五月雨の
誰にもあるだろう記憶に残る情景。栗田にもそれはある。檀家に向かうために車を運転している時や自宅の境内で子供を遊ばせている時。もしくはそろそろ寝ようかなと寝室に向かう時。次の法要について住職の父と相談したあと。そんな、日常のふとした瞬間にどういうわけか鮮やかによみがえる情景。輝かしい勝利、仲間と歓喜に湧く瞬間。または苦い敗北の記憶や、フィールドから走り去る黒髪の親友の姿。ちくりと切ない胸の痛みとともに思い出す光景だ。そして何より金髪のQBの横顔。おそらく栗田しか見たことのない表情。
ムサシすら知らないだろうヒル魔の横顔。それを栗田は知っている。もうとっくに遠い過去となったその横顔を、いまでも時折栗田は思い出す。不思議な懐かしさをこめて、しみじみと。
忘れもしない高1の春。クリスマスボウルへの第一歩だ。45ヤードのフィールドゴールを決めれば試合は逆転勝利に終わる、そのゴールキックから黒髪の親友は顔を背けて走り去った。そしてチームは敗れた。
助っ人たちを解散させての帰り道。栗田とヒル魔、二人きりの帰り道。雨が降り出したことを栗田は覚えている。
何も言う気になれなかった。ムサシやムサシの父が心配だ、それは無論心にある。だがそれと同じほど大きく胸をふさぐ不安。これから、どうなるんだろう。どうしたらいいんだろう。
二人で肩を並べて歩いた。ヒル魔も黙りがちだった。降りしきる雨の中を、傘もささずに歩く。とぼとぼと、うつむきがちに。
──どうしたらいいんだろう
繰り返し栗田は自問する。答えなど出ない、分かりきったことだけれど。
ヒル魔の様子を窺う。自分と同じように、何か大きな暗いものにヒル魔も胸をふさがれているようだ。黙り込んでただ足を機械的に前に運ぶ。
「じゃあな」
分かれ道でヒル魔はそう言った。ただ一言だけ。栗田はためらった、言って良いことなのかどうか。でも言わずにはいられなかった。
「ねえ、ヒル魔」
「……なんだ」
「ムサシは……大丈夫だよね……?」
すがる思いで。懸命に栗田は声を振り絞った。こんなことを言っちゃいけない、そうはどこかで思っても。それでも言わずにはいられなかった。
「…………」
黙ってヒル魔は栗田を見つめる。こんなヒル魔の目を見るのは初めてだ、とちらと思った。何か言ってほしい。ヒル魔。
「たりめーだ」
ゆっくりと紡がれた言葉。わっと泣き出したくなるような気持ちを必死に栗田はこらえた。無理に浮かべた笑顔。いけない、涙が出そうだ。無理矢理に栗田は笑ってみせた。
「……そうだよね」
テメーは余計な心配するな。早く帰れ。
うん、ありがとう。ヒル魔も気をつけてね。
そんなふうに言い合って別れた。
重くふさがれた胸。おのれの無力さを噛み締めながらの家路。何度打ち消そうと思っても消えることのない不安。
目の前が暗いものに覆われて何も見えない。そんな苦しい気持ちで自宅の門をくぐったことをいまも栗田は覚えている。
翌日。
登校したムサシは校長に退学の意思を伝えた。病に倒れた父、窮地に立たされた家業。それらを自分が背負うのだ、と。
──どうにか なんねえのか
ヒル魔の言葉。
──どうにも ならんな
ムサシの言葉。
栗田は何も言えなかった。おのれの思い、そして親友の気持ち。あとからあとから涙が出て止まらない。うつむいて、両手を膝に押しつけて。力の限りこぶしを握りしめてただ嗚咽した。
──どうして
胸の中でただそう繰り返す。どうして僕には何もできないんだろう。どうして僕たちはまだ子供なんだろう。どうして。どうして──こんなに無力なんだろう。
涙する栗田。そして黙り込むヒル魔。その二人のもとからムサシは去った。
デビルバッツはたった二人になった。
**********
「すごい試合だったねえ」
「そうだな」
それでも日々は過ぎていく。
親友が姿を消した学校に、それでも栗田は毎日通った。授業を受けて、放課後はヒル魔とともに──二人だけで──練習に精を出す。
