恋の味 ──Part.2

 恋とか愛とか、そんなものは自分に無縁のものと思っていた。それがそうでもないと気づいたのはムサシがいなくなってからだ。家の事情でデビルバッツから、そして泥門高校からもムサシは姿を消した。そうなってはじめてヒル魔は自覚した。ムサシへの想い。
 胸を刺す痛み。そんな痛みを持て余しながらヒル魔は考えた。どうすればいいのか。
 ムサシのアメフトに賭ける思い。デビルバッツへの思い。そして栗田や自分にかける思い。そういうものを信じようと思った。賭けるしかない、と。そう決意してあの手この手でムサシを待った。校長を脅してムサシを休学扱いにさせ、武蔵工務店には部室の改築、増築という仕事を依頼して。
 ヒル魔の念願はまず半分だけ叶えられた。一年半の歳月を経て、ムサシは部へも高校へも復帰を果たしたからだ。心が震えるような嬉しさをヒル魔は噛み締めた。部員全員から歓迎され、迎えられるムサシ。その姿をいつまでも見ていたいと願ったものだ。
 ただヒル魔の思いは少し複雑だった。腐れ縁の親友、なくてはならないデビルバッツのキッカー。ムサシの存在は自分にとってそれだけではないのだ。好きだ、慕わしい。そんな気持ちを抱いている自分。どうしたらいいんだろう。
 告白ということも考えた。だが断られたら、と──ヒル魔にしては珍しく──臆する気持ちが湧いた。ムサシとのきずな、それはとても大切なものだ。自分の気持ちを告げることでそれがもしも壊れたら。そんな危険をおかすのは──怖い。
 いくつもの試合。文字通りの、死闘。それらを仲間と共にかいくぐりながらヒル魔は考えていた。答えは出ない。思い詰めて、いっそムサシを酔いつぶして押し倒してモノにしようかとまで考えた。何度もそう思った、けれどあと一歩のところでヒル魔は踏みとどまってしまった。自分がもどかしい、じれったい。そんな焦りを抱きながらも。
 高3の夏。揃って部活を引退した夏が終わり、2学期が始まる。進学クラスに籍を置く栗田にもヒル魔にも、毎日の補習や課題が押し寄せる。とにかく、前に進まなくてはならない。糞ジジイとの関係。思えば思うほどふさぎこむような気持ちにも襲われる。けれど答えが出ないのだ。あいつは俺をどう思ってるんだろう。訊いてみたいような怖いような。どっちつかずで地に足がつかない。ああ、どうしたらいいんだろう。



「ヒル魔、ヒル魔」
 教室の片隅。
 頬杖をついて考え込んでいるヒル魔のもとへ、愛すべき巨漢がやってきた。
「なんだ、糞デブ」
 栗田は何やら一生懸命に笑みをこらえているような顔だ。わくわくしているような顔にも見える。
「あのね」
 ひそひそ声で栗田は語る。
「ムサシがさ、同じクラスの子に告白されたんだって!」
 心臓が飛び跳ねた。血が逆流するような感覚。最大限の努力を払ってヒル魔は冷静な声を出す。
「……それで」
「いやなんか断ったらしいよ。そんな気はないからって」
「……へえ。もったいねえことしたな糞ジジイ」
 複雑な心境。落ち着き払った顔を装いながら、心にもないことを言いながらヒル魔の胸に重いものが押し寄せる。栗田の言葉。ムサシは断ったのであるらしい。そう聞いて安堵のようなものも湧いている。
 ヒル魔の心境も知らず、ややはしゃいだ風にお喋りを続ける親友。耳を傾けるふりをしながら、ヒル魔はまた胸の中で重いため息を一つついた。



