SOMEDAY ──Part.2
翌日の夕方。
仕事を終えて帰宅していたムサシにLINEが入った。
ヒル魔からだった。
夕飯の支度もそこそこにムサシは返信をし、そのままふたりはLINEで会話した。
──今日は帰らねえ
──いつ帰ってくる
──さあな
──怒ってるのか
──…………
──ヒル魔。話をしよう
──そんな気はねえ
──…………
──これはテメーの問題じゃなく俺の問題だ
──ヒル魔
──…………
──ヒル魔
ムサシはしばらく画面を見つめた。呼びかけに恋人からの返信はない。
黙って、重いため息をした。食事を作る気も、食欲も失せてしまった。だが何か食べなければ。
冷蔵庫を開けて、残り物を探す。炊飯器のタイマーを朝セットしておいたから、いまムサシがいる台所には炊き立ての良い香りが立ち込めている。それでも腹は鳴らない。
一人で味気ない夕食をムサシはしたためた。砂を噛むように。
それから風呂に入り、どこかわびしい気持ちで床に向かった。
──仕方ない。
何度もおのれにそう言い聞かせた。ヒル魔の気持ちの整理がつくまでの辛抱だ。待たなければ。
──早く、時間が経てばいい。
ひたすらそう願った。心に穴が空いたような気持ち。ふさぐ胸。そういうものを無理に抑えて、布団に入る。
胸にせまる思い。あれこれとつい思いをめぐらせたくなる。だがそんなことはしても詮のないことだ。ムサシは目を閉じた。心の底から吐き出すようなため息を一つして。
──苦しい。
眠りに入る前、ムサシの脳裏に浮かんだのはそんな思念だった。
時刻は少し戻る。
ムサシは事務仕事の残業だと分かっている。ちょうどいい、と少し苦くヒル魔は思った。何よりもまず愛用のノートパソコン。それから講義用のノートに資料、ユニフォームに練習道具。
荷物をまとめてボストンバッグに詰め込む。玄関から出て鍵を閉める。
それからヒル魔は歩き出した。
こんな行動は自分らしくない、馬鹿げてる。そんな思いが立ちこめる。でもどうしようもない。
ムサシと想いが通じた。それはもう昔、中学時代からムサシを好いていた自分にとってこの上なく嬉しかったことだ。数ヶ月前のあの時、ムサシに告白された時。それから、迷いに迷った自分がムサシの想いに応えると決めた時。あの、夜の公園。次々と胸に浮かぶ。
一途に、まっすぐにムサシは好きだと言ってくれた。ヒル魔も応えた。それからの毎日はとても恵まれていた。地に足がついていないような、ふわふわとした気持ち。こんな浮ついた気持ちではいけないと分かっていても、抑えきれない喜び。毎日、朝起きればムサシの──恋人の顔が見られる。大学での時間を終えて帰宅すれば、仕事の後のほっとした様子の恋人。時折、わざわざ駅まで迎えに来てくれる。和やかな会話。冗談を言って笑い、馬鹿話をして笑い、時には励ましあう。心からの安堵を感じる瞬間。
ムサシが好きだ。心からそう思う。だがいま、ヒル魔の胸は重くふさがれている。
ムサシとて好んで行ったわけではないのだ。ただの付き合い、ムサシはそう言ったしヒル魔もそんなことは分かっている。それでも無闇に腹立たしい。──悲しい。そんな気持ちをどうしても抑えることができない。どうにも、たまらないのだ。
──俺には触りもしないくせに。
ふと湧いた思念にヒル魔はぎょっとした。危うく歩みが止まるところだった。何を自分は考えているのか。
思いを振り切るように、足早に駅前へ向かう。
こんなのは自分らしくない。ついさっきと同じ思念がどうしても湧いてしまう。情けない。けれどどうしようもないのだ。しばらく、ムサシと離れたい。離れておのれがどんな風に考えるか、ムサシのもとへ戻れるのかどうか。いまのヒル魔には分からない。