栗田の学業の成績はそれほど良い方ではない。授業中分からないことがあればヒル魔に訊く。またかよ糞デブ、などと悪態をつきながらもヒル魔は丁寧に教えてくれる。軽い冗談を言って二人で笑い合うこともあった。胸の底の暗いもの。悲しみ、無念。そんなものに無理やり蓋をして、飲み込んで。前を向かなければならない、無理にでもそう考えようとしていた。
6車線の太い道路脇の、これも広い歩道。肩を並べて歩きながら栗田は言った。
「あんなプレーができるようになりたいよ、僕も」
「ケケケ、パワーだけならテメーだって負けてねえぞ」
「あはは、そうかな」
ムサシが去って約一月。ある日曜日、試合を見にいかねえかとヒル魔に誘われた。高校アメフトではなく社会人チームの試合だ。喜んで栗田は頷いた。春大会を泥門デビルバッツは一回戦敗退した、だが自分のアメフトに賭ける情熱が衰えたわけではない。それに──自分らと同じ高校の試合ではなく社会人のそれを観る。ある意味、気分転換になるかもしれないと考えた。
栗田とヒル魔の住む街から電車を使った。約1時間の行程だ。最寄駅で降りるとそこは東京の南西に位置するベッドタウンとなる。駅前が多くの人やさまざまなショップで賑わっているのを少し新鮮な思いで栗田は眺めた。案内役のヒル魔はあらかじめ調べてあったのか、栗田の先に立って道を歩んでいく。
ロータリーから放射状に伸びている道路。こっちだ、と言ってヒル魔が横断歩道を渡り始める。栗田もついていく。駅に背を向けて歩みを進めていく。数多くの飲食店や商業ビル、映画館やゲーセン。さまざまな営業店舗が次第にまばらになり、オフィスや公共機関などの建物が多く見られるようになってくる。20分ほどそうした様子を眺めながら歩いていくと、道の右手に広い駐車場が現れた。
「あれだ」
駐車場の奥をヒル魔が指差す。その指の先を見て思わず栗田は声をあげた。
「わあ。すごい」
「もう客が集まってんな」
「すごいね、ほんとに"スタジアム"だね、グラウンドじゃなく」
「そうだな」
二人の行手にあるのはこの市が経営しているアメリカンフットボール用の施設だ。まだここからではフィールドは見えないが、段状に作り付けられたスタンドにはぽつぽつと人の姿。自分らと同じく、観戦に来たのだろう。
何だか、楽しみだ。
ここ最近なかった胸の高鳴り。わくわくと胸の躍るような気持ちを栗田は覚えた。行くぞ、とヒル魔の言葉。うん、と従って栗田はヒル魔と共に目的地へと近づいて行った。
「わあ……」
スタンドに足を踏み入れて、栗田は感嘆した。
今まで自分が経験してきた場所とはレベルが違う。なんと言ってもここは自分の愛する競技──アメリカンフットボールの、専用のフィールドなのだ。
スタンドの席は日にさらされて少し傷んではいるが背もたれつきで、前後の間隔も十分に確保されている。よく手入れされた人工芝のフィールド。何本も刻まれた、目にも鮮やかな白線。両脇にエンドゾーンとゴールキック用のポール。右手にはスコアを記す巨大な電光掲示板。
ふと違和感を覚えた。櫓。栗田にとっては見慣れた、アナライジング用の櫓がない。それを親友に言うと、あれだろ、とスタンドの最後部──最も高い位置を指差された。
目をやって何度目か、また栗田は感心してしまった。雨晒しの櫓などとは訳が違う。分析担当のスタッフはまだいないが、そこがそのためにきちんと作られたスペースなのだと言うことは一眼で見てとれる。大きなガラスの嵌め込まれた一室が客席の後方に備えられている。
「いいなあ、こんなところでプレーしたいねえ!」
無意識にはしゃぐような声が出た。ヒル魔も楽しそうだ。ケケケ、俺らはこんなとこじゃ終わらねえさ、と軽口を叩く。
栗田とヒル魔がいるのはスタンドのホーム側だ。この市を拠点とする実業団チーム。対戦相手はT県の、やはり実業団。どちらも社会人リーグの中では強豪である。
どんな試合になるんだろう。何だかわくわくしながら栗田はフィールドに目を当てた。
キックオフ前のコイントス。それを皮切りに、やがてゲームは始まった。
いい試合だったね。歩きながら栗田は繰り返した。
開始直後から息を飲むようなプレー。自分らの高校アメフトとはまるでレベルが違う。そう栗田は痛感した。
