れ」
そっけなく言い放つことができただろうか。ヒル魔には分からない。心臓が破れそうだ。
ムサシは重ねて言った。
「話がある」
「俺にはねえよ」
「お前になくても俺にはある。聞きたくないならそれでもいい。勝手に話す」
「…………」
「話したら帰るから安心しろ」
「…………」
「なあ、ヒル魔」
声の調子が変わる。
少し柔らかい声音。
なあ、ヒル魔。
いろいろと考えてみたんだけどな。
俺は我儘でな。大切なものは何も、一つも取りこぼしたくない。
家のことも。店のことも、親のことも。
それから──お前のことも。
俺は将来、今の店をもっと広げたい。そういう気持ちを持ってる。
無論親だって大事にしたい。
そしてそれだけじゃない。
なあ、ヒル魔。
俺は二つの手を持ってる。
片手は店とうちの親。
それからな。
もう片方の手は。
「ヒル魔」
「黙れ」
「ヒル魔」
「黙れ」
「ヒル魔。お前と」
「黙れ!」
「お前と繋いでいきたい」
激しくヒル魔は目を閉じた。喉元まで押し寄せるもの。飲み込む。どうしたら──一体、どうしたら。
「ヒル魔」
耳に届く声。
「愛してる」
「……!」
ヒル魔はただ立ちすくむ。激情を必死にこらえる、動くこともできない。足が動かない。早く去らなければならない。歩いて、自宅に入ればいいだけだ。この男の目の前でドアを閉ざす、そうすればいいだけだ。頭の隅ではそう思う、でも動けない。
目を閉ざす。何も見たくない、聞きたくない。息が上がる。肩で呼吸を繰り返す。
聞きたくない言葉。背後からそれでも聞こえる懐かしい声。
なあ、ヒル魔。
お前が好きだ。
お前を愛してる。
今まできちんと伝えなくて済まなかった。
俺が出て行ったのはな。
何が何でも──別れたいというお前の気持ちを尊重したつもりだった。
でもそれは愚かなことだった。
俺は自分をとても愚かだったと思う。
お前を愛して、お前のためだと考える自分の愚かしさに騙されていた。
でもな、ヒル魔。
俺は考えた。
ひとを愛するということは愚かしいことなんだろうか。
俺がお前を愛する気持ち、お前が俺を大切に思ってくれる気持ち。
そういうものが愚かしいとは俺には思えない。
誰かが何かを大切にしたいと思う気持ち。愛する気持ち。
そんなものを馬鹿にしたり踏みにじったりする権利は誰にもない。
もしもそういう人間がいたら俺はそれと戦う。
戦いたいと思う。
何よりも、わけの分からないものを恐れる自分と戦いたいと思う。
何よりも俺自身のために。
そしてお前のために。
なあ、ヒル魔。
何もかも捨てられるなんて思うな。
捨てようなんて思わないでくれ。
お前の本当の気持ちを俺は信じる。
信じてる。
手を繋いで歩こう。
俺はそうしたい。
心から。
心から俺はそう思う。
こんな気持ちは迷惑か。
言ってくれ。
ヒル魔。
「──め、」
おのれを叱咤する。言わなければ。
「ヒル魔」
「迷惑だ」
「ヒル魔」
「決まってんだろ、俺は──」
「じゃあなんで泣いてる」
叩きつけるようにムサシは言った。
目を開けたが何も見えない。熱い、ヒル魔はそう思った。まぶたが濡れている。まばたきをして初めて気がついた。涙。
滂沱の涙。
ヒル魔の頬を濡らす。
「──馬鹿野郎」
震えるおのれの声を聞いた。
「馬鹿野郎」
「ああ」
「テメーは大馬鹿だ」
「そうだな」
「俺の──俺の気持ちなんか分かってねえ」
「俺はそうは思わない」
「分かってねえ。ムサシ、テメーは」
「ヒル魔」
声が近づく。
正面にムサシが立った。
「ヒル魔」
だらりと垂れたヒル魔の手。その手をムサシはそっと握った。
思いをこめて。
「苦しいことも嫌なこともあるかもしれない。それでも俺はお前と一緒に生きていきたい。俺は信じてる。お前も同じ気持ちだってな」
「…………」
「一緒に歩いてくれ。ヒル魔。雨の日も、晴れの日も。一緒に」
「俺、は──」
「ああ。ヒル魔」
「でも」
「でももだってもいらない。言ってくれ。ヒル魔」
「……、しんどいぞ」
「分かってる」
「いろんなことがある。きっと」
「分かってる」
「どんなことがあるか──」
「分かってる。でもお前と一緒なら俺はいい」
「…………」
「一緒に歩いてくれ。ヒル魔」
息を吸い込む。唇を噛み締める。
涙をヒル魔は飲み込んだ。
何か言いたい、でも言えない。
首を横に振らなければ、意志を伝えなければ。
だがいつの間にか頭を垂れていた。
恋人の言葉に。
唇を、心を震わせて。
頭を垂れていた。
ムサシの腕がその体を抱く。
懐かしいぬくもり。愛おしいぬくもりがムサシに伝わる。
ヒル魔の肩に顔を寄せると懐かしい匂いがした。ムサシの好きな匂いだ。
懐かしく、慕わしい香り。鼻腔いっぱいにムサシは吸い込む。
腕にしっかりと恋人を抱いて。
夜目にも白く立ちこめる霧。うっすらと夜露がおりている。
ふたつからひとつになった人影。
いつまでも離れない影姿。
ひそやかな声。
ささやかれたのは誓いの言葉。
霧が全てを優しく包み込んでいた。
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