こんな気持ちは初めてだ。また少し苦くヒル魔は思った。帰るのが楽しみなような、でも少し怖いような毎日。また、あの日々に戻ることができるのだろうか。いまのもやもやとした気鬱を、どうすれば忘れることができるのだろう。ムサシが好きだ。──こんなにも好きなのに。
駅に続く商店街。広いアーケードをヒル魔は抜けていく。もうすぐアーケードが終わる、するとアーケードに隣接するビジネスホテルの玄関が現れる。確か、数ヶ月前にも自分はここに逃げ込んだのだ。あの時はまだ良かった、結果的に自分は迷った末に決意したのだから。ムサシに、ムサシの気持ちに応えようと。
でもいまはどうだろう。また、何もかも良くなるなんていうことがあるんだろうか。ざわざわと胸に押し寄せる思いは暗いものばかりだ。とにかく、とヒル魔はおのれを叱咤した。毎日を過ごさなければならない。講義に練習、第一もう学生リーグも、それに社会人リーグもアメフトは秋の本格シーズンを迎えているのだ。何よりも自分の愛する競技、アメリカンフットボール。その発展のため、そして所属するウィザーズというチームのために進まなければならない。こんなことで練習に、試合に悪影響が出るなどということがあってはならない。
歩きながらヒル魔は嘆息した。少し肩の力を抜いて、それからぐっと前を向いた。
ホテルが目の前だ。早く入ろう。
「あら、ヒル魔くん」
ぎくりと足が止まった。懐かしい声だ、ヒル魔はこれを知っている。声のした方に顔を向ける。
「…………」
なんといえば良いか、逡巡した。
そのあと、やっと挨拶の言葉を押し出した。
**********
「顔を上げろ!」
チームエリアからムサシは怒鳴った。
秋のリーグ戦、初戦の真っ只中だ。第1Qに14点を先んじて取られ、第2Qにはさらに6点を追加された。バベルズの得点はわずか3点。これからの追い上げはチームの実力、それに相手チームとの力の差を考えると厳しい。だが途中で戦意を喪失するなどあってはならないことだ。
副将の鬼兵がフィールドからムサシに視線を投げた。気遣わしげな目だ、頭に血を上らせるなと言いたいのだろう。ムサシはあえて黙殺した。
ムサシの声にはっとした風の団員たち。ざわめくチームエリアからムサシはゲームの行方を見守る。
バベルズの泣きどころ。ディフェンス力の弱さ。創設時からの弱点をまだチームは克服していない。トライアウトで新しいメンバーを募る、それから無論、チーム内でのトレーニング。さまざまな工夫をしてはいるものの、やはり予想通り実際の試合となるとバベルズはその弱みを露呈した。おまけに今日の対戦相手はリーグでも折紙つきの強豪だ。駆け引きもチームプレーも個人技も、認めたくはないが素晴らしい。バベルズは最初から押され気味で、どうにもモメンタムを掴むことができずにいる。
第1Qで相手に足が攣ったような仕草をしてベンチに下がる選手がおり、当人には悪いがこれはしめたとムサシは思った。ところがその後、他でもないその選手に80ヤードのビッグリターンを決められてしまった。バベルズの守備陣はまるで置き去りにされてしまったのだ。
それでもしぶとくバベルズは食い下がった。1stダウンを更新できたのはやっと第3Qだ。キッドはたびたび追い詰められながらも冷静なパスさばきを見せたし、レシーバーの鉄馬も襲い来るタックルを跳ね飛ばし、豪快なランで貴重な得点をあげた。ライン勢──黒木や戸叶、そして守備の要である峨王もおのれの"役目"を果たそうと必死になった。特にラインバッカーを兼任する黒木はたびたび敵のQBに凄まじいプレッシャーをかけ、そのパスを乱れさせたのだ。だが。
最終スコアは43対24。バベルズの、敗北だった。悔しいなどという言葉では表すことのできない、重く沈んだ空気がチーム内を流れる。それを断ち切るかのようにムサシは全員を率いてギャラリーへ向かって立った。
