影身
雨に濡れて立ち尽くす。そんな芝居じみたことが自分の身に起こるとは思っていなかった。何をしてるんだとおのれを思う、だがヒル魔は動けない。
降りしきる雨。
去った恋人。
別れを切り出したのはヒル魔の方だ。分かった、とムサシは言った。静かに。
そして家を出て行った。
ふたりで暮らしたマンションの部屋。照明はついている、でも何故か目の前は暗闇に閉ざされたようだ。
たまらない暗闇。
逃げるようにヒル魔は家を飛び出した。廊下を走りエレベーターのボタンに拳を叩きつける。階下に向かうエレベーター。もどかしい、腹立たしいほど鈍い。壁際に身をぶつける。早く。早く降りろ、早く。
共用玄関の前に飛び出す。もう夜闇に包まれて雨までが降り出していた。
恋人の姿はない。
冷たい雨に濡れてヒル魔は立ち尽くす。
誰もいない暗闇の道。
かすかな安堵のようなものが湧いた。これでいいのだ、という苦しい安堵。
まるで追いかけるような真似をしてしまった。馬鹿なことをした。
追いかけて。
追いかけて追いかけて、つかまえて。あいつを抱きしめて力の限りキスをしたい。
そんな渇望が湧く、できるはずもないのに。
あの愛しあった夜。何もいらない、何度もそう思った。お前さえいれば。お前だけでいい、俺はお前だけで。
心の底から愛してくれた恋人。
心の底から愛する恋人。
その名前を胸の内で叫ぶ。何度も、何度も。
もしも叫んで取り戻せるものならこの喉が裂けるまで叫び続けるだろう。
叫んで、叫んで血を吐くまで。
子供の頃から好きだった男。ずっと好きだった、想い続けてきた男。
想い、想われて一緒に暮らした。どれだけ幸せだったか、どれだけ恵まれた暮らしだったか。
降りしきる雨はヒル魔の身を濡らす。
雨というのは頬も濡らすものなのだ。
そう、きっと雨のせいだ。苦くおのれに言い聞かせる。
戻ろう。
家に戻って、そして熱いシャワーを浴びるのだ。冷えた体を温めなければ。明日も、明後日もその次も毎日は続く。暮らさなければ。生きなければ。
そう思うがヒル魔は動けない。
毎日を暮らす。一人で。
ふたりでなく一人で。以前はそうだったのだ、できないはずがない。ひとは一人で生まれて一人で死んでいく、当たり前のことだ。
当たり前の暮らしに戻っただけだ。
髪を濡らす雨。滴る水滴が顔を伝う。
肩もその下も。ヒル魔の体を濡らす雨。
まぶたが熱い。喉が鳴る。頬を流れる雨。
降りしきる雨。
ただ立ち尽くす。
夜の雨。
ムサシは夜の海を見たことがある。一度だけ、遠い昔に。もうおぼろげな記憶だが子供の頃だった。父母とその友人家族たちと一緒に出かけた夏の思い出だ。民宿の一部屋、夜中におそらく暑さで目が覚めた。遊び疲れて夕食もそこそこに寝込んでしまったせいか、なかなか二度目の眠りに入れない。少し涼もうと、こっそり起き上がった。父母の枕元を歩いて部屋の端に行き、そうっと細めに窓を開けた。ふわりと忍び込む海からの風。外は真っ暗で、波の音だけが聞こえる。その音を聞いているうちに、なぜか目の前に広がるものに惹かれた。
ただの闇、夜の帳。その中から聞こえる波の音。
ゆったりと聞こえる音を立てているもの。なんだか見てみたい、無性にそう感じた。
誰も彼もが寝静まった民宿から一人でムサシは抜け出した。靴を履いて玄関の内鍵を開け、外に出る。生ぬるい潮風が体を撫でた。
民宿の敷地を出るとそこはもう砂浜だ。ザザ……と波の寄せる気配を頼りに砂を踏みしめて歩く。
闇に慣れた目に映る海。寄せては返す波音。足元が濡れる懸念のない距離で立ち止まった。吸い込まれるような濃い群青色。静かにうねり、波を立ててはまた還る。また寄せる。
──…………
見ていると何か少し怖いような気持ちも湧いた。それでもどうしてか目を離すことができない。どうしてこんなところに来てしまったんだろう、早く戻らなくては。そう頭の片隅で思ってもまるで魅了されてしまったように動けない。
暗い夜の神秘。
群青色の神秘。
どれだけ眺めていたか分からない。このまま、ふらふらと歩いて海の中に入ってしまうかもしれない。そんな思いが湧いて、ムサシは我に返った。意のままに動かない足を叱咤して踵を返す。
宿の灯りが見えた。
戻ってみると小さな一軒家の民宿の中は大騒ぎになっていた。夜夜中、子供がいないことを気づかれたのだ。
父にも母にも、ムサシはこっぴどく叱られた。父からは拳骨を落とされた。それでもどこかぼうっとしている息子に、今度は父母は心配になったらしい。一体どうしたんだと根掘り葉掘り聞き出そうとする。うまく答えられないムサシに、宿の主人は何か思うところがあったようだ。夜の海は危ないよ。一言だけそう言って頭を撫でてくれた。
今になって思い出すと何か夢だったような気がする。あの旅行はまぎれもなく現実だ、日中の賑やかな海遊びのことだってかすかに記憶にある。
その記憶に暗い影を落とす海の色。
時々ムサシは思い出す。きっとこのまま忘れることはないのだろうと。
