早春
実家に未練はない。ムサシとの同棲生活はすでに長く、ふたりで暮らす中古の賃貸マンションが自分の居場所であり、帰るべき家だ。ヒル魔はそう思っている。ただ時折何かの用事で生まれた家──現在は父のみが暮らす家──に足を向けなければならないこともある。その日もそうだった。
鍵穴に差し込んだ古い鍵をひねり、がらがらと引き戸を開ける。玄関で靴を脱いでいたら奥から父が顔を覗かせた。
「なんだ、来たのか」
「ああ、いたのか。久しぶり」
「何か用か」
「アルバム取りに来た」
「そうか」
上がり込んで廊下の奥の階段に向かおうとして気がついた。父は礼服姿だ。白いネクタイをつけている。
「いま出かけるところだったんだ」
「結婚式だろ」
父のネクタイに目をやってヒル魔は答えた。
そうだ、と父は言った。
「久しぶりなのに茶も出せなくて悪いな」
「なに言ってんだ」
ヒル魔は軽く笑った。
「早く行けよ。鍵はかけとく」
「ああ」
ヒル魔とは逆の方向──玄関に向かいかけて父はふと立ち止まった。
「お前は」
「あ?」
「お前は結婚しないのか」
「……は?」
不意を突かれた。
「俺が?」
「そうだ」
「結婚?」
「うん」
「誰と」
「誰って、それは武蔵くんだろう」
「…………」
身が強張る。何も言えなくなってしまった。落ち着け、と自分を叱る。
「……なんでそう思うんだ」
「なんでも何も」
父は笑った。穏やかに。
「何もしてやらなかったが、これでも親だ。分かることもある」
「…………」
ヒル魔は父を見た。
父もヒル魔を見ている。
静謐な目。
ふとヒル魔の胸を思い出がかすめた。遠い記憶。いなくなった母。父の暗い目。
あの頃と比べて随分遠いところに来たようだ。でも今まで来た道を自分は後悔していない。ひとりで歩いた道。親友と、仲間と──そして恋人と歩いた道。
そう思うと少し体の力が抜けた。
「……ケケ」
視線を外して低く笑う。
「まあ、そのうちな」
父は何も言わなかった。黙って、静かに微笑んだ。
「じゃあ、またな。元気でやれよ」
「ああ」
**********
黒のスラックスを履く。アンダーシャツの上に白のドレスシャツ。ボタンを留めて裾をスラックスに押し込み、チャックを上げる。ベルトを締める。上着はもう着るだけの形でハンガーにかけてある。白いネクタイを首にかけて締めようとしたがうまくいかない。弱ったな、またか。そうムサシは思った。
「おーい」
自室を出て居間にいる恋人に声をかける。なんだ、と返事がした。
「ヒル魔ー、頼む」
居間から恋人が出てきた。廊下で向かい合う。
「またかよ」
ヒル魔は呆れたような顔だ。
「すまん、どうも駄目だ」
ムサシはネクタイを締めるのが苦手だ。高校時代の制服のネクタイはゴム式だからまだ良かったが、それでも内心窮屈で仕方なかった。社会人となって冠婚葬祭で礼服を身につける機会はぐんと増えた、そのたびに首元の装いには苦労した。手先の器用な恋人と同棲を始めて本当に良かったと心中では思っている。
ヒル魔は慣れたものだ。しょうがねえな、そう言いたげな顔でムサシの首元に白い細い布を巻く。するすると低い衣擦れの音を立てながら。
やっぱり窮屈だな、そうムサシは感じた。どうも、いつまでも自分はこの感触に慣れそうもない。
「ほれ、できた」
恋人がぽん、とムサシの胸を叩く。
「ちっとの時間なんだから我慢しろよ。緩くなんかできねえからな」
「ああ、分かってる。いつもすまないな」
「いいから早く支度しろ。遅れちゃまずいだろ」
「うん」
ムサシは再び自室に入る。上着を羽織り、次は持ち物をあらため始めた。
行ってくる。そうムサシの声がして、ヒル魔は振り返った。居間の出入り口に恋人が立っている。送り出そうと立ち上がった。
廊下を歩きながら短い会話を交わす。
「帰り、遅くなりそうならLINEする。まあ大丈夫だろうとは思うが」
「分かった。ご祝儀持ったか」
「持った」
「財布は。ケータイは」
「ああ、持った」
「気をつけてな」
「うん」
