澄みわたる

 ──今日もよく晴れた

 そうムサシは思った。心地よい疲労感とともに。
 見上げると大きな空。晴れた空がムサシは好きだ。春のうっすらと雲がたなびく空も、抜けるような夏空も。秋の目に沁みるような空、きっぱりと冴える冬の空も。青い空、それはムサシにとっておのれを考える機会を与えてくれるものだ。そして同時に他者の存在をもあらためて感じさせてくれる。この空の下、と時折ムサシは思う。たとえばセナやパンサーは今日も海の向こうで走っているだろう。もうずっと会っていない瀧も、どこかで陽気に笑っているだろう。みな同じ空の下で生きているのだ。自分も、家族も、仲間も。後輩たちも、店の多くの取引先も、顧客たちも。
 賑やかなチームエリア。選手もスタッフもどこか弾むような様子で後片付けに取り掛かっている。接戦のすえの勝利だ、みな気持ちが上がっている。
 ヒル魔はどうしているかと思って目で探す。チームエリアにはまだ来ていない。客席の向こうのアナライジングルームを見上げるとそこに見慣れた金髪頭。愛用のノートパソコンに向かいながら、スタッフと何事か話しているのが見えた。そのうちこっちにやってくるだろう。
 スタンドに目をやると三々五々帰路につこうとしている観客たち。今日の入りは良かった、頑張った甲斐があったなと思った。秋の初戦、大事な試合だ。できるだけギャラリーにも来てほしい。みなでそう話し合って、今月の初めには駅前でビラ配りをした。慣れないことで戸惑うメンバーもいたがムサシはそれを説得した。何度も相談して印刷した──その印刷代も痛い出費ではあったが──ポスター、そしてビラを持って駅前の通りに立つ。通行人や駅の出口から吐き出される人々に向かってのアピール。大方は素通りするが中には興味を示してくれる者もいた。顔写真や背番号、簡単な経歴を記したメンバー表も同時に配布した。今日のキックオフ前にもスタッフが配ったそれは、嬉しそうに告げられたところによるともう残り僅かだという。よかった、とムサシは思う。
 フィールドとスタンドを分ける鉄柵。その片隅ではバベルズの一番手QB、キッドが観客だろう親子連れと何か話している。何事かと思って見ていると子供の方がキッドに何か差し出した。ムサシの立っているところからはキッドの苦笑が見える。
 親が子供を抱き上げて鉄柵に腰掛けさせた。Tシャツ姿のその胸に、照れたような笑みを見せながらキッドが手を伸ばす。よく見るとペンを握った手。子供に渡されたものだろう。キッドはそのまま子供の胸に文字を書くようだ。
 思わずムサシも笑った。良い光景だと思った。サインを求められるなんて、うちでは初めてのことだ。これから、もっとこういう場面を増やさなければ。もっと励まなければ。
 
「ムサシ!」

 突然、太い男の声がひびいた。少し驚いて声のした方に顔を向ける。鉄柵の向こう側に立つ男。
 ──……?
 ムサシは戸惑った。明らかに自分の名を呼んだ男、でも誰だろう。派手なアロハシャツに悪戯っぽい笑みを浮かべて。
「なんだよ俺を忘れちまったのか?」
 意志の強そうな眉。額にかかる前髪、逆立てた残りの髪。
「見てたぜ、相変わらずテメーのキックはスマートじゃねえな!」
 言うなりポケットから櫛を取り出して、こめかみのあたりをするりと一撫で。

 ──!

 胸の中で何かがかちりと嵌った。押し寄せる記憶。
 
 ──勝負しやがれムサシ!

 ──友達ダチを見捨てるような奴ぁスマートじゃねえ!