 カリカリとノートにペンを走らせる。板書を写し、教師の解説と説明に集中する。周りはみなどこか必死な面持ちだ。
 泥門高校の平均偏差値は決して高いとは言えない。それでも今ここにいるのは進学科クラスの面々、高3の進級時に大学への道を選んだ者ばかりだ。早くに進学を断念し、普通科へ再編入してしまった者もいる。だが秋に入ったこの季節では、クラスはもう覚悟を決めた者ばかりだ。毎日、6限までびっしり詰まったカリキュラム。さらにその後の補習。みなある種の悲壮感を漂わせて臨んでいる。
 ヒル魔は雪光や姉崎と並んでクラスでもトップレベルの成績を誇る。志望している最京大学の合格率も、模試の判定を見る限りはほぼ安泰だ。それでも万が一ということもある。できる限り真面目に補習は受けることにしている、それに何より親友の──栗田の──成績が心配だ。そういう意味もあった。
 顔を上げて黒板を見る。教師の説明している構文。指で指し示すポイントを見て確認する。隣席の栗田も真剣な、食い入るような風情だ。──と。
 教室の最後部の窓際。その席にいるヒル魔の耳にある音が聞こえた。開け放した窓、グラウンドから教室にまでひびいた音。
 胸が少しとどろいた。ボールを蹴る音だ。それも現在のデビルバッツのキッカーではない。ヒル魔の想い人──ムサシのキックの音。
 思わず目を向けた。放課後のグラウンド。さまざまな体育会系の部が練習やトレーニングに励んでいる。もちろんアメフト部、バッツの面々も。今はパート練習の時間のようだ。オフェンスとディフェンスに分かれてメンバーが動いているのが分かる。この春に入部した、待望の新しいキッカーも。サッカーの経験がありボールのコントロール力は並はずれている。そうした点を力強くアピールして入部テストに臨んだ一年生だ。
 チームから少し離れたところにヒル魔の想い人はいた。ジャージ姿でゴールネットからボールを手に取るところだった。その足元に別のボールが転がってきた。
「ムサシさーん!」
 チームから1年生の叫ぶ声。
 ヒル魔に背を向けるようにして、ムサシは転がってきたボールを受け止めた。駆け寄ろうとする部員を押しとどめるような仕草をして、投げた。
「ありがとうございます!」
 ボールを抱えて、ぺこりと頭を下げる部員。もとの場所へ駆けて戻って行く。
 ──…………
 ヒル魔の手からペンがこぼれ落ちた。
 背を向けているムサシ。その背中を一心にヒル魔は見つめる。
 ──こっち向け
 半ば無意識にそう思った。こっち向け、糞ジジイ。
 ムサシは部員を見送って振り返った。その瞬間。
 ──!
 心臓が止まるような衝撃。
 振り返ったムサシが顔をあげたのだ。その目は真っ直ぐに──ヒル魔へ。
 慌ててヒル魔は顔を背けた。黒板の方向へ。だがもうそんなものは目に入らないし何事か説明している教師の声も聞こえない。心臓は強く跳ね上がり鼓動する。胸が熱い、顔もなんだか熱くなっているような気がする。クソ、どうなってんだこれは。
「──ヒル魔」
 隣席の親友の声。ひそひそ声だ。ヒル魔は我に帰った。
 かろうじて答える。
「……なんだ」
「ここ、分かんない」
 こそこそとノートを指し示す栗田。
 落ち着け、とおのれに言い聞かせながらヒル魔は意識をそちらに向けた。