オフェンスにしろディフェンスにしろ、何よりクロージングスピードが違う。今はまだ時期的にチームビルディング中のはずだ、それにも関わらず圧倒的なパワーの競り合い。QBへのラッシュもパスカバーも、ランプレーへのブロックも展開が速い。しかも、両チームとも。これはロースコアゲームになるなと栗田は感じた。
実力が拮抗したゲームでは、相手のミスが大きなチャンスとなる。無論、自チームのミスは命取りだ。そんな光景が何度も目の前で繰り返された。QBがRBやWRにボールを託す。ところが相手チームがそれを素早く読んで速い対応を見せる。ボールを前に進ませない。特にDBはよく調整ができているのか、ユニットとしての完成度が高い。二人がかりでパスカバーに走り、一人がパスを弾きもう一人がボールをキャッチする。
ただこちらのチームも負けてはおらず、とりわけ一人のWRが素晴らしい働きを見せた。無論相手のDBはマッチアップしているが、コース取りが巧みだ。わざと敵のDBと並走し、QBの手からボールが放たれた瞬間に加速する。緩急をつけた走り方で敵を翻弄し、2TDをあげた。
前半と後半の間のハーフタイムには、賑やかで華やかなチアのショー。それを挟んでの白熱したゲーム展開。栗田も、そしてヒル魔も惜しみない声援と拍手を送った試合はあっという間に終わり、僅差でホーム側のチームの勝利となった。
「あの、ハドルの時の掛け声はいいな。俺らも真似するか、ケケケ」
ヒル魔が笑い、栗田も笑った。
「そうだね、あれはカッコよかったねえ」
アメフトの試合中にはしばしば作戦会議が行われる。ハドルと呼ばれるそれはフィールドで、そしてキックオフ前にはチームエリアでも。二人が見ていたチームはそのハドルの最後、主将の掛け声に全員が片手を上げて呼応するのだ。「おう!」と腹の底から闘志のあふれる、文字通りチーム一丸の一声。憧れるような、少し羨ましいような気持ちで栗田はそれを眺めていた。
「何度でも言うけどな」
「え、なんだいヒル魔」
歩きながら親友に顔を向ける。すると前を向いたままヒル魔は言った。
「今日の試合。パワーならテメーだって負けてねえぞ」
「…………」
……そうか。
「うん。ありがとう、ヒル魔」
キックオフ時間は3時半だった。約2時間のゲームが終わり、栗田とヒル魔の歩く歩道には夕闇が迫りつつある。次第に暗くなっていく道を駅に向けて歩きながら、ふと栗田は思った。ヒル魔は──僕を励まそうとしてくれたのかもしれない。誘ってくれて。
いや、そうだ。
きっとそうだ。
「…………」
無言で足を運びながら、胸にせまるもの。暖かく、なんとも言えない嬉しさとともに胸にこみ上げるもの。
──がんばろう
そう栗田は思った。ムサシのことを考えるとまだ心は痛む。でもそれにばかり囚われちゃいけない。前を向かなくちゃ。
目の前には大きな歩道橋。階段を上り始めると、肩に少し冷たいものを感じた。
「あ。降ってきちゃったね」
「そうだな」
念のためにリュックに傘は入れて持ってきた。でもこれくらいなら差さなくても大丈夫かな、と思った。霧雨のような柔らかい水滴だ。
「寒くないかい、ヒル魔」
「ああ」
「傘、持ってるけど」
「いや、いい」
歩道橋の上を歩く。静かに降りしきる雨を感じながら。
道路の向こう側に渡ろうとして、栗田は気づいた。
「ヒル魔」
「あ?」
「ちょっと見て」
「何をだ」
通路の端に寄って行くと親友もついてきた。
「……なんか、綺麗だよ」
「…………」
眼下の光景。
夕闇に沈む道路、何台も行き交うたくさんの車。
その車のライトがまるで光の矢のように連なる。
綺麗だな、とまた栗田は思った。何本もの光の矢。走り去る車とともに消え、また走る車とともに現れる。消えては見える光。
ヒル魔も栗田の言いたいことを悟ったようだ。口をつぐんで黙って視線を下に当てる。
さあさあと降りしきる雨。
雨の中に光るライト。
光の矢。
何本もの。
「糞デブ」
やがてヒル魔が口を開いた。静かに。
なんだい、ヒル魔。栗田も静かに答えた。
「諦めねえぞ。俺は」
親友の言葉。
なぜかとても静かな心持ちで栗田はその言葉を聞いた。
「そうだね」
「…………」
「諦めないよ。僕も」
