髪かざり
1 トリオ
コートを着ていればそれほど寒さは気にならない。暖かくなってきたな、と思いながら十文字はホームに滑り込んできた電車に乗った。降車地までは2駅だから座ろうとは思わず、ドア近くに立ち止まる。週末の夕刻、おそらくは行楽の行き帰りらしい人々で車内は賑わう。すぐそばには学生風のカップルがおり、男の方が女性へのプレゼントらしい紙袋を下げている。聞き耳を立てなくとも楽しそうな会話が聞こえる。昨日、自分も終業時に職場の女性らへプレゼントを渡してきた。ホワイトデーのお菓子だ。何がいいのか妻に相談して、都心の食材店で買ってきた。美しく包装されたそれは最近SNSで話題のクッキーだという。義理的な贈り物ではあるが、どうぞと差し出すと女性たちはみな知っていたらしく、嬉しそうに受け取ってくれた。やれやれ、よかった、と昨日は何だか肩の荷がおりたような気になって帰宅したのだった。
車窓から見える風景。高校時代はこれを見ながら通学していたのだ。チョコレート工場やIT企業の大きな事業所。無数の住宅。それらはいま日暮れどきの太陽に照らされてオレンジ色に染まりながら佇む。あいつら、どうしてるかな、とまた考えた。高校を卒業して以来、それほどまめに連絡を取り合っていたわけではない。久しぶりに会うことになって、話ははずむだろうか。
目的の駅に着いた。電車を降りて改札を抜けて、駅前の待ち合わせ場所へと歩んでいく。出入り口のところでふと地面に落ちた吸い殻が目に入った。若い頃──というよりも色々な意味で子供だった頃は自分もイキがって吸っていた。二人の、これから会うことになっている仲間たちと同じように。
初めて煙草に手を出したのは中2の時だった。黒木か戸叶、どちらかが調達してきたのだ。おそらくは自分の父が吸っていたものなのではないだろうか。たまり場にしていた学校の体育館裏で、まず黒木が火をつけた。吸い込んで、なんとも言えないような表情でわずかに煙を吐き出す。初めてのことで要領がよく分からないのだろう。自分も同じだ、と思いながら十文字も差し出されたそれを手にした。先端を咥えると口の中に苦味が広がる。こんなもの、どこがいいんだと思った。我慢して息を吸い込んで、危うくむせそうになった。喉にぐっと力を入れて十文字は耐えた。胸の奥で咳き込みたいのを堪えながら煙を吐き出す。貧弱な煙が自分の口から出てくるのを眺め、慣れなきゃあな、と思った。精一杯虚勢を張って、精一杯肩肘を張って生きていたあの頃。煙草くらい吸えねえとおかしい、吸えて当然だと思っていた。別に旨いとはちっとも思っていなかった。でもあの頃は煙草を吸うことが一種の心の拠り所になっていた気がする。つくづく、幼かったなといまの十文字は自分を思う。
駅の外に出ると目の前はロータリーだ。腕時計を見ると6時を数分回っている。待ち合わせ時間だ。あいつらはもう着いてるだろうか。
右手に顔を向けた十文字の目に、二人連れの男が映った。すぐに分かった懐かしい横顔。何か会話している。声をかけようとして苦笑めいたものが胸に起こるのを感じた。なんとまあ、目立つ二人だろう。
十文字の待ち合わせ相手──黒木と戸叶はこちらに気づきもせず何事か語り合っている。それぞれ黒と濃い茶色のブルゾン姿だ。分厚い上着を着ていてもすぐに分かる、堂々とした体躯。鍛えていることが一見して察せられる。何かスポーツをやっているか、肉体労働ででもあるか。道行く人々にもすぐに分かるそんな男たちが、渋いブルゾンに使い込んだジーンズ、スニーカー姿で談笑している。はっきり言って、こわもてだ。迫力がある。あらかじめ分かっていたことではあるが、何ともおかしく、微笑ましく、そして懐かしい。暖かく胸に湧く思い、抑えようと思っても笑みが浮かんでしまう。まるで引き寄せられるように、十文字はそちらに向かって歩き始めた。
「それで、元気だったか」
店員が持ってきてくれたおしぼりで手を拭きながら、十文字は尋ねた。
駅からほど近い場所にある居酒屋だ。天井が高く配管は剥き出しになっている。素朴な木のテーブルに椅子。十文字が四人席の長椅子側に座り、黒木と戸叶は向かいに腰を下ろした。
「元気元気。俺らよりお前はどうなんだよ、モンジ先生」
どこか剽軽に黒木が言って、十文字は笑う。
「先生はやめろ。まあ忙しいことは忙しいな」
「俺らの中から弁護士が出るとは思わなかったな」
今度は戸叶が笑い、本当にな、と黒木も声を合わせる。
「俺らは基本的に残業はねえけど、帰りとか遅いのか」
「ああ、残業続きだ。勉強しなきゃいけないことだらけだしな」
「そっか、大変だな」
「お、来た来た」
最初のビール。声を合わせて三人は乾杯する。
喉を潤して、空腹を感じていた十文字はさっそくお通しに手を出した。店員がささみのぽん酢あえですと言っていたのを思い出した。柔らかい鶏肉に爽やかな酸味で、酒によく合う。
一口つまんで、黒木の言ったことを話題にする。自分のことより、二人の旧友の近況が知りたい。