まだ決して多いとは言えないが、スタンドには団員の関係者やその他、声援を送ってくれた観客たちがいる。その人々に向けてまず感謝の言葉をムサシは述べた。思うように進めることができなかった試合。詫びの言葉、そして今後の自分らの努力の決意。最後にもう一度感謝の言葉。
深々と辞儀をするムサシたちの上に、ギャラリーから拍手が贈られた。ありがたいことだ、とムサシは思った。胸を沈ませる悔しさ、焦燥。押し寄せてくる重苦しい気持ちを堪えながら。
多くの選手、スタッフでざわめくチームエリア。顔をあげたムサシの目に、薄明るい空が映った。朝方から昼にかけて雨、試合中は曇っていた空。雨雲が切れたその向こうに青い空が見える。ふとムサシは疲労を覚えた。このあとは試合後のミーティング。乗り切れるだろうか、いや乗り切らなければならない。自分は主将だ。チームとしても、自分を含めて個々の選手にしてもまだ課題は山積みなのだ。
いつもは自分を鼓舞してくれるはずの思い。それを少し虚ろな気持ちでムサシは迎えた。こんなことではいけない。
スタッフや控えの選手らがチームエリアの後片付けに取り掛かっている。ムサシたち主力選手は着替えと帰り支度。それから全員揃っての話し合いだ。手短に、だが大事なことは漏らさず伝え合わなければならない。シャワールームに向かいながらムサシは思った。あいつは──ヒル魔はどうしているだろう。
いまはチームのことを第一に考えるべきだ。だがひどくヒル魔が懐かしい。こんな時、あいつならどうするだろう。
黙り込んでシャワー室に入る仲間たち。ムサシも続く。
頭を切り替えよう。試合のこと、そして明日からまた平日だ。仕事だって無論おろそかにはできない。
シャワーのコックを思い切りひねり、ムサシは頭から冷水を浴び始めた。
**********
良く言えば頑固、悪く言えば偏屈。ムサシの父は絵に描いたような昔気質の職人だ。若い頃に武蔵工務店を立ち上げて、一徹に大工一筋の人生を歩んできた。曲がったことが大嫌い、筋の通らないことには納得しない。子供時代のムサシは何かと言うと、笑わせんなばかやろうと拳骨も食らった。それでも気が向くと車で郊外の野山や河原に遊びに連れて行ってくれることもあり、子供心にそれを楽しみにしていたのをムサシは覚えている。とりわけ楽しかったのは河原でのバーベキューだった。たまさかの休み、自分だけでなく父も母も心から楽しそうに肉を焼き、料理を取り分け、頬張っていた。
その名残でバーベキュー道具はいまも店裏の駐車場の片隅に一式積まれている。病に倒れた父が快復してからは、店の従業員やその家族を含めての娯楽として楽しむこともあった。
「厳。あれ手伝ってやれ」
うつむいて炭に火をつけていたムサシは、父の声で顔をあげた。指し示す方向を見るまでもなく、ミニバンからコンロを下ろそうとしている家族の姿。ああ、と返事をして立ち上がる。
悔しい敗戦から数日。また週末の巡ってくる金曜日。ここ2、3日の晴天と高温が過ぎて、やや時季はずれではあるが夕涼みを兼ねたバーベキュー会が武蔵工務店の裏の駐車場で開かれるところだ。
武蔵家のものも含めて、持ち寄ったコンロは6台。その周りで立ち働く人々は従業員とその家族、そして隣近所の人々だ。和やかに、賑やかにがやがやと準備に追われている。
ムサシと同じく炭に火をつけるのは主に男たちの仕事だ。女性らは折りたたみのテーブルに椅子をあちこちに広げ、車に積んだクーラーボックスからたくさんの食材を持ち出す。それから紙コップに紙皿、箸。ティッシュにお手拭き、ゴミ袋。ビールにジュース、烏龍茶などさまざまな飲み物。率先して動いているのはムサシの母だ。先ほどから台所と駐車場の間を何度も往復して、食料や飲料類を運ぶ。特に、2リットルのペットボトルに詰め替えて良く冷やした麦茶。やかんで毎日煮出している自慢の味だ。
