【鉄キ】ギフトボックス【キリリク】
──ならなきゃ
──一番に
今でもキッドは時々夢をみる。子供の頃の夢だ。毎日毎日、学校から帰宅すると射撃の訓練。学業とそして訓練に明け暮れていたあの頃。
父からは英才教育を受けていた。その期待に応えなければ、なんでも一番にならなければならないと無我夢中で父の言いなりになっていた。父の愛を一身に背負って。
ものごころついた頃からずっと楽しかったはずの、父との時間。それを重荷に感じるようになったのはいつからか、もう今となっては思い出せない。だがそれは確実にキッドの心を蝕んだ。どうしようもなくつらい、と思い詰めるまでに。それでも必死で応えようとキッドは努力した。重圧。プレッシャー。その中でかろうじて学業の成績は維持していたものの、射撃の腕は徐々に落ちた。
忘れもしない、ビームピストル大会。5位という成績に終わった。父の冷たい目。いまでも忘れられない、冷たいまなざし。キッドの心は折れた。もうこの家では生きていけない、そう思い詰めて──家を出た。
まだ義務教育も終えていない子供だったキッドはすぐに発見されて連れ戻された。帰宅後、泣きながら迎えてくれた母。その母に、父に詫びるよう言われたキッドはそれを拒んだ。なんと言われようと、どれだけ母が涙を見せても頑強に拒み続けた。その時から父とは冷戦が始まったのだ。
そんな子供の頃が、だが今となっては遠い昔。時々みる夢も、以前のような苦い思いで目覚めることもなくなって久しい。何よりも、今は目を覚ますと同時に隣に眠る恋人──鉄馬の顔を見られる。どんな苦労も辛苦も乗り越えてきた、鉄馬と共に。かけがえのない恋人、この男さえいれば生きていける。手を繋いで、心を合わせて。
朝の光がカーテンを通して薄明るく差し込む寝室。ベッドの中で、横たわったままキッドは眺めている。愛しい恋人の、健やかな寝顔。すうすうと穏やかな寝息。幸せだな、と感じるひととき。
高校を卒業したときにキッドは鉄馬から想いを告げられた。もとより、キッドも同じ思慕を鉄馬に抱いていたのだ。ふたりは恋人どうしとなり、一緒に暮らし始めた。そしてスタント会社の設立という共通の夢を実現させるための新しい道を歩み始めた。
道のりは無論平坦ではなかった。アルバイトをしながら資金を貯め、また縁があって武蔵工バベルズというチームにも入団した。アメリカンフットボールはなかなか金のかかるスポーツである。チームでの活動、そして起業の夢。片手を折るだけでは足りない年数を、鉄馬とキッドは六畳一間の質素なアパートで過ごした。
それでも──キッド自身は気づいていなかったが──自立した暮らしを送ることでキッドには良い変化が現れた。鉄馬の目にはそれがまざまざと映っていたが、鉄馬はそれを安易に口にするような性格ではない。鉄馬の好きな、キッドの笑顔。その笑顔は以前にも増して明るく、しかもキッドはそうした笑顔を他人に見せることにためらいがなくなった。それとともに、バベルズの中でのプレースタイルも変化した。キッドはQBだ。攻撃の司令塔である。時には慎重に、時には大胆に。場面に応じて臨機応変に対処しなければならない。そう悟ったキッドは自分から各ポジションの選手に近づこうとし始めた。意思の疎通、コミュニケーション。スムーズなプレーと、何より勝利のために必要なことだ。入団当初は何よりもまず鉄馬、鉄馬優先でプレーを進めようとしていたキッドの、これは大きな変化だった。
いつもキッドをそばで見ていた鉄馬。その鉄馬が何よりも嬉しいと思ったキッドの変化は、他の場面でも現れた。幼少時の経験から絶縁状態にあった父と、キッドは少しずつ対話を始めたのだ。時間はかかったし今でも多少照れ臭そうではあるが、ともかくキッドは父との関係を修復した。息子の選んだ道──起業すること──キッドの父は今でもそれを認めているとは言い難い。それでも独り立ちしようとする息子を黙って見守ることは決めたようだ。鉄馬はそれをキッドのために喜んだし、その意味でキッドの父に感謝した。