暗夜の海の色。
何もかもを飲み込むように広がっていた。
夜の海。
降りしきる雨。
去った恋人。
別れを切り出したのはヒル魔の方だ。分かった、とムサシは言った。静かに。
そして家を出て行った。
ふたりで暮らしたマンションの部屋。照明はついている、でも何故か目の前は暗闇に閉ざされたようだ。
たまらない暗闇。
逃げるようにヒル魔は家を飛び出した。廊下を走りエレベーターのボタンに拳を叩きつける。階下に向かうエレベーター。もどかしい、腹立たしいほど鈍い。壁際に身をぶつける。早く。早く降りろ、早く。
共用玄関の前に飛び出す。もう夜闇に包まれて雨までが降り出していた。
恋人の姿はない。
冷たい雨に濡れてヒル魔は立ち尽くす。
誰もいない暗闇の道。
かすかな安堵のようなものが湧いた。これでいいのだ、という苦しい安堵。
まるで追いかけるような真似をしてしまった。馬鹿なことをした。
追いかけて。
追いかけて追いかけて、つかまえて。あいつを抱きしめて力の限りキスをしたい。
そんな渇望が湧く、できるはずもないのに。
あの愛しあった夜。何もいらない、何度もそう思った。お前さえいれば。お前だけでいい、俺はお前だけで。
心の底から愛してくれた恋人。
心の底から愛する恋人。
その名前を胸の内で叫ぶ。何度も、何度も。
もしも叫んで取り戻せるものならこの喉が裂けるまで叫び続けるだろう。
叫んで、叫んで血を吐くまで。
子供の頃から好きだった男。ずっと好きだった、想い続けてきた男。
想い、想われて一緒に暮らした。どれだけ幸せだったか、どれだけ恵まれた暮らしだったか。
降りしきる雨はヒル魔の身を濡らす。
雨というのは頬も濡らすものなのだ。
そう、きっと雨のせいだ。苦くおのれに言い聞かせる。
戻ろう。
家に戻って、そして熱いシャワーを浴びるのだ。冷えた体を温めなければ。明日も、明後日もその次も毎日は続く。暮らさなければ。生きなければ。
そう思うがヒル魔は動けない。
毎日を暮らす。一人で。
ふたりでなく一人で。以前はそうだったのだ、できないはずがない。ひとは一人で生まれて一人で死んでいく、当たり前のことだ。
当たり前の暮らしに戻っただけだ。
髪を濡らす雨。滴る水滴が顔を伝う。
肩もその下も。ヒル魔の体を濡らす雨。
まぶたが熱い。喉が鳴る。頬を流れる雨。
降りしきる雨。
ただ立ち尽くす。
夜の雨。
ムサシは夜の海を見たことがある。一度だけ、遠い昔に。もうおぼろげな記憶だが子供の頃だった。父母とその友人家族たちと一緒に出かけた夏の思い出だ。民宿の一部屋、夜中におそらく暑さで目が覚めた。遊び疲れて夕食もそこそこに寝込んでしまったせいか、なかなか二度目の眠りに入れない。少し涼もうと、こっそり起き上がった。父母の枕元を歩いて部屋の端に行き、そうっと細めに窓を開けた。ふわりと忍び込む海からの風。外は真っ暗で、波の音だけが聞こえる。その音を聞いているうちに、なぜか目の前に広がるものに惹かれた。
ただの闇、夜の帳。その中から聞こえる波の音。
ゆったりと聞こえる音を立てているもの。なんだか見てみたい、無性にそう感じた。
誰も彼もが寝静まった民宿から一人でムサシは抜け出した。靴を履いて玄関の内鍵を開け、外に出る。生ぬるい潮風が体を撫でた。
民宿の敷地を出るとそこはもう砂浜だ。ザザ……と波の寄せる気配を頼りに砂を踏みしめて歩く。
闇に慣れた目に映る海。寄せては返す波音。足元が濡れる懸念のない距離で立ち止まった。吸い込まれるような濃い群青色。静かにうねり、波を立ててはまた還る。また寄せる。
──…………
見ていると何か少し怖いような気持ちも湧いた。それでもどうしてか目を離すことができない。どうしてこんなところに来てしまったんだろう、早く戻らなくては。そう頭の片隅で思ってもまるで魅了されてしまったように動けない。
暗い夜の神秘。
群青色の神秘。
どれだけ眺めていたか分からない。このまま、ふらふらと歩いて海の中に入ってしまうかもしれない。そんな思いが湧いて、ムサシは我に返った。意のままに動かない足を叱咤して踵を返す。
宿の灯りが見えた。
戻ってみると小さな一軒家の民宿の中は大騒ぎになっていた。夜夜中、子供がいないことを気づかれたのだ。
父にも母にも、ムサシはこっぴどく叱られた。父からは拳骨を落とされた。それでもどこかぼうっとしている息子に、今度は父母は心配になったらしい。一体どうしたんだと根掘り葉掘り聞き出そうとする。うまく答えられないムサシに、宿の主人は何か思うところがあったようだ。夜の海は危ないよ。一言だけそう言って頭を撫でてくれた。
今になって思い出すと何か夢だったような気がする。あの旅行はまぎれもなく現実だ、日中の賑やかな海遊びのことだってかすかに記憶にある。
その記憶に暗い影を落とす海の色。
時々ムサシは思い出す。きっとこのまま忘れることはないのだろうと。
暗夜の海の色。
何もかもを飲み込むように広がっていた。
夜の海。