「残業がないのはいいな」
「ああ、その代わり現場のある時は朝が早いけどな」
「早いって、何時ごろだ」
「8時には点呼がある」
「ほんとか。そりゃ早いな」
「すっかり早寝早起きになったぞ」
戸叶が笑う。明るい茶髪の下の笑顔は10代の頃と何も変わらないようだ。黒木が続けた。
「最初は朝起きるのキツかったけどな、もう慣れた」
「こいつ何度か寝坊して遅刻したことあるぞ」
黒木を指して戸叶が言いつける。思わず十文字は笑った。
「お前は昔から朝が苦手だったもんな」
「そうだったか?」
「高校の時だ。もう覚えてないか」
「ああ、そういやそうか。よく焦って走ってたな」
「よく走らされたよな、練習でも」
「いまも走ってるぞ。練習で」
「そりゃお前たちはそうだろう。俺はさっぱりだ」
「何も運動してないのか。いまは」
「してない。時間もないしな」
「そういや少し細くなったな。どうよ俺らは」
申し合わせたように目の前の二人は腕まくりをした。ぐっと力こぶを作って胸を張り、おかしなポーズを取る。ああ分かった分かった、と苦笑しながら十文字はあしらった。
「でも本当にでかくなったなお前ら。どんなトレーニングしてんだ」
「んー、変わったことは別にしてない。でもハードなのはアレだよな」
同意を求めるように黒木は戸叶に顔を向けた。それだけで理解したようで、戸叶も頷く。十文字に説明しようと思ったらしく、口を開いた。
「でっかいタイヤをな、持ち上げるんだよ。落として、10メートル走る。戻ってきてまた持ち上げて、また落として走る」
「タイヤって、重たいのか」
「でかいし重い。300キロある」
「マジか、すげえな」
「気をつけないと腰に来るんだ、けっこうキツい」
「そうだろう、気をつけろよ」
「やり始めるとけっこう面白いんだけどな。お前もどうだ」
「悪ぃが俺は遠慮しとく」
「あと黒木 、全開脚ができるようになった」
「ほんとか。俺は結局できなかったんだよなそれ」
「できりゃいいってもんでもねえけどな。柔軟やっててムキになったらできた。それより戸叶 だって腰の粘りはすげえぞ」
「ああ、配信で見てる。強くなったな」
「お、サンキュー。あれ有料じゃなかったか?」
「ああ、払ってる」
「ありがとうございます〜」
黒木と戸叶が一斉に頭を下げて、十文字は笑った。
バベルズの試合。時間と都合の許す限り配信を覗いて、十文字はできるだけ観戦している。昨シーズンは勝ち越しの成績で終わったものの、目標とするライスボウルはいまだ遠い。黒木も戸叶も守備と攻撃両面で奮闘してはいるが、人材不足は否めない。ふと試合を観ていて気になったことを十文字は訊いてみようと思った。
「あの、お前らのチームのさ。WRいるだろ、40番だったかな」
「うん」
「こないだ見てて思ったんだが、プレーの途中でスピードが落ちないか?」
「そうなんだよ〜!」
がばっと黒木が顔を覆った。
「やっぱ気がつくか〜」
「あいつの弱点なんだよな。ボール持ったのはいいがそのあとなんでかスピード緩めちまう」
「だな。見てると分かる」
「鉄馬さんも気にしてて、色々教えてやってるんだけどな」
「そうか……。俺にもあったけど癖は難しいな」
「ああ。俺らも気にしてるけどポジション違うしあれこれ言うのも変だし、なかなか言いにくくってな」
「そうだろうな」
現役選手だったころのことを思い出しながら十文字は答えた。言うまでもなく二人の友人とは別の、進学という道を選んだ自分。最京大学では法学部に在籍していた。ウィザーズではオフェンスラインの一員ではあったが、何しろチーム内での競争が激しい。レギュラーとなってもしばらくはベンチを温める日々が続いた。それでも鍛錬を積み、強豪ウィザーズの前衛として幾つかの試合では勝利に貢献することができた。学部卒と同時に──やがて受けるつもりであった司法試験のために──きっぱりと選手であることを辞めた自分だが、十文字は後悔していない。高校時代に目覚めた、アメリカンフットボールという競技。精一杯、やれることをやり切ったという気概はあったからだ。
その十文字が晴れて法務に就くことができたのは29歳の時、一昨年のことだ。学生時代から交際していた同級生といわゆるデキ婚で結ばれ、一児の父でもある。
「鉄馬さんは相変わらずすげえな。ほんとに重機関車だなあれは」
「ああ、あの人は無敵だ。あのパワーには敵わねえよ。すげえ無口だけどな」
戸叶が笑う。
「キッドさんは……いや、試合見てりゃ分かるな。元気なんだろ」
「あの人もすげえな。早撃ちだし読みも鋭い。デザインでもスクランブルでもよく動く」
「あの人、歳とるのかな」
唐突なことを黒木が言い出して、残る二人は笑った。
「なに言ってんだお前」
「いや、だって俺らもう10年以上同じチームだぞ。でもなんか、あの人は全然変わらないような気がすんだよな。プレーもそれ以外も」
「そういやそうかもしれねえな。高校ん時からあんまり変わった風には見えないな」