ムサシの母だけでなく、女性たちの多くがバーベキューの具材に加えさまざまな手料理を持ち寄っていた。多くが飾らない、気取らない家庭の味だ。マカロニサラダ、ひじきやかぼちゃの煮物、肉じゃが、ぶり大根。だし巻き卵にポテトサラダ。そうした料理に加えてたくさんの食料品が並び、やがて駐車場にはじゅうじゅうと何とも旨そうな音が上がり始めた。中心になるのはむろん肉類ではあるが、面白がった若者が一風変わったものを持ち寄ったこともあって、実にバラエティ豊かな食べ物があちこちのコンロで良い焼き色をつけ始める。下拵えをした各種の肉。フランクフルト、ウィンナー、ベーコン。魚介類では定番のエビやイカ、ホタテ。にんじんや玉ねぎ、ピーマンなど食べやすく切った野菜に様々なキノコ。変わったところではカマンベールチーズにマッシュルームのアヒージョ、バゲットやクラッカー、干し芋。九州産の分厚いさつま揚げを持ってきたのは隣の家のおばさんで、特にこれはビールに合うと飲んべえたちに歓迎された。子供たちははしゃいでコンロの間を駆け巡って叱り飛ばされ、それでも勧められるままにきゃっきゃと料理を頬張り歓声をあげる。わいわいと賑やかな声、会話。
「おーいこっち焼けたぞ」「大きくなったなあ、美香ちゃん」「ほら、ピーマンも食べなさい」「おいしい!」「棟梁、お久しぶりです」「ねーねー厳ちゃん、これ明日もやる?」「これ食べてみて、おいしいわよ」「もっと焼きましょうか」「厳、ちょっと台所からアレ取ってきて」「高田さんちの図面、どうなった」「ほれもっと食え」「簡単よ、今度作り方教えてあげる」「それひっくり返して、焦げちゃう」「ちょっと焼くといいぞ」「誰かトング取ってー」「いい感じっすよ」「なーヒロ、どうしたら彼女できる?」「呑めないの惜しいな」「玉ねぎは焼くと甘くなるわね」「ああいううちはアフターケアがな」「出汁をね丁寧に」「あっ、こぼしちゃった!」「それ俺の肉だぞトガ」「毎日これやりたーい」「誰かアヒージョ欲しい人ー」「焦げちゃうから早く食え」「あー俺も彼女欲しい!」「いい加減にしろ黒木」
毎年のことだが年度始めやお盆は納期が集中して忙しくなる。それが一段落して秋風の吹き始めた頃の夕涼み会となったが、開いて良かったとムサシは思った。楽しい時間はあっという間に過ぎて、程よく酔った人々は下戸組の運転で、あるいは徒歩で帰路についた。眠気を催してぐずり始めた子供達も車に乗せられ、賑やかに去った。厳ちゃん、またバーベキューしてね、と繰り返し車の窓から叫ぶ彼らを笑顔で見送る。口を縛った無数のゴミ袋を積んでまとめ、消し壺に入れた大量の炭、バーベキュー台や鉄板を駐車場のもとの場所に戻す。最後まで残ってくれたのは経理と事務手伝いの中年女性だった。家が近所だしもう何年も勤めてくれている。母とともに忙しく家の中と駐車場を往復して、片付けものやら洗い物やらに奮闘してくれている。大山さん、とムサシは家の裏手で声をかけた。
「ありがとう、あとは俺がやるから」
「ええ、大丈夫? まだ専務がお皿洗ってるけど」
専務、と大山さんが言うのはムサシの母のことだ。
「俺が手伝うよ。もう裏は片付け済んだし、疲れたでしょう」
「疲れてはいないけど、じゃあお言葉に甘えて」
「うん、今日はありがとう」
「どういたしまして。じゃあ若棟梁、おやすみなさい」
「おやすみなさい、お疲れ様」
俺がいては気ぶっせいだろうから、と父は早めに引き上げていた。一人になった駐車場をぐるりと見渡して、火の後始末を含めて最後の点検をする。それからムサシは台所に向かった。
