SOMEDAY ──Part.2

「お袋」
「え、なあに?」
 台所に入って声をかけると、盛大な水音とともに母が答えた。傍には洗って積み上げられた鍋、食器類。
 隣に立って、ムサシは布巾を取った。何枚も重ねられた皿を拭き始める。
「疲れてないか」
「平気よ。みんな手伝ってくれたし」
 泡を流した茶碗や皿、箸を次々と母がよこす。受け取ってムサシはそれを拭きあげていく。
 ムサシが子供の頃からずっと、ほんの少し前まで母は髪が長かった。その髪を後ろでまとめて、店の仕事に家事にちゃっちゃと動き回っていた姿を良くムサシは覚えている。そして、その髪がやつれ乱れ、父の看病に奔走していた時期も。医者からもう大丈夫ですよと太鼓判を押された、それから1年弱。どういう気持ちの変化があったのか、つい最近母は長かった髪をばっさりと、うなじのあたりで切りそろえてしまった。手入れが楽よ、涼しいし、と本人は笑う。ただムサシはなかなか母の短髪に慣れることができなかった。正直、長い方がいいのに。親父は何も言わなかったのか、などとこっそり思った。そう思った自分に気がついて、俺は意外と保守的なのかもしれないなどとも考えていた。
「楽しかったわねえ、みんな集まってくれて」
 かちゃかちゃと食器の触れ合う音をひびかせながら母が言う。本人の言葉通りその声音は疲れを見せることなく、ほがらかに明るい。
「そうだな」
 拭き終えた食器をムサシはテーブルに移動させ始めた。棚にしまうには母の指示に従わないと。
「ヒロくんの彼女、可愛い人だったわよね」
「…………」
 ヒロと母が呼ぶのは武蔵工務店のアルバイト、現場での作業補助をしてくれている若者だ。本名は浩だが愛称で呼ばれて皆に可愛がられている。交際している女性がいることは本人が以前から話しており、それなら連れてきなさいよと母が誘ったのだった。
 母の言葉でムサシは思い出した。肉体労働に慣れたがっしりとしたヒロの隣で、微笑んでいた女性。同い年だと言っていたからムサシより一つ下、今年19なのだろう。二人とも仲睦まじく寄り添い、行儀良く料理を口に運び、控えめながら具材を焼いたり料理を回したりと働いてくれた。
 洗い場に立つ母の後ろでムサシは首を振った。胸を締めつける寂しさを振り切るように。ため息をつきたいがそんなことは母の前ではできない。第一、吐き出す息とともに気力が逃げていってしまうような気がする。
 テーブルの上に食器を重ねてまとめて、ふとムサシは手持ちぶさたになった。次は何をするか、と考えたが母の洗い物も終盤に差し掛かっている。顔をめぐらせたムサシの目に、台所の隅に置かれたクーラーボックスが映った。中にはペットボトル。まだ中身──麦茶が少し。
「お袋。これ飲んでもいいか」
「なあに?」
「麦茶の残り」
「ああ、まだあったのね。飲んじゃっていいわよ」
「じゃあもらう」
「心して飲みなさい。もう今年はそれでおしまいだから」
 母の声は笑みを含む。
 食器棚からコップを取り出して、ムサシは椅子に腰掛けた。
 子供の頃のムサシの、殊に夏の記憶はこの麦茶とともにある。学校から帰って台所に入ると香ばしい香り。毎日、汗を拭いながら母が煮出していた麦茶の香りだ。冷蔵庫から取り出して口に含むと爽やかな喉越し。汗でべたつく体までが何だか癒されていくような感覚。
 冷えた麦茶は昔ながらの母の味で、思わずほっとムサシは息をついた。立って行って冷蔵庫から氷を取り出す。それを一粒コップに浮かべると澄んだ音を立てた。
「あんたもう座ってていいわよ、それか帰る?」
「ああ、でもこれ仕舞うんだろ」
 山積みの浅皿や深皿や茶碗を指して言うと、それくらい一人でできるわよ、と母は笑った。
「……そうだな」
 何か、することはないか。空になったペットボトルはあとで帰りがけに裏の置き場に持っていけばいい。あと、何か少しでも母の負担を減らせるようなこと。見渡してみて、大丈夫なようだと判断した。それなら、帰るか。すっかり夜も更けている。
 椅子を引いて立ち上がる。その拍子にテーブルの隅にある箸立てが目に入った。父の箸、母の箸。そしてムサシがこの家を出る前に使っていた茶色い塗り箸。
 なんとなくムサシはその箸を手に取って眺めた。母がタオルで手を拭いながらこちらを向く。母にともなくムサシは呟いた。
「まだこれ置いてあるんだな」
「そりゃそうよ」
「…………」
「今はヒル魔くんが使ってるもの」