戸叶までが同意する。
「オッサンはどうだ。少し老けたんじゃないか?」
十文字は水を向けた。バベルズの主将、武蔵厳。通称ムサシ。現在は武蔵工バベルズの、そしてかつては泥門デビルバッツのキッカー。若い頃、デビルバッツ時代の三人は利かん気で、陰でも表でもそのムサシをオッサンなどという呼称で呼んでいたのだ。
戸叶が首を傾げる。
「そうか? いや分かんねえな俺らには」
「現場じゃ鬼軍曹って言われてるぞ」
酎ハイを危うく十文字は吹き出しかけた。グラスを口から離して笑う。
「はは、鬼軍曹な。そうかもな」
「なにしろ妥協しねえからな。あの頑固さは絶対棟梁譲りだ。よく似てるよあそこの親子は」
テーブルには次々と運ばれてきた料理が並ぶ。お通しが旨かったので期待していたのは無駄ではなかったようだ。自分で崩すポテトサラダはこってりとした濃厚な味で、酒が進む。にんにくの効いた手羽先揚げ、蒸したしゅうまい。かつおのたたきのガーリックサラダ。オニオンスライスにたっぷりの和風ドレッシングと鰹節をかけたもの。茄子の揚げびたしにひき肉のあんかけ焼きそば。空腹を感じていた十文字も、黒木も戸叶も飲みながら、語りながら旺盛に平らげていく。こまめに取り分けてくれるのは黒木だ。絶え間なく賑やかに喋りながら、その手もまめに動く。自分もしなければと思いつつ、つい十文字は甘えてしまう。若い頃と変わらないな、とちらと思った。
「仕事はキツくないか」
「忙しい時もある。納期が詰まったりとかする時な。でも大体夕方には終わるからそこはいいとこだな」
「全然ないわけでもねえけどな、残業。図面見たり段取り組んだり」
ふと思いついたように黒木が言った。
「そういや俺、ニッチくらいなら一人で任せてもらえるようになったぞ」
少し誇らしげな顔。
「ほんとか。すごいじゃないか」
「黒木 自分で売り込んだんだ。ここにニッチあったらオシャレっすよ、とか言って」
「へえ、お客の家でか」
「そう、階段の工事してる時に。なんか壁が寂しいなと思って」
「すごいな、もう一人前じゃないか」
十文字の言葉に、黒木は照れたような笑顔を見せる。
大工の修行は一般的に約10年と言われている。最初は手元と呼ばれる下働きから始まって、様々な資格を取りながら仕事を覚えていくのだ。その過程で辞めていく者も多い業界である。その中で二人の旧友が一人前になっていく。そうした変化を十文字は我がことのように嬉しく思った。
「戸叶 はパソコン得意になったぞ。こいつが日報書くと分かりやすくて助かる」
よかった、と十文字は思った。正直な話、この友人たちが武蔵工務店に就職先を決めたときは少し不安もあったのだ。果たして続けることができるだろうか、怪我はしないだろうか。そんな懸念を抱いて自分は大学で過ごしていたのだった。
案の定というべきか、やはり怪我は経験した。黒木の方だ。ただそれは仕事ではなく試合中の負傷である。半月板の損傷という大きな怪我だ。だが長期のリハビリを経て、仕事も、そしてアメフトも続けることを黒木は選んだ。戸叶もたくし上げた腕にテーピングが覗く。試合中に素晴らしい粘りを見せる戸叶の下半身。実は腰に不安を抱えていることを十文字は知っている。だがあえてそれらには触れなかった。黒木も戸叶もそれは同様で、あっけらかんと明るく語り飲み食いを続ける。選手としての二人はもうすでにベテランで、試合ではしばしば闘争心剥き出しのファインプレーを見せる。よく日に焼けた、どこか渋みのある笑顔。鍛え抜かれた体。二人のそんな様子を少しまぶしく十文字は見つめている。
「ちょっとすまん」
一言断りながら黒木が煙草をジーンズのポケットから取り出した。
「お前、吸ってるのか」
「一本だけな。酒が入ると欲しくなる」
少し恥ずかしげな笑顔を黒木は見せる。箱から抜き取って煙草を咥え、火をつける友人。ふうっと長く煙を吐き出す。旨そうだ。
紫煙が漂うテーブル。かすかに煙臭い匂い。空になった十文字のグラスを見て、なに飲む、と戸叶がメニューを広げた。ああ、悪い、と十文字も覗き込む。
「緑茶ハイにするかな」
「了解」
手をあげて戸叶が店員を呼ぶ。要領良く三人分の酒を注文して、座り直した。
「十文字のとこは一人だよな。子供」
「ああ、そうだ。まだ赤ん坊だ」
昨年、十文字は妻との間に男児をもうけた。黒木も戸叶も十文字より少し早く所帯を持っており、二人とも二児の父親だ。
「黒木のとこはもう大きいんだっけ? いくつだ」
「上が今年5歳になる。下は3歳だな」
「上が女の子だよな」
「そうそう」
「黒木 すげえ溺愛してるぞ」
「だって可愛いもん」
当然のような、開き直ったような顔を黒木は見せる。十文字も戸叶も笑った。
「やっぱり女の子は可愛いか」
「可愛い。嫁になんかやりたくない」
「なに言ってんだ、今頃から」
「いつも言ってるぞ、パパと結婚する〜って」
目尻を思い切り下げた友人。
「いいな、うちは男だからそういうのはないな」