静かに湧き起こるもの。親友の言葉、おのれの思い。交差して栗田の心を包む。
何だか、少し涙が出るようだ。でもこんなところで泣いちゃいけない。慌てて栗田は別のことを言った。
「五月雨、だね」
二人の肩を濡らす雨。どこか優しく、しとしとと。
「五月雨ってのは梅雨のことだぞ」
ヒル魔が言って、栗田は目を見張った。
「え、そうなの」
「そうだ。だからまだ早い」
「……そうか」
まだ梅雨入りには一月ほどもある。
眼下の光景に目を当てながら栗田は笑った。
「ヒル魔は、なんでも知ってるんだね」
「…………」
「それになんでもできる」
ヒル魔は答えなかった。
しばらく黙って、それからぽつりと口を開いた。
「……なんでも、か」
「…………」
親友の口から出た言葉。耳にした栗田に焦りのようなものが湧いた。もしかしたら自分の言ったことは皮肉に聞こえちゃったかもしれない。
「ご、ごめん。ヒル魔」
急になんで謝るんだ。そう言って金髪の友人は笑った。栗田は安堵する。
「…………」
「…………」
二人はなおも道路の光景を眺める。もう行かないと、雨も降ってるし。そう栗田は思うがなぜか足が動かない。親友と二人きりの、静かな時間。下から聞こえるクラクションまでがどうしてか優しくひびくようだ。
「…………」
黙って、栗田は一つ息をついた。
──がんばろう
急に、強くそう思った。自分に負けちゃいけない。自分の中の、弱さに。だっていま一番つらいのはムサシなんだから。
この先、どうなるか分からない。分からないけれどムサシを待とう。ヒル魔と、二人で。チームを守っていこう。
──がんばらなくちゃ
そう思うと力が湧いた。がんばろう、ヒル魔と一緒に。
あの、忘れもしないムサシが走り去ったあと。激しくベンチを蹴飛ばしたヒル魔。ヒル魔のあんな激情を見たことはない。それに何より、ヒル魔がいなければチームは、デビルバッツは始められなかった。
大切な、大切な親友。ヒル魔と力を合わせて、チームを守ろう。
二人でムサシを待とう。
「行こう。ヒル魔」
心からの言葉が出た。
傍の友を見る。
見て、栗田は胸を打たれた。
金髪の親友。眼下を眺めるその横顔。
──ヒル魔
話しかけようとした、でもうまく言葉が出てこない。なんて──なんて表情 をしてるの、ヒル魔。
デビルバッツの悪魔のQB。伏し目がちの金髪頭。その親友の横顔の、なんと悲痛なこと。
悲しみ。
さびしさ。
苦しみ。
もろもろを物語る親友の横顔を、胸がつぶされるような思いで栗田は見つめた。
「ヒル魔」
声が震えないように。懸命に努力した。
「がんばろう」
「…………」
「一緒に。がんばろう」
一心に栗田はヒル魔の横顔を見つめる。祈るような思いとともに。限りなく透明な悲しみを浮かべた友の顔。それはやがてふと穏やかになった。
「……ケケ」
目を伏せたまま。静かにヒル魔は笑った。どこかほっとしたように。
「そうだな」
「ヒル魔」
「……がんばるか」
「う、うん!」
二人は歩き始めた。柔らかい雨の下。思いついて、栗田はリュックから傘を取り出した。
「あ」
「どうした」
「宿題忘れてた。物理の」
「手伝わねえぞ」
「ええ〜、頼むよヒル魔」
「たまには一人で苦労しやがれ」
「う〜ん……」
困ったような顔の栗田。そんな栗田を見てヒル魔はケケケと笑う。
なぜだか栗田も笑った。帰ったらノートを広げて悪戦苦闘しなければならない。でも何だか心が明るい。
傘の下。まん丸な巨体と細い長身の二人は歩く。歩道橋の階段を下りて駅へと。
そしてその先へ。
前を向いて歩んでいく。
夕闇に包まれて。
静かに胸に押し寄せる思い。
静かにその音を聴きながら。
あの時観た試合、あの時見た歩道橋の光景。そして何より、金髪の友の横顔。いまも記憶に鮮やかに残る。栗田のアメフトに対する思いは成人したいまも変わらない。フィールドに足を運んで声援を送ることも、配信を見て思わず声を上げてしまうことも。敗れた側のチームに同情してしまうこともある。
きっとつらいだろうな、でも頑張ってほしい。心からそう思う。だって嫌なことばかりじゃない。何より友達が、仲間がそこには居る。大切な友人、大切な仲間が。