高校を卒業して、指折り数えれば片手では足りない年月を、鉄馬とキッドはひたすら努力した。ウエスタン&カー。そう命名したスタント会社を設立することができたのはちょうど6年前のことだ。遊園地やイベント会場でのアトラクションやショーを主な業務内容としている。会社の経営など無論初めてのことだから、最初の頃は鉄馬にもキッドにも様々な苦労はあった。それでもふたりでなんとか力を合わせて、実現させた夢を軌道に乗せてきたのである。
キッドが社長、鉄馬が取締役として切り盛りするウエスタン&カー。業務内容が内容だけに、会社としての活動はどうしても週末が中心となる。そのためバベルズの練習や試合との日程の調整が悩みどころではあるが、おおむね上手く運営は続いている。経営が順調になって、質素なアパートから賃貸マンションへの引っ越しも出来た。ふたりが──そのうち一人はもう目覚めているのだが──横たわっているのは2LDKのマンションの一室、主寝室である。
健やかな寝息をたてる鉄馬。引き締まった頬の線、軽く開いた唇。きりりと太い眉。その横顔をキッドは先ほどから眺めて楽しんでいる。重機関車、ウエスタンアイアンホース。プレーの重厚さからそんな通り名を冠されたキッドの恋人。眠りの中にいるのだからリラックスしているとはいえ、キッドよりひとまわり大きな体躯、古代の西洋彫刻のような。ゆったりと胸が上がり、ゆったりと下がる。規則正しい呼吸はまるで鉄馬の人格そのもののようだ。必要最低限の言葉しか発さない口元。無口と言えば無口、でもキッドにとってはそれは愛すべき静けさだ。危険を伴うこともあるスタントショー。どんな場面でも鉄馬は冷静さを失わない。かと言って冷たいわけでは無論なく、バベルズの仲間内では意外と慕われているのだ。ぽつりと時おり鉄馬が口にするアドバイスは後輩たちからとても頼りにされている。
腕を枕に寝そべって、キッドは一つため息をついた。満ち足りた、幸福なため息を。するとまるでそれを聞きつけたかのように鉄馬の寝息が止んだ。起こしちゃったかな、とキッドは恋人の顔を見つめる。
「…………」
キッドに横顔を見せながら、ぱちりと鉄馬が目を開いた。数回まばたきをして、キッドの気配を感じ取ったようだ。首をねじった。キッドは声をかけた。
「起きたかい? 鉄馬」
「……ああ」
「おはよ」
「おはよう」
鉄馬ははっきりと目覚めたようだ。だがキッドは起きあがろうとせず、鉄馬のふところにもぐり込む。鉄馬も腕を伸ばして迎える。
「今日はいい天気みたいだよ」
「そうか」
「良かったねえ、せっかくの休みだもんね」
「そうだな」
「起きたらごはんを食べて……、そのあとは昨日説明した通りだからね」
「わかった」
「ふふ、楽しみだねえ」
「…………」
「ごはん、どうしようか。どっちが支度する?」
「俺はどちらでも構わない。俺でも、キッドでも」
「そうだねえ。どうしようか」
「…………」
「せっかくだからふたりでやらないかい? その方が楽しいし」
「わかった」
「なんにしようか。パンを焼いて、卵を焼いて……あとなんだろう、サラダとかかなあ」
「そうだな」
「鉄馬はあと何がいいと思う?」
「そうだな。栄養学的に言えばスープがあったほうがいいと思う」
「ああ、そうだねえ。具沢山のスープを作ろうか」
「わかった」
布団の中でゆったりと会話を交わす。ふたりの最も愛する時間だ。とっくに目は覚めているし、こうしている間にも時は移る。それでも今日はたまさかの休日で、時間に追われるようなことはない。楽しみだねえ、とキッドはまた口にした。ふたりそろって朝食を取ったあとは、出かけることになっている。昨夜、その計画をキッドは鉄馬に説明し、鉄馬は──少し不明な部分もあったのだけれど──了承した。計画によれば朝食のあと、鉄馬はキッドより先に家を出なければならないらしい。そして駅前のカフェに入ってそこでキッドを待たなければならない。どうしてそんなことをするのか不思議ではあったけれど、キッドのことだから何か理由があるのだろう。そう考えて鉄馬はキッドの指示に従おうと思った。
ううーんとキッドが伸びをする。気持ちよさそうに。それを機にふたりは起き上がり、ベッドから抜け出した。