仕事を終えて帰宅していたムサシにLINEが入った。
ヒル魔からだった。
夕飯の支度もそこそこにムサシは返信をし、そのままふたりはLINEで会話した。
──今日は帰らねえ
──いつ帰ってくる
──さあな
──怒ってるのか
──…………
──ヒル魔。話をしよう
──そんな気はねえ
──…………
──これはテメーの問題じゃなく俺の問題だ
──ヒル魔
──…………
──ヒル魔
ムサシはしばらく画面を見つめた。呼びかけに恋人からの返信はない。
黙って、重いため息をした。食事を作る気も、食欲も失せてしまった。だが何か食べなければ。
冷蔵庫を開けて、残り物を探す。炊飯器のタイマーを朝セットしておいたから、いまムサシがいる台所には炊き立ての良い香りが立ち込めている。それでも腹は鳴らない。
一人で味気ない夕食をムサシはしたためた。砂を噛むように。
それから風呂に入り、どこかわびしい気持ちで床に向かった。
──仕方ない。
何度もおのれにそう言い聞かせた。ヒル魔の気持ちの整理がつくまでの辛抱だ。待たなければ。
──早く、時間が経てばいい。
ひたすらそう願った。心に穴が空いたような気持ち。ふさぐ胸。そういうものを無理に抑えて、布団に入る。
胸にせまる思い。あれこれとつい思いをめぐらせたくなる。だがそんなことはしても詮のないことだ。ムサシは目を閉じた。心の底から吐き出すようなため息を一つして。
──苦しい。
眠りに入る前、ムサシの脳裏に浮かんだのはそんな思念だった。
時刻は少し戻る。
ムサシは事務仕事の残業だと分かっている。ちょうどいい、と少し苦くヒル魔は思った。何よりもまず愛用のノートパソコン。それから講義用のノートに資料、ユニフォームに練習道具。
荷物をまとめてボストンバッグに詰め込む。玄関から出て鍵を閉める。
それからヒル魔は歩き出した。
こんな行動は自分らしくない、馬鹿げてる。そんな思いが立ちこめる。でもどうしようもない。
ムサシと想いが通じた。それはもう昔、中学時代からムサシを好いていた自分にとってこの上なく嬉しかったことだ。数ヶ月前のあの時、ムサシに告白された時。それから、迷いに迷った自分がムサシの想いに応えると決めた時。あの、夜の公園。次々と胸に浮かぶ。
一途に、まっすぐにムサシは好きだと言ってくれた。ヒル魔も応えた。それからの毎日はとても恵まれていた。地に足がついていないような、ふわふわとした気持ち。こんな浮ついた気持ちではいけないと分かっていても、抑えきれない喜び。毎日、朝起きればムサシの──恋人の顔が見られる。大学での時間を終えて帰宅すれば、仕事の後のほっとした様子の恋人。時折、わざわざ駅まで迎えに来てくれる。和やかな会話。冗談を言って笑い、馬鹿話をして笑い、時には励ましあう。心からの安堵を感じる瞬間。
ムサシが好きだ。心からそう思う。だがいま、ヒル魔の胸は重くふさがれている。
ムサシとて好んで行ったわけではないのだ。ただの付き合い、ムサシはそう言ったしヒル魔もそんなことは分かっている。それでも無闇に腹立たしい。──悲しい。そんな気持ちをどうしても抑えることができない。どうにも、たまらないのだ。
──俺には触りもしないくせに。
ふと湧いた思念にヒル魔はぎょっとした。危うく歩みが止まるところだった。何を自分は考えているのか。
思いを振り切るように、足早に駅前へ向かう。
こんなのは自分らしくない。ついさっきと同じ思念がどうしても湧いてしまう。情けない。けれどどうしようもないのだ。しばらく、ムサシと離れたい。離れておのれがどんな風に考えるか、ムサシのもとへ戻れるのかどうか。いまのヒル魔には分からない。