「うちも男二人だからな。なんかうちの中が男臭え」
「いいじゃないか。大きくなったらアメフトやらせたら」
戸叶に向かって言うと、友人は考えこむような表情を見せた。
「や、それはどうかな。やらせたいけど、ちょっと骨が細そうでな」
「これから変わるんじゃないか? 男の子はそういうのあるらしいぞ」
「そうかな、ならいいんだが」
家族の話。子供の話。こんなことが当たり前になったんだな、と十文字は感じた。目の前の旧友だけでなく、同級生には男女問わず子持ちが何人もいる。歳を取ったな、と思う。でもその中でも変わらないきずな。ありがたいことだ、といまは感じる。
黒木の妻はもとはバベルズのチア団のメンバーだった。文字通りアメフトが縁で知り合って結婚したのだ。戸叶の妻は泥門の同級生。在学中は特に交流はなかったが、妻の家の工事を武蔵工務店が請け負った時に再会し、交際が始まったらしい。
三人の話題はそれからしばらく家族の話になった。普段の暮らしぶり、ちょっとした事件。久しぶりのことであれやこれやと話は尽きない。それに同級生のその後、部活の思い出話。部と言えば、と十文字はふと考えた。
「そういやあの悪魔はどうしてるんだろうな」
「悪魔? ……ああ」
黒木と戸叶は顔を見合わせる。
「そりゃお前の方が知ってんじゃないのか」
「いや、卒業してからさっぱりだ。お前らに教わったことしか知らない」
数年前に十文字はムサシの結婚を知った。知らせてきたのは戸叶だ。電話で、なぜか口ごもるように。どうしたのかと思ったが話の続きを聞いてさすがに驚いた。相手は同性、しかもあの金髪悪魔──ヒル魔だと言う。そうか、としか言えなかったのを十文字は覚えている。
「俺らにはなんか、もう当たり前になってんな」
黒木が言った。
「結婚前からあの二人一緒に住んでたしな。一瞬はたまげたけどもうなんか自然になった」
戸叶も同様の言葉を続ける。
「仕事はどうしてるんだろうな」
「いや、それはなんか色々やってるみたいだぞ。コーチングとか」
「へえ、そうなのか」
「あと気が向くと差し入れ持ってくる。ポカリとかな」
バベルズの練習時のことだろう。だが相変わらず謎が多いな、と十文字は思った。他人を詮索することに興味はないが、とにかく武蔵厳と蛭魔妖一という二人の男は"結婚"し、ともに暮らしているらしい。想像もできないな、と思った。
「なんか実感が湧かなくてな、俺は」
「うん、まあ分かる気はする」
「でもあれだ、きっと尻に敷いてるんじゃないか」
「あのオッサンがそんなタマか?」
首を傾げながら黒木が答える。
「分かんねえぞ、案外恐妻家だったりするかもしれねえ」
「まあ確かに怖えな、M500抱えた女房か」
「いや〜、女房って言い方はちょっと違わねえか」
戸叶が言い出して腕組みをする。うーん、と思わず十文字も黒木も考え込んでしまった。
「確かに、女房ってのはしっくり来ねえな」
「そうだな」
「なんだろう」
「うーん……」
しばしの沈黙。
額を突き合わせて三人はそれぞれの考えにふける。
はっと思いついたのは黒木だった。
「……相棒?」
十文字も、そして戸叶も何かすとんと胸に落ちた気がした。
「そうだな」
「そうか。相棒」
「な、そうだろ」
「うん」
「なんかいいな。相棒か」
「な、ぴったりだろ」
「うん」
「うん」
何だか胸のつかえが下りて、十文字は勢いよくハイボールをあおった。頭の中にいる黒髪のキッカーと金髪悪魔のQB。そうか、人生の相棒か。何だかいい関係だ。
「そうだ、俺こないだ店で聞いたぞ」
何か大変なことでも語ろうとする口ぶりで戸叶が言い出して、十文字も黒木もその顔を見た。
「ヒル魔が店に来てたんだよ。それで、オッサンのお袋さんに呼ばれてた。妖ちゃん、だとさ」
ぷっと思わず二人は吹き出す。
「妖ちゃん、か」
「それで、なんて返事してた」
「いやおとなしく返事してたぞ。うん、って」
「へええ〜」
「すげえな、あいつが妖ちゃんか」
「なるほどねえ」
「お袋さん無敵だな」
「そうだな」
「なあ、真面目な話だけど」
黒木の言葉。
「同性婚て、いまどうなってんだ。十文字のとこにも相談とか来ねえの?」
「ああ、たまにある」
「そうなのか」
「反対してる身内とかいると厄介だな。最悪、こじれて民事になることもある」
「へえ」
「でもあのふたりなら大丈夫じゃないか。抜け目なさそうだし」
「そうだな」
「そうだな。何しろ妖ちゃんだし」
戸叶のおどけた口ぶり。十文字はまた吹き出しそうになるのをこらえた。
何だか不思議な感覚がしている。ずいぶん遠くまで来たな、というような。決して不快な感覚ではない、むしろ温かい気持ちが胸に浮かんでいる。
「ちょっとごめんよ」
黒木が立ち上がって手洗いに向かった。ちょうどグラスが空になっていたので、残る二人は酒のおかわりを吟味し始める。そうしながら、親父さんはどうしてる、と戸叶が尋ねた。ああ、元気だ、と十文字は答える。身内の話、共通の知人友人の話。話題は尽きない。
