影身

 お疲れ様、と口々に言い合って作業員たちが帰っていく。事務方の従業員が帰るのはもう少し後だ。がやがやと賑わう店の活気は日が暮れると一人減り、二人減りして次第に静まる。今日の作業内容の報告と記録、そして明日の予定の確認。何度も見返した図面をあらためて頭に叩き込む、日報を書く。そんな毎日の細かい業務を店でしながら帰宅する社員たちを見送る。最後にシャッターを閉めるまでムサシの仕事は終わらない。棟梁である父はもう奥に入って体を休めている。そうしろと以前ムサシが言ったからだ。反発するかと思ったら案外素直に言うことを聞いた。何だか拍子抜けするような気分になったことをムサシは覚えている。
 誰もいなくなった店先で、がらがらと音を立てて一枚ずつシャッターを下ろしていく。手で捻る内鍵を丁寧にかける。ガラス戸の鍵も閉めてカーテンを閉ざし、最後に照明のスイッチを順番に切っていく。玄関灯、そして店の天井に取り付けられた複数の蛍光灯。一番奥の事務方まで全ての照明を消していく。ほっと一息つく瞬間だ。
 これからの時間を考える。スイッチに触れているムサシの表情が、ふと翳った。どことなく暗いもの。
 胸の中のものを振り切るようにムサシは息をついた。父母との夕食が待っている、奥に入らなければ。
 静まりかえった店。
 それを一瞥して、家の中に入ろうと足を向けた。