「……コータロー?」
 無意識に声が出た。柄にもなく胸が弾む。
「お前、コータローか」
「ハハ! 思い出したみてえだな」
「おお……、久しぶりだな」
 思わずムサシは鉄柵に歩み寄る。こちら側と向こう側で交わす会話。
「見に来てくれたのか、ありがとう」
「いいってことよ。勝って良かったじゃねえか」
「おう、初戦だからな。良かったよ」
「ちょっとホッとしてんだろ」
「はは、まあな」
「いいゲームだったがな、相変わらずテメーのは荒れ球だな。昔と変わらねえ」
「まあそう言うな」
 ムサシは苦笑した。
「お前、いまどうしてるんだ。仕事は?」
「そりゃ働いてるさ。アメフトはやってねえけどな」
「やめちまったのか」
「まあな」
 もったいないという言葉をムサシは飲み込んだ。きっと色々な事情があるのだろう。
「卒業以来だな」
 連絡先を、と言いかけたムサシに押し被せるように昔馴染みの男は言った。
「また見に来るぜ。勝てよ」
 少し黙ってムサシはその顔を見つめる。ふと笑みがこぼれた。
「ああ。分かった」
「またな!」
 陽気に手を振って離れていく男。後ろ姿を見守るとその上に広がる一面の空。
 ──あの時もよく晴れていた
 不意に胸の中の記憶がよみがえる。目の前から去っていく男との対決、忘れようのない高2の秋。
 何だか立ち尽くすような思いでムサシは反芻する。クリスマスボウルの夢。まさかの西部戦での敗戦、もう後はない。正真正銘の崖っぷちだ。東京にその名を轟かせる盤戸スパイダーズ。その盤戸戦をくぐり抜けてムサシとデビルバッツは大会を進んだ。神龍寺戦、王城戦。──白秋戦。
 あのまぶしい秋から冬、あざやかな記憶。17歳の秋から冬をムサシは文字通り駆け抜けた。信頼する仲間とともに。
 そして何よりも──。
 ヒル魔とともに。


 **********


 麻黄デビルバッツ、そして泥門デビルバッツ。長年の弱小チーム、特にラインマンたちは栗田を除いて長いこと素人同然だった。サックの危険をまぬがれるため、QBのヒル魔は走れなければならない。彼のアメフト大国でも近年は増えているように、ヒル魔は動く砲台、典型的なモバイル型のQBだった。おまけにチームは恐ろしいほどの、しかも慢性的な人材不足だ。オフェンスではヒル魔はQB、そしてディフェンスではセーフティを務めた。守備の最後の砦である。そうした状況をムサシの"親友"はよく耐えた。甲高い悪魔笑いの陰のひたむきな努力、それをムサシは知っている。決して抜きん出たフィジカルを持っているわけではない。ただ前だけを見て、クリスマスボウルのために。たゆまぬ努力で0.1秒を縮めるために1年の歳月を費やした。そしてあの神龍寺ナーガを降した。
 ナーガ戦の日も秋らしい爽やかな晴天だったことをムサシは覚えている。ゲームのあと、みなで賑やかに学校へ戻った。チームメイトたちを解散させて、誰もいなくなった部室。

 ──テメーに殴られたとこがまだ痛ェぞ

 ぼそりとヒル魔は呟いた。いつものノート型のPCに向かいながら。

 ムサシは立ったままじっとその横顔を見つめる。
 自然に思いがこぼれた。

 ──悪かったな

 ムサシの言葉。何故かヒル魔は少し息を飲むような顔をした。
 
 ──まだ帰らないのか
 ──わかってる

 ヒル魔は立ち上がった。PCを持ってこちらに歩いてくる。その頬にムサシは手を伸ばした。

 びくり。
 ヒル魔は身を引くような動き方をした、だが逃げなかった。
 金髪悪魔の頬にムサシは手を当てる。ほのかな体温。
 唇の端はわずかにまだ赤みが残る。その唇を見て、それから目を見てムサシはまた言った。

 ──悪かったな

 ヒル魔は応えない。
 黙ってムサシを見ている。

 ──痛ぇか

 今度はヒル魔は応えた。

 ──……平気だ

 どこかに震えをはらむような声。
 まるで震えているような細身の体を見守ったことがムサシの記憶にある。

 

 ──テメーのキック力だけを信じる

 そうヒル魔は言った。全国大会の決勝戦、クリスマスボウルで。ムサシに背を向けて。
 ──栗田が どんだけ
 ──栗田が……
 ヒル魔の思い。栗田の思い。そしてまたヒル魔の。みなの、チームメイトたちの思い。
 その思いにムサシは応えた。死闘としか呼ぶことのできない試合、夢を賭けた。
 最後のフィールドゴールキック。ムサシの渾身のキックで放たれた茶色い楕円球。
 それはぐんと飛距離を伸ばし、クロスバーにぶつかってバウンドし。
 そしてその向こうへ。
 ゴールへと吸い込まれた。
 泥門デビルバッツに全国大会決勝戦での勝利をもたらしたゴールキック。
 フィールドの──スタンドの熱気をも巻き込んだ歓喜。華々しい喧騒、身のうちの高揚。
 そういうものが落ち着いてやっと、終わったのだという実感が湧いた。本当に、終わったのだ、と。
 そしてムサシはある決意を抱いた。