こんな気持ちは初めてだ。また少し苦くヒル魔は思った。帰るのが楽しみなような、でも少し怖いような毎日。また、あの日々に戻ることができるのだろうか。いまのもやもやとした気鬱を、どうすれば忘れることができるのだろう。ムサシが好きだ。──こんなにも好きなのに。
駅に続く商店街。広いアーケードをヒル魔は抜けていく。もうすぐアーケードが終わる、するとアーケードに隣接するビジネスホテルの玄関が現れる。確か、数ヶ月前にも自分はここに逃げ込んだのだ。あの時はまだ良かった、結果的に自分は迷った末に決意したのだから。ムサシに、ムサシの気持ちに応えようと。
でもいまはどうだろう。また、何もかも良くなるなんていうことがあるんだろうか。ざわざわと胸に押し寄せる思いは暗いものばかりだ。とにかく、とヒル魔はおのれを叱咤した。毎日を過ごさなければならない。講義に練習、第一もう学生リーグも、それに社会人リーグもアメフトは秋の本格シーズンを迎えているのだ。何よりも自分の愛する競技、アメリカンフットボール。その発展のため、そして所属するウィザーズというチームのために進まなければならない。こんなことで練習に、試合に悪影響が出るなどということがあってはならない。
歩きながらヒル魔は嘆息した。少し肩の力を抜いて、それからぐっと前を向いた。
ホテルが目の前だ。早く入ろう。
「あら、ヒル魔くん」
ぎくりと足が止まった。懐かしい声だ、ヒル魔はこれを知っている。声のした方に顔を向ける。
「…………」
なんといえば良いか、逡巡した。
そのあと、やっと挨拶の言葉を押し出した。
**********
「顔を上げろ!」
チームエリアからムサシは怒鳴った。
秋のリーグ戦、初戦の真っ只中だ。第1Qに14点を先んじて取られ、第2Qにはさらに6点を追加された。バベルズの得点はわずか3点。これからの追い上げはチームの実力、それに相手チームとの力の差を考えると厳しい。だが途中で戦意を喪失するなどあってはならないことだ。
副将の鬼兵がフィールドからムサシに視線を投げた。気遣わしげな目だ、頭に血を上らせるなと言いたいのだろう。ムサシはあえて黙殺した。
ムサシの声にはっとした風の団員たち。ざわめくチームエリアからムサシはゲームの行方を見守る。
バベルズの泣きどころ。ディフェンス力の弱さ。創設時からの弱点をまだチームは克服していない。トライアウトで新しいメンバーを募る、それから無論、チーム内でのトレーニング。さまざまな工夫をしてはいるものの、やはり予想通り実際の試合となるとバベルズはその弱みを露呈した。おまけに今日の対戦相手はリーグでも折紙つきの強豪だ。駆け引きもチームプレーも個人技も、認めたくはないが素晴らしい。バベルズは最初から押され気味で、どうにもモメンタムを掴むことができずにいる。
第1Qで相手に足が攣ったような仕草をしてベンチに下がる選手がおり、当人には悪いがこれはしめたとムサシは思った。ところがその後、他でもないその選手に80ヤードのビッグリターンを決められてしまった。バベルズの守備陣はまるで置き去りにされてしまったのだ。
それでもしぶとくバベルズは食い下がった。1stダウンを更新できたのはやっと第3Qだ。キッドはたびたび追い詰められながらも冷静なパスさばきを見せたし、レシーバーの鉄馬も襲い来るタックルを跳ね飛ばし、豪快なランで貴重な得点をあげた。ライン勢──黒木や戸叶、そして守備の要である峨王もおのれの"役目"を果たそうと必死になった。特にラインバッカーを兼任する黒木はたびたび敵のQBに凄まじいプレッシャーをかけ、そのパスを乱れさせたのだ。だが。
最終スコアは43対24。バベルズの、敗北だった。悔しいなどという言葉では表すことのできない、重く沈んだ空気がチーム内を流れる。それを断ち切るかのようにムサシは全員を率いてギャラリーへ向かって立った。
