影身

「切り返しを速くすりゃヒットも強くなる。重心を意識しろ」
「はい」
「目的を意識して動け。できる限り素早く」
「はい」
「なんでもできなきゃいけねえなんて思うなよ。できることが一つありゃいいんだ」
「はい」
身長タッパと力はある。それをまだテメーは生かし切れてねえ。ラインはシャッフルが速くなきゃいけねえ。そのためにできることを考えろ」
「はい」
「トレーニング量は十分だ、テメーはよくやってる。ただそれに満足するな。励め」
 肩を叩いてにやりと笑ってみせる。巨体の上のいかつい顔に笑みが浮かんだ。はいッ、と力を込めた返事。よし行け、と体を叩いてやった。
 グラウンドはもう多くの選手やスタッフが後片付けを終えようとしている。薄暮れの中に浮かぶたくさんの人影。そろそろ引き上げるか、と思った。
 敷地の端を歩いていくと周りから声がかけられる。ありがとうございました、お疲れさまです。ヒル魔さん、明日ちょっと話が。
 軽く手を振って応えながら部室棟に向かう。最京大学の運動部会は学内でも大きな規模と勢力を誇る。部室棟もよくあるプレハブなどではなく、鉄筋の堂々とした佇まいだ。
 一階のアメフト部室に顔を出す。賑やかに動くスタッフたちに声をかけ、何か変わったことはないかと確かめる。大丈夫です、という返事にほっとするような気持ちも湧く。
 明るく活気のある部室。様子を見て監督室に戻り、着替えて帰り支度を始めた。愛用のPCを黒いバッグに詰め込み種々のファイルも同様にする。それからもう一度部室に行った。
「おい、俺ァもう帰ってもいいか」
 何か話しあっていたマネージャーたちに割り込んで訊く。すると学生らはにっこり笑った。
「もちろんです。ヒル魔さんがいなくても」
「あとはやっておきますからご心配なく」
「いなくても全然大丈夫ですよ」
「てゆーかとっとと帰って休んでください」
「そうそう、ヒル魔さん働きすぎ」
「あ、でも須藤さんたちにだけ言っといてもらえますか。一応」
「終わったら早く帰ってくださいね」
 まだ若い女子学生たち。可愛い憎まれ口に少し苦笑したがこれなら大丈夫そうだ。
 ウィザーズはヒル魔がヘッドコーチに就任してから役職名で人を呼ぶことをやめた。ヒル魔も昔からの変わらぬ呼び方をされている。マネージャーの口から出た須藤というのはトレーナーの一人だ。まだウェイトルームから出てこないその男を探しに行く。学生らに告げたせりふをそのまま言ったらまた同じようなことを言われた。もういいから早く帰れ、と。
「なんだよ、なんか用があったんじゃねェのか」
「いえ、原のことでちょっと。でもさっきヒル魔さんが言ってくれてたのでもういいです」
 紺のTシャツ姿のトレーナーが笑う。そのことだったのか、と思った。先ほどグラウンドで話をした部員が原だ。2年生のラインマン。今年から一軍に上がったばかりだ。
「そうか、じゃあ帰るぞ」
「はい、お疲れさまでした」
 須藤の声に続く同僚たちの声。手を振ってやってヒル魔はその場を離れた。
 お帰りですか。お疲れさまです。また明日。廊下を歩いていくとあちこちから声がかかる。おう、と返事をして闊達に歩く。外に出るともう薄暗い。駅までは徒歩だ。広いキャンパス内を一人で歩いていった。



 都心から約1時間。電車を乗り継いで自宅の最寄り駅に着いたヒル魔の姿。
 駅前の広場を眺めながら立っている。ここから通い慣れた道を15分も歩けば家に着く。だがヒル魔は動かない。
 ショルダーバッグを掛けた黒ずくめの長身。それは駅の照明に照らされてただ立ち尽くす。
 歩かなくては、とは思う。ただ動けないのだ。歩けねえな、と頭の片隅で考えている。
 地元に戻ってみたらいつの間にか濃い霧だ。まるでその中から湧くような多くの車。それに人。
 こんな風に駅を出ると足が止まってしまう。もう何日繰り返したか分からない。茫洋とした横顔。ほんの少し前までは部のことしか頭になかった、それに何事もないように装っていられた。家路に着くとその自分が急速に遠ざかる。代わりに現れるのは心の中の穴。うつろなその穴が真っ黒な口を開けてヒル魔を飲み込んでしまう。
 頬の翳り。
 涙は浮かばないし別に泣きたいとも思わない。ただ目の前が暗い。何も見えない。
 ──歩けねえな
 何度目になるか分からない独白をまた呟く。
 心の中の穴にひっそりと思いをめぐらせる。
 この穴はどうしたら塞ぐことができるのか。このまま、抱えていくしかないのだろうか。
 苦しい。
 けれどどうしようもない。
 歩かなければ。
 生きなければ、と思う。どんなに苦しくてもひとは死なない限り生きなくてはならないのだ。おのれの命をおのれで断ち切るような真似はできない。そうしようとも思わない。
 ではどうしたいのか。
 考えても答えは出ない。たった一つ分かっているのは生きなければならないということだけだ。
 ──なんのために
 それもよくは分からない。
 でも死のうとは思わない。
 では生きなければ。
 毎日、のろのろと自問自答を繰り返す。
 足元から伸びる長い影。
 その影がやっと動き始めた。どこかおぼつかない足取りで。
 霧の中へ。
 ひとりで暮らす家へ。

