髪かざり
2 髪かざり
フィカス・ベンガレンシス。通称ゴムの木。そういう観葉植物がムサシとヒル魔の家にはある。結婚祝いにムサシがバベルズの仲間から贈られたものだ。白い陶器の鉢の高さは測ってみたら約18センチ、このサイズのものは6号鉢というらしい。ややカーブを描いた太い幹からゆったりと3本の枝が伸びて、厚めの葉を繁らせている。全高は60センチほどではないだろうか。
ムサシが贈られたものなので水やりはおもにムサシの仕事だ。日光を好み、暗い場所だと元気がなくなるらしいと調べて分かった。そのため、ベランダに出る窓に近い日当たりがこの木の定位置となっている。
観葉植物と言えども生き物である。土が乾けば鉢底から抜けるまでたっぷりと水をやり、鉢受け皿に溜まった水はこまめに捨てる。葉にほこりがたまれば拭いてやる。そうした世話をすることは別に苦にならなかったし、自分の担当だとムサシは思っていた。でも意外なことに、ヒル魔もこの植物を大事に思っているらしいということにやがて気づいた。
何も知識のなかったムサシに、水やりの仕方や置き場所などを調べて指示したのはヒル魔である。それに肥料もネットで注文して取り寄せた。少しムサシが手入れを怠ると、浴室まで鉢を持って行ってシャワーで洗ってやっていたりする。そのせいか、今のところゴムの木は害虫もつかず病気にかかることもなく、美しい葉をたくましく広げてすくすくと育っている。最近、どうも鉢が窮屈になってきたのではないかとムサシは思っている。もしかしたらこの春にはひとまわり大きな鉢に植え替えた方がいいのかもしれない。今度、ヒル魔に相談してみよう。そう思いながらムサシは朝食の支度をしようと台所に入った。
恋人は──ヒル魔はまだ起きてこない。何度か声はかけたが反応はなかった。今日は午前中だけの仕事が入っているはずだが、時計を見るとまだ少しゆとりがありそうだ。もうしばらく寝かせておくか、と思った。
長年の同棲を経て、ムサシとヒル魔は4年前の春に結婚した。ふたりを取り巻く人々の多くが、それを知って最初は戸惑った。だがそれからもう幾年も過ぎて、身内ばかりかそれぞれの勤務先でもふたりの関係は受け入れられている。月日はあっという間に過ぎて、今年はふたりが32歳を迎える年である。
三十路を過ぎて、ムサシはやや体力の衰えを感じるようになった。20代の頃のような無理はきかない。徹夜もできるだけ避けるよう努めている。アメフト選手としても、大工としても怪我や病気は大敵だ。おのれの体に留意する。少し前までのような無茶は避けなければ。
歳を取ったのはヒル魔も同様だ。相変わらずの金髪ピアス、高らかな悪魔笑い。いくつになっても頑として変えようとしない。ひとを威嚇するような外見であるし余計な誤解を与えることもある。表面的な見方しかできないある種の人々は、いまも露骨にヒル魔を避ける。ただ栗田の娘は違った。
栗田良寛。ムサシとヒル魔の親友である。その栗田が大学時代の同級生、もと炎馬ファイヤーズのマネージャーと挙式したのは26歳の時のことだった。妻、美樹との間にその後一子をもうけ、その子──弥生と名付けられた──と現在は三人で暮らしている。
弥生は赤子の頃から物怖じしない子だった。自分はどういうわけか子供に好かれるからあまり心配はない、でもヒル魔はどうか。そんなふうに考えていたムサシの懸念は実に簡単に裏切られた。栗田に抱かれてふたりの家に遊びに来た弥生。まだ1才の誕生日も迎えていなかったはずだ。巨体の父の太い腕に抱かれてやってきた弥生は、さっそく好奇心旺盛にムサシとヒル魔の家の居間を探検し始めた。よちよちと危なっかしい足取りで、時折ちょこんと床に座り込みながらもローテーブルを叩き、テレビを触り、ムサシばかりでなくヒル魔にも愛嬌を見せた。近づいてきて小さな手でムサシの顔をぺしぺしと叩く。声をあげて笑う。ベランダ近くの日だまりを見つけて寝転ぶ。そこにヒル魔が近づいて、同じように腹這いになった。弥生に顔を近づけるヒル魔。きゃっきゃと弥生は喜んだ。ヒル魔の金髪を掴んであどけない声を出す。こら弥生、痛い痛いだよ、と栗田が注意したがヒル魔はまるで気にならないようだった。ああ、平気だ、と言って赤子と顔をつき合わせている。何だかとても新鮮な思いでムサシはその光景を見ていたのだった。
