【鉄キ】ギフトボックス【キリリク】

 台所に良い香りが漂っている。バニラエッセンスの甘い香りだ。

 カフェを出たあと、ふたりは予定通りに電車で近隣のグラウンドへ出かけた。目的の試合、どちらを応援するか。少し話し合って、ビジター側のチームにしようと決めた。T県のある都市をホームとするチームだ。せっかく遠征してきたのだから、勝って欲しい。そんな気持ちで鉄馬もキッドもビジター側の席に腰を落ち着けて観戦を始めた試合。いわゆる二部リーグの、それも練習試合だからバベルズとはほぼ全く接点はない。だからこそ楽しめるんじゃないかな、とキッドが言った通り、鉄馬もそしてキッド自身ものんびりとアメフトを観ることを楽しんだ。
 あいにくの結果となった──20点差をつけられて敗れた──試合だったが、鉄馬は得るものはあったと思った。感心したのは、応援していたチームの素晴らしい気迫だった。チームエリアはとにかく賑やかで、どの選手もよく声を出す。プレー中も、ファンブルのようなミスをすれば芝生を叩いて悔しがる。気持ち、気持ちー! と奮起を呼びかける声、そしてそれに応えるかのようなロングゲイン。大したものだ、と鉄馬は思ったし、自分らも見習わなければならないと考えた。キッドもそれは同じだったようで、残念だったねえ、と言ったあとに呟いた。やっぱり、見にきて良かったね。鉄馬は黙って頷いた。
 散り散りに、思い思いに立って帰っていく観客の中で、鉄馬とキッドも立ち上がって帰路についた。帰り道、家の近くで予定通りに買い物をして、そして予定通りにいまふたりは台所に立っている。予定通りに、アップルパイを焼いているのだ。
「いい匂いがしてきたね」
「そうだな」
「うまくいけばいいなあ」
 キッドはさっきからオーブンレンジの前に立ちっぱなしだ。焼けるところを見ていたいらしい。そんなに立っていては疲れてしまうだろうに、と少しおかしく思いながら鉄馬は洗い物をしている。
 帰り道に買ってきた食材、そしてケーキ箱やその他の包装材。バベルズのマネージャーたちへの、ホワイトデーの贈り物だ。りんごを刻んでコンポートを作り、レンジで作ったカスタードクリームとともに冷凍のパイ生地で挟んだ。端をフォークで押さえてくっつけて、表面には包丁で切り込みを入れてきちんと卵黄を塗った。そんな小ぶりの四角いアップルパイが、全部で6つ。マネージャーの人数は4人だから、これでは多いのではないかと最初鉄馬は思った。それを言うと、全部が全部うまく焼けるとは限らないからね、とキッドは答えた。だから少し多めの方がいいと思うよ。なるほどな、と鉄馬も思ってその通りにしたのだった。
「あとは冷まして、ラッピングしなくちゃだね」
「そうだな」
 程なく、オーブンレンジからピピピという終了音。どんなものだろう、と鉄馬もキッドも柄にもなく胸をわくわくさせながら取り出した焼き菓子は、どれもこんがりと良い焼き色がついて美味しそうに出来上がった。
「あっ」
「?」
 キッドが不意に声をあげて、火傷でもしたのかと少し慌てて鉄馬はその顔を見た。
「どうした、キッド」
 オーブンから焼き台ごと調理台の上に移した、アップルパイ。そのアップルパイから鉄馬に目をやって、決まり悪そうな笑顔をキッドは浮かべた。
「忘れてた」
「……?」
「シナモン。忘れてた」
「…………」
「あー、うっかりしてたよ……。そうだ、シナモン入れてないよ。どうしよう」
 台所の隅、流しの隣に置いておいたレシピ。小さな紙片を鉄馬は手に取った。読むと確かに、シナモンという名称がある。菓子類に縁のない鉄馬でも、香辛料の一種だろうということは分かった。
「俺にはよく分からないが……、入れないとまずいのか」
「いや、まずいってことはないけど……」
 アップルパイを見つめて、キッドは思案するような表情だ。
「いい香りだし、どれも美味しそうだ。キッドは気になるかもしれないが、俺はこれでいいと思う」
 そう思った通りを鉄馬は述べた。キッドはうーん、と答える。
「そうだね……そうかもしれないね。ま、いいか」
 思い切ったような笑みをキッドは見せる。
「余った分はどうする、キッド」
「ああ、そうだねえ。俺たちで食べてもいいけど」
「…………」
「あ。そうだ」
 ふと思いついたようにキッドは言った。
「これ、父さんと母さんに持っていこうかな」
「ああ。それはいいと思う」
「でもそれじゃ鉄馬の父さんと母さんに悪いかな、どうしよう」
 そんなことはない、と鉄馬は言った。
「俺の実家うちに持っていくのはまた次でも構わない。持っていけばキッドのお父さんとお母さんはとても喜んでくれると思う」
「そうかな、じゃあそうしようかな」
 少し照れ臭そうなキッドの笑み。鉄馬はその顔を心から嬉しく見つめる。お前は変わったな、キッド。
「じゃあちょっと電話してみるよ」
「ああ」
 キッドは台所から居間へ向かった。鉄馬は休めていた手を再び動かして洗い物を再開した。程なく、居間からキッドの話し声。