 部活からは引退したしクラスは別々だ。だが栗田やヒル魔の補習が終わるまでムサシは待ってくれている。そうして3人で帰るのが毎日の習慣で、いつしかそれはヒル魔の密かな楽しみになっていた。グラウンドの脇を歩いて門を出る。日の傾きかけた夕暮れの、いつもの河原道を通って。屈託のない栗田のお喋り、それに相槌を打つムサシの──想い人の声。いつまでも聞いていたいと願うような気持ち。
「水田くんはどうだい、練習見てやってたんじゃないの」
 バッツの新しいキッカーの名を栗田はあげた。
「いや、俺は1人で勝手に蹴ってただけだ」
「え、そうなんだ。見てほしいとか言われなかったの?」
「ああ、あいつはたまにそういうことを言ってくるな。言われた時は見てやるけど、そういつもじゃあな」
「ふうん、でも水田くんはけっこうムサシを頼りにしてると思うけど」
「俺とあいつじゃタイプが違うからな。距離は今ひとつだがコントロール力は大したもんだ。俺の自己流のやり方を教えてもどうかと思ってな」
「そうか〜。でもいい子が入ってきてくれて良かったよね」
「そうだな。先が楽しみだ」
「ほんとにそうだね! 秋大会、始まったら応援しに行かなきゃ」
「そうだな」
「ああ、楽しみだな〜」
「楽しみがあるのはいいが、お前勉強の方は大丈夫なのか」
 途端に栗田は情けない顔をする。
「わあ、そうなんだよ。なんとかヒル魔に助けてもらってやってるけどさ」
「やっぱりついていくのは大変か」
「大変だよ。勉強がこんなにきついものだなんて初めて知ったよ」
「まあ頑張るしかないな」
「うん、頑張るよ。──そうだ、勉強って言えばさ」
「?」
「さっき補習の時にヒル魔がなんだか赤い顔しててさ。風邪でも引いたのかと思ってびっくりしたよ」
 黙れ糞デブ。そうヒル魔は心の中で念じる。
「あれどうしたんだい、ヒル魔──痛ッ! なんで蹴るのさ」
 ヒル魔はひたすら前を向いて歩む。栗田はともかくムサシの方を見ることができない。また顔に血が上る。
「なあ、栗田。ヒル魔」
 ムサシの声。
「え、なんだいムサシ」
「俺はな、決めた」
「何を」
「卒業してもアメフトを続けたい。それで、クラブチームを作ろうって決めた」
「クラブ……チーム?」
「そうだ。俺と同じように考えてるやつも他校にはけっこういるらしい。そういうのを集めて、アメフトのチームを作る。社会人リーグに入ってアメフトを続けようと思う」
「わあ、ほんとかい!」
 栗田の上ずったような声。
 ヒル魔も思わず声を出した。
「ケケケ、そりゃいいな」
 ムサシの思いもよらぬ計画。なんだか、じんわりと弾むような気持ちが押し寄せる。何よりも愛する競技、アメリカンフットボール。そういうきずなで、自分とこの男はまだ繋がっていられるのだ。限りない安堵、しみじみとした嬉しさ。
 心からの言葉がこぼれ出た。
「勝てよ。目標はライスボウルだ」
「そうだな」
「うわあ、なんだかすごく嬉しいよ。頑張らなくちゃ!」
 子供のように栗田ははしゃぐ。
「テメーはまず受かるための算段をしろ、糞デブ」
「そりゃそうだけどさ、成績を上げるの大変だよ〜」
「テメーは何より弱気なのがダメだ。アメフトと同じでビビらしたら勝ちだ」
「ビビらせるって、誰をさ」
「とにかく周りだ、周り」
「そんなこと言われても〜」
 少し困ったように。でもどこか楽しそうに栗田は笑う。
 ムサシもヒル魔の暴論に吹き出している。
 夕焼け空の下の河原道。
 3人で笑みを交わす河原道。
 いつまでもこのままでいられたらいいのに。
 河原道の途中でいつも先に栗田が別れる。じゃあまたね、と手を振りながら堤防を下りていく。
 ふとヒル魔は話題に詰まった。しばらく黙って足を運ぶ。何を話そう。隣を歩いている男。卒業後の、胸が躍るような計画を話してくれた。それについて聞けばいい、そう考えた。だがヒル魔が口を開くより先にムサシが言った。
「なあ、ヒル魔」
「? なんだ」
「なんでチームを作るかって言うとな」
「…………」
「俺自身がアメフトを続けたい。そういう気持ちがあるのはもちろんだが」
「……?」
 かすかな砂利の音を立てながらふたりは歩む。
 前を向いて足を運ぶ。
 そうしながらムサシは言った。前を向いたまま。
「お前との縁を切りたくない。そう思ったからだ」
「…………」
「お前と、ずっと繋がっていたい。そう俺は思う」
 ヒル魔の足が止まった。
 ムサシも同じようにした。
「ヒル魔」
 呆然と立つヒル魔。
 そのヒル魔の目をまっすぐに見つめて。
 ムサシは手を差し出した。
「できることならこの手を取ってほしい。ヒル魔、お前に」
「…………」
「お前が好きだ。俺と付き合ってほしい──今までとは違う意味で。こんな気持ちは迷惑か」
「…………」
 ムサシの目。まっすぐにヒル魔を見つめる。差し出された手。
 ヒル魔は何も言わない。いや、言えない。目の前の光景が信じられない。まさか、そんなことが。いいんだろうか、俺はどうしたら。
 心臓が。胸が、苦しい。破裂しそうだ。惚れた相手からの告白。差し出された手。簡単なことだ、この手を取ればいいだけだ。なのにヒル魔は動けない。強張る舌。固められてしまったように動かない。
 無我夢中でヒル魔は口を開こうとした。ごくりと喉が鳴った。舌を動かす。

