髪かざり
「今日はありがとう、むしゃしゃん、ひるましゃん!」
「どういたしまして。じゃあおやすみ、弥生ちゃん」
すっかり暗くなった寺の正門前。
ムサシとヒル魔は栗田夫妻、そして弥生に別れを告げた。
ふたりがたくさんの手土産を抱えて参加した弥生の誕生パーティーは、豪華な食事会となった。
美樹が手巻き寿司とラザニア、唐揚げを用意してくれていることは分かっていた。それらと被らないようとムサシとヒル魔は工夫して、午後中かけて作った様々な手料理をプレゼントと共に栗田家へ持ち込んだのだった。
ふたりの家で一番大きな鍋を使って煮込んだポトフ。たっぷりのごまだれをかけて食べる蒸し鶏。春キャベツのロール煮込み。トマトとモッツァレラのサラダ。それにじゃがいものガレット。デザートにはチュロスと苺のパンナコッタ。ふたりの家にあるものだけでは調理道具や食器や容器が足りなかったので、ムサシの実家から借りてきたものもある。
現在の栗田家は二世帯住宅の構造になっている。一階部分が栗田の父母の住居、そして栗田と美樹と弥生は二階三階部分がその住まいとなっているのだ。玄関の前でインターホンを鳴らすと、三人揃って出迎えてくれた。
──やあ、いらっしゃい
──いらっしゃい、ムサシさん、ヒル魔さん
──いらっしゃい! むしゃしゃん、ひるましゃん!
ムサシは弥生の姿を見て目を見張った。いつもミニスカートにスパッツを履いて活発に飛び回っている女児。今日はピンクのワンピース姿だ。胸の下に切り替えが入ったふんわりした印象のもので、裾には白い花の刺繍。袖はボリュームのあるデザインで、手首のところでぎゅっとすぼまっている。丸い柔らかな印象の襟。
弥生は髪型も変えていた。普段は長いまっすぐな黒髪を後ろで一つにまとめただけだ。でも今日は髪を下ろして愛らしい白いリボンをつけている。とても優しげな、可愛らしい風情だ。
──弥生ちゃん、今日はお姫様だな
ストレートにムサシは口に出す。隣でそれを聞いたヒル魔は、失言とまではいかないがまずい口の聞き方だぞと内心思った。そんなふうに言ったら弥生が照れちまうだろ。
案の定、弥生は頬を染めて美樹の陰に隠れてしまった。今度はヒル魔が、女児の緊張をほぐそうと声をかける。後ろ手に隠し持っていたものを見せながら。
──弥生、おいで。これ、持ってみろ
ヒル魔が差し出したもの。それは色とりどりのガーベラの花束だ。栗田家を訪れる前、武蔵工務店近くの花屋で相談して作ってもらった。ピンクや赤、オレンジ。黄色。黄緑がかったもの。さまざまな色合いのガーベラの中から柔らかいピンクを中心にアレンジしてもらい、白い可憐な小花を──マトリカリアというらしい──添えてもらった。
──わあ……
弥生の目は花束に釘付けになった。吸い寄せられるように美樹の陰から出てきて花束を受け取る。
──すごくきれい。これ、弥生の?