「なんだ、いたのか」
「おう」
 年が明けた松の内。世界戦という大勝負の話を聞いたのがつい先日のことだ。冬休みもそろそろ後半、新学期が始まる前にムサシは一人で部室に足を向けた。
 高校アメフトワールドカップ。戦いの準備ですぐにまた慌ただしくなるだろう。その前に少しゆっくり部室を眺めておきたいと思った。
 がらりと引き戸を開ける。誰もいないだろうと思っていた部室にはテーブルに向かった金髪頭の姿。
「いつ帰ってきたんだ」
 ムサシは問うた。アメリカあっち側の偵察だとうそぶいて、ヒル魔は一人で渡米していたからだ。
「さっき」
 カタカタとキーの音を立てながら、とぼけたような答えをよこす。
「なんか収穫はあったか」
「まあな、ケケケ」
「…………」
 PCに向かいっぱなしの金髪頭。
 その傍に立って部室の様子を見渡す。テーブルの周りに散らばる背もたれのない椅子。壁際の何台ものスロットマシン。奥のカウンターにテレビ。
 何だか、色々なことがあったな。そうムサシは感じた。入学してすぐの挫折。仕事と資金繰りに追われた日々。そしてチームに戻って、復学して。
 終わってみればあっという間だった。特にこの秋から今までを凄まじい勢いで駆け抜けたような気がムサシにはする。
「トレーニングさぼっちゃいねえだろうな」
 声をかけられて見る。ヒル魔の目はPCに向いたままだ。
「そんなことするか、バカヤロー」
 ヒル魔は薄く笑った。まあそうだな、という返事が返ってきた。
「ヒル魔」
「なんだ。糞ジジイ」
「阿含には気をつけろ」
「…………」
「あいつ、なんか企んでるかもしれねえ」
「へえ、そうか」
 明らかにヒル魔はしらを切った。気づいているくせに、相変わらず厄介な奴だ。
「まあ覚えとく」
「…………」
「そんなことよりテメーの荒れ球をなんとかしやがれ」
「…………」
「世界戦だぞ、次は」
「ああ」
 ふとキーの音が止んだ。
 ヒル魔がムサシを見る。
「テメーのキックは世界でも通じる。──コントロールさえできりゃな」
「…………」
 ムサシの目。それはまっすぐにヒル魔を見つめる。
 ヒル魔のそれもまっすぐに。
 ムサシを。
 真摯な目。
「…………」
 先に視線を外したのはヒル魔の方だった。ふいと顔をそむけてPCを閉じる。
「さて。俺ァ帰るぞ」
「そうだな。──俺も帰る」
 床に放り出していたバッグ。ヒル魔はごそごそと探ってPCを雑に突っ込む。
 戸口近くに立つムサシ。そのムサシにバッグを抱えたヒル魔が近づいた。
 体の位置を少しずらすと、ヒル魔は引き戸に手をかけた。
「ヒル魔」
「? なんだ」
 顔を向けた金髪頭。
 ムサシは身を寄せた。引き戸にヒル魔が背をつけるように。
 金髪頭の顔の横に片手をつく。
「覚えてるか」
「……何をだ」
「かけっこ。したよな」
「…………」
 ヒル魔は黙ってムサシを見つめる。
 なんのことだ、という返事。落ち着き払った声がムサシに届く。
「とぼけるな」
 ムサシはささやく。
 自分の胸が熱い。
 どくどくと強く鼓動しているようだ。
「神龍寺と戦る前。覚えてるだろ」
「…………」
 近々と顔を寄せる。
 金髪頭の目を覗き込む。
 ごくりとムサシは唾を飲み込んだ。
「負けた方から──ちゅーだったよな」
 声がかすれる。
「…………」
 ヒル魔は何も言わない。まばたきすらせずにムサシを見つめる。
 静謐な目。
 静かな瞳の色。
 ムサシの胸はざわめく。ぐらぐらと胸から体中に熱がまわるようだ。
 ヒル魔が口を開いた。
 低い声。
「……がっついた顔してンな」
 黙れ、とムサシはささやいた。唇を引き結ぶヒル魔。またおのれの喉が鳴る。
 目の前のヒル魔。その唇。
 心臓が破れそうに鼓動する。おのれのみならず目の前の金髪頭にも聞かれてしまうのではないか。
 あの晴れた日。空き教室の扉を引き開けた自分。
 中にはヒル魔と、そしてムサシの知らない男。
 今更ながら胸がざわつく。今にも触れそうだった唇。
 ──塗りかえてやる
 わけもなくそう思った。ヒル魔にその気がなかったことは百も承知だ、だがあの気障な男。薄汚い手でヒル魔の腰を抱いて。
 ──俺のだ
 強く胸に湧く思い、その思いとともに。
 静かにムサシは唇を寄せる。
 それはだが何か温かいものに阻まれた。
 ヒル魔の手。
 ヒル魔が手を上げてムサシの唇を覆ったのだ。
「──まだだ」
 静かな金髪頭の声。
「糞ジジイ。──勝つまで待て」
「…………」
 まぶたを開けてヒル魔を見つめる。
 夕闇のせまる部室。
 その夕闇にほの白く浮かぶ顔。
 ムサシは息を吸い込んだ。おのれの口を覆うヒル魔の手を握る。
 決然と。
 金髪頭の手をのける。
「──勝っただろう」
 ヒル魔の声と同じほど静かに。
 ムサシも低い声で告げた。
全国大会決勝クリスマスボウルで」
「…………」
 屁理屈を言うかと思った唇はなんの言葉も発さなかった。
 ヒル魔の目。
 それはムサシの目を見つめ、唇を見つめ。
 またムサシの目を見つめ──。
 ゆっくりとまぶたを閉じた。
 ムサシも同じようにした。