「……は?」

 ムサシの口から、本人にも予期せぬ声が漏れた。

「だからヒル魔くんが使ってるわよ」
「……?」
 訝しげな息子の前で、母は平然とのたまった。

「ヒル魔くん、うちにいるわよ」

 ムサシはすぐに言葉を発せられない。母の言葉を理解するのがひどく困難だ。

「あんた、やっぱり気がついてなかったのね」
「いるって、どこに」
「あんたの部屋で寝泊まりしてるわよ」
「い、いまは」
「今日はまだ帰ってないわね、遅くなるって言ってたから。バーベキューは誘ったんだけどね」
「…………」
 なんと言うべきか、言葉がムサシは出てこない。ヒル魔、お前。
 そんな息子にちらと気遣わしげな目をやって、母は食器棚に皿類を仕舞い始めた。

「あんたが何かして、怒らせたんでしょう」
「…………」
「ヒル魔くん、元気ないわよ。なんとかしてあげなさい」

 ムサシはまた椅子に腰を落とした。手には茶色の塗り箸。家を出る前にムサシが使っていた、そして──いまはこの家に仮住まいしている恋人が使っているという。

 ヒル魔。

 なんとも熱いものが胸にこみ上げてくる。熱く、切ないものが胸を焦がす。ヒル魔。ずっとこの家にいたのか。俺の部屋で、俺の布団で寝て。俺の箸を使って。一体、どんな思いで。──ヒル魔。