まだ決して多いとは言えないが、スタンドには団員の関係者やその他、声援を送ってくれた観客たちがいる。その人々に向けてまず感謝の言葉をムサシは述べた。思うように進めることができなかった試合。詫びの言葉、そして今後の自分らの努力の決意。最後にもう一度感謝の言葉。
深々と辞儀をするムサシたちの上に、ギャラリーから拍手が贈られた。ありがたいことだ、とムサシは思った。胸を沈ませる悔しさ、焦燥。押し寄せてくる重苦しい気持ちを堪えながら。
多くの選手、スタッフでざわめくチームエリア。顔をあげたムサシの目に、薄明るい空が映った。朝方から昼にかけて雨、試合中は曇っていた空。雨雲が切れたその向こうに青い空が見える。ふとムサシは疲労を覚えた。このあとは試合後のミーティング。乗り切れるだろうか、いや乗り切らなければならない。自分は主将だ。チームとしても、自分を含めて個々の選手にしてもまだ課題は山積みなのだ。
いつもは自分を鼓舞してくれるはずの思い。それを少し虚ろな気持ちでムサシは迎えた。こんなことではいけない。
スタッフや控えの選手らがチームエリアの後片付けに取り掛かっている。ムサシたち主力選手は着替えと帰り支度。それから全員揃っての話し合いだ。手短に、だが大事なことは漏らさず伝え合わなければならない。シャワールームに向かいながらムサシは思った。あいつは──ヒル魔はどうしているだろう。
いまはチームのことを第一に考えるべきだ。だがひどくヒル魔が懐かしい。こんな時、あいつならどうするだろう。
黙り込んでシャワー室に入る仲間たち。ムサシも続く。
頭を切り替えよう。試合のこと、そして明日からまた平日だ。仕事だって無論おろそかにはできない。
シャワーのコックを思い切りひねり、ムサシは頭から冷水を浴び始めた。
**********
良く言えば頑固、悪く言えば偏屈。ムサシの父は絵に描いたような昔気質の職人だ。若い頃に武蔵工務店を立ち上げて、一徹に大工一筋の人生を歩んできた。曲がったことが大嫌い、筋の通らないことには納得しない。子供時代のムサシは何かと言うと、笑わせんなばかやろうと拳骨も食らった。それでも気が向くと車で郊外の野山や河原に遊びに連れて行ってくれることもあり、子供心にそれを楽しみにしていたのをムサシは覚えている。とりわけ楽しかったのは河原でのバーベキューだった。たまさかの休み、自分だけでなく父も母も心から楽しそうに肉を焼き、料理を取り分け、頬張っていた。
その名残でバーベキュー道具はいまも店裏の駐車場の片隅に一式積まれている。病に倒れた父が快復してからは、店の従業員やその家族を含めての娯楽として楽しむこともあった。
「厳。あれ手伝ってやれ」
うつむいて炭に火をつけていたムサシは、父の声で顔をあげた。指し示す方向を見るまでもなく、ミニバンからコンロを下ろそうとしている家族の姿。ああ、と返事をして立ち上がる。
悔しい敗戦から数日。また週末の巡ってくる金曜日。ここ2、3日の晴天と高温が過ぎて、やや時季はずれではあるが夕涼みを兼ねたバーベキュー会が武蔵工務店の裏の駐車場で開かれるところだ。
武蔵家のものも含めて、持ち寄ったコンロは6台。その周りで立ち働く人々は従業員とその家族、そして隣近所の人々だ。和やかに、賑やかにがやがやと準備に追われている。
ムサシと同じく炭に火をつけるのは主に男たちの仕事だ。女性らは折りたたみのテーブルに椅子をあちこちに広げ、車に積んだクーラーボックスからたくさんの食材を持ち出す。それから紙コップに紙皿、箸。ティッシュにお手拭き、ゴミ袋。ビールにジュース、烏龍茶などさまざまな飲み物。率先して動いているのはムサシの母だ。先ほどから台所と駐車場の間を何度も往復して、食料や飲料類を運ぶ。特に、2リットルのペットボトルに詰め替えて良く冷やした麦茶。やかんで毎日煮出している自慢の味だ。