がやがやとざわめく居酒屋。
三人の酒宴はまだまだ続きそうだ。
コートを着ていればそれほど寒さは気にならない。暖かくなってきたな、と思いながら十文字はホームに滑り込んできた電車に乗った。降車地までは2駅だから座ろうとは思わず、ドア近くに立ち止まる。週末の夕刻、おそらくは行楽の行き帰りらしい人々で車内は賑わう。すぐそばには学生風のカップルがおり、男の方が女性へのプレゼントらしい紙袋を下げている。聞き耳を立てなくとも楽しそうな会話が聞こえる。昨日、自分も終業時に職場の女性らへプレゼントを渡してきた。ホワイトデーのお菓子だ。何がいいのか妻に相談して、都心の食材店で買ってきた。美しく包装されたそれは最近SNSで話題のクッキーだという。義理的な贈り物ではあるが、どうぞと差し出すと女性たちはみな知っていたらしく、嬉しそうに受け取ってくれた。やれやれ、よかった、と昨日は何だか肩の荷がおりたような気になって帰宅したのだった。
車窓から見える風景。高校時代はこれを見ながら通学していたのだ。チョコレート工場やIT企業の大きな事業所。無数の住宅。それらはいま日暮れどきの太陽に照らされてオレンジ色に染まりながら佇む。あいつら、どうしてるかな、とまた考えた。高校を卒業して以来、それほどまめに連絡を取り合っていたわけではない。久しぶりに会うことになって、話ははずむだろうか。
目的の駅に着いた。電車を降りて改札を抜けて、駅前の待ち合わせ場所へと歩んでいく。出入り口のところでふと地面に落ちた吸い殻が目に入った。若い頃──というよりも色々な意味で子供だった頃は自分もイキがって吸っていた。二人の、これから会うことになっている仲間たちと同じように。
初めて煙草に手を出したのは中2の時だった。黒木か戸叶、どちらかが調達してきたのだ。おそらくは自分の父が吸っていたものなのではないだろうか。たまり場にしていた学校の体育館裏で、まず黒木が火をつけた。吸い込んで、なんとも言えないような表情でわずかに煙を吐き出す。初めてのことで要領がよく分からないのだろう。自分も同じだ、と思いながら十文字も差し出されたそれを手にした。先端を咥えると口の中に苦味が広がる。こんなもの、どこがいいんだと思った。我慢して息を吸い込んで、危うくむせそうになった。喉にぐっと力を入れて十文字は耐えた。胸の奥で咳き込みたいのを堪えながら煙を吐き出す。貧弱な煙が自分の口から出てくるのを眺め、慣れなきゃあな、と思った。精一杯虚勢を張って、精一杯肩肘を張って生きていたあの頃。煙草くらい吸えねえとおかしい、吸えて当然だと思っていた。別に旨いとはちっとも思っていなかった。でもあの頃は煙草を吸うことが一種の心の拠り所になっていた気がする。つくづく、幼かったなといまの十文字は自分を思う。
駅の外に出ると目の前はロータリーだ。腕時計を見ると6時を数分回っている。待ち合わせ時間だ。あいつらはもう着いてるだろうか。
右手に顔を向けた十文字の目に、二人連れの男が映った。すぐに分かった懐かしい横顔。何か会話している。声をかけようとして苦笑めいたものが胸に起こるのを感じた。なんとまあ、目立つ二人だろう。
十文字の待ち合わせ相手──黒木と戸叶はこちらに気づきもせず何事か語り合っている。それぞれ黒と濃い茶色のブルゾン姿だ。分厚い上着を着ていてもすぐに分かる、堂々とした体躯。鍛えていることが一見して察せられる。何かスポーツをやっているか、肉体労働ででもあるか。道行く人々にもすぐに分かるそんな男たちが、渋いブルゾンに使い込んだジーンズ、スニーカー姿で談笑している。はっきり言って、こわもてだ。迫力がある。あらかじめ分かっていたことではあるが、何ともおかしく、微笑ましく、そして懐かしい。暖かく胸に湧く思い、抑えようと思っても笑みが浮かんでしまう。まるで引き寄せられるように、十文字はそちらに向かって歩き始めた。
「それで、元気だったか」
店員が持ってきてくれたおしぼりで手を拭きながら、十文字は尋ねた。
駅からほど近い場所にある居酒屋だ。天井が高く配管は剥き出しになっている。素朴な木のテーブルに椅子。十文字が四人席の長椅子側に座り、黒木と戸叶は向かいに腰を下ろした。
「元気元気。俺らよりお前はどうなんだよ、モンジ先生」
どこか剽軽に黒木が言って、十文字は笑う。
「先生はやめろ。まあ忙しいことは忙しいな」
「俺らの中から弁護士が出るとは思わなかったな」
今度は戸叶が笑い、本当にな、と黒木も声を合わせる。
「俺らは基本的に残業はねえけど、帰りとか遅いのか」
「ああ、残業続きだ。勉強しなきゃいけないことだらけだしな」
「そっか、大変だな」
「お、来た来た」
最初のビール。声を合わせて三人は乾杯する。
喉を潤して、空腹を感じていた十文字はさっそくお通しに手を出した。店員がささみのぽん酢あえですと言っていたのを思い出した。柔らかい鶏肉に爽やかな酸味で、酒によく合う。