──そうだ。今日は弥生の誕生パーティーだからな
栗田夫妻の娘をムサシは弥生ちゃんと呼ぶ。ヒル魔は名前だけで呼ぶ。それでもどういうわけか、小さな赤子の頃から弥生はヒル魔を怖がったり、遠慮したりということがない。ヒル魔の言葉に弥生は顔中で笑んだ。おそらく生まれて初めてもらったであろう、花束。両手に抱えるようにして、ありがとうと言った。
それからやっと皆は居間へと移動した。テーブルの用意は美樹がしてくれている。美樹に礼とねぎらいの言葉をかけながらムサシは持ってきたものを広げる。台所と居間の間も往復して、できるだけ美樹を手助けした。その間、弥生の相手は栗田とヒル魔がしていた。やがてテーブルの上に豪勢な数々のメニューが並び、楽しい食事会は始められたのだった。
ムサシとヒル魔が持ち寄った料理を──ふたりがほっとしたことに──栗田親子はとても喜んでくれた。おいしい、おいしいと弥生は小さな手にフォークやスプーンを握って次から次へと頬張る。特に弥生が気に入ってくれたのはじゃがいものガレットのようだ。ムサシが取り分けたそれを口に入れて、ん〜! と感心するような声を出す。ムサシを見て輝くように笑む。ああ、よかった、とムサシは思った。レシピを見てこれなら自分でもできそうだと思い、作ってみたものだ。弥生のことを考えて、あえてこしょうは控えめに、優しい味にした。それが功を奏したようだ。美樹からは蒸し鶏が好評だった。柔らかいし、ごまだれの風味がよく合う。作り方を尋ねられて、今度LINEでレシピを送るよとムサシに代わってヒル魔が答えた。
楽しい食事が一段落して、チュロスとパンナコッタ、それに美樹が焼いたシフォンケーキでデザートとなった。美樹の淹れてくれたコーヒーや紅茶の良い香り、各種のデザートの甘い香り。その中で、いよいよプレゼントの開封だ。弥生も、そしてムサシもヒル魔も楽しみにしていた瞬間である。
ムサシとヒル魔が考えた、弥生へのプレゼント。包装はヒル魔が材料を駅前の大きな手芸店で調達してきて、自分でラッピングしたものである。シックなブラウンの包装紙に真っ赤な華やかなリボン。少し重みがあるから、気をつけろよと言いながらヒル魔が弥生の目の前に運んできて置いた。テーブルに鎮座する四角い包み。
中身が何なのか、弥生は見当もつかないらしい。わくわくと楽しげな風情でリボンを解き、父の手に助けられながら包み紙を剥がしていく。
──わ、きれい……
ブラウンの包装紙が離れると、中から現れたのは白い木製の小箱だった。上部に金属の取手をつけて持ち運べるようにしてある。これはむしゃしゃんが作ったんだ、とヒル魔が言葉を添えた。シンプルに白で塗装し、いつまでも使えるようにあえてごちゃついた飾りや絵柄は付けなかった。こういうものを作れと図面付きでヒル魔に言われて、ムサシが一から膝元で作ったものだ。目を輝かせて感嘆する弥生に、ヒル魔が言った。開けてみな、弥生、と。ふとムサシの脳裏を疑念がかすめた。こいつはどうするつもりなんだろう。結局、何を贈るのか教えてくれなかったが……。まさか?
弥生がヒル魔の顔を見て、触っていい? と尋ねた。ヒル魔は笑う。もうお前のだ、開けてみな。
上部の取手を弥生が小さな手で摘んだ。留め金を外して、上に向かって引き上げる。蓋が開いた。
蓋の裏側には鏡がついており、ちょっとした小物を収納できるようになっている。そこに鎮座しているものを見て、また弥生は驚いたような声をあげた。
──きれい!
ムサシも驚いた。収納部には自分は何も入れなかった、ところがそこには可愛らしいカチューシャが収められていたのだ。春らしい、淡い黄色の布地に小さな花が散りばめられた。
ムサシはヒル魔を見た。こんなものを入れたとは一言もヒル魔はムサシに言わなかった。しかもこれは手作りではないだろうか。いやそうに違いない。ヒル魔の──恋人の手作りの、髪かざり。お前、一人でこんなことしてたのか。そういう視線を送ったが恋人はちらとムサシの目を見て、何も言わずにやにやしているだけだ。
──引き出しもついてるぞ。何かあるんじゃないか?
悪戯っぽくヒル魔は言葉を重ねる。収納部の下には引き出しが一つ。きらきらした弥生のまなざし。さぞ胸を躍らせているのだろう、誰の目にも感じられる。みんなの顔をぐるりと見回して、それから弥生はそうっと引き出しを手前に引いた。
──わあ、すごいねえ!
栗田の声。
──弥生、良かったわねえ!
美樹の声。
引き出しの中。弥生の目は釘づけだ。その口から底抜けに嬉しそうな声。
──すごい、きれい! 嬉しい!