栗田にヒル魔、ムサシ。幼馴染の親友付き合いを長年続けてきた三人だ。だが言うまでもなく性格はまるで違うし体型だとて大きく異なっている。弥生はそれを敏感に感じ取ったらしく、ムサシやヒル魔をひどく珍しがり、関心を持ったようだった。しかも父親の巨体と同じく大人の体にはよじ登れるものだと思い込んでいるらしい。ムサシの膝の上はもちろん、とんでもない格好で背中に張り付く。頭に向かって這い登ろうとする。おてんばぶりを発揮する弥生に、むろんムサシは腹も立たない。小さな体を支えてやって戯れる。そんなムサシをげらげら笑いながら観察するヒル魔だって、寄ってくる赤子を何度も高い高いしてやって飽きないようだった。
弥生という名は生まれた月に由来して栗田夫妻が名付けたという。すくすくと成長した女児はやがてしっかりと歩き出し、言葉を覚え、ムサシやヒル魔の名をも覚えた。まだ回らぬ舌でむしゃしゃん、ひるましゃんと呼ばれてふたりともあっけなく陥落した。とにかく、可愛い。心から愛おしい。そんな思いがこみあげる。栗田家を訪れてはふたりは弥生と語らい、遊んでやり、また自分らの家にも弥生を招いた。すっかりふたりに慣れた弥生はムサシやヒル魔と会うのが楽しみで仕方ないようだった。ぱっちりした目を輝かせて駆け寄ってくる、そんな女児を心からムサシもヒル魔も大切にした。
ムサシには忘れられない光景がある。弥生を連れて、その父と自分とヒル魔で栗田の家の境内を散歩していた時のことだ。弥生とヒル魔が並んで先に立って歩いていた。広い境内を、何事かヒル魔に一生懸命話しながら弥生は歩いていた。ヒル魔もちゃんと相づちを打ちながら弥生の話に耳を傾けていた。そのヒル魔に、弥生が突然言い出したのだ。
──ねえ、ひるましゃん。スキップしよ!
後ろで聞いたムサシは、一瞬どうしようと思った。どうするヒル魔、と恋人の背中を見つめる。
──お? ……おお
恋人の言葉は短かった。ムサシには明らかに感じ取れた、ヒル魔の戸惑い。だが恋人は──かつて地獄の司令塔と呼ばれた金髪悪魔はなんのためらいもなく、次の瞬間には4歳の女児と軽やかにスキップを始めたのだ。
ぽかぽかと晴れた日。石畳の上を軽く跳ねる女児と恋人。なんと言ったらいいか分からない、どうにもたまらないような気持ちにムサシは襲われた。我慢できなくなって隣を歩いていた栗田の顔を見る。すると。
栗田もムサシに視線を向けた。まん丸顔に真っ赤に血をのぼらせて、肩を震わせて。その口元。ぎゅうっと唇を噛み締めて、ふくよかな頬にはもうこられきれないえくぼが浮かぶ。
そんな栗田と顔を見合わせて、ついに辛抱たまらなくなった。ムサシはぷっと吹き出してしまった。ヒル魔に遠慮して声は出さなかった、でもムサシも栗田も思う存分笑い崩れてしまったのだ。
弥生がこの世に生を受けたのは5年前の昨日、3月14日だった。いわゆる、ホワイトデーに当たる日だ。今年のバレンタインデーには母に手を貸してもらって作ったのだろうチョコレートを、少しはにかみながら渡してくれた。青とピンクのリボンが結ばれた小箱。それぞれ、こっちはむしゃしゃん、こっちがひるましゃんの、と別々に。受け取って開封した小箱には、市販のハート形のパイにチョコレートをかけてデコレートしたもの。ナッツやアラザンが散りばめられたそれを、本当に嬉しく、そして美味しくムサシもヒル魔も口にしたのだった。
ムサシもヒル魔も、あまり弥生の母──美樹の負担になってはいけないとの思いからそれほど頻繁に栗田家を訪れたわけではなかった。もっとも、美樹は心優しい女性で、たまさかにふたりが訪れると心からの笑顔で歓待してくれるのではあったが。だから弥生と会うのは外でということも多かった。少し前にはムサシが車を出して、T県にある競走馬の養成場までサラブレッドを見に行った。