**********
いつもの革のジャケットにテンガロンハット。茶色の革靴。気持ちのいい朝だな、とまた思いながらキッドはマンションから駅までの道を歩く。鉄馬はもう先に出て、駅前の店でキッドを待っているはずだ。それを思うと、少しおかしな、弾むような気持ちがキッドの心にやってくる。ああ、楽しみだ。
少し前までの身を切られるような寒さが去り、道を行く人々も何だか心持ちよさそうに歩いている暖かな日。本格的な春はまだ少し先だが、その訪れもそう遠くはないと思わせるような晴れた日だ。
急がず、のんびりとキッドは駅を目指して歩む。あたりは住宅地から商業地の境目のような区域に入っている。ここからもう少し歩けば駅に続く繁華街、そしてやがて駅が見えてくる。待ち合わせしてコーヒーを飲んで、それから少し電車に乗ってあるチームの試合を見に行く。そのあとは買い物だ。今日の流れをまた考えながら、軽い足取りでキッドは歩いて行った。
──あ、いた、いた
ふたりの住む街の駅前はロータリーになっていて、それを囲むようにさまざまなショップが並ぶ。その中でもひときわ明るく、しゃれた雰囲気のカフェ。緑と白のロゴの看板の下に出入り口。カウンターには午前中まだ早い時間だというのに数人の行列ができている。キッドはわざと歩みをゆるめた。
ゆっくりと店に近づきながら、店内の様子をうかがう。出入り口の全面がガラス張りで、開放的な佇まい。内装はブラウンを基調としたウッド調で、温かみと落ち着きを感じさせる。鉄馬がいる場所はすぐに分かった、キッドが教えた席にちゃんと腰掛けていたからだ。
窓に面したカウンター席。一人掛けの背もたれのない椅子がいくつも並ぶ、明るい日の差し込む席に鉄馬はいた。ぴんと伸びた背筋で片腕をカウンターに乗せて、コーヒーカップを口に運んでいる。黒いパンツに茶色のタートルネックのセーター。はたから見てもわかる──キッドの深く愛する──頑丈な体躯。コーヒーを飲むその表情はやや硬い。緊張してるのかな、とキッドは思った。滅多に入らない、ちょっと小粋なカフェ。そこにわけもわからず一人で入らされて、わけもわからず待たされている。気の毒なことしたかもしれない、とは少し思うが、それでもキッドの胸にはなんとも言えない暖かさ、微笑ましさがこみ上げてつい口元が緩んでしまう。この光景が、キッドは見てみたかったのだ。鉄馬の人待ち顔。他でもない自分を、この場所で待っていてくれる鉄馬を。
いい一日になりそうだ。店に向かって歩きながら、キッドは自分をみとめたらしい恋人に笑顔で手を振った。
「やあ、お待たせ」
「キッド」
カウンターで注文したコーヒーを持って、キッドも鉄馬の隣に腰掛けた。
「鉄馬はもう全部飲んじゃったかい?」
「いや、まだだ」
カップを覗き込むようにすると、確かにその言葉通りまだ半分ほども残っている。
「すまないね、ゆっくり飲んでてくれたのかい」
「ああ」
隣り合って外の風景を楽しみながら、キッドも熱い香り高い液体を口元に運ぶ。
「ああ、今日は本当にいい天気だねえ」
「そうだな」
「観戦日和、買い物日和だね。嬉しいな」
「…………」
「どうなるかな、今日の試合」
「どうだろう」
「向こうさんは二部だから普段俺たちとは交流がないからね」
「お前は」
「うん? なんだい、鉄馬」
「お前はどっちに勝って欲しいんだ」
「どっちでもないよ。応援するだけ」
あっさりとキッドは答えた。鉄馬は疑問に思う。オフシーズンの現在、近くのグラウンドで今日これから行われるのは社会人二部リーグの練習試合だ。キッドの言葉で見に行くことになったとはいえ、両チームの実力は一部に所属するバベルズの比ではないだろう。それに、出かけるためにわざわざここで待ち合わせた理由はなんだろう。
少し苦労したが鉄馬はその疑問をそのまま口にのぼせた。するとくしゃりとキッドは笑んだ。鉄馬の好きな笑顔だ。その表情でまたあっさりと、
「なに言ってんの、鉄馬と"デート"したかったからだよ」
デート。少し強調するように言われたその言葉に、何だか鉄馬は赤面してしまった。黙って、ややうつむいてコーヒーを口に運ぶ。そんな鉄馬をにこにこと眺めて、キッドもカップを傾けた。
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