蓋の開いた小箱。鏡のついた収納部には優しい色合いのカチューシャ。そして、引き出しの中は。
そこには小さな女の子の喜びそうな、ちょっとした髪かざりやアクセサリーがぎっしりと入れられていたのだ。
カラフルなヘアゴム。リボンやバラやちょうちょのついたゴム。猫や犬、うさぎのパッチンピン。小花のついたヘアクリップ。ビーズを散りばめたピン、モダンな和柄のリボンやふわふわしたチュールのポンポン。
ムサシは声もなく驚くばかりだ。恋人はこんなものを作っていた様子など毛筋ほども見せなかったから。
──これ、ムサシさんとヒル魔さんで作ってくださったんですか。箱も、中のも
そう美樹に訊かれて、ムサシはもちろんだがヒル魔も笑って頷いた。ああやっぱり、と内心ムサシは思った。
──ありがとうございます、ほんとうに
満面で笑む母親。その隣であふれんばかりの笑顔を見せる女児。無邪気な、まっすぐな笑顔。手作りのものを贈ることにして良かった、とムサシは思った。恋人も弥生の前ではいつもの毒舌を封印し、やや照れ臭そうではあるが笑顔で栗田親子に接している。ムサシも、そしてヒル魔も心から幸せな気持ちを味わっていた。愛おしい女児、その父である親友。優しい母親。いつまでも、この幸せがあるように。いつまでも、どうか健やかに。そんな思いでふたりは楽しいひとときを栗田家で過ごしたのだった。
「楽しかったな」
車が寺の敷地を出てからヒル魔が言った。そうだな、とムサシは答えた。
「喜んでくれたみたいで良かった」
「たりめーだ、テメーと俺の共同作戦だぞ」
強気な恋人の言葉に思わず笑みがこぼれてしまう。
帰り際、栗田親子は三人でムサシとヒル魔を見送ってくれた。車に乗り込む時、ムサシは後部座席に置いておいたあるものを取り出した。
──美樹さん。これ、美樹さんに
──え……え?
ムサシが取り出したもの。それはヒル魔と相談して買ってきたカーネーションのブーケだった。シックなピンクと、薄墨色に染められたものを数本選んでブーケにしてもらって、持ってきたのだ。
俺たちが言うのも変かもしれないけど。弥生ちゃんを産んでくれて、ありがとう。ムサシはそう言うつもりだった、だが美樹は全てを察してくれたようだ。花束と、ムサシとヒル魔を交互に見つめて、みるみるその目に涙を浮かべた。唇を震わせて、くしゃくしゃの笑顔で微笑む。ムサシもヒル魔も、しばし優しく美樹を見つめた。でもあまり湿っぽくなってはいけない。できるだけあっさりと別れを告げて、ふたりはその場を離れたのだった。
「で? お前は俺に何をくれるんだ」
少し悪戯っぽくムサシは恋人に問いかけた。
毎年、ムサシとヒル魔はバレンタインとホワイトデーにちょっとした贈り物をしあうことにしている。今年のホワイトデーは昨日のことであったが、弥生の誕生パーティーが終わってからにしようと前から話し合っていたのだ。ヒル魔が笑った。
「そういうテメーこそどうなんだ。なんか用意してあるんだろうな」
「ああ、まああるぞ」
「へえ。そりゃ楽しみだ」
贈り物か、とムサシは考えた。ずっと前からムサシには恋人に言い出したかったことがある。今年のホワイトデーはそれを贈ろうと思っていた。
家を買おうという計画だ。
自分たちの設計で、たとえ何年かかろうとも自分たちで建てる家。この先を、ずっとふたりで歩いていくための家。
明日も休日だ。焦らず、ゆっくり話そうとムサシは思っている。いい休日になるだろう。
飲み会、パーティー。それからデート。宅飲み。カラオケ。星の数ほどいる世間の人々。みんなが楽しくあるように。むろんのこと、俺たちも。