「よう、久しぶり」
「やあ、おじさん」
 台所に入ると父母、それに父の古い友人の姿があった。型枠大工を生業としている職人だ。日に焼けた頬がどことなく父に似ている。夏でも冬でも仕事の時も長袖を着込んだその友人、武井はムサシに軽く手を上げて見せた。
 テーブルにはもう母の手料理がいくつも並ぶ。奥に父と武井、手前に母と、そしてムサシの膳。肉料理や焼き魚、煮物。浅漬けや和え物。父と友人の前には日本酒、タコの刺身と蒲鉾にわさびを添えたもの。先に始めちゃってて悪いね、と武井が口にする。いや、いいんだとムサシも座って箸を取る。
「あんたも飲む?」
 母が腰を上げるような仕草をした。少し考えて、うんとムサシは答えた。うまい酒にはならないだろうが、父母とその友人の手前がある。
「ほれ」
 武井が瓶を手に取って向けてくれた。
「ああ、こりゃどうも」
 盃を押しいただく。きゅっと一杯。冷えた日本酒はそれでも喉に、腹に沁み渡るようだ。
 あらためてムサシが箸を取って、武蔵家とその友人を交えての夕食が始まった。
 父が友人の近況を尋ねる。おかげさんでな、と武井は笑顔だ。ただ蒸し暑いせいか最近は少し体に堪えるようになったと言う。
「そんな歳か、俺より若いだろ」
「そうだがあんたには敵わないよ」
「何言ってやがる」
 父も笑う。
「あんたはどうなんだい、体の調子は」
「ああ、もうすっかりだ」
「そりゃ良かった。医者は?」
「ふた月にいっぺん行くことになってる。もういいと思ってんだけどな」
「まあ医者の言うことは素直に聞いといた方がいいよ。奥さんだって心配でしょう」
「そうなんですよ、なかなか人の言うこと聞かないからこのひとは」
 母も言って笑う。
「それにしてもここんちの奥さんの作るものは旨いね、寄らせてもらうのが楽しみだよ」
「あら、ありがとうございます」
 褒められて母は嬉しそうだ。
 武井はムサシの父と同年代らしいが正確な歳は母もムサシも知らない。父は知っているのかもしれないが口には出さない。独り身で、隣町の一軒家に住んでいると言う。毎日の食事など、用意するのはわずらわしいと感じることもあるだろうなとムサシは思った。
「おじさん、食事はどうしてる。ちゃんと食べてるかい」
「そりゃ食べてることは食べてるよ、体が資本だからね」
「酒は。あんまり過ぎてないかい」
「うわ、痛いとこ突いてくるな厳ちゃん」
 武井は今度は苦笑を浮かべる。父が口を挟んだ。
「生意気言うな、厳」
「いやいいんだよ、心配してくれてるんだから」
「お酒は楽しみですもんね、飲まないのも寂しいですよね」
「そうそう」
 盃を空ける様子は見るからに旨そうだ。こんな風に飲めたら、と少し羨ましいような気持ちがムサシの胸をよぎった。
 話題はそれから武蔵工務店の現場の話になった。ここから少し北に位置する市の住宅の建て替えだ。古い日本家屋をモダンな構造と外観にしたい、そう依頼されている。ただ、作業は滞りなく進んでいるものの施主の態度に少し困惑している、とムサシの父は話した。
「困ってるって、どんな」
「まあ、なんというか雑なんだなあれは」
 武蔵工務店はこの街では多少顔のきく中規模企業である。施主はその噂を聞きつけて、依頼してきたらしい。そうした事情は嬉しいが、一通り希望を述べた後はよろしくの言葉通り、良くも悪くも口を出さない。それどころか工事の進捗を報告しようとしても、今後の予定を知らせようとしてもそれを面倒臭がる節がある。若棟梁として施主と現場の橋渡し役を務めるムサシはたびたびもどかしい思いを飲んだし、これでいいのかと胸をさするような気持ちもある。無論それは棟梁である父も理解しており、俺が出ていった方がいいかと息子に尋ねたこともある。いまのところムサシはそれを柔らかくさえぎり、何とか依頼主と意志の疎通をうまくやろうとあれこれ試みている。
息子こいつも苦労してるんだ、どうも細かいことが嫌みたいでな」
「ほう」
「どうしてそんなに……なのかしらね、ご自分の家でしょうに」
 母も控えめながら口にする。
 武井が答えた。
「あんまり興味がないのかもしれないよ」
「興味、ですか」
「うん。かね・・はあるし家も綺麗にしたい、けどその過程はいいやっていう人」
「ああ……そういう人もいるんですかねえ」
「そう。結果だけ見ればいいやっていう人はたまにいるね」
「確かに。いるな、そういうのが」
「たまたまそういうのがお客になっちゃったんだね。厳ちゃんの腕の見せ所かもしれないよ」
「それはそうだけど」
 ムサシは笑った。
「俺はまだ若造だけど、それでも話を面倒臭がるっていうのは初めてだよ。どう接したらいいかと思うこともある」
「要点だけでいいんだよ。長くなると聞いてくれないだろ」
「ああ、うん」
「結論だけ伝えてここはこうしますって。向こうさんはここんちを信頼してくれてるんだろうからさ」
「だといいんだけど、そういうものかい」
「そうだよ。あとでごちゃごちゃ言って来られても困るけど、しょうがない」
 工事のあとにクレームを入れられる。この業界なら誰もが経験したくない、いっそ忌み嫌われることだ。無論ムサシもその父も、そんなことがあってはならないと考えている。だからこそ先々まで施工内容の打ち合わせは丁寧にしておきたいのだが、どうも今回の客は一筋縄ではいかないようだ。
 あまり施主の批判めいたことをしてはいけないと考えたのか、父がそれから話題を変えた。共通の友人の近況、その家族の話。武井は相撲が好きなので力士の話も出た。さしつさされつしながらムサシも飲み、白飯を頬張り母の手料理に箸を入れる。
 大根の煮物は昔ながらの母の味で、出汁醤油の風味がじっくりと煮含まれている。きんぴらごぼうは父の好みで唐辛子が多め。ぴりりと甘辛く、歯ごたえがある。生姜の乗せられた冷奴は醤油にほんの少しだけ胡麻油が垂らしてあった。豚肉の生姜炒めにアスパラと人参のおひたし。鶏レバーの煮物。ふっくらと脂の乗った鯖。
「そういやヒロくんはどうなったんだい。あの話」
 ざわりと胸を撫でられたような気がした。何事もない風を装わなければ。
 箸を動かす息子の前で、父が答えた。
「やっとうまくいったみてえだ。良かった」
「ほんとかい。そりゃ良かった」
 武蔵工務店の作業員。ヒロというその青年は大工としてはようやく一人前になりかけで、ムサシの一つ歳下だ。交際している同い年の女性と結婚を決めた、そう父に報告してきたのが半年ほど前。ところが思いもかけない障壁にぶつかった。
「やっぱりあれかい、学歴とか」
「そうだ。向こうさんが気にしててな」
 ヒロは家庭の事情で高校への進学を断念した。複雑な背景があって一時は荒れた暮らしもしていたようだが、今はもう武蔵工務店にはなくてはならない働き手の一人だ。明るく素直で、何事にも真面目に取り組むヒロは店の誰からも愛されている。ただ交際相手の両親にはそんなことがすぐに分かるはずもなく、承諾を渋った。中卒というヒロの学歴を一つの理由にして。
 だがヒロは諦めなかった。
 何度も相手の家に足を運んで話をし、両親を理解しまた自分を理解してもらおうと努めた。戸惑い、困惑する両親と打ち解けようと。
 そうしたヒロの努力が実ったのはつい最近だ。認めてもらえた。やっと、うんと言ってもらえました。笑顔で武蔵家に伝えに来たヒロはまるで輝くようにまぶしかった。
「あいつも相当頑張ったみたいでな。向こうの親御さんと何度も話して」
「そうか……、よくやったなあ」
「ほんとにそうだ、よくやったよ」
 複雑な思いがムサシの胸に押し寄せる。武井はもちろん父母も知らないおのれの事情。それがあるからこそヒロの話題は避けたかった。でも一度出てしまったものは仕方ない。可能な限りの自制心でムサシは平静を装った。
「考え方の違いってのはあるからな」
 武井が口を開いた。
「でも何にせよ、好きあってる者どうしが添うのが一番だよ」
 箸が止まる。ごくりとおのれの喉が鳴るような気がした。砂を噛むような思い。食べ物が喉に、胸につかえそうだ。相槌を打つ父母の言葉が遠い。盃を手にしてムサシは呷る。
「厳ちゃんはどうなんだい、そのへん」
 名を呼ばれた。半ば必死にムサシは武井の顔を見る。何とか笑顔を浮かべる。
「俺なんかまだまだだよ」
「そうかい、でもそろそろそういう話があってもおかしくないだろ」
 ムサシは苦笑を浮かべてみせた。
「仕事でいっぱいで。そういうのはまだあんまり」
 我ながらぎこちない言葉だ。懸命にムサシは箸を動かした。食べ物を咀嚼し、父母とその友人の話に耳を傾けるふりをした。ともすれば沈みがちになる胸を押し隠して。
「のんきに仕事だけだとき遅れるかもしれないよ。俺みたいに」
 悪戯っぽく武井は笑う。
 まあそのうちに、と苦く誤魔化す。そうしながらムサシは考えた。父と同じほどの歳になるまで武井は独り身だ。どうしてだろうなとは少し思ったがそんなことを追及する余裕は今のムサシにはない。一年を通して長袖の上衣を身につけている、父の友人。その袖の下には目にも鮮やかな刺青があることをムサシは知っている。だが武井本人も、父もそれに触れようとはしない。無論ムサシも。武井が独りなのは何かそれと関係があるのかもしれない。
 酌み交わしながらの食事はそれからまもなく終わった。ありがとう、ごちそうさま、と丁寧な挨拶を残して武井が家を辞す。それを三人で見送った。気をつけてな、またお越しくださいね、と口々に。