広い牧場と牧草地。その中を弥生は元気に駆け回り、父やムサシやヒル魔の腕に抱かれて馬の鼻面を触り、撫でてやり、歓声をあげた。栗田が一口馬主をしている関係で入場できた養成所だが、ムサシもヒル魔もこうした場所は初めてである。たくさんの競走馬がのどかに草を食む牧草地、広大な厩舎。最初は職員が案内してくれたが、一通り説明した後はどうぞご自由にと言ってくれた。広い敷地をゆっくりと見物して回り、美しい馬たちと緑の風景を堪能して四人は帰路についたのである。
帰りの車の中で、なぜか弥生は黙りがちになった。眠くなったんじゃないかとムサシは思ったが、どうもそうではないらしい。気を使って父やヒル魔が話しかけても、はかばかしい返事をしない。バックミラーでその様子を覗きながら、どうしたのかとムサシも案じていた。
栗田家に戻って車を停めたところで、謎が解けた。弥生は、帰りたくないと駄々をこねたのだ。むしゃしゃんと、ひるましゃんともっと遊びたい、とうっすら目に涙を浮かべて。
ぐっと胸にせまるものをこらえて、ムサシは女児の頭を撫でてやった。また遊びに連れてってやる、絶対だ。そう指きりげんまんをして、なだめてやる。ヒル魔も同じように弥生と指きりをして、それからふたりは別れを告げたのだ。
寺の正門の前で、ムサシは車を発進させた。バックミラーには見送る、大きな体の栗田と小さな女児。
アクセルを踏む。すると助手席のヒル魔が低く、おいとムサシを呼んだ。振り返る。
何事かとムサシもバックミラーを見た。鏡の中には弥生が映る。一心にこちらを見つめていることが明白だ。なんとも心細そうな、寂しそうな弥生の姿。車を追って駆けようとするのを栗田が止めている。
今度こそムサシは目頭が熱くなってしまった。唇を噛み締めて車を操る。よそ見は危険だ、おのれにそう言い聞かせて前を見据える。隣の様子を窺うと恋人も珍しく無口だ。後ろ髪を引かれるとはこのことか、と思った。残りの車中をほぼ無言でふたりは過ごした。なんとも言えない思いを胸に抱えて。
あのときは切なかったな、と思いながらムサシは朝食作りを続けている。主食もスープもサラダももう出来上がる。さてそろそろ恋人を起こさないとまずいのではないだろうか。──と、
バタン!
荒々しく寝室のドアの開く音。ムサシは苦笑いを浮かべた。台所から声をかける。
「起きたかー?」
台所に隣接する洗面所。そこに恋人が駆け込んできた。がらがらとうがいをする音、洗面に身支度。せわしない様子が台所からも窺える。ムサシはもう一度声をかけた。
「何度も起こしたんだぞ」
「ああ、分かってる、おはよう!」
わさわさと黒いセーターを被りながら恋人が答える。セーターの首のところからずぼっと顔を出したかと思うと慌ただしく髪を整え始めた。
「めし、どうする。作ったぞ」
「いやもう出る」
そう言いながらヒル魔がムサシのいる台所に闖入してきた。調理台の上の、作りかけのホットドッグ。パンを引っ掴んであっという間にぱくり、飲み込んでしまう。ムサシは少々慌てた。
「こら、今それソーセージを」
ヒル魔はムサシにみなまで言わせなかった。オーブントースターで焼かれていたソーセージに目をつけて手で鷲掴みにする。
「あっち!」
「当たり前だ」
文句を言いながらもヒル魔はこれもあっという間にはふはふ頬張ってしまった。せっかくこれからパンに挟むところだったのに、そう言いかけたムサシに、腹に入りゃ同じだろと言い返す。んじゃ行ってくる、と台所から飛び出していく。ムサシは追いかけるように後をついていく。
「ヒル魔、今日は早上がりなんだろ」
「あー、分かんね」
「おい、だって今日は栗田のうちに」
「分かってる、早く帰る!」
突風のようにヒル魔はバッグを抱えて玄関から消えた。残されたムサシはほっと息をつく。全く、いくつになっても相変わらず騒がしい。