満ち足りた、良い夜を過ごしているように。
くすくすと愛らしい声がまだ耳元に残る。それはムサシに勇気と力を与えてくれるようだ。
ふとムサシは考えた。いま。思い切って、いま口にしてみようか。
隣に座る恋人はすっかりくつろいだ様子でシートに身を預けている。
ゆっくり、帰ってからにしようと考えていた。でも何だか、いま口にしてみたい。そんな気持ちがなぜかムサシの胸の内に湧き起こっている。
落ち着こうと努めながら、息を吸い込んだ。
それから、ムサシは恋人の名を呼んだ。
「──あのな。ヒル魔」
あ? と無造作な恋人の返事。胸が高鳴る、でもいまこの場で恋人に話したい。ごくりと唾を飲み込んで、ムサシはまた口を開いた。
ライトをつけて、ムサシの軽自動車は夜道を走る。
幸せな。
幸せな夜道を車は走って行った。
「どういたしまして。じゃあおやすみ、弥生ちゃん」
すっかり暗くなった寺の正門前。
ムサシとヒル魔は栗田夫妻、そして弥生に別れを告げた。
ふたりがたくさんの手土産を抱えて参加した弥生の誕生パーティーは、豪華な食事会となった。
美樹が手巻き寿司とラザニア、唐揚げを用意してくれていることは分かっていた。それらと被らないようとムサシとヒル魔は工夫して、午後中かけて作った様々な手料理をプレゼントと共に栗田家へ持ち込んだのだった。
ふたりの家で一番大きな鍋を使って煮込んだポトフ。たっぷりのごまだれをかけて食べる蒸し鶏。春キャベツのロール煮込み。トマトとモッツァレラのサラダ。それにじゃがいものガレット。デザートにはチュロスと苺のパンナコッタ。ふたりの家にあるものだけでは調理道具や食器や容器が足りなかったので、ムサシの実家から借りてきたものもある。
現在の栗田家は二世帯住宅の構造になっている。一階部分が栗田の父母の住居、そして栗田と美樹と弥生は二階三階部分がその住まいとなっているのだ。玄関の前でインターホンを鳴らすと、三人揃って出迎えてくれた。
──やあ、いらっしゃい
──いらっしゃい、ムサシさん、ヒル魔さん
──いらっしゃい! むしゃしゃん、ひるましゃん!
ムサシは弥生の姿を見て目を見張った。いつもミニスカートにスパッツを履いて活発に飛び回っている女児。今日はピンクのワンピース姿だ。胸の下に切り替えが入ったふんわりした印象のもので、裾には白い花の刺繍。袖はボリュームのあるデザインで、手首のところでぎゅっとすぼまっている。丸い柔らかな印象の襟。
弥生は髪型も変えていた。普段は長いまっすぐな黒髪を後ろで一つにまとめただけだ。でも今日は髪を下ろして愛らしい白いリボンをつけている。とても優しげな、可愛らしい風情だ。
──弥生ちゃん、今日はお姫様だな
ストレートにムサシは口に出す。隣でそれを聞いたヒル魔は、失言とまではいかないがまずい口の聞き方だぞと内心思った。そんなふうに言ったら弥生が照れちまうだろ。
案の定、弥生は頬を染めて美樹の陰に隠れてしまった。今度はヒル魔が、女児の緊張をほぐそうと声をかける。後ろ手に隠し持っていたものを見せながら。
──弥生、おいで。これ、持ってみろ
ヒル魔が差し出したもの。それは色とりどりのガーベラの花束だ。栗田家を訪れる前、武蔵工務店近くの花屋で相談して作ってもらった。ピンクや赤、オレンジ。黄色。黄緑がかったもの。さまざまな色合いのガーベラの中から柔らかいピンクを中心にアレンジしてもらい、白い可憐な小花を──マトリカリアというらしい──添えてもらった。
──わあ……
弥生の目は花束に釘付けになった。吸い寄せられるように美樹の陰から出てきて花束を受け取る。
──すごくきれい。これ、弥生の?