「……考えさせてくれ」

 その瞬間、舌を噛み切りたいと思った。
 なんで、こんなことを。よく回ると呆れられるほど滑らかな舌が、なんでこんな風に。呪わしいこの糞舌。ああなんでこんなことを。
 だが救われるような思いをしたことに、ムサシはそれほど落胆するような表情を見せなかった。
「そうだな。返事は焦らなくてもいい」
「…………」
「お前の返事がいつになろうと俺の気持ちは変わらない。待ってる」
「あ、……」
「? なんだ、ヒル魔」
「あ、明日──」
「明日?」
 半ば必死でヒル魔は頷いた。明日、返事する。そう言いたいのに言葉が出てこない。でもムサシは理解してくれたようだ。分かった、と短く答えた。
 それからふたりはまた河原道を少し歩いた。栗田の次はムサシが別れていく。じゃあな、と堤防を下りていく。1人になった河原道。そこからどうやって仮住まいしているホテルに帰ったのか、ヒル魔には記憶がない。それどころか次の日も朝から日中にかけてどう過ごしていたのか、まるで記憶がない。雲の上にいるような感覚に包まれていた。
 そして──放課後。

 夕暮れの河原道。昨日と同じように、栗田が去ったあと。
 昨日と同じように、ムサシが手を差し出した。
 ヒル魔はその手をじっと見つめた。
 昨日一晩考えていた。ホテルの部屋で。この手を取ってしまったらもう引き返せない、と。でも自分は心から惚れているのだ、この目の前の男に。ムサシという男に。心から信頼できる、ムサシという男に。それなら──自分の返事はもう決まっている、迷うことなどない。
 大きく息を一つついた。それから、踏み出そうとヒル魔は思った。心の底から好きだと思う、この男の気持ちを信じよう。
 差し出された手。
 その手にヒル魔はおのれの手を伸ばした。
 雄々しく。
 決意と、勇気と、そして想いをこめて。



 恋の味。
 それはひとに勇気や力を与えてくれるものだ。
 ムサシは勇気を出しておのれの気持ちを告げてくれた。
 ヒル魔も勇気を持ってムサシに応えた。
 酸いも甘いも恋の味。
 どんな経験をしようがふたりなら乗り越えていける。
 もう、ひとりではない。
 巨大な夕陽が沈みかかる。オレンジ色に染まるふたりの頬。
 手を繋いで、ゆっくりとふたりは歩いて行った。

 これからの道を。

 ──ふたりで歩む道を。



【END】


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