台所に戻って、作った料理をダイニングテーブルに運んだ。仕方ない、今日は一人で朝食だ。
出来立てのホットドッグに、コンソメスープ。スクランブルエッグ。トマトにきゅうり、ブロッコリーのサラダ。ゆっくりと味わいながらムサシは朝食をしたためた。いい天気だな、と窓の外を見る。まぶしい光が差し込む居間。まだ寒い日もあるが一日一日と確実に気温は上がりつつある。うらうらと優しい日差しが窓際のゴムの木に降り注ぐ。
今夜が楽しみだな、とムサシはまた思った。
昨日、3月14日。栗田家の一人娘、弥生は5歳の誕生日を迎えた。昨日は身内だけで誕生パーティーをしたはずだ。15日はお友達を呼んでパーティーをしましょう、誰を呼びたい? と問いかけた母に、弥生は答えたのだ。むしゃしゃんと、ひるましゃんがいい。そう嬉しそうに、はっきりと。電話で栗田からそれを聞いて、ムサシもヒル魔も大きな喜びを味わった。もちろん、喜んで伺うよ、と答えたのが数週間前である。
ホットドッグを齧りながらムサシは思う。早いもんだな、と。あの小さな赤子がもう5歳。それなら俺たちはどれくらいになるんだろうとふと考えた。同棲を始めて、もう何年経つだろう。告白したのは、それなら何年前になるんだっけ。
お互いに捧げあう愛情。確かな愛情を抱いているのにすれ違ってしまう。ぎくしゃくとぎこちない恋。そんな恋を、何年もムサシとヒル魔はしていた。好きだ、何よりもお前が大切だ。やっとそんな想いを素直に口にして、結ばれて。一緒に暮らし始めた。長く同棲して、それからふたりは思い切って自分たちの関係を周囲に打ち明けた。今でもムサシは覚えている。荒海に乗り出すような気持ちだった自分とヒル魔。真っ先に駆けつけて祝ってくれたのが栗田だった。まん丸顔にいっぱいの笑顔を浮かべて、惜しみない祝福の言葉を贈ってくれた。その瞬間を生涯忘れることはないだろうとムサシは思う。あの時は、確か弥生が生まれたばかりだったのではないだろうか。どういうわけかその弥生にムサシもヒル魔も気に入られた。父であり母である栗田夫妻。その夫妻と同じようにムサシもヒル魔も、弥生の成長を見守ってきたのである。
色々とあったな、と思いながらムサシはサラダをつつきスープを静かに啜る。このあとは簡単に掃除、それから洗濯。腹ごなし代わりにジムにも行きたい。そして、帰ったら栗田の家に出かける準備をしなければ。
弥生の誕生パーティーに呼ばれることが決まってから、ムサシとヒル魔は話し合っていた。プレゼントを渡すのはもちろんだが、他の何か──別のことでも祝ってやりたい。何をするのがいいか。相談して、ヒル魔が思いついた。手料理という手段である。ネットで探せば自分たちにも出来るパーティーメニューというものは見つかるだろう。それにただ呼ばれるだけでは美樹にも負担になってしまう。何か、自分らでも出来るような手料理を持ち寄るのはどうだろう。ムサシは少し考えて、ヒル魔のアイデアを肯んじた。それから色々と調べて、今日のために必要なレシピに食材はもう用意してある。ムサシは真っ先にチュロスを作るつもりだ。有名な遊園地の名物にもなっているその菓子を弥生が好いていることは、美樹から聞いて知っていた。ただ成形をどうしようと思ったが、美樹が良い知恵を貸してくれた。マヨネーズの口金を利用するという手だ。ムサシは美樹に礼を言って、試してみようと思った。昔はシンプルなドーナツしか作れなかったが、何しろ弥生に、栗田の娘に持って行ってやるものだ。張り切ろう。
プレゼントはもうすでにラッピングして、ヒル魔の部屋に置いてある。ムサシが恋人に言われるまま手作りしたものだ。その中にはヒル魔が贈るものも入っているらしい。あいつ、俺に作らせておいて自分は何を贈るんだ、とムサシは何度目か思った。訊くことは無論訊いてみたが恋人はにやりとたちの悪い笑みを見せただけで黙っていたのだ。
ともかく、あとは料理とプレゼントを持っていくだけだ。楽しい、楽しい夜になりそうだ。何だか浮き立つような思いでムサシは立ち上がった。