ムサシの母だけでなく、女性たちの多くがバーベキューの具材に加えさまざまな手料理を持ち寄っていた。多くが飾らない、気取らない家庭の味だ。マカロニサラダ、ひじきやかぼちゃの煮物、肉じゃが、ぶり大根。だし巻き卵にポテトサラダ。そうした料理に加えてたくさんの食料品が並び、やがて駐車場にはじゅうじゅうと何とも旨そうな音が上がり始めた。中心になるのはむろん肉類ではあるが、面白がった若者が一風変わったものを持ち寄ったこともあって、実にバラエティ豊かな食べ物があちこちのコンロで良い焼き色をつけ始める。下拵えをした各種の肉。フランクフルト、ウィンナー、ベーコン。魚介類では定番のエビやイカ、ホタテ。にんじんや玉ねぎ、ピーマンなど食べやすく切った野菜に様々なキノコ。変わったところではカマンベールチーズにマッシュルームのアヒージョ、バゲットやクラッカー、干し芋。九州産の分厚いさつま揚げを持ってきたのは隣の家のおばさんで、特にこれはビールに合うと飲んべえたちに歓迎された。子供たちははしゃいでコンロの間を駆け巡って叱り飛ばされ、それでも勧められるままにきゃっきゃと料理を頬張り歓声をあげる。わいわいと賑やかな声、会話。
「おーいこっち焼けたぞ」「大きくなったなあ、美香ちゃん」「ほら、ピーマンも食べなさい」「おいしい!」「棟梁、お久しぶりです」「ねーねー厳ちゃん、これ明日もやる?」「これ食べてみて、おいしいわよ」「もっと焼きましょうか」「厳、ちょっと台所からアレ取ってきて」「高田さんちの図面、どうなった」「ほれもっと食え」「簡単よ、今度作り方教えてあげる」「それひっくり返して、焦げちゃう」「ちょっと焼くといいぞ」「誰かトング取ってー」「いい感じっすよ」「なーヒロ、どうしたら彼女できる?」「呑めないの惜しいな」「玉ねぎは焼くと甘くなるわね」「ああいううちはアフターケアがな」「出汁をね丁寧に」「あっ、こぼしちゃった!」「それ俺の肉だぞトガ」「毎日これやりたーい」「誰かアヒージョ欲しい人ー」「焦げちゃうから早く食え」「あー俺も彼女欲しい!」「いい加減にしろ黒木」
毎年のことだが年度始めやお盆は納期が集中して忙しくなる。それが一段落して秋風の吹き始めた頃の夕涼み会となったが、開いて良かったとムサシは思った。楽しい時間はあっという間に過ぎて、程よく酔った人々は下戸組の運転で、あるいは徒歩で帰路についた。眠気を催してぐずり始めた子供達も車に乗せられ、賑やかに去った。厳ちゃん、またバーベキューしてね、と繰り返し車の窓から叫ぶ彼らを笑顔で見送る。口を縛った無数のゴミ袋を積んでまとめ、消し壺に入れた大量の炭、バーベキュー台や鉄板を駐車場のもとの場所に戻す。最後まで残ってくれたのは経理と事務手伝いの中年女性だった。家が近所だしもう何年も勤めてくれている。母とともに忙しく家の中と駐車場を往復して、片付けものやら洗い物やらに奮闘してくれている。大山さん、とムサシは家の裏手で声をかけた。
「ありがとう、あとは俺がやるから」
「ええ、大丈夫? まだ専務がお皿洗ってるけど」
専務、と大山さんが言うのはムサシの母のことだ。
「俺が手伝うよ。もう裏は片付け済んだし、疲れたでしょう」
「疲れてはいないけど、じゃあお言葉に甘えて」
「うん、今日はありがとう」
「どういたしまして。じゃあ若棟梁、おやすみなさい」
「おやすみなさい、お疲れ様」
俺がいては気ぶっせいだろうから、と父は早めに引き上げていた。一人になった駐車場をぐるりと見渡して、火の後始末を含めて最後の点検をする。それからムサシは台所に向かった。