READY GO!

 秋の風がそろそろ冷たくなる季節。
 阿隈あくま街道を下っていた一台の乗用車が左折して、泥門高校の裏門をくぐった。
 来客用の駐車スペースに停まったその車からスーツ姿の青年が降りる。まだ若い、20代後半だろうか。日に焼けた肌、きりりと太い眉の精悍な風貌。細身だが筋肉質であることが一目で見てとれる。
 名を安達という。
 泥門高校のOBで、野球部に在籍していた。ある大学にスポーツ推薦で進学し、卒業後は母校の野球部でスカウトの任についた。若手だがよく回る口と闊達な人柄で上司からの受けも良い。
 今年はこの安達の手で、一人の野球部員が泥門高校から安達の務める大学に進むことが決まっている。1年生の時から、つまりは2年前から安達が目をつけていた外野手だ。
 つい先日、大学から正式にスポーツ推薦入試の合格発表があった。該当の生徒はめでたくその中に名を連ね、本人やその他の関係者とともに安達もほっと一息ついたのである。
 そのため今日はもう特に重要な用事というわけではない。簡単な事務手続きと連絡事項を伝えに──上司は連れず一人で身軽に──訪れた。
 通用口で靴を脱いでスリッパを履く。左手の事務室に来訪を告げて、さて、と勝手知ったる校舎の中を歩いていく。
 校長室で用件を手早く済ませた。書類の入ったブリーフケースを下げて、体育教官室にも顔を出して挨拶をする。どの教師からも好意的な視線を向けられて何だか満足だ。
 野球部はもうすぐ練習が始まりますよ、見ていきませんかと告げられた。言われるまでもなく、安達もそのつもりだった。いったん車に戻って荷物を置き、東の昇降口からグラウンドに出た。

 ──ああ、いい眺めだ

 2、3年生用の東の昇降口を出ると、目の前に泥門高校のグラウンドが広がる。在学中から安達はここで眺める風景が好きだった。広いグラウンド、右手に泥門高校の正門。南東に向いたグラウンドが大きな太陽に照らされ、その下で多くの運動部員が賑やかに動く。野球部の活動拠点はグラウンド端のネット部分だ。来るのが少し早かったかな、と安達は思った。部員たちはまだユニフォームに着替えて三々五々集まっているところだ。
 安達は他の部の練習場所に目を向けた。サッカー部、陸上部。テニス部は早くも活動を始めているらしい。校舎裏のテニスコートから小気味の良いボールの音がかすかに聞こえる。
 あと、運動部と言うと。そう考えた安達の頭にアメフト部という単語が浮かんだ。そう言えばさっき通ってきた廊下にでかでかとポスターがあった。「祝! 泥門デビルバッツ関東大会出場!」と。
 面白いな、と思った。安達の記憶では泥門のアメフト部はいわゆる弱小チームだ。たまたま今年は人材に恵まれたんだろうと思った。ただアメフト部には一人、面白い男がいる。安達はそれを知っている。去年の春に学校を訪れた時に知り合った。
 会いに行くか、とふと考えた。どうせまだ少し時間潰しをしなければならないのだ。グラウンドの様子から見てまだ出てきてはいないようだし、部室で着替えでもしているのだろう。行ってみよう。
 階段を下りて安達はグラウンドに下り立った。確か、アメフト部の部室は体育館裏にあったはずだ。帰宅部らしい生徒たちが正門から出ていくのを眺めながら、ゆっくりとそちらに回り込んで行った。



 ──なんだ、ありゃ

 体育倉庫の前を通り過ぎるまでもなく、何か大掛かりな部室らしいものが見えた。ど派手な巨大な看板。きっとあれはいま自分が探している男の手腕によって掲げられたものだろう。ますます面白いな、と愉快に感じた。
 その部室の戸が勢いよく開いた。飛び出してきたのはユニフォーム姿の小柄な少年。こう言ってはなんだが猿にそっくりだ。安達の方向へ向かって駆けて来ながら顔だけは後方に向けて叫ぶ。
「ヘーイ、グラウンド一番乗り! 先行くぞセナー!」
「ちょっと待ってよモン太〜!」
 次に同じような小柄な体躯の少年。二人とも安達には見向きもせずに駆けていく。
 自分の読みが当たったなと安達は思った。これならまだ目的の男も部室にいるだろう。

 ──ん?