──そうだ。今日は弥生の誕生パーティーだからな
栗田夫妻の娘をムサシは弥生ちゃんと呼ぶ。ヒル魔は名前だけで呼ぶ。それでもどういうわけか、小さな赤子の頃から弥生はヒル魔を怖がったり、遠慮したりということがない。ヒル魔の言葉に弥生は顔中で笑んだ。おそらく生まれて初めてもらったであろう、花束。両手に抱えるようにして、ありがとうと言った。
それからやっと皆は居間へと移動した。テーブルの用意は美樹がしてくれている。美樹に礼とねぎらいの言葉をかけながらムサシは持ってきたものを広げる。台所と居間の間も往復して、できるだけ美樹を手助けした。その間、弥生の相手は栗田とヒル魔がしていた。やがてテーブルの上に豪勢な数々のメニューが並び、楽しい食事会は始められたのだった。
ムサシとヒル魔が持ち寄った料理を──ふたりがほっとしたことに──栗田親子はとても喜んでくれた。おいしい、おいしいと弥生は小さな手にフォークやスプーンを握って次から次へと頬張る。特に弥生が気に入ってくれたのはじゃがいものガレットのようだ。ムサシが取り分けたそれを口に入れて、ん〜! と感心するような声を出す。ムサシを見て輝くように笑む。ああ、よかった、とムサシは思った。レシピを見てこれなら自分でもできそうだと思い、作ってみたものだ。弥生のことを考えて、あえてこしょうは控えめに、優しい味にした。それが功を奏したようだ。美樹からは蒸し鶏が好評だった。柔らかいし、ごまだれの風味がよく合う。作り方を尋ねられて、今度LINEでレシピを送るよとムサシに代わってヒル魔が答えた。
楽しい食事が一段落して、チュロスとパンナコッタ、それに美樹が焼いたシフォンケーキでデザートとなった。美樹の淹れてくれたコーヒーや紅茶の良い香り、各種のデザートの甘い香り。その中で、いよいよプレゼントの開封だ。弥生も、そしてムサシもヒル魔も楽しみにしていた瞬間である。
ムサシとヒル魔が考えた、弥生へのプレゼント。包装はヒル魔が材料を駅前の大きな手芸店で調達してきて、自分でラッピングしたものである。シックなブラウンの包装紙に真っ赤な華やかなリボン。少し重みがあるから、気をつけろよと言いながらヒル魔が弥生の目の前に運んできて置いた。テーブルに鎮座する四角い包み。
中身が何なのか、弥生は見当もつかないらしい。わくわくと楽しげな風情でリボンを解き、父の手に助けられながら包み紙を剥がしていく。
──わ、きれい……
ブラウンの包装紙が離れると、中から現れたのは白い木製の小箱だった。上部に金属の取手をつけて持ち運べるようにしてある。これはむしゃしゃんが作ったんだ、とヒル魔が言葉を添えた。シンプルに白で塗装し、いつまでも使えるようにあえてごちゃついた飾りや絵柄は付けなかった。こういうものを作れと図面付きでヒル魔に言われて、ムサシが一から膝元で作ったものだ。目を輝かせて感嘆する弥生に、ヒル魔が言った。開けてみな、弥生、と。ふとムサシの脳裏を疑念がかすめた。こいつはどうするつもりなんだろう。結局、何を贈るのか教えてくれなかったが……。まさか?
弥生がヒル魔の顔を見て、触っていい? と尋ねた。ヒル魔は笑う。もうお前のだ、開けてみな。
上部の取手を弥生が小さな手で摘んだ。留め金を外して、上に向かって引き上げる。蓋が開いた。
蓋の裏側には鏡がついており、ちょっとした小物を収納できるようになっている。そこに鎮座しているものを見て、また弥生は驚いたような声をあげた。
──きれい!
ムサシも驚いた。収納部には自分は何も入れなかった、ところがそこには可愛らしいカチューシャが収められていたのだ。春らしい、淡い黄色の布地に小さな花が散りばめられた。
ムサシはヒル魔を見た。こんなものを入れたとは一言もヒル魔はムサシに言わなかった。しかもこれは手作りではないだろうか。いやそうに違いない。ヒル魔の──恋人の手作りの、髪かざり。お前、一人でこんなことしてたのか。そういう視線を送ったが恋人はちらとムサシの目を見て、何も言わずにやにやしているだけだ。
──引き出しもついてるぞ。何かあるんじゃないか?
悪戯っぽくヒル魔は言葉を重ねる。収納部の下には引き出しが一つ。きらきらした弥生のまなざし。さぞ胸を躍らせているのだろう、誰の目にも感じられる。みんなの顔をぐるりと見回して、それから弥生はそうっと引き出しを手前に引いた。
──わあ、すごいねえ!
栗田の声。
──弥生、良かったわねえ!
美樹の声。
引き出しの中。弥生の目は釘づけだ。その口から底抜けに嬉しそうな声。
──すごい、きれい! 嬉しい!