 体の中を風が吹き抜けていくようだ。そんな思いがヒル魔を苦しめる。
 何年もともに暮らした男。高校を卒業して、数えたらもう10年ほども。
 その男にヒル魔は別れを告げた。男の将来を思って。
 かつて病に倒れたムサシの父。傾きかけた家業を、ムサシは回復した父と力を合わせて立て直した。店は順調な成長を続けて、小さな有限会社から株式型の地元の有力企業へと変貌していった。
 ムサシは武蔵家の一人息子、跡取りだ。父から、母からどれほど頼りにされているか、それをヒル魔は知り抜いている。特に母親は。ムサシの母、息子の幼馴染としてヒル魔をも厚く気遣ってくれる。その母の拠り所の一つが大事な息子なのだ。
 そういう年齢にもなればあとからあとから縁談も降ってくる。そのような話をムサシはヒル魔には伏せていた。隠し通せるはずもないのに。
 跡取り息子の"友人"として店に出入りするヒル魔。父とも母とも長く親しむ。そんなヒル魔にムサシの母は話して聞かせた。

 ──断りまくってるのよ、あの子

 ──なんだか申し訳なくてね。持ってきてくれた人に

 ──何が気に入らないのかしら

 ──まだそんな気はないって言うんだけど

 ──もしかして誰か付き合ってる人でもいるのかしらね

 ──ヒル魔くん、聞いてみてくれない?

 何も知らない母の言葉。胸が抉られる思いで聞いた。
 そしてヒル魔は思った。
 添い遂げる。一途に想い続けてきたこの男と添い遂げることができたらどんなに良いか。でもそれは望んではならぬことのようだ。
 多分、そうなのだろう。いやきっとそうだ。望んではならぬことなのだ。店や父母や──何より男の将来のために。
 想い、想われてともに暮らした。
 これ以上を自分は望んではならない。
 同性の自分は。
 ムサシと同性の自分は。
 絶望的に思った。
 この男を諦めよう。
 諦めなければならない。
 そうしなければならないのだ、自分は。
 呪わしいほどの痛み、苦しみを飲み込んで。
 
 そうして別れを切り出した。

 ムサシは最初まるで相手にしなかった。この男らしいな、と苦く思いながらヒル魔は話を続けた。
 何度も、繰り返し。
 懇々と。
 恋人は声を荒げた。俺の気持ちは分かってるだろう、と。その恋人に説く。恋人のこれから、そして何より店と両親の先々。ムサシは懸命に耐えていたようだ。そんな日々のあと、とうとう言った。
 ──俺はお前が好きだ。でもお前の心の中に俺はもういないのか
 一瞬、めまいのような感覚がヒル魔を襲った。脳裏を駆け抜けるもの。あざやかな記憶、ともに過ごした日。愛しあった夜。ふたりで過ごした時間。
 
 ──そうだ

 ヒル魔は答えた。

 ──もう終わりだ。テメーに用はねえ

 ──こっから出ていけ。帰って親父さんとお袋さんを大事にしてやれ

 ──俺は好きに生きる。テメーも達者でやれ。結婚でも見合いでもしてな

 ふとムサシが顔色を変えた。

 ──お袋か
 ──なんのことだ
 ──お袋に何か言われたのか

 気忙しく尋ねるムサシ。ヒル魔は吐き捨てた。そんなわけがあるか、と。

 ──……分かった

 長い沈黙。
 そのあとにムサシは一言だけ言った。

 差し当たっての荷物をまとめる姿。壁にもたれてその姿を見ながらヒル魔は投げつけた。

 ──株主からはおりねえから安心しろ

 ──親父さんにもお袋さんにも世話になってる。後足で砂をかけるような真似はしねえ

 ──ま、テメーが俺の金なんざ見たくねェってんなら別だが

 もういい。
 背を向けたままムサシは言った。乾いた声で。
 ヒル魔は口をつぐんだ。
 黙って、出ていく男を見送った。



 住宅街の中。こつこつと自分の足音を聞きながら歩む。もやもやと立ちけぶる霧が自分の視界を阻む。でも毎日歩く道だ、迷いようがない。角を曲がればもう長く暮らしているマンションの玄関が見えてくる。白い建物だ。
 自動ドアの嵌められた玄関。あと一歩足を上げたらコンクリで盛り固められた玄関の端を踏む。だがそこでも再びヒル魔は立ち止まった。

 ──…………

 動けない。心からそう感じた。
 何もかもがわずらわしい。歩くことも、息をすることも。
 暮らすことも。生きることも。

 ──でもな

 ヒル魔は嘆息する。どうしたって、生きなければならない。
 ──引っ越しでもするか
 ふと胸に湧いた。ここではないどこか。住み慣れたマンションを離れ、新しい住まいへ。そうすれば何か変わることもあるかもしれない。
 ──そうか
 ただの思いつきだ。でも半ばすがるようにヒル魔は思った。そうだ、そうしよう。ここには──長く居すぎたのだ。そこここに、何もかもに恋しい男の匂いが染みついている。新しい住まいを探そう。そして引き移って、新しい暮らしを始めるのだ。
 どうして今まで考えもしなかったのか。狡猾と言われるほどめぐる自分の頭がうまく働いていなかったようだ。
 ──そうしよう
 自分に言い聞かせた。明日から家探しだ。少し気が紛れる。ようやく動く気が湧いた。玄関の石を踏もうとヒル魔は片足を意識した。
 ──と。

「どうした」

 雷のような衝撃。
 立ちすくむ。

「動けないのか」

 この声をヒル魔は知っている。懐かしい声。忘れられない声。
 ヒル魔の身に、心に、魂に刻まれた声。

 霧の中。
 ゆっくりとムサシが姿を現した。

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