「厳。ちょっと」
 入浴を終えて二階の部屋に上がろうとしたところを母に呼び止められた。
「?」
 父は茶の間で座椅子にもたれてテレビに顔を向けている。その父に聞こえぬようにと考えたのか、母は声をひそめた。
「室田さんのことだけど」
 母が言うのは食事の時にも話題になった現在の顧客だ。何かあったのか、とムサシは耳をそばだてる。
 廊下でのひっそりとした立ち話。母によれば室田家からの支払いが遅れているという。着手金は無論すでに払い込まれているものの、その後中間金として振り込まれるはずの金がまだ店の口座に確認されない。それは困ったな、とムサシは思った。
「父さんは放っとけって言ってるけど」
「いや、それは放っとくわけにはいかないだろ」
「そうなのよ」
 母は困った顔だ。
「あんたはどう思う」
「催促は」
「そりゃしたわよ」
 武蔵工務店の経理部長は長年勤めてくれているベテランだ。ムサシなどが考えるまでもなく、とっくに申し送ることはしたのだろう。
「じゃあ俺が言ってみる」
「大丈夫?」
「大丈夫も何も。言わなきゃしょうがないだろ」
「そうねえ」
 少し気がかりそうな目で母は息子を見る。
「そういうとこが少しルーズなんだろうな。こっちから言えば何とかなるだろ」
「そうね、ならいいんだけど」
「折りを見て言ってみるから、冴山さんにもそう言っといてくれ」
 中年の経理部長の名をムサシは口にした。そうね、と母は頷く。
「俺が言ってみるから大丈夫だ。あんまり心配しないように」
 これで話は終わりかとムサシは背を向けた。階段に足をかけると後ろから母の声。
「あんたは」
「え?」
 振り返ると母の顔。
 気遣わしげな。
「あんたは大丈夫なの」
「……何が」
 落ち着いた声を出そうと努めた。
「別にどうもしてない。いきなりなんだ」
 母は目を伏せた。そう、と呟く。
 ムサシは階段を上り始めた。