 アメフト部の部室を目指して歩む安達。その目が地面のあるものに留まった。なんだあれは。マンホールの蓋のような形状だが、こんなところに……?
 丸い鉄板。こんなところにあるはずのないもの。よく見たらそのそばに穴。まごうことなき穴だ。なんだあれは。
「おおッ?」
 安達の口から本人にも予期せぬ声が漏れた。ぽっかりと地面に空いた穴、そこからいきなり金髪がにゅっと出現したのだ。
 地面からまるで生えたような金髪頭。安達の声を聞きつけたのか、それはぐりんと──ほぼ180度近く──回ってこちらを向いた。
「お」
 耳まで裂けた、悪魔めいた口。
 あっけに取られている安達の前で、金髪頭はひょいと身軽に穴から全身を現した。
「安達サンじゃねえか」
「……おお、久しぶり」
 何とか気を取り直して安達は答える。
「お前、なにやってんだ。この穴は何だ」
「何って、入り口」
「だから何の」
「武器庫」
 ケケケと今にも笑い出しそうな、いつもの顔。まだ制服姿、両手はポケットだ。
 苦笑が安達の顔に浮かんだ。
「全く、去年から変わらないな、お前は。いや去年より一段とワルくなってるな」
「ケケケ、お褒めの言葉にあずかり恐悦至極」
 この金髪頭──言うまでもなくヒル魔である──と安達は去年の春に知り合った。安達の担当業務はあくまでも野球部の視察とスカウティングだ。だが校舎内を歩いている時にヒル魔から声をかけてきた。少し話をしてみて、安達はヒル魔を恐ろしく頭がいいなと感じた。どうして俺に声をかけたんだとストレートに聞くと、にやりと悪い笑みとともに、コネはあちこちに作っといた方がいいだろ? という返事。
 部員数たった3名のアメフト部。そのアメフト部を強くするためならどんな手段でも。そういったヒル魔の態度を安達はむしろ小気味良く思った。
 ただ、だからと言ってもちろんアメフト部の成長に安達が直接手を出せるわけがない。それに泥門高校には足繁く通っていてもヒル魔との時間を持てることはわずかしかなかった。
「マジで久しぶりだな、例の方は上手く行ったんだろ」
 ヒル魔の言葉。安達の仕事のことだろう。
「ああ、お陰さんでな」
「ケケケ、そりゃ良かったな」
「それよりさっき知ったが、関東大会だって?」
「ああ、まあな」
 派手な部室の引き戸は開け放しだ。安達とヒル魔が立ち話している間にも部員たちが一人、二人と勢いよく出てきてグラウンドに向かう。
「良かったじゃないか。頑張れよ」
「言われるまでもねえ」
「悔いのないようにプレーしろよ。お前ももう2年だしな」
「ああ、わかってる」
「わあ、遅れちゃう〜!」
 まんまる顔の巨漢が飛び出した。どたばたと走っていく姿を見送ってから、安達は少し声をひそめた。
「なあ、ヒル魔」
「何だ」
「お前さ。いつまでアメフト続けるつもりだ」
「…………」
「前も言ったけどな。大学入ったら野球はどうだ。お前の強肩ならどこでも通用するぞ」
 ヒル魔は黙って安達を見つめる。
 安達はここぞとばかり言葉を重ねた。
「今年はたまたま人材に恵まれたかもしれないが、こんな弱小部じゃお前がもったいない」
「…………」
「しょせんアメフトなんてこの国じゃマイナースポーツだ。それに関東大会だっていつまで残れるか怪しいもんじゃないか」
 一瞬、ヒル魔の目が光ったような気がした。だがその光を隠すようにヒル魔は軽く目を伏せて笑った。
「……ケケ」
「なあ、考えてみてくれ。悪いようにはしない」
 ヒル魔は答えない。にやにやと笑みを見せるだけだ。
「いつでも連絡待ってるからな」
 金髪頭の肩に軽く安達は手を置いた。さりげなく肩を揺すってヒル魔はその手を外す。
「ケケケ、まあ見てろって。じゃあな」
「おう、またな」
 ヒル魔は安達に背を向けた。安達はその背をじっと見つめる。
 肩に手を置いた時に分かったが意外に細い。威嚇的な金髪と対照的だ。悪魔めいた尖った耳朶、ぴんと伸びた背筋。制服の襟から覗くうなじ。それに安達は目を当てた。

 ──…………

 不意に腹の底に動くものを感じた。目の前の少年はもう自分に目を向けず歩き去ろうとしている。そのうなじから安達は目を離すことができない。
 アメフトは言うまでもなく屋外スポーツだ。だがヒル魔はそれほど日に焼ける性質たちではないらしい。安達が視線を当てる首筋。華奢なわけでは決してない、だが細く白い。
 異性よりは同性を好む。そういう自分の性質を安達は自覚している。何人か同性との経験もある。悪い虫が起こったな、と感じた。まさかこんなところで。
 だがその"虫"に安達は従うことにした。目の前の少年は魅力的だ。どうして今まで気づかなかったのかと悔やまれるほど。
 一仕事終えた後の解放感もあったのかもしれない。たちの悪い性癖だ、それは分かっている。でも何とかしてこいつを──モノにしたい。してみたい。考えたこともなかったがこいつは"上玉"だ。
 安達は息を吸い込んだ。