「飲み過ぎるなよ」
「うん」
玄関に出しておいた黒の革靴。足先を入れる。やっぱりこの感触には慣れないな。そうムサシは思った。
爪先を軽く打ち付ける。さて、行くか。
「じゃあ行ってくる」
「ん」
恋人に背を向けてドアを開けようとノブに手をかけた。と、ヒル魔が言った。
「そうだ。糞ジジイ」
「?」
「俺たちもするか」
「? 何を」
ムサシの恋人はにやりと悪戯っぽい笑みを見せた。
「結婚、てやつをな」
胸がとどろいた。ムサシの動きは止まってしまった。半ば呆然と恋人の顔を見る。
「お前、……」
唾を飲み込んでかろうじて押し出した言葉。でもそれ以上声が出てこない。
目の前の恋人はたちの悪い笑みをいっそう深くする。
「ま、話はテメーが帰ってきてからだ。早く行け」
「いや、ヒル魔、それは」
「いいから行け」
「あの、その、ヒル魔、」
「うるせえなさっさと行け!」
ムサシは玄関から追い出されてしまった。バタン、目の前でドアが閉じる。鍵をかける音。
「…………」
しばしムサシは立ち尽くす。何も考えられない、頭の中は先ほどの恋人の恋人の台詞でいっぱいだ。
……そうか。
……考えていてくれたのか。
……ヒル魔。
……ヒル魔。
じんわりとこみ上げてくるもの。胸に熱くせまるもの。
──結婚、てやつをな
恋人の言葉。そしてドアを閉めながら恋人が放った言葉。あらためてよみがえる。
──行ってこい。──厳
はあ、とムサシは息をついた。そして力強く歩き出した。身のうちに新たな力が湧いてくるようだ。
なんだか張り切るような。高揚したような気持ちで胸がいっぱいだ。
そうか、とまた思った。悪戯っぽく笑んだ恋人、その言葉。お前がそういうつもりなら、と思った。
お前がそういう気持ちなら、今日は早く帰ろう。一刻も早く。そしてお前の言葉に返事をしよう。お前の気持ちに応えよう。
自分の言葉、それはもう決まっている。ムサシはそう思った。簡単なことだ、恋人の言葉に向き合えばよいだけだ。
──早く帰るからな
玄関前の植え込みには暖かい色で咲く花サフラン。
黙ってムサシを見送っていた。
鍵穴に差し込んだ古い鍵をひねり、がらがらと引き戸を開ける。玄関で靴を脱いでいたら奥から父が顔を覗かせた。
「なんだ、来たのか」
「ああ、いたのか。久しぶり」
「何か用か」
「アルバム取りに来た」
「そうか」
上がり込んで廊下の奥の階段に向かおうとして気がついた。父は礼服姿だ。白いネクタイをつけている。
「いま出かけるところだったんだ」
「結婚式だろ」
父のネクタイに目をやってヒル魔は答えた。
そうだ、と父は言った。
「久しぶりなのに茶も出せなくて悪いな」
「なに言ってんだ」
ヒル魔は軽く笑った。
「早く行けよ。鍵はかけとく」
「ああ」
ヒル魔とは逆の方向──玄関に向かいかけて父はふと立ち止まった。
「お前は」
「あ?」
「お前は結婚しないのか」
「……は?」
不意を突かれた。
「俺が?」
「そうだ」
「結婚?」
「うん」
「誰と」
「誰って、それは武蔵くんだろう」
「…………」
身が強張る。何も言えなくなってしまった。落ち着け、と自分を叱る。
「……なんでそう思うんだ」
「なんでも何も」
父は笑った。穏やかに。
「何もしてやらなかったが、これでも親だ。分かることもある」
「…………」
ヒル魔は父を見た。
父もヒル魔を見ている。
静謐な目。
ふとヒル魔の胸を思い出がかすめた。遠い記憶。いなくなった母。父の暗い目。
あの頃と比べて随分遠いところに来たようだ。でも今まで来た道を自分は後悔していない。ひとりで歩いた道。親友と、仲間と──そして恋人と歩いた道。
そう思うと少し体の力が抜けた。
「……ケケ」
視線を外して低く笑う。
「まあ、そのうちな」
父は何も言わなかった。黙って、静かに微笑んだ。
「じゃあ、またな。元気でやれよ」
「ああ」