一口つまんで、黒木の言ったことを話題にする。自分のことより、二人の旧友の近況が知りたい。
「残業がないのはいいな」
「ああ、その代わり現場のある時は朝が早いけどな」
「早いって、何時ごろだ」
「8時には点呼がある」
「ほんとか。そりゃ早いな」
「すっかり早寝早起きになったぞ」
戸叶が笑う。明るい茶髪の下の笑顔は10代の頃と何も変わらないようだ。黒木が続けた。
「最初は朝起きるのキツかったけどな、もう慣れた」
「こいつ何度か寝坊して遅刻したことあるぞ」
黒木を指して戸叶が言いつける。思わず十文字は笑った。
「お前は昔から朝が苦手だったもんな」
「そうだったか?」
「高校の時だ。もう覚えてないか」
「ああ、そういやそうか。よく焦って走ってたな」
「よく走らされたよな、練習でも」
「いまも走ってるぞ。練習で」
「そりゃお前たちはそうだろう。俺はさっぱりだ」
「何も運動してないのか。いまは」
「してない。時間もないしな」
「そういや少し細くなったな。どうよ俺らは」
申し合わせたように目の前の二人は腕まくりをした。ぐっと力こぶを作って胸を張り、おかしなポーズを取る。ああ分かった分かった、と苦笑しながら十文字はあしらった。
「でも本当にでかくなったなお前ら。どんなトレーニングしてんだ」
「んー、変わったことは別にしてない。でもハードなのはアレだよな」
同意を求めるように黒木は戸叶に顔を向けた。それだけで理解したようで、戸叶も頷く。十文字に説明しようと思ったらしく、口を開いた。
「でっかいタイヤをな、持ち上げるんだよ。落として、10メートル走る。戻ってきてまた持ち上げて、また落として走る」
「タイヤって、重たいのか」
「でかいし重い。300キロある」
「マジか、すげえな」
「気をつけないと腰に来るんだ、けっこうキツい」
「そうだろう、気をつけろよ」
「やり始めるとけっこう面白いんだけどな。お前もどうだ」
「悪ぃが俺は遠慮しとく」
「あと
「ほんとか。俺は結局できなかったんだよなそれ」
「できりゃいいってもんでもねえけどな。柔軟やっててムキになったらできた。それより
「ああ、配信で見てる。強くなったな」
「お、サンキュー。あれ有料じゃなかったか?」
「ああ、払ってる」
「ありがとうございます〜」
黒木と戸叶が一斉に頭を下げて、十文字は笑った。
バベルズの試合。時間と都合の許す限り配信を覗いて、十文字はできるだけ観戦している。昨シーズンは勝ち越しの成績で終わったものの、目標とするライスボウルはいまだ遠い。黒木も戸叶も守備と攻撃両面で奮闘してはいるが、人材不足は否めない。ふと試合を観ていて気になったことを十文字は訊いてみようと思った。
「あの、お前らのチームのさ。WRいるだろ、40番だったかな」
「うん」
「こないだ見てて思ったんだが、プレーの途中でスピードが落ちないか?」
「そうなんだよ〜!」
がばっと黒木が顔を覆った。
「やっぱ気がつくか〜」
「あいつの弱点なんだよな。ボール持ったのはいいがそのあとなんでかスピード緩めちまう」
「だな。見てると分かる」
「鉄馬さんも気にしてて、色々教えてやってるんだけどな」
「そうか……。俺にもあったけど癖は難しいな」
「ああ。俺らも気にしてるけどポジション違うしあれこれ言うのも変だし、なかなか言いにくくってな」
「そうだろうな」
現役選手だったころのことを思い出しながら十文字は答えた。言うまでもなく二人の友人とは別の、進学という道を選んだ自分。最京大学では法学部に在籍していた。ウィザーズではオフェンスラインの一員ではあったが、何しろチーム内での競争が激しい。レギュラーとなってもしばらくはベンチを温める日々が続いた。それでも鍛錬を積み、強豪ウィザーズの前衛として幾つかの試合では勝利に貢献することができた。学部卒と同時に──やがて受けるつもりであった司法試験のために──きっぱりと選手であることを辞めた自分だが、十文字は後悔していない。高校時代に目覚めた、アメリカンフットボールという競技。精一杯、やれることをやり切ったという気概はあったからだ。
その十文字が晴れて法務に就くことができたのは29歳の時、一昨年のことだ。学生時代から交際していた同級生といわゆるデキ婚で結ばれ、一児の父でもある。
「鉄馬さんは相変わらずすげえな。ほんとに重機関車だなあれは」
「ああ、あの人は無敵だ。あのパワーには敵わねえよ。すげえ無口だけどな」
戸叶が笑う。
「キッドさんは……いや、試合見てりゃ分かるな。元気なんだろ」
「あの人もすげえな。早撃ちだし読みも鋭い。デザインでもスクランブルでもよく動く」
「あの人、歳とるのかな」
唐突なことを黒木が言い出して、残る二人は笑った。
「なに言ってんだお前」
「いや、だって俺らもう10年以上同じチームだぞ。でもなんか、あの人は全然変わらないような気がすんだよな。プレーもそれ以外も」
「そういやそうかもしれねえな。高校ん時からあんまり変わった風には見えないな」