 立ち働く母はムサシを見ないふりしてくれている。
 ムサシは母を見た。
 それから、思い切って立ち上がった。



 夜道を歩きながら、思わずため息が出る。講義はともかく、今日の練習はさすがにハードだった。上級生と下級生とに分かれた紅白試合だ。
 ヒル魔は去年の大学入学後まもなく、ウィザーズのスターティングメンバーに加わっている。同じくレギュラー入りした仲間──阿含や大和なども今日はいっせいにヒル魔率いるチームで上級生と戦った。
 試合時間そのものは短かった。すでに秋のリーグ戦は始まっている。練習で怪我などしては元も子もない、それを考慮してあらかじめ決められた時間内での実戦練習だった。それでも──ヒル魔をはじめとする白チームはほぼ完全に歯が立たなかった。完膚なきまで、と言ってもいい。最初から上級生らは激しいプレッシャーをかけてきた。あまりのパスラッシュに白側の前衛は潰され、ヒル魔は追い込まれる。スクランブルしてどうにか阿含を見つけて放ったパスはあっさりとカットされた。それも、三度も。センターから受けたボールは高めのスナップで、大和にトスするタイミングがずれてしまった。その後は嫌というほどのハードタックルを浴びてフィールドに叩きつけられもした。スピードにしろテクニックにしろ、あの"天才"阿含ですら険しい表情を浮かべるほど紅チームのレベルは高かった。パンターは3年生で、入学当時からレギュラーの座を守り続けている逸材だ。味方にとっては心強い、だがヒル魔たちにしてみれば何とも手強い相手でしかない。何が何でもリターンさせない、という意気込みがまざまざと見えるようなパント。高く、美しい弧を描き、滞空時間の長いそれは嫌でもヒル魔にあるものを思い出させる。そんな思いを振り切ってヒル魔は仲間たちとともに必死に戦った。それでも、デザイン通りのプレーはほぼできなかった。
 ──…………
 3・4年生とヒル魔たち1・2年生。どちらにも控えの選手はいるが、むろん下級生の方にそれは多い。十文字などもそうだ。そんな事情もあって、やはり学年別の編成となるとキャリアの差は歴然だ。
 夜の闇を感じさせない、明るいアーケード。歩きながらその明るさとは裏腹な気持ちがヒル魔の胸に押し寄せる。悔しい。そして──何とも言えないわびしい気持ち。いつもならこんな風に思うことはないはずだ、それにこんな気持ちで良いわけがない。
 俺は少し弱ってるんだろうか、と考えた。心に穴が空いているような感覚をどうにも忘れることができない。しっかりしろ、とヒル魔は自分に言い聞かせる。明日も明後日も練習、来週末には試合が待っている。今日の結果に関係なくヒル魔がスタメンであることに変わりはない。強気で大胆、自分の持ち味を最大限に活かして、チームを勝利に導くこと。何よりもそのことに集中しなければ。
 アーケードの途中にある定食屋に入り、遅い夕飯を済ませた。あいつのお袋さんの飯の方が旨いな、と思いながら。あのホテルの前で偶然出会ってから、言われるままに泊めてもらっている。自由に使って、と気軽に言われてムサシの部屋を使わせてもらっている。甘えてるな、とヒル魔は自分を思う。何とかしなければならない。どんな方法を取るのがいいか、見当もつかないけれど。
 定食屋を出てから、ヒル魔はまた考えに沈んだ。こんな風に思い悩むなど自分らしくない。なんとかして──ムサシのもとへ戻りたい。でもどうすれば。
 ──LINEしてみるか。
 ふと思った。なんと送信したら良いか分からないが、でも。
 道の脇に佇んで、ポケットからスマホを取り出す。
 重みのするバッグを肩にかけながら、ヒル魔はスマホのまだ黒い画面をじっと見つめた。
 しばし逡巡したのち、思い切ったようにまた尻ポケットに押し込んだ。あとにしよう、と思ったのだ。帰って、親父さんとお袋さんに挨拶をして。あいつの部屋に落ち着いてからゆっくり、浮かんだことを送信してみよう。

 帰るべき"家"。
 帰りたい"家"。

 もの思いにふけりながらヒル魔は帰り道を歩んだ。



 ──クソ、間違えた。
 とりとめのない思考から我に帰って、おのれのちょっとした過ちに気づいた。裏の駐車場側ではなく、表通りから店の表玄関に向かって歩いてきてしまったのだ。今朝ムサシの母が言っていた、今日は仕事を早仕舞いして夕涼み会をするのだと。今ごろはもう店の鍵は閉まっているだろう。時刻から考えてムサシはもうマンションに帰っているだろうから鉢合わせの心配はない。だがここからぐるりと家の裏手に回らなければ。踵を返そうとしたが、ふと不審に思った。武蔵工務店の看板を掲げた店の玄関。灯りが漏れている。
 店先の照明はほぼ落とされており、引き戸形式の戸口のあたりも暗い。だが内側から引き戸の外へは、弱いが紛れもない照明の光が漏れている。誰か、残業でもしているんだろうか。お袋さんが事務仕事でも。いや、今日はそんなはずは。
 ともかく誰か人がいるなら、店から家へ入ることもできるかもしれない。ヒル魔はそのまま歩み寄った。内側にレースの白いカーテンをおろした、店の引き戸に手をかける。力を入れずともそれは控えめな音を立てながら開いた。
 入って正面は来客を迎えるための応接用テーブルと椅子。その向こうに机が並べられて、経理や事務職員の仕事場になっている。ヒル魔の目は自然とそちらへ向いた。パソコンは起動しているようだ、画面が明るい。その明かりに照らされて、椅子から立ち上がる人影。

「…………」

 薄暗い店の中に立つムサシを、ヒル魔は無言で見つめた。
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