フィカス・ベンガレンシス。通称ゴムの木。そういう観葉植物がムサシとヒル魔の家にはある。結婚祝いにムサシがバベルズの仲間から贈られたものだ。白い陶器の鉢の高さは測ってみたら約18センチ、このサイズのものは6号鉢というらしい。ややカーブを描いた太い幹からゆったりと3本の枝が伸びて、厚めの葉を繁らせている。全高は60センチほどではないだろうか。
ムサシが贈られたものなので水やりはおもにムサシの仕事だ。日光を好み、暗い場所だと元気がなくなるらしいと調べて分かった。そのため、ベランダに出る窓に近い日当たりがこの木の定位置となっている。
観葉植物と言えども生き物である。土が乾けば鉢底から抜けるまでたっぷりと水をやり、鉢受け皿に溜まった水はこまめに捨てる。葉にほこりがたまれば拭いてやる。そうした世話をすることは別に苦にならなかったし、自分の担当だとムサシは思っていた。でも意外なことに、ヒル魔もこの植物を大事に思っているらしいということにやがて気づいた。
何も知識のなかったムサシに、水やりの仕方や置き場所などを調べて指示したのはヒル魔である。それに肥料もネットで注文して取り寄せた。少しムサシが手入れを怠ると、浴室まで鉢を持って行ってシャワーで洗ってやっていたりする。そのせいか、今のところゴムの木は害虫もつかず病気にかかることもなく、美しい葉をたくましく広げてすくすくと育っている。最近、どうも鉢が窮屈になってきたのではないかとムサシは思っている。もしかしたらこの春にはひとまわり大きな鉢に植え替えた方がいいのかもしれない。今度、ヒル魔に相談してみよう。そう思いながらムサシは朝食の支度をしようと台所に入った。
恋人は──ヒル魔はまだ起きてこない。何度か声はかけたが反応はなかった。今日は午前中だけの仕事が入っているはずだが、時計を見るとまだ少しゆとりがありそうだ。もうしばらく寝かせておくか、と思った。
長年の同棲を経て、ムサシとヒル魔は4年前の春に結婚した。ふたりを取り巻く人々の多くが、それを知って最初は戸惑った。だがそれからもう幾年も過ぎて、身内ばかりかそれぞれの勤務先でもふたりの関係は受け入れられている。月日はあっという間に過ぎて、今年はふたりが32歳を迎える年である。
三十路を過ぎて、ムサシはやや体力の衰えを感じるようになった。20代の頃のような無理はきかない。徹夜もできるだけ避けるよう努めている。アメフト選手としても、大工としても怪我や病気は大敵だ。おのれの体に留意する。少し前までのような無茶は避けなければ。
歳を取ったのはヒル魔も同様だ。相変わらずの金髪ピアス、高らかな悪魔笑い。いくつになっても頑として変えようとしない。ひとを威嚇するような外見であるし余計な誤解を与えることもある。表面的な見方しかできないある種の人々は、いまも露骨にヒル魔を避ける。ただ栗田の娘は違った。
栗田良寛。ムサシとヒル魔の親友である。その栗田が大学時代の同級生、もと炎馬ファイヤーズのマネージャーと挙式したのは26歳の時のことだった。妻、美樹との間にその後一子をもうけ、その子──弥生と名付けられた──と現在は三人で暮らしている。
弥生は赤子の頃から物怖じしない子だった。自分はどういうわけか子供に好かれるからあまり心配はない、でもヒル魔はどうか。そんなふうに考えていたムサシの懸念は実に簡単に裏切られた。栗田に抱かれてふたりの家に遊びに来た弥生。まだ1才の誕生日も迎えていなかったはずだ。巨体の父の太い腕に抱かれてやってきた弥生は、さっそく好奇心旺盛にムサシとヒル魔の家の居間を探検し始めた。よちよちと危なっかしい足取りで、時折ちょこんと床に座り込みながらもローテーブルを叩き、テレビを触り、ムサシばかりでなくヒル魔にも愛嬌を見せた。近づいてきて小さな手でムサシの顔をぺしぺしと叩く。声をあげて笑う。ベランダ近くの日だまりを見つけて寝転ぶ。そこにヒル魔が近づいて、同じように腹這いになった。弥生に顔を近づけるヒル魔。きゃっきゃと弥生は喜んだ。ヒル魔の金髪を掴んであどけない声を出す。こら弥生、痛い痛いだよ、と栗田が注意したがヒル魔はまるで気にならないようだった。ああ、平気だ、と言って赤子と顔をつき合わせている。何だかとても新鮮な思いでムサシはその光景を見ていたのだった。