蓋の開いた小箱。鏡のついた収納部には優しい色合いのカチューシャ。そして、引き出しの中は。
そこには小さな女の子の喜びそうな、ちょっとした髪かざりやアクセサリーがぎっしりと入れられていたのだ。
カラフルなヘアゴム。リボンやバラやちょうちょのついたゴム。猫や犬、うさぎのパッチンピン。小花のついたヘアクリップ。ビーズを散りばめたピン、モダンな和柄のリボンやふわふわしたチュールのポンポン。
ムサシは声もなく驚くばかりだ。恋人はこんなものを作っていた様子など毛筋ほども見せなかったから。
──これ、ムサシさんとヒル魔さんで作ってくださったんですか。箱も、中のも
そう美樹に訊かれて、ムサシはもちろんだがヒル魔も笑って頷いた。ああやっぱり、と内心ムサシは思った。
──ありがとうございます、ほんとうに
満面で笑む母親。その隣であふれんばかりの笑顔を見せる女児。無邪気な、まっすぐな笑顔。手作りのものを贈ることにして良かった、とムサシは思った。恋人も弥生の前ではいつもの毒舌を封印し、やや照れ臭そうではあるが笑顔で栗田親子に接している。ムサシも、そしてヒル魔も心から幸せな気持ちを味わっていた。愛おしい女児、その父である親友。優しい母親。いつまでも、この幸せがあるように。いつまでも、どうか健やかに。そんな思いでふたりは楽しいひとときを栗田家で過ごしたのだった。
「楽しかったな」
車が寺の敷地を出てからヒル魔が言った。そうだな、とムサシは答えた。
「喜んでくれたみたいで良かった」
「たりめーだ、テメーと俺の共同作戦だぞ」
強気な恋人の言葉に思わず笑みがこぼれてしまう。
帰り際、栗田親子は三人でムサシとヒル魔を見送ってくれた。車に乗り込む時、ムサシは後部座席に置いておいたあるものを取り出した。
──美樹さん。これ、美樹さんに
──え……え?
ムサシが取り出したもの。それはヒル魔と相談して買ってきたカーネーションのブーケだった。シックなピンクと、薄墨色に染められたものを数本選んでブーケにしてもらって、持ってきたのだ。
俺たちが言うのも変かもしれないけど。弥生ちゃんを産んでくれて、ありがとう。ムサシはそう言うつもりだった、だが美樹は全てを察してくれたようだ。花束と、ムサシとヒル魔を交互に見つめて、みるみるその目に涙を浮かべた。唇を震わせて、くしゃくしゃの笑顔で微笑む。ムサシもヒル魔も、しばし優しく美樹を見つめた。でもあまり湿っぽくなってはいけない。できるだけあっさりと別れを告げて、ふたりはその場を離れたのだった。
「で? お前は俺に何をくれるんだ」
少し悪戯っぽくムサシは恋人に問いかけた。
毎年、ムサシとヒル魔はバレンタインとホワイトデーにちょっとした贈り物をしあうことにしている。今年のホワイトデーは昨日のことであったが、弥生の誕生パーティーが終わってからにしようと前から話し合っていたのだ。ヒル魔が笑った。
「そういうテメーこそどうなんだ。なんか用意してあるんだろうな」
「ああ、まああるぞ」
「へえ。そりゃ楽しみだ」
贈り物か、とムサシは考えた。ずっと前からムサシには恋人に言い出したかったことがある。今年のホワイトデーはそれを贈ろうと思っていた。
家を買おうという計画だ。
自分たちの設計で、たとえ何年かかろうとも自分たちで建てる家。この先を、ずっとふたりで歩いていくための家。
明日も休日だ。焦らず、ゆっくり話そうとムサシは思っている。いい休日になるだろう。
飲み会、パーティー。それからデート。宅飲み。カラオケ。星の数ほどいる世間の人々。みんなが楽しくあるように。むろんのこと、俺たちも。
満ち足りた、良い夜を過ごしているように。
くすくすと愛らしい声がまだ耳元に残る。それはムサシに勇気と力を与えてくれるようだ。
ふとムサシは考えた。いま。思い切って、いま口にしてみようか。
隣に座る恋人はすっかりくつろいだ様子でシートに身を預けている。
ゆっくり、帰ってからにしようと考えていた。でも何だか、いま口にしてみたい。そんな気持ちがなぜかムサシの胸の内に湧き起こっている。
落ち着こうと努めながら、息を吸い込んだ。
それから、ムサシは恋人の名を呼んだ。
「──あのな。ヒル魔」
あ? と無造作な恋人の返事。胸が高鳴る、でもいまこの場で恋人に話したい。ごくりと唾を飲み込んで、ムサシはまた口を開いた。
ライトをつけて、ムサシの軽自動車は夜道を走る。
幸せな。
幸せな夜道を車は走って行った。
【END】