苦しくても歯を食いしばって、ともに歩む。そんな貴重な時間を過ごしてほしい、かつて自分がそうだったように。
それは宝物のような経験として記憶として、いつまでも心の中に残るのだ。
大切な宝物として。
心の中の、宝石として。
ムサシすら知らないだろうヒル魔の横顔。それを栗田は知っている。もうとっくに遠い過去となったその横顔を、いまでも時折栗田は思い出す。不思議な懐かしさをこめて、しみじみと。
忘れもしない高1の春。クリスマスボウルへの第一歩だ。45ヤードのフィールドゴールを決めれば試合は逆転勝利に終わる、そのゴールキックから黒髪の親友は顔を背けて走り去った。そしてチームは敗れた。
助っ人たちを解散させての帰り道。栗田とヒル魔、二人きりの帰り道。雨が降り出したことを栗田は覚えている。
何も言う気になれなかった。ムサシやムサシの父が心配だ、それは無論心にある。だがそれと同じほど大きく胸をふさぐ不安。これから、どうなるんだろう。どうしたらいいんだろう。
二人で肩を並べて歩いた。ヒル魔も黙りがちだった。降りしきる雨の中を、傘もささずに歩く。とぼとぼと、うつむきがちに。
──どうしたらいいんだろう
繰り返し栗田は自問する。答えなど出ない、分かりきったことだけれど。
ヒル魔の様子を窺う。自分と同じように、何か大きな暗いものにヒル魔も胸をふさがれているようだ。黙り込んでただ足を機械的に前に運ぶ。
「じゃあな」
分かれ道でヒル魔はそう言った。ただ一言だけ。栗田はためらった、言って良いことなのかどうか。でも言わずにはいられなかった。
「ねえ、ヒル魔」
「……なんだ」
「ムサシは……大丈夫だよね……?」
すがる思いで。懸命に栗田は声を振り絞った。こんなことを言っちゃいけない、そうはどこかで思っても。それでも言わずにはいられなかった。
「…………」
黙ってヒル魔は栗田を見つめる。こんなヒル魔の目を見るのは初めてだ、とちらと思った。何か言ってほしい。ヒル魔。
「たりめーだ」
ゆっくりと紡がれた言葉。わっと泣き出したくなるような気持ちを必死に栗田はこらえた。無理に浮かべた笑顔。いけない、涙が出そうだ。無理矢理に栗田は笑ってみせた。
「……そうだよね」
テメーは余計な心配するな。早く帰れ。
うん、ありがとう。ヒル魔も気をつけてね。
そんなふうに言い合って別れた。
重くふさがれた胸。おのれの無力さを噛み締めながらの家路。何度打ち消そうと思っても消えることのない不安。
目の前が暗いものに覆われて何も見えない。そんな苦しい気持ちで自宅の門をくぐったことをいまも栗田は覚えている。
翌日。
登校したムサシは校長に退学の意思を伝えた。病に倒れた父、窮地に立たされた家業。それらを自分が背負うのだ、と。
──どうにか なんねえのか
ヒル魔の言葉。
──どうにも ならんな
ムサシの言葉。
栗田は何も言えなかった。おのれの思い、そして親友の気持ち。あとからあとから涙が出て止まらない。うつむいて、両手を膝に押しつけて。力の限りこぶしを握りしめてただ嗚咽した。
──どうして
胸の中でただそう繰り返す。どうして僕には何もできないんだろう。どうして僕たちはまだ子供なんだろう。どうして。どうして──こんなに無力なんだろう。
涙する栗田。そして黙り込むヒル魔。その二人のもとからムサシは去った。
デビルバッツはたった二人になった。
**********
「すごい試合だったねえ」
「そうだな」
それでも日々は過ぎていく。
親友が姿を消した学校に、それでも栗田は毎日通った。授業を受けて、放課後はヒル魔とともに──二人だけで──練習に精を出す。
栗田の学業の成績はそれほど良い方ではない。授業中分からないことがあればヒル魔に訊く。またかよ糞デブ、などと悪態をつきながらもヒル魔は丁寧に教えてくれる。軽い冗談を言って二人で笑い合うこともあった。胸の底の暗いもの。悲しみ、無念。そんなものに無理やり蓋をして、飲み込んで。前を向かなければならない、無理にでもそう考えようとしていた。
6車線の太い道路脇の、これも広い歩道。肩を並べて歩きながら栗田は言った。
「あんなプレーができるようになりたいよ、僕も」