栗田にヒル魔、ムサシ。幼馴染の親友付き合いを長年続けてきた三人だ。だが言うまでもなく性格はまるで違うし体型だとて大きく異なっている。弥生はそれを敏感に感じ取ったらしく、ムサシやヒル魔をひどく珍しがり、関心を持ったようだった。しかも父親の巨体と同じく大人の体にはよじ登れるものだと思い込んでいるらしい。ムサシの膝の上はもちろん、とんでもない格好で背中に張り付く。頭に向かって這い登ろうとする。おてんばぶりを発揮する弥生に、むろんムサシは腹も立たない。小さな体を支えてやって戯れる。そんなムサシをげらげら笑いながら観察するヒル魔だって、寄ってくる赤子を何度も高い高いしてやって飽きないようだった。
弥生という名は生まれた月に由来して栗田夫妻が名付けたという。すくすくと成長した女児はやがてしっかりと歩き出し、言葉を覚え、ムサシやヒル魔の名をも覚えた。まだ回らぬ舌でむしゃしゃん、ひるましゃんと呼ばれてふたりともあっけなく陥落した。とにかく、可愛い。心から愛おしい。そんな思いがこみあげる。栗田家を訪れてはふたりは弥生と語らい、遊んでやり、また自分らの家にも弥生を招いた。すっかりふたりに慣れた弥生はムサシやヒル魔と会うのが楽しみで仕方ないようだった。ぱっちりした目を輝かせて駆け寄ってくる、そんな女児を心からムサシもヒル魔も大切にした。
ムサシには忘れられない光景がある。弥生を連れて、その父と自分とヒル魔で栗田の家の境内を散歩していた時のことだ。弥生とヒル魔が並んで先に立って歩いていた。広い境内を、何事かヒル魔に一生懸命話しながら弥生は歩いていた。ヒル魔もちゃんと相づちを打ちながら弥生の話に耳を傾けていた。そのヒル魔に、弥生が突然言い出したのだ。
──ねえ、ひるましゃん。スキップしよ!
後ろで聞いたムサシは、一瞬どうしようと思った。どうするヒル魔、と恋人の背中を見つめる。
──お? ……おお
恋人の言葉は短かった。ムサシには明らかに感じ取れた、ヒル魔の戸惑い。だが恋人は──かつて地獄の司令塔と呼ばれた金髪悪魔はなんのためらいもなく、次の瞬間には4歳の女児と軽やかにスキップを始めたのだ。
ぽかぽかと晴れた日。石畳の上を軽く跳ねる女児と恋人。なんと言ったらいいか分からない、どうにもたまらないような気持ちにムサシは襲われた。我慢できなくなって隣を歩いていた栗田の顔を見る。すると。
栗田もムサシに視線を向けた。まん丸顔に真っ赤に血をのぼらせて、肩を震わせて。その口元。ぎゅうっと唇を噛み締めて、ふくよかな頬にはもうこられきれないえくぼが浮かぶ。
そんな栗田と顔を見合わせて、ついに辛抱たまらなくなった。ムサシはぷっと吹き出してしまった。ヒル魔に遠慮して声は出さなかった、でもムサシも栗田も思う存分笑い崩れてしまったのだ。
弥生がこの世に生を受けたのは5年前の昨日、3月14日だった。いわゆる、ホワイトデーに当たる日だ。今年のバレンタインデーには母に手を貸してもらって作ったのだろうチョコレートを、少しはにかみながら渡してくれた。青とピンクのリボンが結ばれた小箱。それぞれ、こっちはむしゃしゃん、こっちがひるましゃんの、と別々に。受け取って開封した小箱には、市販のハート形のパイにチョコレートをかけてデコレートしたもの。ナッツやアラザンが散りばめられたそれを、本当に嬉しく、そして美味しくムサシもヒル魔も口にしたのだった。
ムサシもヒル魔も、あまり弥生の母──美樹の負担になってはいけないとの思いからそれほど頻繁に栗田家を訪れたわけではなかった。もっとも、美樹は心優しい女性で、たまさかにふたりが訪れると心からの笑顔で歓待してくれるのではあったが。だから弥生と会うのは外でということも多かった。少し前にはムサシが車を出して、T県にある競走馬の養成場までサラブレッドを見に行った。