「もしもし、父さん。やあ、元気かい。……そう、良かった。……うん、俺も鉄馬も元気だよ」

「あのね、今からそっちに行ってもいいかい。お菓子を作ったから、持っていこうと思って」

「うん、ホワイトデーにね、アップルパイを焼いたんだけど、余分に作ったから」

「……ええ?」

 少し驚いたようなキッドの声。何事だろうと鉄馬は耳をそばだてる。

「ホワイトデー……って、父さん知らないのかい。あのね、ホワイトデーっていうのはね……」

 鉄馬は微笑を禁じえなかった。少々浮世離れしたところのあるキッドの父は、どうやらホワイトデーという習慣を知らなかったらしい。

「あのね、バレンタインデーってあるでしょ。……うん、そう、チョコを贈る。それでね、ホワイトデーっていうのはそのお返しでね……」

 鉄馬は台所、キッドは居間のソファに座って父と通話している。少し慌てたような調子のキッドの声。なんともおかしく、微笑ましい。

 包丁、まな板。鍋やボウル、へらやフォーク。その他の調理道具を洗い終えた鉄馬は、次にコーヒーを淹れた。二つのマグカップにインスタントの粉を落とし、沸かした湯を注ぐ。お盆に乗せて居間に運んでいくと、ちょうどキッドが電話を切ったところだった。
「ああ、何だか汗かいちゃったよ」
 少しほっとしたような表情の恋人の前に、鉄馬はコーヒーを置いてやる。
「お父さんはホワイトデーを知らなかったのか」
「そうなんだよ、びっくりしちゃったよ」
 洗い物をしていた鉄馬は、父と通話していた間のキッドの顔を見てはいない。それでも声音は聞こえた。思い出して鉄馬は微笑を噛み殺した。
「なに笑ってるのさ、大変だったよ」
 鉄馬の笑みに抗議しながらも、キッドも何だか楽しそうだ。
「コーヒー淹れてくれたんだね、ありがとう」
「いや。俺もちょうど飲みたかった」
「じゃあこれ飲んだら出かけようか」
「そうだな」
「あとね、いい知らせがあるよ」
 キッドの明るい笑顔。
「知らせ?」
「うん、そう。あのね、アップルパイのお礼にご馳走してくれるって」
「そうか」
「楽しみだね、ちゃっかり美味しいものが食べられそうだよ」
 心から楽しそうな笑顔。
「キッド」
「え、なんだい鉄馬」
 しみじみと暖かいものを感じながら鉄馬は胸に浮かんだことを口にした。
「お前は、変わったな」
「ええ?」
「今のキッドはとても楽しそうだし、嬉しそうだ。それに、とても可愛い」
「え、ちょっと、いきなりなに言い出すんだい」
 キッドは少し狼狽えたような顔をする。でも浮かぶ笑みは隠しきれないようだ。
「鉄馬こそ、どうしたの。前はそんなこと言わなかっただろ」
「そうかもしれないが……」
「そんなに変わったかなあ、俺。自分じゃよく分からないけど」
「ああ、変わった。それも、とても良い方に変わったと思う」
「そ、そうかな。もしそうだとしたら、……鉄馬から色々なものをもらったせいだと思うけど」
「俺はなにもしていない。キッドが自分の力で変わったんだと思う」
「そんなことないよ。鉄馬のおかげだよきっと」
「そうか。もしそうなら俺も嬉しい」
 居間のソファ、隣り合わせで座っての会話。じんわりと暖かい気持ちが鉄馬の胸にも、キッドの胸にも押し寄せる。
「てーつま」
「なんだ」
 キッドが少し鉄馬の方へにじり寄る。顔を向けた鉄馬に自分の顔を近づけて、頬にちゅっと軽いキス。
「へへ。なんかちゅーしたくなった」
 少し恥ずかしげな恋人。鉄馬も何だか赤面した。いくつも、何度もしているはずのキス。今日はまた一段と甘いようだ。
「父さんになにを奢ってもらおうかな。鉄馬は何か食べたいものあるかい」
「俺は……特にはないな。キッドの食べたいものがいいと思う」
「そうだねえ、どうしようかな」
 鉄馬は窓に顔を向けた。そろそろ日が暮れかけてきている。
「キッド。そろそろラッピングをしたほうがいいんじゃないか」
「あ、そうだ忘れてた。そうだ、持っていくのに包まなくちゃね」
「そうしよう」
 何だか浮き立つような気持ちでふたりは立ち上がった。アップルパイをケーキ箱に入れて、包装して。それから家を出て。キッドの父母との、楽しい夕食会が待っている。明日はバベルズのチーム練習、そしてマネージャーたちへの贈り物。

 明日も晴れればいいな、と鉄馬は思った。穏やかに晴天に恵まれた日であるように。そして。
 こんな日をいくつも重ねたい。キッド、お前と。

 いつまでも、お前と。

 どこまでも、お前と。



 
【END】

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