「ヒル魔」

 後ろから呼びかけるとヒル魔が振り向いた。口元にはいつの間にか膨らむガム。ぱちんと弾ける。
「あ?」
 ぞんざいな返事。どこか面倒臭そうだ。もう安達には何の興味もないらしい。腹の底に動くものがじわりと熱を帯びるのを安達は感じた。
「話がある」
 足を止めたヒル魔。再び安達の方へ体を向けた。
「なんだよ」
「あのな」
「…………」
「スカウティングの極意を教えてやるよ」
「…………」
「強くしたいだろ、チームを。それならお前にもそういう知識は必要なはずだ。スカウティングってのは結局、人を見る目ってことだからな」
「…………」
 引き結んだ口元からゆっくりと膨らむガム。ヒル魔は無言で安達を見つめる。
 視線を外さぬよう安達は意識した。ある種の熱を帯びたおのれの目。この金髪頭は悟るだろうか。
 ぱちん。ガムを弾けさせてゆっくりとヒル魔が口を開いた。

「何だそりゃ」

 乗ってきた。しめたと思った。そんな風はおくびにも出さずに、故意に安達はがりりと頭を掻いてみせた。
「んー、まあここじゃ何だな」
「…………」
「手間は取らせない。場所を変えないか。……邪魔の入らないところで」
 少しだけ言外の意味を匂わせてみる。
 すう、とヒル魔は半眼になった。こちらを窺うような、吟味するような視線。意識して安達はその目を見つめる。
 こいつ、なに考えてやがる。そう思った途端、ヒル魔はまた低く笑った。
「ケケ」
「…………」
「じゃあまあ、ご教示願うか。……邪魔の入らねえところで」
 ざわりと安達の中の"虫"が疼いた。もしかしたらこいつも俺と同類なのかもしれない。さて、これからどうするか。
 ヒル魔が歩き出した。相変わらずポケットに両手を突っ込んだまま。顎で軽く安達を誘う。安達は従った。

 体育館脇の細い通路を歩いて校舎の西棟に入る。廊下を進んである教室へ。後方の引き戸をヒル魔は片足でぴしゃりと開けた。中には誰もいない。
 安達もヒル魔に続いて教室に入った。後ろ手で戸を閉める。
 行儀悪く大股開きでヒル魔は机に腰を下ろした。安達は入り口近くでそのヒル魔をじっと見つめる。
「で? どんなこと教えてくれンだ、安達センセー」
 にやりとたちの悪い笑み。少し顎を引いて上目遣いのその顔を、安達はしばらく見つめた。
 
 ──こいつ、分かって言ってやがる

 そう感じた。それなら話が早い。
 だがあくまでも手綱は自分が握らなければならない。こっちのペースで。いくら"分かって"いるようでも目の前のこの金髪頭はまだ子供ガキだ。どっちが上か、分からせてやる。