「ケケケ、パワーだけならテメーだって負けてねえぞ」
「あはは、そうかな」
ムサシが去って約一月。ある日曜日、試合を見にいかねえかとヒル魔に誘われた。高校アメフトではなく社会人チームの試合だ。喜んで栗田は頷いた。春大会を泥門デビルバッツは一回戦敗退した、だが自分のアメフトに賭ける情熱が衰えたわけではない。それに──自分らと同じ高校の試合ではなく社会人のそれを観る。ある意味、気分転換になるかもしれないと考えた。
栗田とヒル魔の住む街から電車を使った。約1時間の行程だ。最寄駅で降りるとそこは東京の南西に位置するベッドタウンとなる。駅前が多くの人やさまざまなショップで賑わっているのを少し新鮮な思いで栗田は眺めた。案内役のヒル魔はあらかじめ調べてあったのか、栗田の先に立って道を歩んでいく。
ロータリーから放射状に伸びている道路。こっちだ、と言ってヒル魔が横断歩道を渡り始める。栗田もついていく。駅に背を向けて歩みを進めていく。数多くの飲食店や商業ビル、映画館やゲーセン。さまざまな営業店舗が次第にまばらになり、オフィスや公共機関などの建物が多く見られるようになってくる。20分ほどそうした様子を眺めながら歩いていくと、道の右手に広い駐車場が現れた。
「あれだ」
駐車場の奥をヒル魔が指差す。その指の先を見て思わず栗田は声をあげた。
「わあ。すごい」
「もう客が集まってんな」
「すごいね、ほんとに"スタジアム"だね、グラウンドじゃなく」
「そうだな」
二人の行手にあるのはこの市が経営しているアメリカンフットボール用の施設だ。まだここからではフィールドは見えないが、段状に作り付けられたスタンドにはぽつぽつと人の姿。自分らと同じく、観戦に来たのだろう。
何だか、楽しみだ。
ここ最近なかった胸の高鳴り。わくわくと胸の躍るような気持ちを栗田は覚えた。行くぞ、とヒル魔の言葉。うん、と従って栗田はヒル魔と共に目的地へと近づいて行った。
「わあ……」
スタンドに足を踏み入れて、栗田は感嘆した。
今まで自分が経験してきた場所とはレベルが違う。なんと言ってもここは自分の愛する競技──アメリカンフットボールの、専用のフィールドなのだ。
スタンドの席は日にさらされて少し傷んではいるが背もたれつきで、前後の間隔も十分に確保されている。よく手入れされた人工芝のフィールド。何本も刻まれた、目にも鮮やかな白線。両脇にエンドゾーンとゴールキック用のポール。右手にはスコアを記す巨大な電光掲示板。
ふと違和感を覚えた。櫓。栗田にとっては見慣れた、アナライジング用の櫓がない。それを親友に言うと、あれだろ、とスタンドの最後部──最も高い位置を指差された。
目をやって何度目か、また栗田は感心してしまった。雨晒しの櫓などとは訳が違う。分析担当のスタッフはまだいないが、そこがそのためにきちんと作られたスペースなのだと言うことは一眼で見てとれる。大きなガラスの嵌め込まれた一室が客席の後方に備えられている。
「いいなあ、こんなところでプレーしたいねえ!」
無意識にはしゃぐような声が出た。ヒル魔も楽しそうだ。ケケケ、俺らはこんなとこじゃ終わらねえさ、と軽口を叩く。
栗田とヒル魔がいるのはスタンドのホーム側だ。この市を拠点とする実業団チーム。対戦相手はT県の、やはり実業団。どちらも社会人リーグの中では強豪である。
どんな試合になるんだろう。何だかわくわくしながら栗田はフィールドに目を当てた。
キックオフ前のコイントス。それを皮切りに、やがてゲームは始まった。
いい試合だったね。歩きながら栗田は繰り返した。
開始直後から息を飲むようなプレー。自分らの高校アメフトとはまるでレベルが違う。そう栗田は痛感した。
オフェンスにしろディフェンスにしろ、何よりクロージングスピードが違う。今はまだ時期的にチームビルディング中のはずだ、それにも関わらず圧倒的なパワーの競り合い。QBへのラッシュもパスカバーも、ランプレーへのブロックも展開が速い。しかも、両チームとも。これはロースコアゲームになるなと栗田は感じた。