広い牧場と牧草地。その中を弥生は元気に駆け回り、父やムサシやヒル魔の腕に抱かれて馬の鼻面を触り、撫でてやり、歓声をあげた。栗田が一口馬主をしている関係で入場できた養成所だが、ムサシもヒル魔もこうした場所は初めてである。たくさんの競走馬がのどかに草を食む牧草地、広大な厩舎。最初は職員が案内してくれたが、一通り説明した後はどうぞご自由にと言ってくれた。広い敷地をゆっくりと見物して回り、美しい馬たちと緑の風景を堪能して四人は帰路についたのである。
帰りの車の中で、なぜか弥生は黙りがちになった。眠くなったんじゃないかとムサシは思ったが、どうもそうではないらしい。気を使って父やヒル魔が話しかけても、はかばかしい返事をしない。バックミラーでその様子を覗きながら、どうしたのかとムサシも案じていた。
栗田家に戻って車を停めたところで、謎が解けた。弥生は、帰りたくないと駄々をこねたのだ。むしゃしゃんと、ひるましゃんともっと遊びたい、とうっすら目に涙を浮かべて。
ぐっと胸にせまるものをこらえて、ムサシは女児の頭を撫でてやった。また遊びに連れてってやる、絶対だ。そう指きりげんまんをして、なだめてやる。ヒル魔も同じように弥生と指きりをして、それからふたりは別れを告げたのだ。
寺の正門の前で、ムサシは車を発進させた。バックミラーには見送る、大きな体の栗田と小さな女児。
アクセルを踏む。すると助手席のヒル魔が低く、おいとムサシを呼んだ。振り返る。
何事かとムサシもバックミラーを見た。鏡の中には弥生が映る。一心にこちらを見つめていることが明白だ。なんとも心細そうな、寂しそうな弥生の姿。車を追って駆けようとするのを栗田が止めている。
今度こそムサシは目頭が熱くなってしまった。唇を噛み締めて車を操る。よそ見は危険だ、おのれにそう言い聞かせて前を見据える。隣の様子を窺うと恋人も珍しく無口だ。後ろ髪を引かれるとはこのことか、と思った。残りの車中をほぼ無言でふたりは過ごした。なんとも言えない思いを胸に抱えて。
あのときは切なかったな、と思いながらムサシは朝食作りを続けている。主食もスープもサラダももう出来上がる。さてそろそろ恋人を起こさないとまずいのではないだろうか。──と、
バタン!
荒々しく寝室のドアの開く音。ムサシは苦笑いを浮かべた。台所から声をかける。
「起きたかー?」
台所に隣接する洗面所。そこに恋人が駆け込んできた。がらがらとうがいをする音、洗面に身支度。せわしない様子が台所からも窺える。ムサシはもう一度声をかけた。
「何度も起こしたんだぞ」
「ああ、分かってる、おはよう!」
わさわさと黒いセーターを被りながら恋人が答える。セーターの首のところからずぼっと顔を出したかと思うと慌ただしく髪を整え始めた。
「めし、どうする。作ったぞ」
「いやもう出る」
そう言いながらヒル魔がムサシのいる台所に闖入してきた。調理台の上の、作りかけのホットドッグ。パンを引っ掴んであっという間にぱくり、飲み込んでしまう。ムサシは少々慌てた。
「こら、今それソーセージを」
ヒル魔はムサシにみなまで言わせなかった。オーブントースターで焼かれていたソーセージに目をつけて手で鷲掴みにする。
「あっち!」
「当たり前だ」
文句を言いながらもヒル魔はこれもあっという間にはふはふ頬張ってしまった。せっかくこれからパンに挟むところだったのに、そう言いかけたムサシに、腹に入りゃ同じだろと言い返す。んじゃ行ってくる、と台所から飛び出していく。ムサシは追いかけるように後をついていく。
「ヒル魔、今日は早上がりなんだろ」
「あー、分かんね」
「おい、だって今日は栗田のうちに」
「分かってる、早く帰る!」
突風のようにヒル魔はバッグを抱えて玄関から消えた。残されたムサシはほっと息をつく。全く、いくつになっても相変わらず騒がしい。