 安達は口を開いた。
「──そうだな。まずは」
 言いながら一歩踏み出す。

「スカウティングで大事なのは有望な選手を見つける目を養うことだ」
「…………」

「まずはできるだけたくさんの選手を見なきゃならない」

「どんな人材なら、どんな才能なら自分のチームの役に立つか、見極めることが必要だ」

「そしてこれだと思う選手が見つかったら」
 また一歩踏み出す。

「間近で見て会話を重ねて、自分のチームに合った性格かどうかも判断する。その上で」

「説得する。入団させるためにな」

「だから何より信頼されることが重要だ。人柄ってことだな。それに」

「人脈作りもとても大事だ。いい選手が見つかったら連絡してもらえるように」

「色んな"ボス"がいる。校長、監督、後援会の会長。地方議員とかもそうだな」

「そういう"ボス"に信頼され頼られることも大切だ」

 金髪頭の目の前に安達は立った。
 足を開いて座り込むヒル魔の目の前に。
 じり、と身を寄せる。

「あるいは、な」

「あるいは──そういう連中に可愛がってもらえるような愛嬌も」

「生意気面じゃあ通用しない」

「鼻っ柱の強い小僧なんて顔じゃ誰からも顧みられない」

 ずるそうな瞳で自分を見ている金髪頭。
 その金髪頭に安達は身を寄せる。
 じりじりと。
 安達は声を低くした。

「誘いがあれば素直に乗ることだ」

 視線を外さずに。
 近々と顔を寄せる。
 そうしながら両手を金髪頭の腰に当てた。
 ヒル魔は抗わない。

「可愛がられるのは結局自分の得になる」

 低くささやく。

「少しはしおらしく振る舞うことも覚えないとな」

 少し上目遣いな金髪頭。
 その顎に安達は片手をかけた。
 互いの息が唇にかかる。

「分かるか」

「……ヒル魔」

 ヒル魔の目が動いた。
 それは安達の唇を見つめ──ゆっくりとまぶたをおろそうと。
 安達は目を閉じた。
 その瞬間。

 がらりと戸の開く音。安達の心臓は飛び跳ねた。

「何してる」

 ぎょっと首をねじると知らない少年。鋭い眼光はまっすぐに安達へ向けられている。モヒカンスタイルのたくましい少年だ。
 その口から二言め。

「誰だあんた」

 安達は答えられない。現れた少年、その目に射抜かれてただ立ち尽くす。
 ヒル魔が動いた。猫科の動物のようにしなやかに。安達から離れた金髪頭。するりとモヒカン頭の腕の中におさまった──当たり前のことのように。これ以上はないのではないかと思わせる自然な仕草。
 ヒル魔を抱えてモヒカンの少年は笑う。
「悪いがこれは俺のでな。今後手出しは無用にしてくれ」
 その腕の中でヒル魔もケケケと笑んだ。耳元近くまで裂けた唇、悪魔めいた赤い舌。安達に向けて突き出した中指。その光景を呆然と安達は眺めた。
 モヒカンの少年の言葉。ヒル魔に向かって。
「悪さしてる場合じゃねえぞ、試合が目の前だ。行くぞ」
 ふたりの少年。
 あっという間に安達の視界から消え去った。

 一人、残された安達。
 しばし立ちすくんだあと、肩を落としてため息をついた。
 ──はあ
 がりり、と頭を掻く。
 ……やられてしまった。しかも一回り近くも歳下の学生に。
 コケにされた、という思いがこみあげる。でもどうしようもない。
 まあ仕方ない、と思った。たまにはこういうことも起こるってことだ。
 少しばつの悪い思いで教室を出た。用事はとっくに済んでいる、退散しよう。野球部の練習を見る気ももう失せてしまった。
 切り替えが早いのは自分の長所だ。また別のチャンスもあるだろう。
 靴を履いて校舎の外に出た。
 とぼとぼと歩いていく安達の姿。
 秋風がひゅうとその身を撫でていった。



 一方、その頃のふたりの少年──ムサシとヒル魔。
 何事もなかったように部室に戻る。隣接するロッカールームで着替えながらヒル魔は携帯電話で誰かに何事か命令しているようだ。気にせずムサシは手早く自分の着替えを済ませた。
「ケケケ」
 何だか勝ち誇ったような声で笑う金髪頭とともにグラウンドへ向かう。そうしながらムサシは言った。
「急にポケベルなんかで呼び出しやがって、どうしたかと思ったぞ」
「持たせといて役に立ったな、ケケ」
「俺が来なかったらどうするつもりだったんだ」
「まあどうにかしたさ。それより俺がいる場所よく分かったなテメー」
「お前があいつと歩いてくとこ見てたからな」
「へえ、そうか」
「あいつ好き者の匂いがぷんぷんしてたぞ。どっかシケこむつもりなんだろうと思ったから片っ端から見て歩いた」
「よく見てやがったな。そんな匂ってたか」
「とぼけるんじゃねえ、分かってやがったくせに」
「ケケ、まあいいタイミングだったよな」
「ああいう悪さはもうするな」
「たまには面白ェぞ」
「面白いとかそういう問題じゃない」
「なんだ、妬いてんのかよ」
「馬鹿」
 肩を並べて歩きながらムサシは笑った。
 そのムサシを横目で窺うヒル魔も同じように笑う。どこか気持ちよさそうな笑みで。
「あっ、ムサシさん、ヒル魔さーん!」
 体育倉庫の前を通ってグラウンドに入ったふたりに声がかかる。向こうからひびくセナの声。
「どこ行ってたんですか、練習始まってますよー!」
「いま行く」
 声を張り上げたムサシにヒル魔が言った。
「なあ、糞ジジイ。あそこまで競争しようぜ」
「何だ急に」
「かけっこだ。負けたら──そうだな、負けた方からちゅー1つってのはどうだ」
 あっけに取られたような顔でムサシはヒル魔を見た。その視線がにやりと笑う金髪頭と絡みあう。
 莞爾とムサシは笑った。
「よし、受けた」
「ケケケ」
 歩みを緩めて立ち止まる。
「Ready?」
 ヒル魔の声。耳に心地よくムサシにひびく。悪戯好きの悪魔のような弾む声。

「Go!」

 ふたりは同時に地を蹴った。
 よく晴れた空の下。
 全速力で駆けて行く。
 チームメイトたちのもとへ、まっすぐに。

 底抜けに明るい、空の下。

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