 思い起こせばあの日もよく晴れた日だった。
 ふたりで部室を出ると大きな夕焼け。だがどういうわけかムサシの胸に浮かぶのは日中の晴れた空だった。何か生まれ変わったような心持ちで部室を出たことをムサシは覚えている。この空の下、そうムサシは思った。この大きな空の下、次は海を渡るのだ。傍の金髪頭とともに。
 冴えわたる空。仲間と──そしてヒル魔とともに。
 ある感慨のようなものを胸に抱いてムサシは家路についた。
 ヒル魔と肩を並べて。
 肩を並べて。
 ヒル魔と。



「糞ジジイ!」
 居丈高な声で呼ばれて我に返った。見ると目の前にPCを抱えた金髪頭。いつもと変わらぬ黒ずくめの姿、背中に背負った大型銃が不気味に肩から覗く。
「なにぼーっとしてやがる、ミーティングだ」
「……ああ」
 周りを見渡すとチームエリアの片付けはあらかた済んでいる。資材を運ぶ仲間たち、シートの回収に取り掛かっているスタッフもいる。これからトラックに荷物をまとめて、ヒル魔の言葉通り選手控室で短いミーティングに入らなければならない。
「あれほど言っといたのにまーた失敗かよ、全くテメーのキックはなっちゃいねえな」
 がみがみと文句を言われてムサシは苦笑した。試合中に一度パントにしくじったのだ。
「まあそうがみがみ言うな。ちゃんとリカバーしたじゃないか」
 パントに失敗するなどキッカーにとって不名誉なことだ。おのれの失態はおのれで取り返さなければならない。だから次の守備では死にものぐるいで敵のキックを弾き、55ヤードを巻き返していた。実際、ムサシのそのプレーからバベルズの攻勢は始まったのだ。
「たりめーだ、テメーの尻はテメーで拭うもんだ。あとテメー俺の合図シカトしやがったなさっき」
 憤懣やるかたないといった風でヒル魔はまくし立てる。ムサシは笑った。何故かとてつもなく愉快な気持ちになったのだ。目の前の金髪頭はまだつべこべ言い続けているのだが。どういうわけか晴れ晴れとした心がムサシの胸に広がる。
「なあ、ヒル魔」
「あ?」
 つとヒル魔に身を寄せて。
 こっそりとムサシはささやいた。
「勝ったからご褒美くれ。──今夜な」
 言うが早いか、金髪頭の尻をひと撫で。
「うわッ!?」
 ヒル魔は飛び上がった。
「テメ、こッ、こッ、……」
 テメー、こともあろうにこんなところで。そう言いたいのだなとムサシは察した。
 わなわなと震えるヒル魔。
 その顔が青くなり、赤くなり。また青くなったかと思うと額に青筋。明確すぎるほど明確な殺気。
「〜〜てンめェ〜〜!」
 ジャキッ。ライフルを構えた金髪頭からムサシはだっと逃げ出した。
「逃げるなエロジジイ!」
「隆史ー!」
 すぐ先、給水筒を両手にぶら下げた若手選手の名をムサシは呼んだ。その体を盾にする。
「助けてくれ、ヒル魔がいじめる」
「は!?」
 慌てふためく若手。そこからまたムサシは駆けていく。後ろにせまる金髪頭。
「そこへ直れ、蜂の巣にしてやる!」
 ムサシは逃げる。底抜けに明るい悲鳴をあげながら。
 その姿をあっけに取られて若手は見つめる。見るからにじゃれている主将とその連れ合い。

 ──なにイチャついてんだろ、あのふたり……



 ムサシの悲鳴。
 若手のひとりごと。
 鳴りひびく銃声。

 どれも青い空に吸い込まれて消えていった。

 美しい空へ。



 澄みわたる極上の空へ。



【END】
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