戸叶までが同意する。
「オッサンはどうだ。少し老けたんじゃないか?」
十文字は水を向けた。バベルズの主将、武蔵厳。通称ムサシ。現在は武蔵工バベルズの、そしてかつては泥門デビルバッツのキッカー。若い頃、デビルバッツ時代の三人は利かん気で、陰でも表でもそのムサシをオッサンなどという呼称で呼んでいたのだ。
戸叶が首を傾げる。
「そうか? いや分かんねえな俺らには」
「現場じゃ鬼軍曹って言われてるぞ」
酎ハイを危うく十文字は吹き出しかけた。グラスを口から離して笑う。
「はは、鬼軍曹な。そうかもな」
「なにしろ妥協しねえからな。あの頑固さは絶対棟梁譲りだ。よく似てるよあそこの親子は」
テーブルには次々と運ばれてきた料理が並ぶ。お通しが旨かったので期待していたのは無駄ではなかったようだ。自分で崩すポテトサラダはこってりとした濃厚な味で、酒が進む。にんにくの効いた手羽先揚げ、蒸したしゅうまい。かつおのたたきのガーリックサラダ。オニオンスライスにたっぷりの和風ドレッシングと鰹節をかけたもの。茄子の揚げびたしにひき肉のあんかけ焼きそば。空腹を感じていた十文字も、黒木も戸叶も飲みながら、語りながら旺盛に平らげていく。こまめに取り分けてくれるのは黒木だ。絶え間なく賑やかに喋りながら、その手もまめに動く。自分もしなければと思いつつ、つい十文字は甘えてしまう。若い頃と変わらないな、とちらと思った。
「仕事はキツくないか」
「忙しい時もある。納期が詰まったりとかする時な。でも大体夕方には終わるからそこはいいとこだな」
「全然ないわけでもねえけどな、残業。図面見たり段取り組んだり」
ふと思いついたように黒木が言った。
「そういや俺、ニッチくらいなら一人で任せてもらえるようになったぞ」
少し誇らしげな顔。
「ほんとか。すごいじゃないか」
「
「へえ、お客の家でか」
「そう、階段の工事してる時に。なんか壁が寂しいなと思って」
「すごいな、もう一人前じゃないか」
十文字の言葉に、黒木は照れたような笑顔を見せる。
大工の修行は一般的に約10年と言われている。最初は手元と呼ばれる下働きから始まって、様々な資格を取りながら仕事を覚えていくのだ。その過程で辞めていく者も多い業界である。その中で二人の旧友が一人前になっていく。そうした変化を十文字は我がことのように嬉しく思った。
「
よかった、と十文字は思った。正直な話、この友人たちが武蔵工務店に就職先を決めたときは少し不安もあったのだ。果たして続けることができるだろうか、怪我はしないだろうか。そんな懸念を抱いて自分は大学で過ごしていたのだった。
案の定というべきか、やはり怪我は経験した。黒木の方だ。ただそれは仕事ではなく試合中の負傷である。半月板の損傷という大きな怪我だ。だが長期のリハビリを経て、仕事も、そしてアメフトも続けることを黒木は選んだ。戸叶もたくし上げた腕にテーピングが覗く。試合中に素晴らしい粘りを見せる戸叶の下半身。実は腰に不安を抱えていることを十文字は知っている。だがあえてそれらには触れなかった。黒木も戸叶もそれは同様で、あっけらかんと明るく語り飲み食いを続ける。選手としての二人はもうすでにベテランで、試合ではしばしば闘争心剥き出しのファインプレーを見せる。よく日に焼けた、どこか渋みのある笑顔。鍛え抜かれた体。二人のそんな様子を少しまぶしく十文字は見つめている。
「ちょっとすまん」
一言断りながら黒木が煙草をジーンズのポケットから取り出した。
「お前、吸ってるのか」
「一本だけな。酒が入ると欲しくなる」
少し恥ずかしげな笑顔を黒木は見せる。箱から抜き取って煙草を咥え、火をつける友人。ふうっと長く煙を吐き出す。旨そうだ。
紫煙が漂うテーブル。かすかに煙臭い匂い。空になった十文字のグラスを見て、なに飲む、と戸叶がメニューを広げた。ああ、悪い、と十文字も覗き込む。
「緑茶ハイにするかな」
「了解」
手をあげて戸叶が店員を呼ぶ。要領良く三人分の酒を注文して、座り直した。
「十文字のとこは一人だよな。子供」
「ああ、そうだ。まだ赤ん坊だ」
昨年、十文字は妻との間に男児をもうけた。黒木も戸叶も十文字より少し早く所帯を持っており、二人とも二児の父親だ。
「黒木のとこはもう大きいんだっけ? いくつだ」
「上が今年5歳になる。下は3歳だな」
「上が女の子だよな」
「そうそう」
「
「だって可愛いもん」
当然のような、開き直ったような顔を黒木は見せる。十文字も戸叶も笑った。
「やっぱり女の子は可愛いか」
「可愛い。嫁になんかやりたくない」
「なに言ってんだ、今頃から」
「いつも言ってるぞ、パパと結婚する〜って」
目尻を思い切り下げた友人。
「いいな、うちは男だからそういうのはないな」
「うちも男二人だからな。なんかうちの中が男臭え」
「いいじゃないか。大きくなったらアメフトやらせたら」
戸叶に向かって言うと、友人は考えこむような表情を見せた。