 ──…………
 自室に入ると重い溜息が漏れた。母にまで気づかれるようではいけない。
 ドア近くの床には母が畳んでおいてくれた洗濯物。かがみ込んで手に取り、箪笥と収納棚に一つ一つおさめていく。
 ムサシの仕事は朝が早い。自然、夜も就寝は早めの時刻だ。ただ布団に入る前にムサシは机に向かって勉強時間を持つことにしている。さまざまな資格試験の準備、それから製図などいくつかのパソコンソフトを習得するために。
 子供の頃から使っている学習机。その前に腰掛けた。机には問題集やたくさんの資料、そしてPCが置かれる。全て引き上げて持ってきたものだ。マンションから。──ヒル魔と暮らしていた中古のマンションから。
 手に取った一冊のテキスト。ぱらぱらとめくり、また閉じた。
「…………」
 駄目だ、と思った。手をつけられそうにない。
 椅子の背もたれに深く体を預けた。時計の針の音がいやに響く。
 静かな家。階下の物音はここまで聞こえては来ない。
 沈み込むようにムサシはおのれの考えに囚われる。
 何度も繰り返し考えたことがまた胸に浮かぶ。実家に戻ってからと言うもの、ずっと胸にあるわだかまり。仕事中ですら頭の片隅について離れない。
 目の前にムサシはゆっくりと両手のひらを広げた。じっと見つめる。
 何も取りこぼしたくない。大切なものを、何も。
 それでも、と思う気持ちからためらいが生まれる。胸の中にいる影。四六時中頭を離れない影を思うと。
 カチ。
 コチ。
 時計の音。
 ──どうしてるだろう
 またそう思った。幾度も押し寄せる思い。寄せては引き、引いては寄せる波のように。
 波はそのうねりを繰り返す。それなら、と思った。自分のこの思いもずっと終わることはないのだろう。
 忘れることなどない、けれど。

 ──"本人どうしが納得してるなら"
 ──"好きあってる者どうしが添うのが"
 ──"そう、それが一番だよ"

 胸を刺す言葉。鋭い痛みが胸を走る。
 恋しさ。やり場のない想い。
 灯りはついているのに目の前は暗闇に閉ざされたようだ。
 このまま時が経つのを待つしかないのだろうか。胸の中の影と、もうこのまま一生離れて生きる。そんなことが果たしてできるのか。
 それは自分のしたいことなのか、と考える。答えは否だ。ムサシの思い、それはもうずっと以前から明確な意志を持って心にある。
 だが胸の中の影はそれを撥ねつけた。
 納得してムサシはマンションを去ったわけではない。影の思いを尊重しなければと考えただけだ。
 強い慚愧。いてもたってもいられない衝動がムサシを襲う。あの家を出るべきではなかったのだ、自分は。
 父母には仲違いしたとだけ話した。何か思うところがあったのかもしれないが、二人とも黙って受け入れてくれた。
 赤銅色の頬。父によく似たその頬は少し削げている。母が見つめたおのれの頬のやつれにムサシ自身は気づいていない。
 机に乗せたこぶし。無意識に固く握りしめる。

 時計の音だけが響く部屋。
 外は白く濃い霧がかかっている。
 夜の霧。
 何もかもを覆う霧。

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