台所に戻って、作った料理をダイニングテーブルに運んだ。仕方ない、今日は一人で朝食だ。
出来立てのホットドッグに、コンソメスープ。スクランブルエッグ。トマトにきゅうり、ブロッコリーのサラダ。ゆっくりと味わいながらムサシは朝食をしたためた。いい天気だな、と窓の外を見る。まぶしい光が差し込む居間。まだ寒い日もあるが一日一日と確実に気温は上がりつつある。うらうらと優しい日差しが窓際のゴムの木に降り注ぐ。
今夜が楽しみだな、とムサシはまた思った。
昨日、3月14日。栗田家の一人娘、弥生は5歳の誕生日を迎えた。昨日は身内だけで誕生パーティーをしたはずだ。15日はお友達を呼んでパーティーをしましょう、誰を呼びたい? と問いかけた母に、弥生は答えたのだ。むしゃしゃんと、ひるましゃんがいい。そう嬉しそうに、はっきりと。電話で栗田からそれを聞いて、ムサシもヒル魔も大きな喜びを味わった。もちろん、喜んで伺うよ、と答えたのが数週間前である。
ホットドッグを齧りながらムサシは思う。早いもんだな、と。あの小さな赤子がもう5歳。それなら俺たちはどれくらいになるんだろうとふと考えた。同棲を始めて、もう何年経つだろう。告白したのは、それなら何年前になるんだっけ。
お互いに捧げあう愛情。確かな愛情を抱いているのにすれ違ってしまう。ぎくしゃくとぎこちない恋。そんな恋を、何年もムサシとヒル魔はしていた。好きだ、何よりもお前が大切だ。やっとそんな想いを素直に口にして、結ばれて。一緒に暮らし始めた。長く同棲して、それからふたりは思い切って自分たちの関係を周囲に打ち明けた。今でもムサシは覚えている。荒海に乗り出すような気持ちだった自分とヒル魔。真っ先に駆けつけて祝ってくれたのが栗田だった。まん丸顔にいっぱいの笑顔を浮かべて、惜しみない祝福の言葉を贈ってくれた。その瞬間を生涯忘れることはないだろうとムサシは思う。あの時は、確か弥生が生まれたばかりだったのではないだろうか。どういうわけかその弥生にムサシもヒル魔も気に入られた。父であり母である栗田夫妻。その夫妻と同じようにムサシもヒル魔も、弥生の成長を見守ってきたのである。
色々とあったな、と思いながらムサシはサラダをつつきスープを静かに啜る。このあとは簡単に掃除、それから洗濯。腹ごなし代わりにジムにも行きたい。そして、帰ったら栗田の家に出かける準備をしなければ。
弥生の誕生パーティーに呼ばれることが決まってから、ムサシとヒル魔は話し合っていた。プレゼントを渡すのはもちろんだが、他の何か──別のことでも祝ってやりたい。何をするのがいいか。相談して、ヒル魔が思いついた。手料理という手段である。ネットで探せば自分たちにも出来るパーティーメニューというものは見つかるだろう。それにただ呼ばれるだけでは美樹にも負担になってしまう。何か、自分らでも出来るような手料理を持ち寄るのはどうだろう。ムサシは少し考えて、ヒル魔のアイデアを肯んじた。それから色々と調べて、今日のために必要なレシピに食材はもう用意してある。ムサシは真っ先にチュロスを作るつもりだ。有名な遊園地の名物にもなっているその菓子を弥生が好いていることは、美樹から聞いて知っていた。ただ成形をどうしようと思ったが、美樹が良い知恵を貸してくれた。マヨネーズの口金を利用するという手だ。ムサシは美樹に礼を言って、試してみようと思った。昔はシンプルなドーナツしか作れなかったが、何しろ弥生に、栗田の娘に持って行ってやるものだ。張り切ろう。
プレゼントはもうすでにラッピングして、ヒル魔の部屋に置いてある。ムサシが恋人に言われるまま手作りしたものだ。その中にはヒル魔が贈るものも入っているらしい。あいつ、俺に作らせておいて自分は何を贈るんだ、とムサシは何度目か思った。訊くことは無論訊いてみたが恋人はにやりとたちの悪い笑みを見せただけで黙っていたのだ。
ともかく、あとは料理とプレゼントを持っていくだけだ。楽しい、楽しい夜になりそうだ。何だか浮き立つような思いでムサシは立ち上がった。