「や、それはどうかな。やらせたいけど、ちょっと骨が細そうでな」
「これから変わるんじゃないか? 男の子はそういうのあるらしいぞ」
「そうかな、ならいいんだが」
家族の話。子供の話。こんなことが当たり前になったんだな、と十文字は感じた。目の前の旧友だけでなく、同級生には男女問わず子持ちが何人もいる。歳を取ったな、と思う。でもその中でも変わらないきずな。ありがたいことだ、といまは感じる。
黒木の妻はもとはバベルズのチア団のメンバーだった。文字通りアメフトが縁で知り合って結婚したのだ。戸叶の妻は泥門の同級生。在学中は特に交流はなかったが、妻の家の工事を武蔵工務店が請け負った時に再会し、交際が始まったらしい。
三人の話題はそれからしばらく家族の話になった。普段の暮らしぶり、ちょっとした事件。久しぶりのことであれやこれやと話は尽きない。それに同級生のその後、部活の思い出話。部と言えば、と十文字はふと考えた。
「そういやあの悪魔はどうしてるんだろうな」
「悪魔? ……ああ」
黒木と戸叶は顔を見合わせる。
「そりゃお前の方が知ってんじゃないのか」
「いや、卒業してからさっぱりだ。お前らに教わったことしか知らない」
数年前に十文字はムサシの結婚を知った。知らせてきたのは戸叶だ。電話で、なぜか口ごもるように。どうしたのかと思ったが話の続きを聞いてさすがに驚いた。相手は同性、しかもあの金髪悪魔──ヒル魔だと言う。そうか、としか言えなかったのを十文字は覚えている。
「俺らにはなんか、もう当たり前になってんな」
黒木が言った。
「結婚前からあの二人一緒に住んでたしな。一瞬はたまげたけどもうなんか自然になった」
戸叶も同様の言葉を続ける。
「仕事はどうしてるんだろうな」
「いや、それはなんか色々やってるみたいだぞ。コーチングとか」
「へえ、そうなのか」
「あと気が向くと差し入れ持ってくる。ポカリとかな」
バベルズの練習時のことだろう。だが相変わらず謎が多いな、と十文字は思った。他人を詮索することに興味はないが、とにかく武蔵厳と蛭魔妖一という二人の男は"結婚"し、ともに暮らしているらしい。想像もできないな、と思った。
「なんか実感が湧かなくてな、俺は」
「うん、まあ分かる気はする」
「でもあれだ、きっと尻に敷いてるんじゃないか」
「あのオッサンがそんなタマか?」
首を傾げながら黒木が答える。
「分かんねえぞ、案外恐妻家だったりするかもしれねえ」
「まあ確かに怖えな、M500抱えた女房か」
「いや〜、女房って言い方はちょっと違わねえか」
戸叶が言い出して腕組みをする。うーん、と思わず十文字も黒木も考え込んでしまった。
「確かに、女房ってのはしっくり来ねえな」
「そうだな」
「なんだろう」
「うーん……」
しばしの沈黙。
額を突き合わせて三人はそれぞれの考えにふける。
はっと思いついたのは黒木だった。
「……相棒?」
十文字も、そして戸叶も何かすとんと胸に落ちた気がした。
「そうだな」
「そうか。相棒」
「な、そうだろ」
「うん」
「なんかいいな。相棒か」
「な、ぴったりだろ」
「うん」
「うん」
何だか胸のつかえが下りて、十文字は勢いよくハイボールをあおった。頭の中にいる黒髪のキッカーと金髪悪魔のQB。そうか、人生の相棒か。何だかいい関係だ。
「そうだ、俺こないだ店で聞いたぞ」
何か大変なことでも語ろうとする口ぶりで戸叶が言い出して、十文字も黒木もその顔を見た。
「ヒル魔が店に来てたんだよ。それで、オッサンのお袋さんに呼ばれてた。妖ちゃん、だとさ」
ぷっと思わず二人は吹き出す。
「妖ちゃん、か」
「それで、なんて返事してた」
「いやおとなしく返事してたぞ。うん、って」
「へええ〜」
「すげえな、あいつが妖ちゃんか」
「なるほどねえ」
「お袋さん無敵だな」
「そうだな」
「なあ、真面目な話だけど」
黒木の言葉。
「同性婚て、いまどうなってんだ。十文字のとこにも相談とか来ねえの?」
「ああ、たまにある」
「そうなのか」
「反対してる身内とかいると厄介だな。最悪、こじれて民事になることもある」
「へえ」
「でもあのふたりなら大丈夫じゃないか。抜け目なさそうだし」
「そうだな」
「そうだな。何しろ妖ちゃんだし」
戸叶のおどけた口ぶり。十文字はまた吹き出しそうになるのをこらえた。
何だか不思議な感覚がしている。ずいぶん遠くまで来たな、というような。決して不快な感覚ではない、むしろ温かい気持ちが胸に浮かんでいる。
「ちょっとごめんよ」
黒木が立ち上がって手洗いに向かった。ちょうどグラスが空になっていたので、残る二人は酒のおかわりを吟味し始める。そうしながら、親父さんはどうしてる、と戸叶が尋ねた。ああ、元気だ、と十文字は答える。身内の話、共通の知人友人の話。話題は尽きない。
がやがやとざわめく居酒屋。
三人の酒宴はまだまだ続きそうだ。
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