実力が拮抗したゲームでは、相手のミスが大きなチャンスとなる。無論、自チームのミスは命取りだ。そんな光景が何度も目の前で繰り返された。QBがRBやWRにボールを託す。ところが相手チームがそれを素早く読んで速い対応を見せる。ボールを前に進ませない。特にDBはよく調整ができているのか、ユニットとしての完成度が高い。二人がかりでパスカバーに走り、一人がパスを弾きもう一人がボールをキャッチする。
ただこちらのチームも負けてはおらず、とりわけ一人のWRが素晴らしい働きを見せた。無論相手のDBはマッチアップしているが、コース取りが巧みだ。わざと敵のDBと並走し、QBの手からボールが放たれた瞬間に加速する。緩急をつけた走り方で敵を翻弄し、2TDをあげた。
前半と後半の間のハーフタイムには、賑やかで華やかなチアのショー。それを挟んでの白熱したゲーム展開。栗田も、そしてヒル魔も惜しみない声援と拍手を送った試合はあっという間に終わり、僅差でホーム側のチームの勝利となった。
「あの、ハドルの時の掛け声はいいな。俺らも真似するか、ケケケ」
ヒル魔が笑い、栗田も笑った。
「そうだね、あれはカッコよかったねえ」
アメフトの試合中にはしばしば作戦会議が行われる。ハドルと呼ばれるそれはフィールドで、そしてキックオフ前にはチームエリアでも。二人が見ていたチームはそのハドルの最後、主将の掛け声に全員が片手を上げて呼応するのだ。「おう!」と腹の底から闘志のあふれる、文字通りチーム一丸の一声。憧れるような、少し羨ましいような気持ちで栗田はそれを眺めていた。
「何度でも言うけどな」
「え、なんだいヒル魔」
歩きながら親友に顔を向ける。すると前を向いたままヒル魔は言った。
「今日の試合。パワーならテメーだって負けてねえぞ」
「…………」
……そうか。
「うん。ありがとう、ヒル魔」
キックオフ時間は3時半だった。約2時間のゲームが終わり、栗田とヒル魔の歩く歩道には夕闇が迫りつつある。次第に暗くなっていく道を駅に向けて歩きながら、ふと栗田は思った。ヒル魔は──僕を励まそうとしてくれたのかもしれない。誘ってくれて。
いや、そうだ。
きっとそうだ。
「…………」
無言で足を運びながら、胸にせまるもの。暖かく、なんとも言えない嬉しさとともに胸にこみ上げるもの。
──がんばろう
そう栗田は思った。ムサシのことを考えるとまだ心は痛む。でもそれにばかり囚われちゃいけない。前を向かなくちゃ。
目の前には大きな歩道橋。階段を上り始めると、肩に少し冷たいものを感じた。
「あ。降ってきちゃったね」
「そうだな」
念のためにリュックに傘は入れて持ってきた。でもこれくらいなら差さなくても大丈夫かな、と思った。霧雨のような柔らかい水滴だ。
「寒くないかい、ヒル魔」
「ああ」
「傘、持ってるけど」
「いや、いい」
歩道橋の上を歩く。静かに降りしきる雨を感じながら。
道路の向こう側に渡ろうとして、栗田は気づいた。
「ヒル魔」
「あ?」
「ちょっと見て」
「何をだ」
通路の端に寄って行くと親友もついてきた。
「……なんか、綺麗だよ」
「…………」
眼下の光景。
夕闇に沈む道路、何台も行き交うたくさんの車。
その車のライトがまるで光の矢のように連なる。
綺麗だな、とまた栗田は思った。何本もの光の矢。走り去る車とともに消え、また走る車とともに現れる。消えては見える光。
ヒル魔も栗田の言いたいことを悟ったようだ。口をつぐんで黙って視線を下に当てる。
さあさあと降りしきる雨。
雨の中に光るライト。
光の矢。
何本もの。
「糞デブ」
やがてヒル魔が口を開いた。静かに。
なんだい、ヒル魔。栗田も静かに答えた。
「諦めねえぞ。俺は」
親友の言葉。
なぜかとても静かな心持ちで栗田はその言葉を聞いた。
「そうだね」
「…………」
「諦めないよ。僕も」
静かに湧き起こるもの。親友の言葉、おのれの思い。交差して栗田の心を包む。
何だか、少し涙が出るようだ。でもこんなところで泣いちゃいけない。慌てて栗田は別のことを言った。
「五月雨、だね」
二人の肩を濡らす雨。どこか優しく、しとしとと。
「五月雨ってのは梅雨のことだぞ」
ヒル魔が言って、栗田は目を見張った。
「え、そうなの」