**********
黒のスラックスを履く。アンダーシャツの上に白のドレスシャツ。ボタンを留めて裾をスラックスに押し込み、チャックを上げる。ベルトを締める。上着はもう着るだけの形でハンガーにかけてある。白いネクタイを首にかけて締めようとしたがうまくいかない。弱ったな、またか。そうムサシは思った。
「おーい」
自室を出て居間にいる恋人に声をかける。なんだ、と返事がした。
「ヒル魔ー、頼む」
居間から恋人が出てきた。廊下で向かい合う。
「またかよ」
ヒル魔は呆れたような顔だ。
「すまん、どうも駄目だ」
ムサシはネクタイを締めるのが苦手だ。高校時代の制服のネクタイはゴム式だからまだ良かったが、それでも内心窮屈で仕方なかった。社会人となって冠婚葬祭で礼服を身につける機会はぐんと増えた、そのたびに首元の装いには苦労した。手先の器用な恋人と同棲を始めて本当に良かったと心中では思っている。
ヒル魔は慣れたものだ。しょうがねえな、そう言いたげな顔でムサシの首元に白い細い布を巻く。するすると低い衣擦れの音を立てながら。
やっぱり窮屈だな、そうムサシは感じた。どうも、いつまでも自分はこの感触に慣れそうもない。
「ほれ、できた」
恋人がぽん、とムサシの胸を叩く。
「ちっとの時間なんだから我慢しろよ。緩くなんかできねえからな」
「ああ、分かってる。いつもすまないな」
「いいから早く支度しろ。遅れちゃまずいだろ」
「うん」
ムサシは再び自室に入る。上着を羽織り、次は持ち物をあらため始めた。
行ってくる。そうムサシの声がして、ヒル魔は振り返った。居間の出入り口に恋人が立っている。送り出そうと立ち上がった。
廊下を歩きながら短い会話を交わす。
「帰り、遅くなりそうならLINEする。まあ大丈夫だろうとは思うが」
「分かった。ご祝儀持ったか」
「持った」
「財布は。ケータイは」
「ああ、持った」
「気をつけてな」
「うん」
「飲み過ぎるなよ」
「うん」
玄関に出しておいた黒の革靴。足先を入れる。やっぱりこの感触には慣れないな。そうムサシは思った。
爪先を軽く打ち付ける。さて、行くか。
「じゃあ行ってくる」
「ん」
恋人に背を向けてドアを開けようとノブに手をかけた。と、ヒル魔が言った。
「そうだ。糞ジジイ」
「?」
「俺たちもするか」
「? 何を」
ムサシの恋人はにやりと悪戯っぽい笑みを見せた。
「結婚、てやつをな」
胸がとどろいた。ムサシの動きは止まってしまった。半ば呆然と恋人の顔を見る。
「お前、……」
唾を飲み込んでかろうじて押し出した言葉。でもそれ以上声が出てこない。
目の前の恋人はたちの悪い笑みをいっそう深くする。
「ま、話はテメーが帰ってきてからだ。早く行け」
「いや、ヒル魔、それは」
「いいから行け」
「あの、その、ヒル魔、」
「うるせえなさっさと行け!」
ムサシは玄関から追い出されてしまった。バタン、目の前でドアが閉じる。鍵をかける音。
「…………」
しばしムサシは立ち尽くす。何も考えられない、頭の中は先ほどの恋人の恋人の台詞でいっぱいだ。
……そうか。
……考えていてくれたのか。
……ヒル魔。
……ヒル魔。
じんわりとこみ上げてくるもの。胸に熱くせまるもの。
──結婚、てやつをな
恋人の言葉。そしてドアを閉めながら恋人が放った言葉。あらためてよみがえる。
──行ってこい。──厳
はあ、とムサシは息をついた。そして力強く歩き出した。身のうちに新たな力が湧いてくるようだ。
なんだか張り切るような。高揚したような気持ちで胸がいっぱいだ。
そうか、とまた思った。悪戯っぽく笑んだ恋人、その言葉。お前がそういうつもりなら、と思った。
お前がそういう気持ちなら、今日は早く帰ろう。一刻も早く。そしてお前の言葉に返事をしよう。お前の気持ちに応えよう。
自分の言葉、それはもう決まっている。ムサシはそう思った。簡単なことだ、恋人の言葉に向き合えばよいだけだ。
──早く帰るからな
玄関前の植え込みには暖かい色で咲く花サフラン。
黙ってムサシを見送っていた。
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