「そうだ。だからまだ早い」
「……そうか」
まだ梅雨入りには一月ほどもある。
眼下の光景に目を当てながら栗田は笑った。
「ヒル魔は、なんでも知ってるんだね」
「…………」
「それになんでもできる」
ヒル魔は答えなかった。
しばらく黙って、それからぽつりと口を開いた。
「……なんでも、か」
「…………」
親友の口から出た言葉。耳にした栗田に焦りのようなものが湧いた。もしかしたら自分の言ったことは皮肉に聞こえちゃったかもしれない。
「ご、ごめん。ヒル魔」
急になんで謝るんだ。そう言って金髪の友人は笑った。栗田は安堵する。
「…………」
「…………」
二人はなおも道路の光景を眺める。もう行かないと、雨も降ってるし。そう栗田は思うがなぜか足が動かない。親友と二人きりの、静かな時間。下から聞こえるクラクションまでがどうしてか優しくひびくようだ。
「…………」
黙って、栗田は一つ息をついた。
──がんばろう
急に、強くそう思った。自分に負けちゃいけない。自分の中の、弱さに。だっていま一番つらいのはムサシなんだから。
この先、どうなるか分からない。分からないけれどムサシを待とう。ヒル魔と、二人で。チームを守っていこう。
──がんばらなくちゃ
そう思うと力が湧いた。がんばろう、ヒル魔と一緒に。
あの、忘れもしないムサシが走り去ったあと。激しくベンチを蹴飛ばしたヒル魔。ヒル魔のあんな激情を見たことはない。それに何より、ヒル魔がいなければチームは、デビルバッツは始められなかった。
大切な、大切な親友。ヒル魔と力を合わせて、チームを守ろう。
二人でムサシを待とう。
「行こう。ヒル魔」
心からの言葉が出た。
傍の友を見る。
見て、栗田は胸を打たれた。
金髪の親友。眼下を眺めるその横顔。
──ヒル魔
話しかけようとした、でもうまく言葉が出てこない。なんて──なんて
デビルバッツの悪魔のQB。伏し目がちの金髪頭。その親友の横顔の、なんと悲痛なこと。
悲しみ。
さびしさ。
苦しみ。
もろもろを物語る親友の横顔を、胸がつぶされるような思いで栗田は見つめた。
「ヒル魔」
声が震えないように。懸命に努力した。
「がんばろう」
「…………」
「一緒に。がんばろう」
一心に栗田はヒル魔の横顔を見つめる。祈るような思いとともに。限りなく透明な悲しみを浮かべた友の顔。それはやがてふと穏やかになった。
「……ケケ」
目を伏せたまま。静かにヒル魔は笑った。どこかほっとしたように。
「そうだな」
「ヒル魔」
「……がんばるか」
「う、うん!」
二人は歩き始めた。柔らかい雨の下。思いついて、栗田はリュックから傘を取り出した。
「あ」
「どうした」
「宿題忘れてた。物理の」
「手伝わねえぞ」
「ええ〜、頼むよヒル魔」
「たまには一人で苦労しやがれ」
「う〜ん……」
困ったような顔の栗田。そんな栗田を見てヒル魔はケケケと笑う。
なぜだか栗田も笑った。帰ったらノートを広げて悪戦苦闘しなければならない。でも何だか心が明るい。
傘の下。まん丸な巨体と細い長身の二人は歩く。歩道橋の階段を下りて駅へと。
そしてその先へ。
前を向いて歩んでいく。
夕闇に包まれて。
静かに胸に押し寄せる思い。
静かにその音を聴きながら。
あの時観た試合、あの時見た歩道橋の光景。そして何より、金髪の友の横顔。いまも記憶に鮮やかに残る。栗田のアメフトに対する思いは成人したいまも変わらない。フィールドに足を運んで声援を送ることも、配信を見て思わず声を上げてしまうことも。敗れた側のチームに同情してしまうこともある。
きっとつらいだろうな、でも頑張ってほしい。心からそう思う。だって嫌なことばかりじゃない。何より友達が、仲間がそこには居る。大切な友人、大切な仲間が。
苦しくても歯を食いしばって、ともに歩む。そんな貴重な時間を過ごしてほしい、かつて自分がそうだったように。
それは宝物のような経験として記憶として、いつまでも心の中に残るのだ。
大切な宝物として。
心の中の、宝石として。
【END】
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